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ひょうたんからKO-MA
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2007/04/14のBlog
さあて、これが「八幡祭」のなかでも一番背が高い多賀町の松明。

写真に写ってるのは、松明の上半分ぐらいかな。
島町の今年のほんがら松明の3倍ぐらいありそう。
さすがに迫力あります。

ちなみに、島町でも、かつては今の倍ぐらいの背のほんがら松明を作っていたそうです。
 
夜。

1本、また1本と奉火される松明。
松明の胴体部分を覆っている「菜種殻」は、猛烈によく燃えます。
燃えカスもほとんど残りません。
しかも、燃やす前は白くてフワフワしていて、遠めに見ると美しい。

先人の智慧、ですねぇ。
写真は撮り損ねましたが、今年は、八幡祭もクライマックスに近い頃に奉火された「船木町」の松明がスゴかった!!

奉火する前から、若衆たちが妙に盛り上がってるなぁと思っていたら、なんと松明にしかけ花火が仕込まれていて、松明は点火と同時に華やかな色の炎に包まれ、なんとも幻想的な演出でした。でも、あれは相当金かかってるよなぁ、絶対。

...船木町の若者の間でいったい何が起こっていたのか?!
要、取材です。
 
 
4月14日は、近江八幡の三大火祭のひとつ、『八幡祭』の宵宮祭があった。

この『八幡祭』と、島町の松明・太鼓祭は、起源も内容もほぼ一緒。
実は、近江八幡周辺では、そこらじゅう、ほとんど全ての集落の神社という神社で、この時期(3月下旬~5月上旬)に、巨大松明を燃やして大太鼓が渡る祭が行われている。

たまたま近江八幡で一番大きな『日牟禮八幡宮』に奉納される祭が『八幡祭』と称され、氏子が多い分、一番規模が大きくて華やかなことから、観光客がたくさん押し寄せる有名な祭になったが、八幡祭だけが松明・太鼓祭ではないことは、地元でも都市部や旧市街に住む人たちは意外に知らないことも。


で、今日はその『八幡祭』で、島町での松明&太鼓のイメージトレーニングをすべく、カメラを持って宵宮に行ってきた。

 
八幡祭に限らず、この時期、この地域では「子ども松明」というミニチュア版の松明が市販されている。

祭が本格的に始まるまでの間に、この「子ども松明」が家族の手で次々燃やされるのだ。

男の子のいる家では、昔は父親か祖父が男の子の人数分、子ども松明を手づくりしていたが、今はたいてい購入しているようだ。
また、写真にあるように、男の子だけでなく、女の子用に松明を奉納する人もいるみたい。昔は「女が松明を触るとけがれる」と言って、女性は常に松明から遠ざけられていたそうで、老人世代の女性は今でも松明には近寄ろうとしない。
こうやって時代に応じてルールを変容させていくことは、いいことだと思う。
 

 
同じ八幡祭の氏子でも、集落によって奉納する松明にはそれぞれ個性がある。

北ノ庄町の「ひきずり松明」もそのひとつ。
その名の通り、火のついた松明を若衆が引きずって走るのだ。
その際、男どもが甲高い裏声で「パイ!パイ!」と叫びながら走る。どういう意味があるのかは分からない。

で、「子ども松明」を燃やしている神社の境内で、面白い場面に出くわした。

その北ノ庄から来た4~5歳くらいの男の子が、北ノ庄男児らしく、市販のミニチュア松明ではなく、北ノ庄オリジナルの「子ども引きずり松明」を持ってきて火をつけ、ハッピを着て、「パイ!パイ!」とかわいい声で叫びながらそこらじゅうを駆け回っていた。
もちろん、周りには家族や北ノ庄の隣人たちがいて、彼をはやし立てている。

いやはや、このぐらい小さなときから毎年こんな体験をしていたら、青年になっても絶対祭り好きになるやろなぁ。すたれることもないやろなぁ。
 
 
ちなみに、コレ→がホンモノの「引きずり松明」。
丸太の心棒が入っていて、なかなか重たそう。
火がついたまま、大人4人ぐらいで引っ張って走り、日牟禮八幡宮の楼門をくぐって奉火する。
 
引きずり松明が通り過ぎたあとの火の粉の道が、またアーティスティックで印象的。
 
 
松明と切っても切れないのが、大太鼓。
写真のように男衆がかつぎ、練りながら太鼓を叩き続ける。

それにしても、和太鼓の音はどうしてこうも魂をゆさぶるのだろう。

天高く燃ゆる松明の光と熱、低く深く響く太鼓の音、そして神聖なる神社のスピリチュアルな空間。

この祭がどうして千数百年もの長きに渡って続いているのか、何となく、分かる気がする。
 
2007/04/09のBlog
ごらんください!!

これが、50数年ぶりに近江八幡市島町に復活した、幻の「ほんがら松明」!!

今日、最後の仕上げの作業を行った村の古老たちの、汗と涙の結晶(?)です。


胴体部分には、先日作られた「竹」で編んだ「真」の周りに「ワラ束」を巻き、さらにその上を「菜種がら」で「化粧」されています。

上の傘の部分は、水郷の名産品・「ヨシ」

松明が倒れないよう張ってある縄は、松明に近い部分は山で取ってきた「藤蔓(フジヅル)」が使われています。ワラ縄だとすぐに燃えてしまって引き綱としての役割を果たせないので。

地場で採れる自然素材を巧みに利用して作られる巨大松明。

さあ、あとは、4/21の祭本番を待つばかり。
 
 
 
 
 
 

「真」にワラ束を巻きつける。
ワラは、丈が長く、細くしなやかで加工しやすい「もち米」のワラが良い。

 

松明を一旦立てて、ワラの上に菜種殻を覆っていく。
美しく段々ができるよう、形を整える。
ちなみに、この段の数は奇数でなければならないそうだ。
 
 

てっぺんの「傘」の部分は、地場産のヨシでつくる。
これは、日輪のシンボルだとか、ろうそくの炎を模したものだとか、諸説あるが、いずれも真偽の程は定かでない。
 
なんにしても、これはもう究極のアートでしょう。美しい。


写真右下に、「ほんがら」の穴が見えますね。
うまくいけば、ここから煙と炎が噴出すわけです。
 
 


完成したほんがら松明の重量は、2~3tにも達するらしい(地元老人談)。
これを、なんとなんと、70~80代のおじいちゃんたちだけで立ててしまった。
さすがに往年のようにはいかず、腰が痛そうではありましたが、オドロキ、感動の場面。

ちなみに、松明を立てるときに使う竹の竿のことを「アホ」と呼ぶそうです(笑)。

 
 
2007/02/28のBlog
この日、もうひとつの嬉しいハプニング。

今日の輪づくり作業の話を聞きつけた地元幼稚園の先生方が、園児を引き連れて見学に来てくださった。

この時の園児たちの反応が、老人たちから前もって取材で伝え聞いていた60~70年前の子ども達と全く同じだったことが、とにかく微笑ましかった。

誰に言われるでもなく、子ども達は列をなし、一人ずつほんがらの輪の中へ!
しかし、輪は先へ行くほど細くなり、もうそれ以上先に進めなくなって、後ずさり。

戦前の子ども達も、こうやって遊んでいたらしい。
子どもがほんがらをくぐって遊ぶこの風景もまた、50数年ぶりの復活を果たした。
 
これ(右の写真)でほぼ完成。

「ほんがら」の「真(シン)」を底から見たところ。
輪の内側に3本、外側に6本の芯竹が結われていることがよく分かる。

祭の本番では、このトンネルの中を、炎が駆け上がっていく。ハズ。(祈!)
 
 
できあがった「真」は、軽トラに乗せられ、神社の境内に運ばれた。

祭の1~2週間前には、この「真」に「化粧」が施され、この神社の境内に立つことになる。
 
2月28日。
時折小雨の振る肌寒い朝。

今日はいよいよ『輪づくり』の日。
50数年ぶりに「ほんがら松明」が復活するその姿を目の当たりにできる日。

15人ぐらいの島町の老人達が、今日の作業場であるMさん宅の倉庫に集まってきた。
皆、半世紀前の自分に戻ったかのごとく、少年のように目を輝かせている。

そして、誰が合図するでもなく、作業は始まった。

50数年まえの青年たちが、当時の記憶を手繰りながら、竹を割り、思い思いに『輪』を編んでゆく。

人くくりに「老人」といっても、年齢は60代後半から80代前半と、ひと周り以上違う。
当然、青少年時代の記憶も少しずつ異なり、所々でちいさな言い争いも起きる。

でも、ああでもない、こうでもないと言い合いながら、作業は淡々と進み、次々と竹の輪が出来てきた。

みんなで作った50個ほどの「輪」を、一番大きいものから一番小さいものへと順番に並べ、竹に通していく。


 
さて、ここからが昭和一ケタ生まれの腕の見せ所。
老人達がズラリと並び、ワラ縄を使って次々と手早く芯竹に輪をくくりつけていく。

この時に使われるのが、「男結び」という結び方。
「男結び」は、しっかり結べてほどけにくく、しかも結び目が美しい、と言われている。

「松明を結うのは男結び」、というのは彼らにはもう身に染み付いた習慣だが、生活の中でワラ縄を使う機会がなくなってしまった世代には、男結びができない男衆も多い。

事実、稲作中心の農村集落であるこの島町ですら、ワラ縄はホームセンターに(恐らくは中国産のものを)買いに行かないとない時代なのである。
 
「ほんがら松明」は、とにかく結び目が多い。

輪の内側に3本、輪の外側に6本、芯竹を通すので、輪の数が50とすると、単純計算で(3+6)×50=450箇所も結び目があることになる。

その全てを「男結び」で着々と仕上げていく老人たちの手早さは、とても50年ぶりとは思えない熟練の技を思わせる。「朝飯前」という言葉がピッタリくる仕事ぶり。
 
...実は、この日に先立って、私たちはあるシカケをしていた。
そう、2/24の若衆の集まりで、このプロジェクトのことを紹介させてもらった時に、この日に「輪づくり」の作業があることを伝えておいたのだ。
 
すると、どうだ。

平日だというのに、1、2、3、...4人の若者たちが、この輪づくりに参加しにきてくれた。
爺さんたちの寄り合いに、働き盛りの若衆が仕事を休んでまで顔を出す。
こんな光景、今まではありえなかったんじゃないか?

若者たちも、見よう見まねで輪を編み、男結びに挑戦。
この日ばかりは、ウルサい爺さん達の言うことを素直に聞いている...。


4人のうちの1人、Sさんは、3年前に家族で外から島町に引っ越してきた。
田舎暮らしがしたくてあちこち探し回り、この島町に一目惚れして、家を建てたそうだ。

「田舎はつきあいが大変だぞ!」と周囲からさんざん諭されたそうだが、Sさんは言う。

「つきあいがあるからこそ楽しいし、安心して暮らせる。“つきあいが大変だ”という意識を持ってしまう今の社会の方が問題だ。」

「祭があったり、いろんな寄り合いがあるおかげで、地元の人たちと顔なじみになれた。」

「この土地に祭があって良かった。」
 
この日、老人に教わりながら、初めて「男結び」をマスターしたSさん。素直に喜ぶ満面の笑みに、幸せな感情が周囲にも伝播する。
 
左義長にも松明にも共通する、地域コミュニティにおける「祭」の存在意義。
そして、ほんがら松明づくりが生み出した、世代から世代への伝承。

私たちがなぜこのプロジェクトを始めたのか、答えのひとつが垣間見えた瞬間。
 
2007/02/24のBlog
事件です!!

島町老人クラブによる「ほんがら松明」復活をきっかけに我々が知ることとなった島町の春の祭礼。

この祭は2日間に渡って行われる。
1日目の夜(宵宮祭)は、町民が担ぐ「大太鼓」を神社に迎え入れ、送り出すための「巨大松明」が神社に奉火される。
そして2日目(本宮祭)は、地元の若衆が神輿(みこし)を担いで地域にあるいくつかの神社を巡って練り歩く。

「ほんがら松明」づくりも、「神輿担ぎ」も、かつては地元「青年団」の役目だった。
青年団とは、15歳~25歳の地元住民が所属する組織で、祭や運動会、道普請などでの奉仕活動を通じて、責任ある立場として地元に貢献していた。

その頃はほぼ全員が専業農家で自給自足生活だったので、青年団という強固な拘束力を持った組織が存在し得たが、生活スタイルが変わり、皆外へ出て働くようになって、青年団は徐々に機能しなくなり、その機能は全て「自治会」に委ねられ、いつしか青年団そのものが消滅してしまった。

農村地域の様々な課題は、実はここに大きな根本原因がありそうだ、ということを、私たちは現場での活動を続ける中で何度も感じてきた。

現在の子ども達は、「子供会」を卒業すると、「自治会」の役員が当たるまで、地域との組織的なつながりが何もない。そうなると、地元でのヨコのつながりが育たず、地域への愛着も深まらず、若者のコミュニティが希薄化し、地域離れが加速するのは至極当然の成り行きではないか。

一方、青年団が地域で担ってきた役割を全て背負ってしまった「自治会」という組織は、毎年役員が総換えされてしまう継続性・発展性の乏しい組織体であり、たくさんの「重荷」を「一年間の辛抱」として淡々とこなし、来年に引き継ぐ、というだけの構造になってしまっている。


端的な例が、神輿の担ぎ手確保。
神輿の担ぎ手は、地元に住む15歳以上の若者で、若い順に14人、と決まっている。これは、今も昔も変わらない、神事としてのルール。

青年団が神輿を担いでいた頃は、担ぎ手が足りないなんてことはなかった。
ところが今は、毎年、自治会長が若者がいる家を一軒一軒廻り、拝み倒して祭に参加してもらわないと担ぎ手が14人揃わない。
今年度の自治会長も、断腸の思いで土下座までしてどうにかこうにか担ぎ手14人を集めた、という。それも、10代、20代で思うように集まらず、40過ぎの人にまで参加してもらっていた。


 

ほんがら松明が復活する今年、一方で存続の危機に瀕する神輿の方も何とかしたい!という思いが、自治会長と一致した。

そして、30~40歳前後の若衆の有志に声を掛け、自治会からも呼びかけてもらって、地域の若者全員が集まる場が設けられた。その第一回目が今日、2/24だった。
もちろん本当に全員が集まったわけではないが、十数名の若衆が集まってきた。


そして、その場で事件は起きた。


自治会長の話を聞いた若衆。なんと
「神輿担ぎは自分たち若者の役目。これからは、自分たち若者で“祭礼実行委員会”を組織して、責任を持って神輿の担ぎ手を集め、祭を成功させよう」
という話がその場でまとまった。

「祭」という地域財産のおかげで、青年団の消滅とともに消えかけていた地域の若者をネットワークする受け皿が、今、ここに復活したのだ。
 
もちろん、まだまだ課題山積ではあるが、島町、面白くなってきた!!
 
 


(余談)
実は、この若者の会合の場で、少し時間をもらって老人クラブの「ほんがら松明復活プロジェクト」を紹介させてもらった。
まだまだ、老人以外の世代には、「おじいちゃんたちが何かやっとるわ」ぐらいにしか思われてなかったので....。

説明に使ったのは、AAFのプレゼン用に作ったものをアレンジした映画の予告編。

果たして、このことが、また「次」につながることに...。
 
2007/02/18のBlog
[ 21:53 ] [ ほんがら ]
これまで、ひょうたんからKO-MAのスタッフブログでプロジェクトの経過報告をしてきましたが、ひょうたんからKO-MAの活動のうち、今回AAFに企画提案した「ほんがら松明復活映像化プロジェクト」「子ども映画づくりワークショップ」に関しては、2007/2/18以降、こちらのブログをメインに情報発信していきます。

2/17以前の情報については、お手数ですが、ひょうたんからKO-MAスタッフブログ( http://hyotan.sblo.jp/ )の方を参照してください♪


まつりが地域コミュニティをつなぎ、地域がまつりをそだてる、そんな現場を取材した「左義長祭の元気の源を探る!!」は必読デス。
http://hyotan.sblo.jp/article/3353276.html
 
2007/02/11のBlog
滋賀県 近江八幡市 島町。
日本一の湖・琵琶湖のほとりに位置する、しずかな農村集落です。
今、私たちは、この地域に千年以上も続く「松明(たいまつ)祭り」で、「ほんがら松明」を約50年ぶりに復活させようとしている老人たち一人一人に密着して、映像作家・長岡野亜とともに、2006年6月から、ドキュメンタリー映像づくりに取り組んでいます。
「ほんがら松明」とは、菜種ガラやヨシなどの天然素材で作るエントツ状の巨大な松明で、その作り方を憶えているのは、地元で生まれ育った70歳以上の老人約15名のみ。
カメラに向かって老人たちが発する言葉からは、単なる懐古主義ではなく、島町の未来へ託す強いメッセージが伝わってきます。
この映像作品は、2007年秋に完成させ、老人たちの母校・島小学校の講堂で、全町民を集めて完成上映会を開く予定です。
この上映会をきっかけに、交流の場が生まれ、元気なコミュニティが再生されていくことを願っています。
 

【参考】これまでの作業経過 (2006年6月~2007年2月)
http://hyotan.sblo.jp/category/80318.html
2007/02/10のBlog
[ 01:38 ] [ ひょうたんからKO-MA ]
「おうみ未来塾」から生まれた、「地域プロデューサー」の集団です。

(参考URL:おうみ未来塾)
http://www.ohmi-net.com/miraijuku/


私たち「ひょうたんからKO-MA」の「ミッション」は、ズバリ「農村再生」。

「限界集落」と呼ばれる山間地の超高齢化コミュニティばかりでなく、地方都市近郊の一見のどかで何不自由ないように見える農村集落でも、地域コミュニティの希薄化、世代間コミュニケーションの欠如、伝承文化の衰退、生活の智慧の消滅、地域生態系の崩壊...といった深刻な問題が、時に地元住民自身も気付かないまま、静かに、着々と進行しています。

これらの課題を地域の人たち自身が自らの意志とチカラで克服し、未来への活力にあふれた持続可能な農村コミュニティを再生するため、私たちは、「プロデューサー」として、様々な「しかけ」・「応援」・「サポート」を行っています。


私たちが現在具体的に取り組んでいる「メソッド」は、たとえば以下のようなもの。

★ドキュメンタリー映像という表現手法を活用して農村地域を次世代につなぐこと。

★映像という表現の楽しさを子供たちに知ってもらうことで、将来、地元地域を自ら発信できる人材を育成すること。

★地域の貴重な宝物をみつけ、そこを拠点として人の集まる場づくりをしかけ、コミュニティビジネスへと発展させること。

滋賀県をフィールドに、地域に根を張って、農村地域再生へ向けたこれらの新しい試みを続けています。


このたび、「アサヒ・アート・フェスティバル2007」に参画することになりました。

AAF関係者の皆様、どうぞよろしくお願いします! m(_ _)m
 
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