2009/08/17のBlog
[ 22:01 ]
[ 遺言 ]
久々に登場のOおじいちゃん。
今日は水郷や川の現場ではなく、ご自宅の居間で、自身の「思い」「願い」を語っていただく「遺言」インタビューです。
カメラ&マイクのセッティング、ライティングなど、スタッフもだいぶ手馴れてきました。
庭に真夏の日差しが照りつける中、採光とノイズ削減のため、縁側の戸を全開にしてエアコンはつけない状態での撮影です。
耳が遠くてなかなか会話にならない状況を打破するため、スタッフのKさんが、撮影用
ワイヤレスマイクのイヤホンを使って、カメラマンの声をOさんの耳元に届けるアイディアを考案。
最初はやや緊張気味のOさんでしたが、カメラの前で、何度も休憩を挟みながら、長時間にわたってアツく語ってくださいました。
今日は水郷や川の現場ではなく、ご自宅の居間で、自身の「思い」「願い」を語っていただく「遺言」インタビューです。
カメラ&マイクのセッティング、ライティングなど、スタッフもだいぶ手馴れてきました。
庭に真夏の日差しが照りつける中、採光とノイズ削減のため、縁側の戸を全開にしてエアコンはつけない状態での撮影です。
耳が遠くてなかなか会話にならない状況を打破するため、スタッフのKさんが、撮影用
ワイヤレスマイクのイヤホンを使って、カメラマンの声をOさんの耳元に届けるアイディアを考案。
最初はやや緊張気味のOさんでしたが、カメラの前で、何度も休憩を挟みながら、長時間にわたってアツく語ってくださいました。
2009/07/28のBlog
[ 23:52 ]
[ 遺言 ]
2009/07/24のBlog
[ 22:25 ]
[ 遺言 ]
まだ中国旅行の余韻が残るなか、長光寺のご住職が亡くなったというニュースが突然舞い込んできました。
長光寺住職は、昨年にこの遺言プロジェクトが始まって、一番最初に取材・撮影させていただいた方です。
急きょ、これまで撮り溜めていた映像を長岡さんに編集していただき、ご遺族へのメッセージを添えたショートビデオを携えて、盛大に行われたお通夜に参列。
お通夜の法要が一段落してから、親族のみなさんが集まっておられるところにお邪魔し、プロジェクタをセットして、元気だった頃のご住職がカメラに向かって語りかけるメッセージを観ていただくことができました。
仏様のようにおだやかな表情で、食い入るように画面を見つめる奥様。
住職の「遺言」メッセージに、うなずきながら真剣に聞き入る親族の方々。
映像を撮っていて本当によかった、と感じた瞬間でした。
思い返せば、このご住職とのご縁がきっかけで、Tおばあちゃんと知り合い、中国行きが実現したわけです。
そのご住職が、帰国してすぐの訃報。
そして、お通夜の晩に上映したご住職のメッセージもまた、Tおばあちゃんと同じ「二度と戦争のない社会を」というものでした。
運命的なものを感じずにいられません。
盛大なお通夜の様子、ご住職の映像を上映させていただいたときの様子もまた、映像に納めさせていただきました。
文字通り「遺言」となったご住職の願いを叶えるためにも、よい作品に仕上げないといけません。
心から、ご冥福をお祈りします。合掌。
長光寺住職は、昨年にこの遺言プロジェクトが始まって、一番最初に取材・撮影させていただいた方です。
急きょ、これまで撮り溜めていた映像を長岡さんに編集していただき、ご遺族へのメッセージを添えたショートビデオを携えて、盛大に行われたお通夜に参列。
お通夜の法要が一段落してから、親族のみなさんが集まっておられるところにお邪魔し、プロジェクタをセットして、元気だった頃のご住職がカメラに向かって語りかけるメッセージを観ていただくことができました。
仏様のようにおだやかな表情で、食い入るように画面を見つめる奥様。
住職の「遺言」メッセージに、うなずきながら真剣に聞き入る親族の方々。
映像を撮っていて本当によかった、と感じた瞬間でした。
思い返せば、このご住職とのご縁がきっかけで、Tおばあちゃんと知り合い、中国行きが実現したわけです。
そのご住職が、帰国してすぐの訃報。
そして、お通夜の晩に上映したご住職のメッセージもまた、Tおばあちゃんと同じ「二度と戦争のない社会を」というものでした。
運命的なものを感じずにいられません。
盛大なお通夜の様子、ご住職の映像を上映させていただいたときの様子もまた、映像に納めさせていただきました。
文字通り「遺言」となったご住職の願いを叶えるためにも、よい作品に仕上げないといけません。
心から、ご冥福をお祈りします。合掌。
2009/07/21のBlog
[ 16:25 ]
[ 遺言 ]
全員、無事、元気で、日本に帰ってきました!!
お世話になった皆さま、本当にありがとうございました!!
大きなトラブルもなく、みな健康で、野外撮影時に雨に見舞われることも一度もなく、行きたいと思ったところには確実にたどり着け、撮影もほぼ予定通り順調にこなすことができ、本当に恵まれた旅になりました。
中国旅行はこれで終わりましたが、「遺言」づくりはまだまだ続きます。
疲れが出ないよう、今夜はゆっくり休みたい、ところですが…(汗)
お世話になった皆さま、本当にありがとうございました!!
大きなトラブルもなく、みな健康で、野外撮影時に雨に見舞われることも一度もなく、行きたいと思ったところには確実にたどり着け、撮影もほぼ予定通り順調にこなすことができ、本当に恵まれた旅になりました。
中国旅行はこれで終わりましたが、「遺言」づくりはまだまだ続きます。
疲れが出ないよう、今夜はゆっくり休みたい、ところですが…(汗)
2009/07/20のBlog
[ 23:10 ]
[ 遺言 ]
途中、虎林に立ち寄り、Tさんが虎頭の官舎にいたころ、一度だけ人生初のパーマをあてに訪れたという虎林駅前で当時のことについてインタビュー。
そして、今回訪れた黒龍江省の地図帳を購入して、一路、ハルビンへ。
そして、今回訪れた黒龍江省の地図帳を購入して、一路、ハルビンへ。
途中、時折石炭を積み上げた巨大なピラミッド上の山があったり、風力発電施設があったりするほかは、果てしなく広がる平原のなかを車でひた走ります。
いつまでも続く単調な景色に、一行は思わずウトウト。
がんばれマツケンさん!
いつまでも続く単調な景色に、一行は思わずウトウト。
がんばれマツケンさん!
[ 15:21 ]
[ 遺言 ]
私(藤田)は、当初はこの中国旅行に同行する予定ではありませんでした。
マルチメディアセンター長に就任して以来、お盆と正月以外、1週間も職場を離れたことは一度もなく、自分が中国へ行くことなど考えもしていませんでした。
しかし、マネージャー的な役回りの男性スタッフがどうしてももう一人必要ということになり、スケジュール帳を確認すると、その週だけは、たまたま、何とか代役をほかの人にお願いできそうな予定しか入っておらず、「ひょっとしたら行けるかも」と思った瞬間から、運命の歯車が回り始めたのです。
この旧満州国に降り立ち、その壮絶な歴史の記憶を辿りながら、行く先々でTおばあちゃんの語りに耳を傾け、今、こうして果てしなく広がる大陸の真ん中を車で走り抜けていると、つい先日亡くなったマイケルジャクソンの「Heal the world」や「We are the world」、それにジョンレノンの「Imagine」が、頭の中に繰り返し流れてきます。
「A子(Tおばあちゃんの長女)は、戦争の犠牲になり、生後11ヶ月にして、栄養失調で亡くなった。A子だけではない。難民収容所にいた他の子供達も、みんな死んでいった。」
「人間同士が傷つけあい、罪のない尊い命を奪ってしまう戦争が憎い」
「世界中で、二度と戦争の起きない平和な社会をつくりたい。そのために、自分にできることをやり続けていきたい」
これが、Tおばあちゃんの「遺言」です。
この「遺言」を聞いた瞬間、私は、自分の体と心が震えるのを感じました。
そして、確信したのです。
今回、私がこの旅に同行することになったのは、偶然ではなく、必然であった、と。
私には、私達は、この地で11ヶ月の若さで亡くなったA子さんの魂に呼ばれてここまで来たのではないか、と思えてならないのです。
Tおばあちゃんは、A子さんが栄養失調で亡くなったのは、十分な食事を与えてやれなかった自分の責任だ、自分が殺したようなものだ、とおっしゃいます。
もし戦争がなければ、A子さんはきっと今頃元気で大きくなって、子供や孫に囲まれて幸せに暮らしていただろうに、と。
でも、私は、そうではない!と信じたい。
A子さんは、しゃべることも笑うこともできず、やせ衰えて11ヶ月で亡くなるという、一見悲しい悲しい人生を、自ら選択してこの世に生を受けた、とても高貴な魂の持ち主だったのではないか、と思うのです。生きている間に自分自身の手では何もできなかったかもしれませんが、死後60年以上たった今もなお、Tおばあちゃんや、娘さんや、お孫さんや、私達スタッフをも動かして、「戦争のない平和な社会づくり」のための礎を築こうとしておられるのですから。
そんなA子さんの魂の導きに、私達は応えなければなりません。
ジョンレノンやマイケルジャクソンでさえ成し得なかった、「本当の世界平和の実現」のために、私達のような凡人に何ができるか分かりませんが、それでも、90歳にして「できることをやり続けたい」と言わしめるその精神を、私達は見習い、次世代に語り継いでいかなければなりません。
一人でも多くの人間に、本当の世界平和を願う気持ちを共有してもらうために、今回の遺言プロジェクトが、小さな一歩になれば、と、今、心を新たにしています。
Imagine all the people living life in peace...
You may say I'm a dreamer.
But I'm not the only one.
I hope someday you'll join us.
And the world will be as one.
(from "Imagine" by John Lennon)
マルチメディアセンター長に就任して以来、お盆と正月以外、1週間も職場を離れたことは一度もなく、自分が中国へ行くことなど考えもしていませんでした。
しかし、マネージャー的な役回りの男性スタッフがどうしてももう一人必要ということになり、スケジュール帳を確認すると、その週だけは、たまたま、何とか代役をほかの人にお願いできそうな予定しか入っておらず、「ひょっとしたら行けるかも」と思った瞬間から、運命の歯車が回り始めたのです。
この旧満州国に降り立ち、その壮絶な歴史の記憶を辿りながら、行く先々でTおばあちゃんの語りに耳を傾け、今、こうして果てしなく広がる大陸の真ん中を車で走り抜けていると、つい先日亡くなったマイケルジャクソンの「Heal the world」や「We are the world」、それにジョンレノンの「Imagine」が、頭の中に繰り返し流れてきます。
「A子(Tおばあちゃんの長女)は、戦争の犠牲になり、生後11ヶ月にして、栄養失調で亡くなった。A子だけではない。難民収容所にいた他の子供達も、みんな死んでいった。」
「人間同士が傷つけあい、罪のない尊い命を奪ってしまう戦争が憎い」
「世界中で、二度と戦争の起きない平和な社会をつくりたい。そのために、自分にできることをやり続けていきたい」
これが、Tおばあちゃんの「遺言」です。
この「遺言」を聞いた瞬間、私は、自分の体と心が震えるのを感じました。
そして、確信したのです。
今回、私がこの旅に同行することになったのは、偶然ではなく、必然であった、と。
私には、私達は、この地で11ヶ月の若さで亡くなったA子さんの魂に呼ばれてここまで来たのではないか、と思えてならないのです。
Tおばあちゃんは、A子さんが栄養失調で亡くなったのは、十分な食事を与えてやれなかった自分の責任だ、自分が殺したようなものだ、とおっしゃいます。
もし戦争がなければ、A子さんはきっと今頃元気で大きくなって、子供や孫に囲まれて幸せに暮らしていただろうに、と。
でも、私は、そうではない!と信じたい。
A子さんは、しゃべることも笑うこともできず、やせ衰えて11ヶ月で亡くなるという、一見悲しい悲しい人生を、自ら選択してこの世に生を受けた、とても高貴な魂の持ち主だったのではないか、と思うのです。生きている間に自分自身の手では何もできなかったかもしれませんが、死後60年以上たった今もなお、Tおばあちゃんや、娘さんや、お孫さんや、私達スタッフをも動かして、「戦争のない平和な社会づくり」のための礎を築こうとしておられるのですから。
そんなA子さんの魂の導きに、私達は応えなければなりません。
ジョンレノンやマイケルジャクソンでさえ成し得なかった、「本当の世界平和の実現」のために、私達のような凡人に何ができるか分かりませんが、それでも、90歳にして「できることをやり続けたい」と言わしめるその精神を、私達は見習い、次世代に語り継いでいかなければなりません。
一人でも多くの人間に、本当の世界平和を願う気持ちを共有してもらうために、今回の遺言プロジェクトが、小さな一歩になれば、と、今、心を新たにしています。
Imagine all the people living life in peace...
You may say I'm a dreamer.
But I'm not the only one.
I hope someday you'll join us.
And the world will be as one.
(from "Imagine" by John Lennon)
2009/07/19のBlog
[ 23:00 ]
[ 遺言 ]
朝食後、まずは、Tさんが満州へ来て最初に過ごしていた「完達駅」近くの官舎跡へ。
虎林から虎頭へと続く、コンクリート舗装の広くまっすぐな一本道は、かつて日本人が建設した鉄道線路の上に作られているとのことで、完達駅の形跡は全く残っておらず、道路の周囲は植林された針葉樹の林になっていました。
この林の中に、関東軍の官舎があったことが、地元の人の話+持参していた関東軍の古地図で判明。そこに当時の面影はありませんでしたが、ここで、Tさんに官舎での暮らしの様子を語っていただきました。
また、かつてTさんが見たお花畑のような草原は見当たりませんでしたが、この林の中にも、ナデシコ、ノコギリソウ、カシワなど、Tさんの思い出話にも登場する花や植物がチラホラ。それらもカメラに収めました。
虎林から虎頭へと続く、コンクリート舗装の広くまっすぐな一本道は、かつて日本人が建設した鉄道線路の上に作られているとのことで、完達駅の形跡は全く残っておらず、道路の周囲は植林された針葉樹の林になっていました。
この林の中に、関東軍の官舎があったことが、地元の人の話+持参していた関東軍の古地図で判明。そこに当時の面影はありませんでしたが、ここで、Tさんに官舎での暮らしの様子を語っていただきました。
また、かつてTさんが見たお花畑のような草原は見当たりませんでしたが、この林の中にも、ナデシコ、ノコギリソウ、カシワなど、Tさんの思い出話にも登場する花や植物がチラホラ。それらもカメラに収めました。
続いて、ロシアとの国境になっているウスリ川の河畔へ。
ここは、中国国内では有名な観光地らしく、日曜日ということもあって多くの観光客でにぎわっていました。Tさんは、官舎の2階から、川の向こう岸にある敵国ソ連の領土を、恐怖と緊張の面持ちで、双眼鏡で毎日眺めていたといいます。
ここは、中国国内では有名な観光地らしく、日曜日ということもあって多くの観光客でにぎわっていました。Tさんは、官舎の2階から、川の向こう岸にある敵国ソ連の領土を、恐怖と緊張の面持ちで、双眼鏡で毎日眺めていたといいます。
ウスリ川を離れ、虎頭山のふもとにあり、かつて難攻不落と呼ばれた関東軍の伝説の虎頭要塞跡に建設されていた虎頭要塞博物館をみんなで訪れました。満州国建設に至る過程と、日本軍が敗戦に追い込まれるまでの経緯が、写真や遺品とともに、中国からの視点で克明に展示されていました。そして、博物館の奥の階段をくだると、虎頭要塞の巨大な地下壕へ。
地下壕の中の空気はひんやりと冷たく、ここにいた人々の生活の面影や、無数の銃弾の弾痕があり、ソ連参戦後この要塞に立てこもり、日本の敗戦を信じず、終戦後も戦い続け、玉砕・全滅したという関東軍とその家族の壮絶な断末魔の記憶が頭をよぎりました。
Tさんの知り合いのご家族も、ここで亡くなったそうです。
虎頭要塞博物館を出た後、地元の人々に聞き込みをしてもらい、御年80歳の白系露人の方と出会うことができました。Tさんとの対談に応じてくださり、63年前にソ連が参戦してから、虎頭住民はどうなったか、虎頭要塞に逃げ込んだ軍人家族はどうなったかなど、具体的な日本人の名前まで出して、詳しく教えてくださいました。
ホテルに帰って夕食を終え、虎頭での充実した一日は終わりました。
明日は、いよいよ日本へ「引き揚げ」です。長いようであっという間の一週間でした。
地下壕の中の空気はひんやりと冷たく、ここにいた人々の生活の面影や、無数の銃弾の弾痕があり、ソ連参戦後この要塞に立てこもり、日本の敗戦を信じず、終戦後も戦い続け、玉砕・全滅したという関東軍とその家族の壮絶な断末魔の記憶が頭をよぎりました。
Tさんの知り合いのご家族も、ここで亡くなったそうです。
虎頭要塞博物館を出た後、地元の人々に聞き込みをしてもらい、御年80歳の白系露人の方と出会うことができました。Tさんとの対談に応じてくださり、63年前にソ連が参戦してから、虎頭住民はどうなったか、虎頭要塞に逃げ込んだ軍人家族はどうなったかなど、具体的な日本人の名前まで出して、詳しく教えてくださいました。
ホテルに帰って夕食を終え、虎頭での充実した一日は終わりました。
明日は、いよいよ日本へ「引き揚げ」です。長いようであっという間の一週間でした。
2009/07/18のBlog
[ 23:37 ]
[ 遺言 ]
そのあと、牡丹江第一人民病院に行きました。ここは、かつての聖林小学校跡地で、Tさん達日本人は、満州から日本に引き揚げる際、この小学校の体育館に終結したそうです。新しいきれいな病院の建物に建て変わっていて、当時の面影を残す建物はありませんでした。ここで、引き揚げの時の様子をインタビューしました。
休憩しながらとはいえ、およそ7時間の長旅。
虎頭より1時間ほど手前にある虎林で、地元のガイドさんが1人合流し、総勢9人で虎頭賓館に到着したのは夜の8時ごろでした。牡丹江での一流ホテルと打って変わって、くたびれた簡易宿所のような田舎のホテルに到着。この辺の食堂は早く閉まるからということで、あたふたと夕食へ。ウスリ川のほとりの食堂で、Tさんが昔虎頭で食べたという、目の前の川で捕れた新鮮&巨大なコイの丸揚げなどをいただきました。…ここは観光地だからということで、かなりぼったくられてしまいましたが(汗)、でもまあ、おばあちゃんのなつかしの一品をこの虎頭で食べられたという経験はお金には替えられませんので、素直に感謝。
虎頭より1時間ほど手前にある虎林で、地元のガイドさんが1人合流し、総勢9人で虎頭賓館に到着したのは夜の8時ごろでした。牡丹江での一流ホテルと打って変わって、くたびれた簡易宿所のような田舎のホテルに到着。この辺の食堂は早く閉まるからということで、あたふたと夕食へ。ウスリ川のほとりの食堂で、Tさんが昔虎頭で食べたという、目の前の川で捕れた新鮮&巨大なコイの丸揚げなどをいただきました。…ここは観光地だからということで、かなりぼったくられてしまいましたが(汗)、でもまあ、おばあちゃんのなつかしの一品をこの虎頭で食べられたという経験はお金には替えられませんので、素直に感謝。
2009/07/17のBlog
[ 23:41 ]
[ 遺言 ]
今回、私達の旅に通訳兼撮影補助として同行していただいた、中国湖南省出身で現在は滋賀県大津市在住のKさん、現地で落ち合ってほぼすべての行程に同行いただいた中国国際旅行社の権香玉さん、専用車のドライバーであるマツケンこと辛云海さん。
この3人のホスピタリティには本当に恐れ入りました。
細かいことに気がつき、先手先手で私達を的確にリードしてくださったKさん。
60年以上昔の建造物を探してもらったり、こちらの撮影の都合でいきなり無理な注文をしても、いやな顔もせずできる限りの手を尽くしてくださった権さん。
いつも愛嬌のある笑顔で出迎えてくださり、疲れたころにアイスなどを差し入れてくださった辛さん。
この方達のご努力と人柄のおかげで、今回の旅をスムーズにすすめることができました。
また、地元の方々もたいへん協力的で、家の中を見せてくださったり、いろいろ貴重な情報を教えてくださったり、インタビューに応じてくださったり…。
63年前、Tさんも、地元の中国人の方々にとても親切にされたことを常に感謝しておられましたが、今回の旅でも、たくさんの方々の親切に触れ、本当にお世話になりました。この場をお借りして、改めて深く深く御礼申し上げます。
この3人のホスピタリティには本当に恐れ入りました。
細かいことに気がつき、先手先手で私達を的確にリードしてくださったKさん。
60年以上昔の建造物を探してもらったり、こちらの撮影の都合でいきなり無理な注文をしても、いやな顔もせずできる限りの手を尽くしてくださった権さん。
いつも愛嬌のある笑顔で出迎えてくださり、疲れたころにアイスなどを差し入れてくださった辛さん。
この方達のご努力と人柄のおかげで、今回の旅をスムーズにすすめることができました。
また、地元の方々もたいへん協力的で、家の中を見せてくださったり、いろいろ貴重な情報を教えてくださったり、インタビューに応じてくださったり…。
63年前、Tさんも、地元の中国人の方々にとても親切にされたことを常に感謝しておられましたが、今回の旅でも、たくさんの方々の親切に触れ、本当にお世話になりました。この場をお借りして、改めて深く深く御礼申し上げます。
[ 23:20 ]
[ 遺言 ]
今日もいい天気です!
今日は、まず再び東京城へ。
権さんによる地元の方への聞き込みで、昨日行った飛行場跡に隣接していた関東軍の官舎のひとつが今も残っていることがわかり、みんなでそこへ行きました。
Tさんがかつて過ごした難民収容所は、この官舎ではなく、その隣にあった木造で窓もないふきっさらしの独身兵舎跡だったそうですが、当時の建物がそのまま残っているのを目の前にして、感動にふけるTさんの姿がありました。
この建物の前で、難民収容所での悲惨な生活や、長女を亡くした時のことなどを語っていただきました。
今日は、まず再び東京城へ。
権さんによる地元の方への聞き込みで、昨日行った飛行場跡に隣接していた関東軍の官舎のひとつが今も残っていることがわかり、みんなでそこへ行きました。
Tさんがかつて過ごした難民収容所は、この官舎ではなく、その隣にあった木造で窓もないふきっさらしの独身兵舎跡だったそうですが、当時の建物がそのまま残っているのを目の前にして、感動にふけるTさんの姿がありました。
この建物の前で、難民収容所での悲惨な生活や、長女を亡くした時のことなどを語っていただきました。
東京城にはむかし渤海王国という王国があり、城を取り囲む城壁があったといいます。Tさんは、収容所での生活を終えた後、その城壁の門をくぐって東京城の「城内」から「城外」へ出て、「パイミョウズ」という村へ歩いて行きました。
そのとき通った道、くぐった門の跡地を訪ね、パイミョウズでの暮らしや気持ちを振り返って語っていただきました。
おそめの昼食をとったあと、午後からは満州8大名所と言われた「鏡泊湖」へ行く予定でしたが、Tさんの話を聞いて、予定を変更し、敗戦後、引き揚げまでのTさんの一番辛い経験の出発点となった「ランコウ」へ行くことにしました。
そのとき通った道、くぐった門の跡地を訪ね、パイミョウズでの暮らしや気持ちを振り返って語っていただきました。
おそめの昼食をとったあと、午後からは満州8大名所と言われた「鏡泊湖」へ行く予定でしたが、Tさんの話を聞いて、予定を変更し、敗戦後、引き揚げまでのTさんの一番辛い経験の出発点となった「ランコウ」へ行くことにしました。
地元の方々に場所を聞きながら、ランコウの飛行場跡にたどりつきました。
ここも、延々と広がるジャガイモ畑になっていて、その一角には、当時の姿ほぼそのままの官舎の建物がいくつか残っていました。
その建物の前で、関東軍の陣地からソ連兵に追われて軍隊と一緒にここに来るまでの様子や、ここで武装解除され、夫はシベリアに抑留、家族は日本に返すと偽られて山中の自警村で馬小屋生活を余儀なくされた経緯などをつぶさに語っていただきました。
ここも、延々と広がるジャガイモ畑になっていて、その一角には、当時の姿ほぼそのままの官舎の建物がいくつか残っていました。
その建物の前で、関東軍の陣地からソ連兵に追われて軍隊と一緒にここに来るまでの様子や、ここで武装解除され、夫はシベリアに抑留、家族は日本に返すと偽られて山中の自警村で馬小屋生活を余儀なくされた経緯などをつぶさに語っていただきました。
2009/07/16のBlog
[ 23:50 ]
[ 遺言 ]
おなじみの専用車に乗り、牡丹江市jから南へ約1時間半。
敗戦後、Tさんがその日食べるものを確保するために売り子をしていたという東京城(トンキンジョウ)の駅前に来ました。
蒸気機関車が使う水が貯めてあったという貯水タンクが、今もそのまま残っていて、Tさんは見覚えのある光景に感無量。
駅舎の前で、当時の思い出を語ってくださいました。
敗戦後、Tさんがその日食べるものを確保するために売り子をしていたという東京城(トンキンジョウ)の駅前に来ました。
蒸気機関車が使う水が貯めてあったという貯水タンクが、今もそのまま残っていて、Tさんは見覚えのある光景に感無量。
駅舎の前で、当時の思い出を語ってくださいました。
そして、東京城の村の郊外にかつてあったという飛行場跡地へ。
権さんが地元の人に聞きまわってくださって、うろうろしながらも、当時飛行場があった場所と、それに隣接して、兵舎や官舎があった場所を突き止めました。
飛行場跡地は、見渡す限りの広い畑になっていました。
ここに、東京城の難民収容所で人知れず苦しみぬいて亡くなったたくさんの女性や子供のなきがらが埋められていた(今もそのままうまっているかもしれない)と言います。
ふたたびこの地に立ったTさんに、当時の様子をじっくり伺ったあと、みんなで線香を焚き、Tさん自ら般若心経を唱えて、亡くなった長女と、戦争の犠牲になってここに埋められた無数の魂を弔いました。
権さんが地元の人に聞きまわってくださって、うろうろしながらも、当時飛行場があった場所と、それに隣接して、兵舎や官舎があった場所を突き止めました。
飛行場跡地は、見渡す限りの広い畑になっていました。
ここに、東京城の難民収容所で人知れず苦しみぬいて亡くなったたくさんの女性や子供のなきがらが埋められていた(今もそのままうまっているかもしれない)と言います。
ふたたびこの地に立ったTさんに、当時の様子をじっくり伺ったあと、みんなで線香を焚き、Tさん自ら般若心経を唱えて、亡くなった長女と、戦争の犠牲になってここに埋められた無数の魂を弔いました。
2009/07/15のBlog
[ 23:16 ]
[ 遺言 ]
一夜明けて、来満2日目。
みんなで専用車に乗り込み、権さんの案内で、まずは、Tおばあちゃんが長女を出産した、牡丹江市郊外にある興隆という村の関東軍官舎跡を訪ねました。
官舎跡といっても、当時のものは何も残っておらず、小高い丘の中腹にマンションのような建物が建っているだけでした。
60数年前、その地で起きたことを、ひとつひとつ、思い出しながらとうとうと語り始めるおばあちゃん。そばでその話に耳を傾ける娘さんとお孫さん。
その様子に、長岡さんのカメラが肉薄していきます。
みんなで専用車に乗り込み、権さんの案内で、まずは、Tおばあちゃんが長女を出産した、牡丹江市郊外にある興隆という村の関東軍官舎跡を訪ねました。
官舎跡といっても、当時のものは何も残っておらず、小高い丘の中腹にマンションのような建物が建っているだけでした。
60数年前、その地で起きたことを、ひとつひとつ、思い出しながらとうとうと語り始めるおばあちゃん。そばでその話に耳を傾ける娘さんとお孫さん。
その様子に、長岡さんのカメラが肉薄していきます。
官舎跡から少し奥へ行ったところに、往時のままの建物が残っているということで、車に乗って行ってみました。
広い広い幹線道路とは裏腹に、一歩奥のほうへ踏み入れると、まだまだ未舗装の狭い悪路が網の目のようにあり、そこに、トーチカの煙突が印象的な、平屋でレンガ造りの古びた住宅が建ち並んでいます。
ゴミの収集は行われていないようで、所々に日常生活のゴミが山積みになっています。
そんな道を進んで行くと、一軒の長屋にたどり着きました。当時の日本人が建てた住居に、今でもそのまま地元の方が暮らしておられました。
この建物を背景に、興隆での暮らしなどについて、さらに詳しく話を聞きました。
広い広い幹線道路とは裏腹に、一歩奥のほうへ踏み入れると、まだまだ未舗装の狭い悪路が網の目のようにあり、そこに、トーチカの煙突が印象的な、平屋でレンガ造りの古びた住宅が建ち並んでいます。
ゴミの収集は行われていないようで、所々に日常生活のゴミが山積みになっています。
そんな道を進んで行くと、一軒の長屋にたどり着きました。当時の日本人が建てた住居に、今でもそのまま地元の方が暮らしておられました。
この建物を背景に、興隆での暮らしなどについて、さらに詳しく話を聞きました。
撮影をしていると、通りがかりの方や近所にお住まいの方がぞろぞろと集まってきて、都合、Tさんは大勢のギャラリーの前でしゃべる羽目に。しかし、そんなことには全くおかまいなく、淡々とカメラに向かって当時の思いをしゃべってくださるTおばあちゃん。
見学に来ていた地元の方が、撮影していた建物の内部をみせてあげよう、と言ってくださり、実際に暮らしておられる家の中を案内していただきました。
また、70代のおじいちゃんが出てきて、ここに日本人がいたときのことを覚えている、と、Tさんの手を握りながら熱心にしゃべってくださいました。
みなさん、本当に人懐っこくて親切なのが印象的でした。
見学に来ていた地元の方が、撮影していた建物の内部をみせてあげよう、と言ってくださり、実際に暮らしておられる家の中を案内していただきました。
また、70代のおじいちゃんが出てきて、ここに日本人がいたときのことを覚えている、と、Tさんの手を握りながら熱心にしゃべってくださいました。
みなさん、本当に人懐っこくて親切なのが印象的でした。
興隆での撮影後、車で牡丹江市内に引き返し、ラーメン屋で昼食をとってから、牡丹江市のシンボル的存在である「八女投江」の像がそびえる牡丹江川沿いの公園を散策。
みんなで記念撮影をしました。
さらに、Tさんが満州に来て最初に降り立ったという牡丹江駅の駅前に行って、当時の思い出を語っていただきました。
みんなで記念撮影をしました。
さらに、Tさんが満州に来て最初に降り立ったという牡丹江駅の駅前に行って、当時の思い出を語っていただきました。
2009/07/14のBlog
[ 23:52 ]
[ 遺言 ]
ひと昔前は自転車が中心だった中国も、いまやすっかり車社会。
日本と大きく違うのは、中国では、「歩行者優先」ではなく「自動車優先」である、ということ。そして、日本ほど細かい道路交通ルールが定まっていない(であろう)ということ。
たとえば、日本では交差点に右折進入してきた車は、横断歩道を渡っている歩行者がいれば停まって待ちますが、ここでは、車は待ってくれません。歩行者は、車をよけながら道路を渡らねばならず、なかなかスリリングです。
また、車同士でも、どちらかが優先で譲り合うということはなく、信号のない交差点ともなると、カーアクション映画さながらに、あちこちから次々に迫ってくる車を巧みなハンドルワークで交わしながら進みます。
高速道路の路肩を農耕車や馬車がのたのた走っていたり、対向車線を逆走して疾走してくる車さえありました。
クラクションも、市街地では朝から晩まで絶え間なくどこかから聞こえてきます。
日本人から見ると、一見、1分に1回ぐらい交通事故がおきても不思議ではないような、無法地帯のとんでもない道路事情なのですが、しかし、4日間あちこち長距離を走り回って、実際に事故らしい事故を見かけたのは1回だけ。
よくよく観察していると、なぜ事故が起きないか、少しわかってきました。
まず、クラクションの役割ですが、中国では、追い越そうとする相手の車、対向車、飛び出そうとしている自転車などに「自分の存在を知らせる」意味で、きわめて頻繁にクラクションを鳴らします。単に自分が車線変更するだけの場合でも、ウインカーの代わりにクラクションで周囲の車に存在を知らせます。
基本的には、遠慮してたらいつまでも先に進めないので、「我先に」という感じなのですが、かといって、相手を無視してわが道を行けば途端に事故にあって結局自分が損をすることがよくわかっているわけです。
だから、しっかりと自分の存在を相手に示し、自分がこれからどうしたいかを示し、絶妙なコミュニケーションを図りながら、高速道路にロバが歩いていようが、逆走してくる車がいようが、あらゆる事態を「想定内」のこととして念頭に入れた上で運転しておられるのです。
ガッチリと細かくルールを決め、ルールを守らない人を厳しく取り締まることで、安全を確保している日本の交通事情。しかし、その結果、ドライバーの「想定範囲」はきわめて狭くなり、対向車がこちらのレーンに飛び込んで来るような「想定外」の事態には、なかなか冷静に対応できない状況を作り出してしまっているのかもしれません。
一方、中国では、「なんでもあり」なことを念頭に置いた上で、常にクラクションで危険を未然に回避したり、突発的な事態にも冷静に対応できる心構えができているように見受けられました。
果たしてどちらがいいのか…。
(※上記は筆者の主観的な推論です)
ちなみに、余談ですが、中国の道路はほとんどがコンクリート舗装のようです。
日本と大きく違うのは、中国では、「歩行者優先」ではなく「自動車優先」である、ということ。そして、日本ほど細かい道路交通ルールが定まっていない(であろう)ということ。
たとえば、日本では交差点に右折進入してきた車は、横断歩道を渡っている歩行者がいれば停まって待ちますが、ここでは、車は待ってくれません。歩行者は、車をよけながら道路を渡らねばならず、なかなかスリリングです。
また、車同士でも、どちらかが優先で譲り合うということはなく、信号のない交差点ともなると、カーアクション映画さながらに、あちこちから次々に迫ってくる車を巧みなハンドルワークで交わしながら進みます。
高速道路の路肩を農耕車や馬車がのたのた走っていたり、対向車線を逆走して疾走してくる車さえありました。
クラクションも、市街地では朝から晩まで絶え間なくどこかから聞こえてきます。
日本人から見ると、一見、1分に1回ぐらい交通事故がおきても不思議ではないような、無法地帯のとんでもない道路事情なのですが、しかし、4日間あちこち長距離を走り回って、実際に事故らしい事故を見かけたのは1回だけ。
よくよく観察していると、なぜ事故が起きないか、少しわかってきました。
まず、クラクションの役割ですが、中国では、追い越そうとする相手の車、対向車、飛び出そうとしている自転車などに「自分の存在を知らせる」意味で、きわめて頻繁にクラクションを鳴らします。単に自分が車線変更するだけの場合でも、ウインカーの代わりにクラクションで周囲の車に存在を知らせます。
基本的には、遠慮してたらいつまでも先に進めないので、「我先に」という感じなのですが、かといって、相手を無視してわが道を行けば途端に事故にあって結局自分が損をすることがよくわかっているわけです。
だから、しっかりと自分の存在を相手に示し、自分がこれからどうしたいかを示し、絶妙なコミュニケーションを図りながら、高速道路にロバが歩いていようが、逆走してくる車がいようが、あらゆる事態を「想定内」のこととして念頭に入れた上で運転しておられるのです。
ガッチリと細かくルールを決め、ルールを守らない人を厳しく取り締まることで、安全を確保している日本の交通事情。しかし、その結果、ドライバーの「想定範囲」はきわめて狭くなり、対向車がこちらのレーンに飛び込んで来るような「想定外」の事態には、なかなか冷静に対応できない状況を作り出してしまっているのかもしれません。
一方、中国では、「なんでもあり」なことを念頭に置いた上で、常にクラクションで危険を未然に回避したり、突発的な事態にも冷静に対応できる心構えができているように見受けられました。
果たしてどちらがいいのか…。
(※上記は筆者の主観的な推論です)
ちなみに、余談ですが、中国の道路はほとんどがコンクリート舗装のようです。
[ 22:10 ]
[ 遺言 ]
中国南方航空、CZ696便。
週に二回だけ、関空と黒龍江省の省都ハルビンを結ぶ飛行機。
Tおばあちゃんの「YUI-GON」を成就するため、私たちはこの飛行機に乗って、おばあちゃんの記憶の中にある満州路を辿りに行ってきます!
この旅のメンバーは、今年90歳になるTおばあちゃんを筆頭に、娘さん、お孫さんの3人と、通訳兼撮影補助のKさん、撮影担当の長岡さん、撮影補助兼世話役全般の藤田の計6人。さらに、現地では、旅行会社のガイドさんと運転手さんが加わります。
この日はあいにくの曇り空で、飛行機の窓から見える景色は、ただただ白い雲の海が広がるばかり。着陸直前まで、中国大陸を展望することはできませんでした。
週に二回だけ、関空と黒龍江省の省都ハルビンを結ぶ飛行機。
Tおばあちゃんの「YUI-GON」を成就するため、私たちはこの飛行機に乗って、おばあちゃんの記憶の中にある満州路を辿りに行ってきます!
この旅のメンバーは、今年90歳になるTおばあちゃんを筆頭に、娘さん、お孫さんの3人と、通訳兼撮影補助のKさん、撮影担当の長岡さん、撮影補助兼世話役全般の藤田の計6人。さらに、現地では、旅行会社のガイドさんと運転手さんが加わります。
この日はあいにくの曇り空で、飛行機の窓から見える景色は、ただただ白い雲の海が広がるばかり。着陸直前まで、中国大陸を展望することはできませんでした。
中国でも新型インフルエンザの水際対策は厳しく行われていて、小型のレーザーガンのような検温器で搭乗時と到着時に、一人ずつ体温を計られました。37℃以上あると引き止められると聞いていたのでヒヤヒヤしましたが全員無事クリア。
タラップからハルビン国際空港に降り立ち、シャトルバスで空港建物内へ。いくつものゲートを通過。予定より30ほど遅れましたが、無事、玄関口で待つ現地ガイドさんに出会うことができました。
タラップからハルビン国際空港に降り立ち、シャトルバスで空港建物内へ。いくつものゲートを通過。予定より30ほど遅れましたが、無事、玄関口で待つ現地ガイドさんに出会うことができました。
今日出迎えてくださったのは、片言の日本語を話す、金さんという若い青年のガイドさんと、大柄だけど笑顔が何とも愛らしい、松平健にそっくりな運転手の辛さん。
11人乗りのボックスワゴンに乗って、空港からハルビン市街を通過し、高速道路に乗って牡丹江市へ向かいます。
11人乗りのボックスワゴンに乗って、空港からハルビン市街を通過し、高速道路に乗って牡丹江市へ向かいます。
ハルビン市街は、広い道路に車がごった返し、もはや自転車はあまり見られません。
幹線道路沿いも大きな企業や店舗が建ち並んでいました。
巨大なモニュメントを擁する広々とした公園もあります。
あちこちで工事が行われていて、活気が伺える一方、工事現場の後方にチラリと見える路地裏には、時代に取り残された感のある光景も垣間見えました。
ハルビン市街を抜けると、高速道路はガラガラになり、車窓いっぱいに果てしなく広がるコウリャン(トウモロコシ)畑を突っ切るように、やや路面の悪いコンクリート舗装の高速道路を、一路牡丹江市へ、スピードをあげてひた走ります。
幹線道路沿いも大きな企業や店舗が建ち並んでいました。
巨大なモニュメントを擁する広々とした公園もあります。
あちこちで工事が行われていて、活気が伺える一方、工事現場の後方にチラリと見える路地裏には、時代に取り残された感のある光景も垣間見えました。
ハルビン市街を抜けると、高速道路はガラガラになり、車窓いっぱいに果てしなく広がるコウリャン(トウモロコシ)畑を突っ切るように、やや路面の悪いコンクリート舗装の高速道路を、一路牡丹江市へ、スピードをあげてひた走ります。
そして、空港に着いてから約5時間後の午後9時すぎ、車はようやく牡丹江市内へ。電飾でライトアップされた北山公園のモニュメントの前を通り、満州時代に日本人が造ったという虹雲橋を渡って、60数年前、Tおばあちゃんが満州で初めて降り立った牡丹江駅のすぐそばにそびえる25階建ての牡丹江金鼎ホテルに到着。
ここで、今回の旅行の現地での段取りをすべて手配してくださった、日本語・韓国語・中国語を上手に使いこなす現地ガイドの権香玉さんが待ち受けてくださっていました。
権さんの案内で、ホテルのすぐ隣のおしゃれなバー&レストランへ。
みんな長旅の疲れはなく元気でしたが、遅い時間であまりおなかもすいていなかったので、みんなでおかゆと水餃子をいただきました。中国に着いて初めての食事でしたが、味もおいしいし、雰囲気も清潔で、まずはひと安心。
食後、ホテルに戻り、散会。各々、朝までゆっくり床につきました。
ここで、今回の旅行の現地での段取りをすべて手配してくださった、日本語・韓国語・中国語を上手に使いこなす現地ガイドの権香玉さんが待ち受けてくださっていました。
権さんの案内で、ホテルのすぐ隣のおしゃれなバー&レストランへ。
みんな長旅の疲れはなく元気でしたが、遅い時間であまりおなかもすいていなかったので、みんなでおかゆと水餃子をいただきました。中国に着いて初めての食事でしたが、味もおいしいし、雰囲気も清潔で、まずはひと安心。
食後、ホテルに戻り、散会。各々、朝までゆっくり床につきました。
[ 02:51 ]
[ 遺言 ]
満州引揚者であり、TおばあちゃんのYUI-GON。
戦後の満州で生き地獄のような悲惨な体験をし、栄養失調で娘を死なせてしまったTおばあちゃん。
もう一度、満州へ行って、亡くした娘を弔いたい。
そして、二度とあのような戦争がおきない、平和な世界への願いを伝えたい。
…そんな願いを成就するため、90歳になるTおばあちゃんと、帰国後に日本で生まれた娘さん、さらにはお孫さんも同行して、本日14日から一週間かけて中国へ行ってまいります!!
現地の旅行社とも連絡を取りながら、できるかぎり当時の情報をかき集め、おばあちゃんの記憶と照合して、約65年前の面影を探しながらの撮影旅行。
高齢のおばあちゃんの健康と安全を確保しつつ、おばあちゃんの平和への強い願いを全国・世界へ発信できる最高の映像を撮って帰れるよう、最善を尽くしてきます!!!
戦後の満州で生き地獄のような悲惨な体験をし、栄養失調で娘を死なせてしまったTおばあちゃん。
もう一度、満州へ行って、亡くした娘を弔いたい。
そして、二度とあのような戦争がおきない、平和な世界への願いを伝えたい。
…そんな願いを成就するため、90歳になるTおばあちゃんと、帰国後に日本で生まれた娘さん、さらにはお孫さんも同行して、本日14日から一週間かけて中国へ行ってまいります!!
現地の旅行社とも連絡を取りながら、できるかぎり当時の情報をかき集め、おばあちゃんの記憶と照合して、約65年前の面影を探しながらの撮影旅行。
高齢のおばあちゃんの健康と安全を確保しつつ、おばあちゃんの平和への強い願いを全国・世界へ発信できる最高の映像を撮って帰れるよう、最善を尽くしてきます!!!
2009/07/07のBlog
[ 22:45 ]
[ 遺言 ]
次回は7月28日(火)、その次は8月17日(月)の予定です。
2009/06/25のBlog
[ 22:59 ]
[ 遺言 ]
次回は7/4に集まる予定です。
[ 22:50 ]
[ ほんがら ]
東京・京都に続き、3会場めの快挙です!!
「ほんがら」を観ていただいて、投票していただいた皆さん、ありがとう!!
さらに、イメージフォーラムさん経由で、あの「ベ○○○映画祭」にも出品されることに!!
これはまた、地域にとってもすごい自信になりますよ。
…それにしても、副賞でいただいた同じデジカメ3個、どうしよう…
(SONY TZ7、ハイビジョン動画も撮れる光学12倍ズームの最新型コンパクトデジカメです!)
「ほんがら」を観ていただいて、投票していただいた皆さん、ありがとう!!
さらに、イメージフォーラムさん経由で、あの「ベ○○○映画祭」にも出品されることに!!
これはまた、地域にとってもすごい自信になりますよ。
…それにしても、副賞でいただいた同じデジカメ3個、どうしよう…
(SONY TZ7、ハイビジョン動画も撮れる光学12倍ズームの最新型コンパクトデジカメです!)
2009/06/22のBlog
[ 22:21 ]
[ 遺言 ]
本当は昨日(21日)に予定していた定例ミーティングですが、諸々の事情で本日にスライド。
午前中は、映像チェックと今後の打ち合わせ。
特に、7/14に出発が確定したTおばあちゃんとの中国旅行に関して、詰めの協議。
ポイントは、やはりいかに「家族」のご理解を得るか、という点です。
午後からは、26日に8人のおばあちゃんの「遺影」+「遺言」の撮影を敢行する予定の老人サロン会場で、カメラ位置やライティングなどの綿密なロケハンを実施しました。
さてさて、どうなりますことやら…。
午前中は、映像チェックと今後の打ち合わせ。
特に、7/14に出発が確定したTおばあちゃんとの中国旅行に関して、詰めの協議。
ポイントは、やはりいかに「家族」のご理解を得るか、という点です。
午後からは、26日に8人のおばあちゃんの「遺影」+「遺言」の撮影を敢行する予定の老人サロン会場で、カメラ位置やライティングなどの綿密なロケハンを実施しました。
さてさて、どうなりますことやら…。
2009/06/20のBlog
[ 23:59 ]
[ アサヒアートフェスティバル ]
20日夕刻。
いつものアサヒ・アート・スクエアで、ひょうKOMAとしては今年で3年目となるアサヒ・アート・フェスティバルの開幕を祝うオープニングパーティが催されました。
われらがひょうKOMAブースでは、例によって、近江八幡名物「赤こんにゃく」の振る舞いを看板に、液晶モニタ持込でイメージフォーラム観客賞受賞作品「ほんがら」を上映しつつ、「遺言プロジェクト」をおおいにPRしてきました。
今年は、なんだか例年になく大盛況。
ひっきりなしにお客さんが来て話を聞いてくださり、100切れ近く用意していた赤こんにゃくもすっかり売り切れました。約2時間、立ちっぱなし&しゃべりっぱなし。他のブースには結局ほとんど行けず…。さすがに疲れました(^^ゞ
やっぱり、オープニングは1人ではつらいなぁ。
もうちょっと予算があれば、もう一人来てもらえたのですが…。
でも、面白いめぐりあいもたくさんあって、充実したオープニングでした☆
アサヒビールさん、ありがとう!!!
いつものアサヒ・アート・スクエアで、ひょうKOMAとしては今年で3年目となるアサヒ・アート・フェスティバルの開幕を祝うオープニングパーティが催されました。
われらがひょうKOMAブースでは、例によって、近江八幡名物「赤こんにゃく」の振る舞いを看板に、液晶モニタ持込でイメージフォーラム観客賞受賞作品「ほんがら」を上映しつつ、「遺言プロジェクト」をおおいにPRしてきました。
今年は、なんだか例年になく大盛況。
ひっきりなしにお客さんが来て話を聞いてくださり、100切れ近く用意していた赤こんにゃくもすっかり売り切れました。約2時間、立ちっぱなし&しゃべりっぱなし。他のブースには結局ほとんど行けず…。さすがに疲れました(^^ゞ
やっぱり、オープニングは1人ではつらいなぁ。
もうちょっと予算があれば、もう一人来てもらえたのですが…。
でも、面白いめぐりあいもたくさんあって、充実したオープニングでした☆
アサヒビールさん、ありがとう!!!