善人と悪人はいない

自分の意識の状態で△○□と変化する事がわかってきている。

△だと、相手に抵抗され、力のぶつかりあいになる。
□だと、相手はこちらに対し、協力的になり、こちらに調和して動いてくれる。

これは見方を変えると、
△だと、相手は自分を邪魔するようにみえて、悪人にみえる。
□だと、相手は自分に協力してくれて、善人にみえる。

ただし、△か□かは、こちらの意識次第で変化できることがわかってきている。
つまり、相手を悪人にするのも善人にするのも、自分次第ということになる。

もし、この人は悪人(△)と決まっているならば、
この合気道で行っている稽古自体に意味が無くなる。

△をどうにもできないならば、力には対抗できないこととなる。

△を□にできるから、鍛錬する甲斐がある。
言い換えると、悪人は善人になるし、善人は悪人になる。
つまり、善人悪人はこちら次第ということは、そもそもいないのだ。

技のある人は、△と□を行ったり来たり、自由自在であり、周りを悪人にも善人にもできる。
という事がわかってきた。
(△と□に優劣はない。場の状況次第で変化させ、目的とする流れを作れるかどうか。優劣は、△◯□を変化させうる技量にある。)

これは、居合で相手より遅く抜いて間に合うことに通じる。
場(△○□)を変える事ができるということ。

よって、
この人が良いか悪いかなんて考えるのは時間の無駄である。
(なぜ、この人が悪人(△)で、それをどうすれば善人(協力者・□)と考え実践することは、技を磨ける。)

さらには、この世の中が良いか悪いかも同じ理由で無駄である。

人や世の中に色をつけているのは、自分なのだから。
周りの色を気にしている間、色は付けられない。

それよりも、自分の想いを実現したいならば、
技を習得し、自分の理想の社会を創造する事が唯一の道だ。
現実にある現象をいくら分析しても、その中での原理を見いだしても、
現実の中であり、実によって生じた結果までである。

結局は、
どんなに上手に分析できても、なにも生み出す事ができない。

心と技をもって、
現実(体)を自在に生み出す事のできるのが、人である唯一の存在意義ではないのか。