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2015/03/10のBlog
[ 03:49 ] [ 段階 ]
最近になって、
ようやく習得する段階の区分けができてきたので整理しておく。

習得1~4の共通項が原理となり、段々と原理のみ残るようにしてある。

各習得段階で共通していることは、
△○□が変化していること、つまりAとBの意識の距離を操作していることである。

1から4に進むにつれて、身体操作でなく、意識操作で技がかかることを理解することになる。

 心(意識)→技(習得1~4)→体(身体)

の順で、無(意識・見えないもの)から、有(身体の動き、目に見えるもの)が産まれている。

武産(たけむす)とつながってくる。

以下説明。

捕りと受けをAとBとする。
捕りA;技をかける側。
受けB;技をかけられる側。受ける側。

この順序には前提条件がある。
その前提条件があれば、途中からの稽古が可能である。
しかし、教える側は、1~4全て必要となる。

私は未熟かもしれないが、
教える側も習う側も、これらを意識して稽古した方が効率が良い。

2015/03/09のBlog
[ 12:39 ] [ 方法 ]
「技をかける」とは、
△◯□を順にAとBの間で、
△>◯>□ の順に変化させると2つが1つになるということ。

起こっていることは、
2つの意識が寄ったり(△)、離れたり(◯)しているだけ。
そのときに1つの意識が他の意識に囚われているときのみ、(□)が起こる。

言い方を変えると、

不自然体と不自然体では、△
自然体と自然体では、◯
自然体と不自然体の交わりが、□
2015/03/08のBlog
[ 15:25 ] [ 原理 ]
三元(△◯□)の法則を意識の距離(間)で説明すると、シンプルになる。

捕りと受けをAとBとする。
捕りA;技をかける側。
受けB;技をかけられる側。受ける側。

AとBの関係には△◯□の3種類の関係のみある。それ以外はない。
△;Aの意識とBの意識が触れ合うと△、常に1つしか存在しない。
◯;AとBの意識が互いに関係していない状態。
□;Bの意識がAに囚われ、Aの意識はBに囚われていない状態。


技をかける原理は、
この△◯□を順にAとBの間で、
△>◯>□ の順に変化させると2つが1つになるということ。
2014/12/17のBlog
[ 12:08 ] [ 雑感 ]
成長するということについて、

今の理解だと、

人が他の動物と異なり、
唯一の能力である無(心)から有(物・事象)を生み出すことができる。

そうすると、
その唯一の能力である生み出せる幅が拡がり、
生み出せるものが大きくなっていくことを
人として成長するというのではないか。

「心技体」は、無から有を生み出す過程を指している。
心と技と体というそれぞれ独立したものではなく、
心→技→体という1つの流れである。

その過程を磨く(反省と禊)することで、
任意のものを生み出せるようになっていく。

それを成長というのではないか。

年をとっていくと、周りの環境は常に変化していく。
仕事や人間関係。
常に一定のものはなく、
仕事でも、常に新しいことをしていく。
経験を積み立てると技が深く多くなっていくが、
仕事が変わるとまた一から、積み立てる必要がある。
しかし、成長の定義を上記とすれば、
たとえ技は一からでも、
心(イメージ力、秩序を踏まえた発想力)
体(目に見える財産、人脈など)
はある。

また、これまで反省と禊を繰り返していれば、
過去の無駄な悩み(体→技→心)を起こす行動は前に比べて減っており、
わずかな技でも、最大限に心→技→体を活かすことができる。
ことから、全くの新人の時とは心技体の状態が異なる。

これを成長というのではないのか。

この成長は死ぬまで続けられる。
2014/09/19のBlog
[ 11:21 ] [ 型稽古 ]
体の転換(転向)

形)
・逆半身で立つ。
・捕りの前片手首を、受けが掴み抑える。
・受けは差し足を中心に180度回転し、捕りと同じ方向を向く。

目的と課題)
・転換動作時に、受けの体捌きが□になっているかどうか。
・捕りは、手首を抑え(締め)られて状態でも滞りなく動けるか。
・合気道の体捌きの入り身・転換のうちの一つを確認する。

受け)
・捕りの正中心上で抑える。
・抑えは、四教で絞める要領。(多少痛みを与えると受けが△○□を判断しやすい。)
・捕りが力(△のまま)で転換した時、止められるようにする。
・捕りの熟練度に合わせて、抑え方を変えてみる。
 例えば、途中で△を起こす、締める方向を変えるなど。

捕り)
・腕は正中心上で上下運動。
・差足に重心を移動しないこと。(新たな△となるから)
・腕は折れない腕とし、腕の締めを受け止める。(□)
・転換時の腰の動きで○を作ること。
・技の段階
 1.剛;締めを受け、維持したまま(□)、転換する。 (習得1・2)
 2.柔;締めを螺旋(水火・十切)で無力化し、接触圧を下げつつ、転換する。(習得3)
 3.柔:締めを媒体(意識)で△○□と変化し、無力化し、接触圧を下げつつ、転換する。(習得4)
 4.流;相手と接触するかしないかで捌く。触覚でなく、聴覚で結びを感じ取ること。(習得4)

確認)
・受けの腕の締めが一定となっているか。
・途中で締めの痛みが増えてくると、△ということ。
・転換後、受けが捕りの腕を全力で引いても、捕りが崩れないか。
・転換後、受けが捕りの腕を全力で上げても、□で受け止め、腕が上がらないか。
・転換後、受けが持ち上げている状態で、捕りが座ると、受けも一緒に下へ崩れるか。

この型は単純であるが、奥深い。
その理由は、形が単純だから。
合気道では入り身と転換の体捌きのみ。そのうちの1つができることを確認する重要な型。

剣との関係)
・胴・前後切の腕・体捌きの良し悪しを確認している。剣では触れて確認できないが、この型で、接触して確認ができる。

2014/06/30のBlog
△○□で表現すると、

相手が切ってくる。(△)

肉を切らせる。(○)

骨で受けて、かける(□)

相手が圧倒的な△、またはこちらが□でかけられており、返せる技術がない場合、
○を作ることが難しくなる。

最後の手段として、
肉を切らせる、捨て身にすることで、○をつくる。

「肉」は、
相手にとって、捕るべきものであり、
また自分にとっては、剛柔自在で△○として使え、
相手と自分の利害が一致する最良で最後の砦を表している。

これは武術での話であり、生活・仕事などに応用可。
生活・仕事で「肉」にあたるものはなんだろうか。

相手が切っている間、心も切っている(囚われる)ならば、次に自分が□を作る事ができる。
2014/06/28のBlog
[ 19:49 ] [ 技 ]
懐が深いと、

◯が大きくとれてどんな△に対しても◯→□とできること。

体術では、
あえて自分の身の危険際まで、
相手のしたいように、好きなようにさせておき(○の増大)、
それを◯→□として、自分の一部にしてしまうこと。

相手は深く入った分だけ、大きな◯を作られて、自分自身に大きく返ってくる。

「後の先」を指す。

本来は「先の先」がいいのかもしれないが、
これも難しいこと。

合気道では、
関節を絞められた状態から、返して稽古する。

四教が関節を壊す危険が少なく、安全に稽古できる。
次に、二教や三教など。。

懐深くまで入れるほど、身の危険(痛み・状況の悪化)が大きくなる。
しかし、その方が返しやすく(技としては簡単に)なる。

自分の技が間に合わないときの一つの方法であり、捨て身でもある。

肉を切らせて、骨を断つ。
自分の身を切らせることで、自分の技術の届く位置に相手を引き込む。

これを上手に使えるには、腹が据わっていることだ。
どこまで相手を自分の懐深くまで入れられるだろうか。
2014/06/27のBlog
人の器について、

今の理解。

あらゆる△に対し、
◯がいかに大きく多様にとれて、
それをどの程度□に変化させることができるかを指す。

△◯□で観ると、いろいろなものが抽象化できる。
2014/04/16のBlog
[ 12:58 ] [ 雑感 ]
自分の意識の状態で△○□と変化する事がわかってきている。

△だと、相手に抵抗され、力のぶつかりあいになる。
□だと、相手はこちらに対し、協力的になり、こちらに調和して動いてくれる。

これは見方を変えると、
△だと、相手は自分を邪魔するようにみえて、悪人にみえる。
□だと、相手は自分に協力してくれて、善人にみえる。

ただし、△か□かは、こちらの意識次第で変化できることがわかってきている。
つまり、相手を悪人にするのも善人にするのも、自分次第ということになる。

もし、この人は悪人(△)と決まっているならば、
この合気道で行っている稽古自体に意味が無くなる。
△をどうにもできないならば、力には対抗できないこととなる。

△を□にできるから、鍛錬する甲斐がある。
言い換えると、悪人は善人になるし、善人は悪人になる。
つまり、善人悪人はこちら次第ということは、そもそもいないのだ。

技のある人は、△と□を行ったり来たり、自由自在であり、周りを悪人にも善人にもできる。
という事がわかってきた。
(△と□に優劣はない。場の状況次第で変化させ、目的とする流れを作れるかどうか。優劣は、△◯□を変化させうる技量にある。)

これは、居合で相手より遅く抜いて間に合うことに通じる。
場(△○□)を変える事ができるということ。

よって、
この人が良いか悪いかなんて考えるのは時間の無駄である。
(なぜ、この人が悪人(△)で、それをどうすれば善人(協力者・□)と考え実践することは、技を磨ける。)

さらには、この世の中が良いか悪いかも同じ理由で無駄である。

人や世の中に色をつけているのは、自分なのだから。
周りの色を気にしている間、色は付けられない。

それよりも、自分の想いを実現したいならば、
技を習得し、自分の理想の社会を創造する事が唯一の道だ。
現実にある現象をいくら分析しても、その中での原理を見いだしても、
現実の中であり、実によって生じた結果までである。

結局は、
どんなに上手に分析できても、なにも生み出す事ができない。

心と技をもって、
現実(体)を自在に生み出す事のできるのが、人である唯一の存在意義ではないのか。
2014/03/31のBlog
[ 11:19 ] [ 雑感 ]
稽古の目的は、年々変化している。

目的が変化し続けて、結果として、方法としての合気道が続いている。

最初は、自分にできそうな武道として始めた。

つぎは、力を必要としない技があることに感動して、それを探求した。

つぎは、△○□の区別がついてきて、
それを向上させるための方法を探し試していった。

つぎは、△○□の媒体に変化があり、
適用範囲を拡げて、その方法を探していた。

つぎは、媒体の変化で、
実際の生活に直接使えることがわかり、それを探求した。

次は、実際に使えるようにするためには、
稽古方法として、剛柔流の段階に分けて稽古することが有用であることがわかった。

次は、「心技体」が「無」から「有」を生み出すことを示していることを気づき、
それを探求中。

たまたま今まで続いている。
興味に任せて、目的が変化している。
変化していないのは、合気道と△○□だけ。


2014/03/29のBlog
「現実」とは、心が原因で起こった結果。

実(心)の現れ。

技の質と段階によって、
心の状態を現実(体)に現す道筋が異なる。
高度にになると、心が即、現実(体)となることに近づいていく。

合気道では、媒体(剛・柔・流 or 触・視・聴)の順に変わっていく。

現実では、さまざまなことが起こっているが、それらは全て結果であり、すでに過去。

よって、結果を悔やむより、
どのような原因(心と技)でその結果(体)が起こったかを検証・理解する方がいい。
そのために現実がある。

もし、心のみで現実(体)がなければ、魔境にはいる。

思い込みにならないように、
相手との関わりから「△○□」を読み取り、状態を確認する。

できることは、原因(心・技)を修正していくことのみ。

結果はこちらが決めることではない。

結果がうまくいかない時は、余計な「△」を作っている。
言い換えると、隙のある状態で、自分を見失っている。

その余計な「△」をいかに少なくしていくかが重要。

よって、修正は省く作業のみであり、足すことはない。

反するものを省く(省みる)ことが、「反省」。

頑張る必要はない。頑張るとは余計な△。

よって、それは「禊」と共通する。
2014/03/28のBlog
[ 05:00 ] [ 雑感 ]
少し前に進んだので、以前の文に追加する。


いまの理解。

「水業」で、水をかぶる意味を考える。

水をかぶり、冷たさに躊躇すると、
現実→心
の流れであり、本来と逆になっている。
それをやり続けることで、冷たさにとらわれなくする。

それは、
心→現実
の流れに変わったということ。

心を鍛えているのではない。
体を鍛えているのではない。
現実がどうあっても、本来の流れを維持できるかどうか確認している。

「体→心」から「心→体」
という本来の「技」の流れる方向を体得するために行う。
「型にはまる」と技になる。

なぜか?

「型」を何万回も繰り返すと、
意識せずに(△がなく)、その型の動きの中で動けるようになるから。

△がないので、○□から始まる状態となっている。
△は相手との関係を持った時に起こる。
型の一部で△を誘い、相手が△を起こした場合のみ、技が起こる。

質の良い「型」は、段階に合わせた「△」と「○」と「□」が仕組まれている。

「型にはまる」と「△○□」が起こる。

その段階の「△○□」を習得したら、その段階の「型」を捨てる。
そうすると自由な形で、その段階の「△○□」は使える。

逆に、
「型」を捨てて、なにも残らないならば、まだ習得されていないので、
再び「型」にはまって稽古する。

この繰り返し。
[ 04:24 ] [ 雑感 ]
「隙がある」ということ。

今の理解。

「隙」があると、相手に入られる。

「隙がある」とは、

自分が本来の相手以外のなにかに「△」をつくり、
相手(自分以外のもの全て)が自分とのつながりを「○」→「□」と変化できる状態。

言い換えると、

自分がなにかに囚われており、それを相手が利用して、自分が自分を見失う状態。
(その囚われている対象が、結果である場合のみ指す。)

本来の相手ではないものに自分の意識が囚われて、本来の相手との間に意識の隙間があること。
2014/03/07のBlog
[ 23:50 ] [ 雑感 ]
居合を稽古して感じたこと。

抜刀と納刀がいちばんむずかしい。

ただ刀を抜くと、簡単に相手に切られる隙を与える(相手が自由になる)。

相手が今切るときに抜刀はどのようにあるべきか。

納刀も、ただ刀を鞘に納めていると、隙を与える。

隙のない(相手が自由にならない)納刀とはどうあるべきか。

合気道では、主に体術と武器(剣と杖)だが、
体術、剣術、居合と3つ揃えて稽古したほうがいい。

そのほうが色々な角度で理解するし、共通項が狭まることで迷いにくくなる。

どんなに体力をつけても刃の速さにはかなわず、触れ合うわけにはいかない。
どんなに速く武器を扱えても、先に相手の刃がある状態では、速さが間に合わない。

触れ合わずに、どうやって間を変える稽古をするのか?
体術、剣術、居合の技の共通項は何か?

自ずと習得すべきことは絞られてくる。

木刀を速く振れるように稽古をすすめるために、

ただ速くではなく、

・相手と触れれば相手を腰から崩すこと(□)。
・速さと威力が両立すること。
・さらに、間を変えるきっかけとなること。

を求める。

そのためには身体を動かすことで木刀を動かすことが必要。
手で扱ってしまうと、振ってしまうので、型にはめる。

身体の各部は、

腕;上下動作に限定し、手首は使わず、握力は緩め、肘と肩のみ動かす。
掌;下に向ける。手首を捻って、上に向けない。
足腰;右と左の半身の入れ替えのみ
剣の
>角度;左右の手首の間隔で変える。手首の間隔は足腰で変える。
>位置;常に正中心、常に自分を切るように戻ること。
としている。

そうすると、これはなるべく剣を振らないようしていることになる。

振らないようにすると、振りは速く強くなる(なるようにみえる)。

結果として、
・すぐに止める事もできる。振っていないから。
・変化しやすくなる。止まっているから。
・すぐに止まるが触れると威力がある。「□」だから。

[ 23:16 ] [ 雑感 ]
稽古で前に進むためには、あてになるものが必要。
それがないと、上達したのかどうかわからない。

一番よいのは、良い師に付くこと。または、確かな感覚(現実に)を持つこと。

「△○□」はとても優れた感覚だと思う。

これは形、速度、タイミングとは関係なく、それらを生み出す側、素となるもの。

「△○□」が成立するときの姿勢は、自然と背筋が伸びることが多く、
さらに、姿勢と技は無関係ということを教えてくれる。
(稽古では、姿勢を正すことで「△○□」を掴む機会を増やしている。)

相手から速く見える(間を変える)ためには、必ず「△○□」を入れること。
「△○□」に従うと、結果として良いタイミングとなる。

13年間、これより優れた方法に会っていない。
上手な方の技を理解する(盗む)のも「△○□」で観ると何をやっているのかわかりやすい。
形を真似ても、技にはならないことがよくわかる。
なぜならば、形は技ではないからだ。形は現れた結果の1つにすぎない。

もともと「△○□」は道文にあり、それは「大本」からの言葉。
どこからこれが伝わってきたのか興味がある。
2014/03/02のBlog
[ 11:44 ] [ 雑感 ]
心技体について、

「心と技と体」の3つではなく、
「心→技→体」という、無から有を生み出す一連の過程を示しているのではないか?

「無」は、なにも無いということではなく、全てのものを内在する状態。
「有」は、原因から生み出された結果。五感で感じ取れるもの。

よって、
「心を鍛える」「体を鍛える」などのように、本来一連であるものを分けて理解し、それぞれを向上させていくという考え方は意味が無いように思える。

「心→技→体」
とするならば、
「心」の状態を測るには、結果である「体」を観察し、「心」を修正すること。
「体」そのものを直接鍛えることはできない。
それは結果であるから。

「技」とは、「心」から「体」への筋道を指すのではないか。
「技」の向上は、
その筋道の数と段階をいくつも習得していくことではないのか。



[ 11:34 ] [ 紹介 ]
久しぶりの更新。

HPを「rinshin.jp」
に引っ越ししました。(ドメインをjpに変更)

自分の拠点がまだ定まらない状況が続いており、
あと1年は不定期になりそう。

今のうちに頭の中を整理し、HPを整理したいと考えている。
2013/05/13のBlog
[ 21:29 ] [ 雑感 ]
「技」とは?

いまの理解。

「技」とは、

本来の「心」を身体に現すこと。言い換えて、「実」を「現実」に現すこと。

置き換える。

「現実」にとらわれていない真実を具象化すること。

本当の自分の「心」を「体」で現せるかどうかが、「技」があるかどうかではないだろうか。
だから、「心技体」の順ではないのか。
[ 20:47 ] [ 雑感 ]
合気道を続けてきて、最近気づいたこと。

合気道を14年続いてきている。
続けるつもりはなく、毎年のように課題が変化し、興味が湧き、
結果として、続いている。

続ける気持ちは全然ないのだが、なぜか続いている。

合気道や武術の先生の中には、しっかり探していけば、
体育・物理を超越している方々が存在することを知った。

今の段階では、
自分の心・意識の状態が直接まわりの状態に影響し、
それが、△○□と変化できることをわかってきている。

単純にいえば、
心の持ち方で、まわりの環境は一変するということ。
その心とまわりとの媒体を五感のうちの「触・視・聴」としているが、
それ以外にもあるような気がする。

正確に、まわりと何で繋がっているのかよくわからないが、確かに変化する。

だから、

「他人は自分の鏡」
「人は自分の望む環境に既に住んでいる」

の言葉に納得できてきている。

これは当たり前のことなんだけれども、とても不思議なことと思う。



2013/04/13のBlog
[ 20:52 ] [ 方法 ]
「型」は、「技」を習得するのに必要。

「技」がある場合、「型」を崩しても「技」となる。

「技」があれば、「形」がすべて「技」となるからである。

「型」は「技」ではない。
「技」の習得の過程順に用意されている課題である。

よって、
初心で「技」のない状態で「型」を崩していると、
躓いたときに、元に戻る場所がなく行き詰まる。

元に戻りやすくするためには、固く感覚を捉えやすいもの
すなわち「剛」の「型」が必要。

進めば、「柔」「流」とすすむ。
[ 20:46 ] [ 雑感 ]
いまの理解。

「水業」で、水をかぶる意味を考える。

水をかぶり、冷たさに躊躇すると、
現実→心
の流れであり、本来と逆になっている。
それをやり続けることで、冷たさにとらわれなくする。

それは、
心→現実
の流れに変わったということ。

[ 20:44 ] [ 技 ]
「鍛える」という意味を考える。

現実→心 
の流れを省き、
心→現実
のみ残していくこと。

[ 00:29 ] [ 雑感 ]
いまの理解。

「型」とは、

「技」習得のための課題。
現実にとらわれていると、
成立し得ないあらかじめ筋道の決められた相手とのやりとりが、
「△○□」の順番で組み込まれているもの。


「型」(課題)は「技」ではない。
「技」は「形」を生み出し、「型」の形であってもなくても「技」となる。

けがをせず上達するため、相手が安全に抗せるように仕組んである。

ではないか。

仮にこれが正しいとすると、
私であれば、「型」の順として、下記のように組む。

初伝;単純な形。覚えることが容易だが、「技」は難解。
中伝;複雑な形。覚えることが難解だが、「技」としては容易。
奥伝;複雑かつ理不尽な形。覚えること複雑、「技」も難解。
皆伝;単純な形。「技」としては難解で、それのみ要求される。

「形」は、単純→複雑→理不尽+複雑→単純
「技」は、難解→容易→難解→確認

いずれも最初に戻る。

初伝にて、技の難解を知る。
中伝にて、技を理解する。
奥伝にて、技を深める。
皆伝にて、技を確める。

「理不尽」とあるのは、
たとえば、ただ剣を落とせば良い動作を、
手を換える・受け得ない箇所で受ける・捕りに対して、余計な動作過程が多い等。

合っているかどうか。

型稽古は稽古の成立自体が難しいが、
本来の目的を理解することは後からであり、さらに難しい。

だから、
習得者から未習得者へ伝えるしか方法がない。
甲は乙へ良く伝え、乙は甲を見極められるかどうか。

私は、
「三年稽古するより三年かけて良師を探せ」

なのだろう。

2013/03/25のBlog
[ 10:39 ] [ 方法 ]
②の方法の稽古で、

わかりやすいものは、

技をかける際、
相手との接触点に意識が向いていると、その点に「△」ができ、
相手からよく観え、止められてしまう。

これは②の方法からみると、
相手との接触点に意識を向ける使い方は、
結果、相手と△をつくることを示す。

言い換えると、
この心の使い方だと、相手に同意をとれず、身体は止まる。

よって、
この意識の使い方は、身体の結果からすると、
良い使い方ではないということを示している。

このように、
少しずつ反例をもって、削っていく。(反省する)

最後に何が残るだろうか。
2013/03/23のBlog
「光」「闇」は対立しているようだが、そうではない。
「光」で照らせば、「闇」は消える。その逆は成立できない。
これは、対立ではない。

「闇」は「光」の無いところの言い換えであり、
「光」「闇」は互いに対立できるものではない。

だから、「光」あれば、「闇」は勝手に消える。

人は推定のみしかできないとは、言い換えると、
「光」を照らすのみしかないということ。
逆にいえば、否定は「闇」を推定すること。
無いものをわざわざ作ることになる。

言い換えると、
「闇」はそもそも存在自体がなく、現象としてあるにすぎない。

置き換える。

「光」→「心・意識」
「闇」→「現実」

「光」→「実」
「闇」→「虚」

②の稽古では、
相手を意識すると相手が存在することになるので、
自分の本来の目的に意識を向けるようにする。
(「気にしない」「知らないふり」は「気にする」「知っている」と同意。)
そうすることで、「闇」が消え、そもそも「闇」はないことに気づく。

これら仮の理屈が成立するか稽古を通して確認していく。


2013/03/18のBlog
[ 07:56 ] [ 雑感 ]
「心」を鍛える

とはどういうことだろうか。

今の解釈。

「身体」すなわち「結果」を観て、
「心」すなわち「原因」の働きと使い方を理解すること。

その理解に準じた使い方をし、
さらにその「結果」を通じて、「心」の状態を本来の姿・使い方へと修正していくこと。

ではないだろうか。
2013/03/17のBlog
[ 16:16 ] [ 雑感 ]
②の稽古を進めてみて、①の時と周りの見え方が変わってきている。

①のときは身体の感覚を△○□で見えるように意識してきた。
そうすると、接触したときに相手の力み(△)がどこにあるのか見えてくる。
主に触覚を通じて、△◯□がみえるようになってくる。

②のときは、聴覚?を通じて△○□をみるようにしている。
そうすると、相手との関係が一瞬で変わり、全体を感じる。
技が止まるときは全体を見ると必ず偏っている。
主に聴覚?を通じて△◯□がみえるようになってくる。

しかも稽古の中だけでなく、日常の人とのかかわりの中でも同じことがみえてくる。
まだ明確ではないが、みえるものが違ってきている。
[ 16:06 ] [ 雑感 ]
「心技体」について

今の理解。

「心」が「体」を動かす。
「技」とは「心」の「体」に対する影響を理解し、
「心」の在り方の理と実が「技」のような気がする。

別の見方。
「心」の鏡が「体」。
言い換えると、見えないものはすべて見えるものに反映する。
そのつなぎが「技」ではないのか。

だから「心技体」の順番が重要に感じる。
そうだとすると、

 「心」を鍛える
 「体」を鍛える

の意味をよく考える必要がある。