ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
輪進合気塾
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:205件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
2014/04/16のBlog
[ 12:58 ] [ 雑感 ]
自分の意識の状態で△○□と変化する事がわかってきている。

△だと、相手に抵抗され、力のぶつかりあいになる。
□だと、相手はこちらに対し、協力的になり、こちらに調和して動いてくれる。

これは見方を変えると、
△だと、相手は自分を邪魔するようにみえて、悪人にみえる。
□だと、相手は自分に協力してくれて、善人にみえる。

ただし、△か□かは、こちらの意識次第で変化できることがわかってきている。
つまり、相手を悪人にするのも善人にするのも、自分次第ということになる。

もし、この人は悪人(△)と決まっているならば、
この合気道で行っている稽古自体に意味が無くなる。
△をどうにもできないならば、力には対抗できないこととなる。

△を□にできるから、鍛錬する甲斐がある。
言い換えると、悪人は善人になるし、善人は悪人になる。
つまり、善人悪人はこちら次第ということは、そもそもいないのだ。

技のある人は、△と□を行ったり来たり、自由自在であり、周りを悪人にも善人にもできる。
という事がわかってきた。
(△と□に優劣はない。場の状況次第で変化させ、目的とする流れを作れるかどうか。優劣は、△◯□を変化させうる技量にある。)

これは、居合で相手より遅く抜いて間に合うことに通じる。
場(△○□)を変える事ができるということ。

よって、
この人が良いか悪いかなんて考えるのは時間の無駄である。
(なぜ、この人が悪人(△)で、それをどうすれば善人(協力者・□)と考え実践することは、技を磨ける。)

さらには、この世の中が良いか悪いかも同じ理由で無駄である。

人や世の中に色をつけているのは、自分なのだから。
周りの色を気にしている間、色は付けられない。

それよりも、自分の想いを実現したいならば、
技を習得し、自分の理想の社会を創造する事が唯一の道だ。
現実にある現象をいくら分析しても、その中での原理を見いだしても、
現実の中であり、実によって生じた結果までである。

結局は、
どんなに上手に分析できても、なにも生み出す事ができない。

心と技をもって、
現実(体)を自在に生み出す事のできるのが、人である唯一の存在意義ではないのか。
2014/03/31のBlog
[ 11:19 ] [ 雑感 ]
稽古の目的は、年々変化している。

目的が変化し続けて、結果として、方法としての合気道が続いている。

最初は、自分にできそうな武道として始めた。

つぎは、力を必要としない技があることに感動して、それを探求した。

つぎは、△○□の区別がついてきて、
それを向上させるための方法を探し試していった。

つぎは、△○□の媒体に変化があり、
適用範囲を拡げて、その方法を探していた。

つぎは、媒体の変化で、
実際の生活に直接使えることがわかり、それを探求した。

次は、実際に使えるようにするためには、
稽古方法として、剛柔流の段階に分けて稽古することが有用であることがわかった。

次は、「心技体」が「無」から「有」を生み出すことを示していることを気づき、
それを探求中。

たまたま今まで続いている。
興味に任せて、目的が変化している。
変化していないのは、合気道と△○□だけ。


2014/03/29のBlog
「現実」とは、心が原因で起こった結果。

実(心)の現れ。

技の質と段階によって、
心の状態を現実(体)に現す道筋が異なる。
高度にになると、心が即、現実(体)となることに近づいていく。

合気道では、媒体(剛・柔・流 or 触・視・聴)の順に変わっていく。

現実では、さまざまなことが起こっているが、それらは全て結果であり、すでに過去。

よって、結果を悔やむより、
どのような原因(心と技)でその結果(体)が起こったかを検証・理解する方がいい。
そのために現実がある。

もし、心のみで現実(体)がなければ、魔境にはいる。

思い込みにならないように、
相手との関わりから「△○□」を読み取り、状態を確認する。

できることは、原因(心・技)を修正していくことのみ。

結果はこちらが決めることではない。

結果がうまくいかない時は、余計な「△」を作っている。
言い換えると、隙のある状態で、自分を見失っている。

その余計な「△」をいかに少なくしていくかが重要。

よって、修正は省く作業のみであり、足すことはない。

反するものを省く(省みる)ことが、「反省」。

頑張る必要はない。頑張るとは余計な△。

よって、それは「禊」と共通する。
2014/03/28のBlog
[ 05:00 ] [ 雑感 ]
少し前に進んだので、以前の文に追加する。


いまの理解。

「水業」で、水をかぶる意味を考える。

水をかぶり、冷たさに躊躇すると、
現実→心
の流れであり、本来と逆になっている。
それをやり続けることで、冷たさにとらわれなくする。

それは、
心→現実
の流れに変わったということ。

心を鍛えているのではない。
体を鍛えているのではない。
現実がどうあっても、本来の流れを維持できるかどうか確認している。

「体→心」から「心→体」
という本来の「技」の流れる方向を体得するために行う。
「型にはまる」と技になる。

なぜか?

「型」を何万回も繰り返すと、
意識せずに(△がなく)、その型の動きの中で動けるようになるから。

△がないので、○□から始まる状態となっている。
△は相手との関係を持った時に起こる。
型の一部で△を誘い、相手が△を起こした場合のみ、技が起こる。

質の良い「型」は、段階に合わせた「△」と「○」と「□」が仕組まれている。

「型にはまる」と「△○□」が起こる。

その段階の「△○□」を習得したら、その段階の「型」を捨てる。
そうすると自由な形で、その段階の「△○□」は使える。

逆に、
「型」を捨てて、なにも残らないならば、まだ習得されていないので、
再び「型」にはまって稽古する。

この繰り返し。
[ 04:24 ] [ 雑感 ]
「隙がある」ということ。

今の理解。

「隙」があると、相手に入られる。

「隙がある」とは、

自分が本来の相手以外のなにかに「△」をつくり、
相手(自分以外のもの全て)が自分とのつながりを「○」→「□」と変化できる状態。

言い換えると、

自分がなにかに囚われており、それを相手が利用して、自分が自分を見失う状態。
(その囚われている対象が、結果である場合のみ指す。)

本来の相手ではないものに自分の意識が囚われて、本来の相手との間に意識の隙間があること。
2014/03/07のBlog
[ 23:50 ] [ 雑感 ]
居合を稽古して感じたこと。

抜刀と納刀がいちばんむずかしい。

ただ刀を抜くと、簡単に相手に切られる隙を与える(相手が自由になる)。

相手が今切るときに抜刀はどのようにあるべきか。

納刀も、ただ刀を鞘に納めていると、隙を与える。

隙のない(相手が自由にならない)納刀とはどうあるべきか。

合気道では、主に体術と武器(剣と杖)だが、
体術、剣術、居合と3つ揃えて稽古したほうがいい。

そのほうが色々な角度で理解するし、共通項が狭まることで迷いにくくなる。

どんなに体力をつけても刃の速さにはかなわず、触れ合うわけにはいかない。
どんなに速く武器を扱えても、先に相手の刃がある状態では、速さが間に合わない。

触れ合わずに、どうやって間を変える稽古をするのか?
体術、剣術、居合の技の共通項は何か?

自ずと習得すべきことは絞られてくる。

木刀を速く振れるように稽古をすすめるために、

ただ速くではなく、

・相手と触れれば相手を腰から崩すこと(□)。
・速さと威力が両立すること。
・さらに、間を変えるきっかけとなること。

を求める。

そのためには身体を動かすことで木刀を動かすことが必要。
手で扱ってしまうと、振ってしまうので、型にはめる。

身体の各部は、

腕;上下動作に限定し、手首は使わず、握力は緩め、肘と肩のみ動かす。
掌;下に向ける。手首を捻って、上に向けない。
足腰;右と左の半身の入れ替えのみ
剣の
>角度;左右の手首の間隔で変える。手首の間隔は足腰で変える。
>位置;常に正中心、常に自分を切るように戻ること。
としている。

そうすると、これはなるべく剣を振らないようしていることになる。

振らないようにすると、振りは速く強くなる(なるようにみえる)。

結果として、
・すぐに止める事もできる。振っていないから。
・変化しやすくなる。止まっているから。
・すぐに止まるが触れると威力がある。「□」だから。

[ 23:16 ] [ 雑感 ]
稽古で前に進むためには、あてになるものが必要。
それがないと、上達したのかどうかわからない。

一番よいのは、良い師に付くこと。または、確かな感覚(現実に)を持つこと。

「△○□」はとても優れた感覚だと思う。

これは形、速度、タイミングとは関係なく、それらを生み出す側、素となるもの。

「△○□」が成立するときの姿勢は、自然と背筋が伸びることが多く、
さらに、姿勢と技は無関係ということを教えてくれる。
(稽古では、姿勢を正すことで「△○□」を掴む機会を増やしている。)

相手から速く見える(間を変える)ためには、必ず「△○□」を入れること。
「△○□」に従うと、結果として良いタイミングとなる。

13年間、これより優れた方法に会っていない。
上手な方の技を理解する(盗む)のも「△○□」で観ると何をやっているのかわかりやすい。
形を真似ても、技にはならないことがよくわかる。
なぜならば、形は技ではないからだ。形は現れた結果の1つにすぎない。

もともと「△○□」は道文にあり、それは「大本」からの言葉。
どこからこれが伝わってきたのか興味がある。
2014/03/02のBlog
[ 11:44 ] [ 雑感 ]
心技体について、

「心と技と体」の3つではなく、
「心→技→体」という、無から有を生み出す一連の過程を示しているのではないか?

「無」は、なにも無いということではなく、全てのものを内在する状態。
「有」は、原因から生み出された結果。五感で感じ取れるもの。

よって、
「心を鍛える」「体を鍛える」などのように、本来一連であるものを分けて理解し、それぞれを向上させていくという考え方は意味が無いように思える。

「心→技→体」
とするならば、
「心」の状態を測るには、結果である「体」を観察し、「心」を修正すること。
「体」そのものを直接鍛えることはできない。
それは結果であるから。

「技」とは、「心」から「体」への筋道を指すのではないか。
「技」の向上は、
その筋道の数と段階をいくつも習得していくことではないのか。



[ 11:34 ] [ 紹介 ]
久しぶりの更新。

HPを「rinshin.jp」
に引っ越ししました。(ドメインをjpに変更)

自分の拠点がまだ定まらない状況が続いており、
あと1年は不定期になりそう。

今のうちに頭の中を整理し、HPを整理したいと考えている。
2013/05/13のBlog
[ 21:29 ] [ 雑感 ]
「技」とは?

いまの理解。

「技」とは、

本来の「心」を身体に現すこと。言い換えて、「実」を「現実」に現すこと。

置き換える。

「現実」にとらわれていない真実を具象化すること。

本当の自分の「心」を「体」で現せるかどうかが、「技」があるかどうかではないだろうか。
だから、「心技体」の順ではないのか。
[ 20:47 ] [ 雑感 ]
合気道を続けてきて、最近気づいたこと。

合気道を14年続いてきている。
続けるつもりはなく、毎年のように課題が変化し、興味が湧き、
結果として、続いている。

続ける気持ちは全然ないのだが、なぜか続いている。

合気道や武術の先生の中には、しっかり探していけば、
体育・物理を超越している方々が存在することを知った。

今の段階では、
自分の心・意識の状態が直接まわりの状態に影響し、
それが、△○□と変化できることをわかってきている。

単純にいえば、
心の持ち方で、まわりの環境は一変するということ。
その心とまわりとの媒体を五感のうちの「触・視・聴」としているが、
それ以外にもあるような気がする。

正確に、まわりと何で繋がっているのかよくわからないが、確かに変化する。

だから、

「他人は自分の鏡」
「人は自分の望む環境に既に住んでいる」

の言葉に納得できてきている。

これは当たり前のことなんだけれども、とても不思議なことと思う。



2013/04/13のBlog
[ 20:52 ] [ 方法 ]
「型」は、「技」を習得するのに必要。

「技」がある場合、「型」を崩しても「技」となる。

「技」があれば、「形」がすべて「技」となるからである。

「型」は「技」ではない。
「技」の習得の過程順に用意されている課題である。

よって、
初心で「技」のない状態で「型」を崩していると、
躓いたときに、元に戻る場所がなく行き詰まる。

元に戻りやすくするためには、固く感覚を捉えやすいもの
すなわち「剛」の「型」が必要。

進めば、「柔」「流」とすすむ。
[ 20:46 ] [ 雑感 ]
いまの理解。

「水業」で、水をかぶる意味を考える。

水をかぶり、冷たさに躊躇すると、
現実→心
の流れであり、本来と逆になっている。
それをやり続けることで、冷たさにとらわれなくする。

それは、
心→現実
の流れに変わったということ。

[ 20:44 ] [ 技 ]
「鍛える」という意味を考える。

現実→心 
の流れを省き、
心→現実
のみ残していくこと。

[ 00:29 ] [ 雑感 ]
いまの理解。

「型」とは、

「技」習得のための課題。
現実にとらわれていると、
成立し得ないあらかじめ筋道の決められた相手とのやりとりが、
「△○□」の順番で組み込まれているもの。


「型」(課題)は「技」ではない。
「技」は「形」を生み出し、「型」の形であってもなくても「技」となる。

けがをせず上達するため、相手が安全に抗せるように仕組んである。

ではないか。

仮にこれが正しいとすると、
私であれば、「型」の順として、下記のように組む。

初伝;単純な形。覚えることが容易だが、「技」は難解。
中伝;複雑な形。覚えることが難解だが、「技」としては容易。
奥伝;複雑かつ理不尽な形。覚えること複雑、「技」も難解。
皆伝;単純な形。「技」としては難解で、それのみ要求される。

「形」は、単純→複雑→理不尽+複雑→単純
「技」は、難解→容易→難解→確認

いずれも最初に戻る。

初伝にて、技の難解を知る。
中伝にて、技を理解する。
奥伝にて、技を深める。
皆伝にて、技を確める。

「理不尽」とあるのは、
たとえば、ただ剣を落とせば良い動作を、
手を換える・受け得ない箇所で受ける・捕りに対して、余計な動作過程が多い等。

合っているかどうか。

型稽古は稽古の成立自体が難しいが、
本来の目的を理解することは後からであり、さらに難しい。

だから、
習得者から未習得者へ伝えるしか方法がない。
甲は乙へ良く伝え、乙は甲を見極められるかどうか。

私は、
「三年稽古するより三年かけて良師を探せ」

なのだろう。

2013/03/25のBlog
[ 10:39 ] [ 方法 ]
②の方法の稽古で、

わかりやすいものは、

技をかける際、
相手との接触点に意識が向いていると、その点に「△」ができ、
相手からよく観え、止められてしまう。

これは②の方法からみると、
相手との接触点に意識を向ける使い方は、
結果、相手と△をつくることを示す。

言い換えると、
この心の使い方だと、相手に同意をとれず、身体は止まる。

よって、
この意識の使い方は、身体の結果からすると、
良い使い方ではないということを示している。

このように、
少しずつ反例をもって、削っていく。(反省する)

最後に何が残るだろうか。
2013/03/23のBlog
「光」「闇」は対立しているようだが、そうではない。
「光」で照らせば、「闇」は消える。その逆は成立できない。
これは、対立ではない。

「闇」は「光」の無いところの言い換えであり、
「光」「闇」は互いに対立できるものではない。

だから、「光」あれば、「闇」は勝手に消える。

人は推定のみしかできないとは、言い換えると、
「光」を照らすのみしかないということ。
逆にいえば、否定は「闇」を推定すること。
無いものをわざわざ作ることになる。

言い換えると、
「闇」はそもそも存在自体がなく、現象としてあるにすぎない。

置き換える。

「光」→「心・意識」
「闇」→「現実」

「光」→「実」
「闇」→「虚」

②の稽古では、
相手を意識すると相手が存在することになるので、
自分の本来の目的に意識を向けるようにする。
(「気にしない」「知らないふり」は「気にする」「知っている」と同意。)
そうすることで、「闇」が消え、そもそも「闇」はないことに気づく。

これら仮の理屈が成立するか稽古を通して確認していく。


2013/03/18のBlog
[ 07:56 ] [ 雑感 ]
「心」を鍛える

とはどういうことだろうか。

今の解釈。

「身体」すなわち「結果」を観て、
「心」すなわち「原因」の働きと使い方を理解すること。

その理解に準じた使い方をし、
さらにその「結果」を通じて、「心」の状態を本来の姿・使い方へと修正していくこと。

ではないだろうか。
2013/03/17のBlog
[ 16:16 ] [ 雑感 ]
②の稽古を進めてみて、①の時と周りの見え方が変わってきている。

①のときは身体の感覚を△○□で見えるように意識してきた。
そうすると、接触したときに相手の力み(△)がどこにあるのか見えてくる。
主に触覚を通じて、△◯□がみえるようになってくる。

②のときは、聴覚?を通じて△○□をみるようにしている。
そうすると、相手との関係が一瞬で変わり、全体を感じる。
技が止まるときは全体を見ると必ず偏っている。
主に聴覚?を通じて△◯□がみえるようになってくる。

しかも稽古の中だけでなく、日常の人とのかかわりの中でも同じことがみえてくる。
まだ明確ではないが、みえるものが違ってきている。
[ 16:06 ] [ 雑感 ]
「心技体」について

今の理解。

「心」が「体」を動かす。
「技」とは「心」の「体」に対する影響を理解し、
「心」の在り方の理と実が「技」のような気がする。

別の見方。
「心」の鏡が「体」。
言い換えると、見えないものはすべて見えるものに反映する。
そのつなぎが「技」ではないのか。

だから「心技体」の順番が重要に感じる。
そうだとすると、

 「心」を鍛える
 「体」を鍛える

の意味をよく考える必要がある。

[ 15:51 ] [ 雑感 ]
稽古の中で、相手がどこかで躓いているときに指摘する。

「~に力が入っている。」「力を抜くように」「足に力を入れてはいけない。」など

ただ「力を入れるな。」といってもうまくいかない。
なぜなら、人は推定しかできないからだ。

「”352”の数字を覚えないでください。」と言って、覚えないでいられるだろうか。
「”352”の数字を覚えてください。」と相手に起こる結果が上の否定とどう違うだろうか。

経験では、上の否定しても”352”を覚えないと意識してしまうので覚える。
下の推定でも同じだが、上の否定の方が覚えてしまう。

「力を入れないように」と言うと相手にどのように作用するだろうか。

小さい子供は親の影響を多分に受ける。
子供に対する注意の仕方はどうすべきか考える。

仮に推定しかできないのであれば、
子供が悪さをしたとしてもそのいくつもの要素のうちの伸ばしたい箇所を推定する。
そうすると、それ以外は勝手に消えるのではないか。

それが子供に対し、絶対的な愛情(信頼)が必要な理由ではないだろうか。

対象を拡げると、
推定否定と関係なく、注目したことで自分の世界を自分で作り出しているともいえる。

[ 15:38 ] [ 雑感 ]
「文武両道」の意味を考える。

普通は、勉強やって、運動もやってという意味でとられるが、
稽古を通して、よく上達する場合、
理屈(仮の方法と原理)して、実践(稽古)で試してを繰り返す。
そうすると理屈が間違っている場合は、稽古である程度まで使えてもどこかで躓く。
躓いたら、理屈を修正して、また稽古する。

これが片方だけ(理屈か、稽古か)だけを進めても進まない。
考えるだけでは、身体は何も分からず変われない。
稽古だけでは、運動をしているだけで、どこかで止まってしまう。
両方を常に進めることが必要だ。

対象は稽古だけでなく「勉強」であってもそうだ。
理を理解し、実際の問題に対して、その理を使ってみる。
それで初めて前に進む。

上達するには、文武両道であるべきだ。
2013/03/12のBlog
[ 21:01 ] [ 雑感 ]
②の稽古方法から考えると、身体の動きは結果であり、
それをあとからどうごまかしても、その都度、原因(意識・心)の現れになってしまう。

「心・意識」が原因で現実が現れているともいえる。

「現実」は、「実の現れ」と書く。ということは「現実」は「実」ではない。

「実」ではないということは、「虚」ということになる。

ということは「心・意識」が「実」で、「現実」が「虚」ということになる。

実際は、在ると感じるものは無く、無いと感じるものが在るのではないか。

まだはっきりと分からないが、消去法で考えるとそうなる。
[ 09:18 ] [ 雑感 ]
「悩む」ことがある。

今の技と照らしてみると、
それは結果「身体の動き・現実」に原因「心・気持ち」が囚われている状態ともいえる。

②の方法からだと、この状態では技はかからない。
結果→原因となり、逆流しているから。

②の方法からすると、原因→結果の方向にしか作用はできない。
結果はあくまで、今の状態を読み取るのに必要であり、結果が原因を動かす必要はない。


つまり「悩む」というのは②の技のかからない状態と一致する。
よく技をかけた状態を説明するのに、
地面に1万円札が落ちているとして拾わせる。
その拾う腕を相手に掴ませ固定した状態で。

拾う側が、本当に拾うつもりで腕を出すと、相手は崩れてしまう。
拾うことよりも掴まれていることに気持ちがとられると、拾えない。

これは、身体を動かしてかけているのではない。
①ではなく②の方法だ。

今頃、気づいた。
[ 02:24 ] [ 雑感 ]
被曝量が100mSvが問題かどうかについて、議論することに意味は無い。
なぜなら、人によって実害が異なるから。
損害として考えることが重要。

例えば、100万円盗まれたとすると、

・100万円を盗られることで、生活に支障が出る人。
・100万円を盗られても生活に何の支障もない人。

それぞれであり、100万円盗られることが支障があるかどうか議論しても意味が無い。

普通に考えたら、本人にとっての100万円の価値にかかわらず、
100万+慰謝料を請求する。

100mSvも同じこと。
本人の意思と関係なく法律規定以上の被曝を強制させられたのだから、
実害にかかわらず損害賠償するべきである。

その上で、実害のことを考える。


2013/03/07のBlog
[ 08:31 ] [ 技 ]
現在の稽古を②とする。

媒体;聴覚
操作範囲;身体
操作対象;意識?心?

使い方

△○□を読み取り、意識の動きでどのように変化するか理解し、
意識で△○□を変化させ技をかける。

体術に使用すると、相手の力が出なくなる。
武器術では間を変化させることで「流す」「空振」「捌き」が起こる。
(どちらも間を変化させていることの結果であり、同じ。)

この場合、操作対象として、身体の動きは重要ではない。
結果としての身体の動き(△◯□)を観て、原因に対する結果の検証が重要となる。
原因は意識。

身体を動かさなくても技になるが、わかりにくい。
動かしていたほうがわかりやすい。

①では力を抜くことが◯を作るが、②では力を抜くことに意味はない。
力を入れる抜くとは関係なく技になる。

②は、
①での稽古にて△◯□をよく知っておく事が前提になる。
②からやっても、△◯□が観えないと現状況を掴めないため、
よくわからないことになる。

この稽古方法をやっていて最近感じることは、
△◯□を知らなくても、先天的にこの方法で生きている人がいるということ。
そのような方は天才なのだと思う。

△◯□は私のような凡才のための道標として重要であり、
稽古の順番として①→②となる。

操作対象を「心」「意識」とはしているが、本当は未だよくわからない。
ただ、こうすると技がかかる(△◯□の変化が起こる)ということが事実としてある。
[ 08:30 ] [ 技 ]
以前の稽古を①として、

① 

媒体;触覚・視覚 
操作範囲;身体
操作対象;身体

身体の中で△◯□を移動させて相手との関係を□にし、技をかけていく。


使い方

a.接触点に△をつくる。「力を抜く」こと(そのように身体を操作する)で、「◯」を作り、相手との接触点を△◯□と変化させる。

b.接触点に△をつくる。接触点より一番遠い箇所(例えば、足、腰)から動かし、接触点以外に△をつくる。△は1箇所のみしか存在しないので、接触点は自動で「◯」ができ「□」に変わる。

aとbは方法は異なるが、同じ事を説明している。
aは、視野を接触点にのみ限定。
bは、視野を身体全体に拡げている。

重要なのは、身体を操作することで技をかけている点。

相手の反応は、力が入ったまま崩される。

お互いの身体の動きを意識しているために成立し、触覚と体の動きが意味をもつ。