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2017/06/20のBlog
「消えた植物を復活させる」-種子からよみがえる過去の植生-
東邦大学理学部 准教授 西廣淳氏

本日の講師は東邦大学理学部准教授 西廣淳氏です。
先生は、「本日は『種子(タネ)が面白いと思って頂ける方が一人でも増えれば』と思ってお話を致します」と前置きして、たくさんのプロジェクター資料を使って、以下のようなお話をしてくださいました。

1.種子とは
 子房が成熟したものが果実、胚珠が成熟したものが種子ですが、ここでは厳密に区別しないでまとめて「種子」と呼びます。種子は根が生えていない、動ける、乾燥に強い、いった特徴があります。種子は特定の刺激を受けるまで「休眠」しています。水分、酸素、温度、光、これらが揃うと目覚め、発芽します。

2.休眠中の種子はどこにあるのでしょうか
 それは土の中です。発芽の季節を過ぎても土壌中で維持される種子の集団を埋土種子集団(「土壌シードバンク」)と言います。地上にあるものよりもはるかに多くの種子があります。土壌にどんな種子が残っているかは、土を採取し、そこから発芽した実生(みしょう)が何かを特定します。

3.土壌シードバンクの活用
 土壌シードバンクを活用して消えた植物を再生させることが出来ます。これにより環境改善を行っています。静岡県の麻機遊水地では障がい者が中心になって自然再生に取り組んでいます。霞ヶ浦では湖岸の植生帯の再生事業を行いました。千葉県は印旛沼の水生植物の保全・再生に取り組んでいます。井の頭公園では2016年、池の土壌シードバンクの種子をもとに、1960年代に消失したフラスコモ(イノカシラフラスコモ)を見事に復活させました。

4.土壌シードバンクはいつまで残っているのか
 種子にも寿命があり、永遠に発芽するものではありません。地上から消失した時間とともに再生できなくなります。霞ヶ浦や印旛沼での調査では消失から50年経過すると再生するのが困難になります。従っていつまでもシードバンクに頼るわけにはいかないのです。

5.土壌シードバンクの保全
 我が国の戦後、特に高度成長期の自然環境変化を考えますと、2010~2020年あたりが種子再生の山場かと思います。保全のためには、土壌シードバンクの調査、埋土種子から再生した植物の系統維持が必要です。小規模・短期間でも発芽させ、新たな種子を形成させ、発芽した個体の系統を維持するサイクルを廻すのです。
 
以上のようなお話の後、先生は「種子には動けない植物が、『場所と時間を選んで生きる知恵』がつまっています。『種子あるうちに再生への道を』と願ってやみません」と締めくくられました。

いつもは単なるタネとしか考えていませんでしたが、土壌の中にある種子が地上から消失した植物を再生させるということをよく分らせていただいた、本当に面白く、ためになるお話でした。 (佐藤 明)

アンケート結果からいくつかご紹介します。
*「土壌シードバンク」という言葉を初めて聞いたのですが、説明や実験内容を通して理解することが出来ました。とても分かりやすかったです。例に出た霞ヶ浦や印旛沼以外にもシードバンクはあると思うのですが、一つでも多く再生して欲しいなと思いました。
*未知の世界「種子」の智慧が分かりやすく、良かったです。種の生命があるうちになんとか、生命を守っていきたいと思った。「土壌シードバンク」の保全になにか役立つことがあれば、協力したいと考えました。手賀沼の自然を守っていけたらいいなとおもいます、楽しい講義でした。
2017/06/16のBlog
シリーズ“こだわって生きる我孫子の人”⑮
美しきアンデスの山(3)蒼き氷河と風の大地 パタゴニア
白樺同人(薪割り集団) 高橋 重氏


我孫子在住の岳人 高橋 重氏は高校時代から山・岩・沢・雪・スキーに傾注すると同時に、植物観察をも楽しまれています。昨年4月にはペルー山域の登山とトレッキング、11月には再び6000m級のボリビアとペルーの山旅のお話を頂きました。そして今回はことし実際に歩かれた、アルゼンチンとチリに跨るパタゴニアのトレッキングについて、豊富な旅の写真と共に以下のように解説頂きました。

*アルゼンチンとチリに跨るパタゴニアの面積は、日本の約3倍。アルゼンチン側は乾燥する不毛の大地。チリ側は強風が吹き、天候が不安定な土地。山脈に降る多量の雪は地球上で3番目の大きな氷原を造り、氷河が削り出した独特な形の岩峰が連なる。パタゴニアの南端にはマゼラン海峡を越え、かつて5万キロを旅して辿り着いたモンゴロイドの先住民族の暮らしを今に伝える博物館がある。

*1519年香料の探索を目的にわずか85トンの船でスペインを出たマゼランが見た南米大陸の先住民は、身の丈が倍もある大きな足を持つ人々であった。パタゴニアという地名は、このマゼランがみた「大きな足人」に由来する。

*最初のトレックは長さ30km 巾5km 水面からの高さが70mのペリト・モレノ氷河。世界三大氷原の一部であり、今でも1日に2mの速さで流れている。アルゼンチン生まれの探検家に因んで、命名された。

*ダーウィン航海時のビーグル号の船長に由来して名付けられたのが、フイッツ・ロイ山群。針状の岩峰が続く様は、アウトドアウェアーの某社ブランドのロゴとしても有名である。

*さらにパイネ山群をトレックして辿りついたのが、南端の街ウシュアイア。アルゼンチンの最南端で南極に一番近いことから、世界の果て:ウシュアイアと称されている。
「世界の果て博物館」には、パタゴニア先住民の生活・文化に関する資料が数多く展示されている。

以上のようなお話の後、講師は「20万年前にアフリカ大陸で生まれたホモ・サピエンスがヨーロッパやコーカサスに移動し、アジアからアメリカ大陸を北から南へ1000年~2000年かけて50,000kmもの距離を移動して南米最南端に辿りつきました。その移動の歴史と事実がこの町の博物館で展示されていることに、感動を覚えました。人類が辿った遥かな道と、その道程に思いを馳せる旅となりました」と結ばれて、興味深い秘境旅の解説を終えられました。

頂いたアンケートの一部をご紹介します。
*あこがれのアンデスは山の姿も草木や氷河などが美しいですね、男性としての活動が羨ましいです。ときどき、冒険の報告をお願いします。
*あこがれのパタゴニアです、本当にうれしいです。蒼い氷河はもちろん、時空を超えたパタゴニアのお話をありがとうございました。
*地形、植生、そこに住む人々の生活、気象…興味深かったです。気持ちよく拝聴できました。
*大変映像が美しく、語り口が穏やかで聞きやすく、筋立ても分かりやすく、とても心楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
2017/06/15のBlog
市民カレッジ「我孫子を知る」コース第3回「平安・鎌倉時代から戦国の世まで」

 市民カレッジ「我孫子を知る」コースの3回目の学習が、掲題のタイトルにて行われました。本日の講師は、‘我孫子の文化を守る会’の会長として活動された三谷和夫氏。三谷氏はこの期間の我孫子の歴史を以下の四つの動きに括って説明されました。

①平将門の乱
平将門は皇統を誇る平安中期の武者。下総北部と常陸南部とを地盤としていたが、同族間の抗争に巻き込まれる。天慶2年(939年)兵を挙げ、関東の自主独立を標榜するも、その3ヵ月後の翌年2月、下総国猿島郡にて討たれる。これを将門の乱という。将門の活躍した期間はごく短かったが、その人望と志ある行動は広く民衆に崇敬の念を遺す。
当我孫子市には、将門を祀る神社や将門に因むしきたりが数多く残る。前者には将門神社、日秀(ひびり)観音、柴崎天満宮などが、また後者には‘成田山には参詣しない’、‘きゅうりは輪切りにしない’、‘沼南岩井と高野山とは通婚せず’などがある。

②源頼朝と和田義盛
源頼朝は1180年に挙兵し、1192年には幕府を開く。布佐の豪族の和田義盛は、その時期より重臣として尽くす。頼朝は挙兵の途次、義盛らの建言により、当地の将門神社に詣でて戦勝を祈願。布佐に残る‘頼朝の松’はこの参詣に由来する。
頼朝が没すると北条氏が台頭、幕府創生期の重臣は排除される展開に。義盛は1213年、反旗を翻すも敗退。一族は布佐の竜崖山にて、三男義秀を除きすべて討ち死にする。
頼朝の在世時、義盛は木曽義仲の愛妾巴御前を貰い受ける。懐妊していた義仲の子(義秀)を救うためだ。義秀はその後も生き延び、また巴は近隣の小林にて余生を過す。

③千葉氏、相馬氏と相馬御厨
12世紀、下総一帯には千葉氏一族が勢力を張る。だが荘園制の下、武士の立場は弱い。
千葉常胤は一計を策し、相馬郡一帯を伊勢神宮に寄進。この地を相馬御厨と変貌させた。
 1180年、義経が奥州討伐に向かうや、常胤はこれに参陣、奥州にも所領を得る。千葉氏はその後、相馬氏を名乗る。14世紀の半ばに南北朝の対立が起き、下総相馬氏は南朝に、奥州相馬氏は北朝につく。南朝の敗北は、本家分家に対照的な明暗をもたらす。
 奥州相馬氏の居城は福島県の相馬市。三谷氏によれば、相馬市民は本家筋の北総地方には格別の思いを抱き、この点は‘相馬二遍返し’などの歌詞によく表れているという。

④戦国時代と北条氏の盛衰
 1467年、100年に及ぶ応仁の乱が始まる。明応2年(1493年)、北条早雲が伊豆を制圧。これを機に北条氏が急台頭し、その版図は16世紀の半ばには関東全域に広がる。実際、3
代氏康は1540年に、市内柴崎に東源寺を建立。下総地区では、北条氏の安堵の下、高城氏が興隆した。当市内においても、根戸、柴崎、中峠、布佐などにその城郭跡がある。
 この北条氏の勢いは、16世紀末の接近とともに弱くなり、その権勢は1590年の秀吉への降伏で消滅する。この動きと並行して、関東の諸城主も一挙にその領地を失った。
 「平将門から戦国時代までの600年間をお話します」と始められた三谷講師は80歳を超えるご高齢にもかかわらず、過去40年間のたゆみなき調査、研究の成果を、ユーモァ豊かに滔々と語られました。
以下にアンケートの一部をご紹介します。 (佐藤 明)

・我孫子と平将門の関係がよくわかり、楽しくお話を聞かせて頂きました。
・とても興味深く聞きました。説明のあった場所に行ってみたいと思います。
・旧東海道が我孫子を貫いていたことなど、将門伝説に起因しての貴重な歴史観に興味津々。これを機会に更に学んでいきたい。
2017/06/13のBlog
西洋史再訪⑨「ローマの平和」の光と影
首都大学東京准教授 高橋亮介氏

地中海全域をおさめたローマ帝国は、前1世紀末から後2世紀の半ばまで、外敵との大きな戦闘も帝国を揺るがすような内乱・反乱も経験しない「ローマの平和」の時期を過ごしました。

高橋講師は「ローマは一日にしてならず、ということわざがありますね。また支配者と被支配者の物語であるベン・ハーという映画の記憶もおありのことと思います。
きょうは、『ローマの平和』とうたわれている古代ローマの最盛期について考えてみましょう」と前置きされて、次のように解説して下さいました。

*ローマ建国当初の共和制の時代は、ローマ帝国の領土拡大に伴う混乱、内乱の時代。共和政の任期は一年で、選挙に勝つための激しい権力闘争が続いたが、オクタウイヌアスの勝利により内乱は終結し、元首政が成立、2世紀にわたる「ローマの平和」の時代となった。

*この「ローマの平和」の時代は、元首は『権力を持っているのは、嫌々なんです。でもそれがみなさんの平和につながっているんですよ』とでもいうべき姿勢だったが、その背後には、『ローマの下についていれば安全と平和は保証されますよ』という旗印と実績があった。

*18世紀の歴史家エドワード・ギボンはその著「ローマ帝国衰亡史」の中で、この時代のうちの約1世紀を「世界史で人類がもっとも幸福で繁栄した時期」と評している。戦争が無くなり、地方都市は、軒並みローマに似せて作られていく。そして大きなひとつの文化圏を形成していった。

*その平和は手放しで肯定的に評価されるべきなのか?帝国の中枢にいたタキトゥスは創作「アグリコラ」のなかで、『支配者は破壊や殺戮など負の側面を支配と呼び、創りあげた世界を平和と呼んでいるが、ひとつの文化や価値観に覆い尽くされることが、果たして良いことなのか。ローマの価値観がそのまま、世界の価値観で良いのか?』と疑問を呈している。

講師は「タキトゥスのような疑問が、どの程度広がっていたかは不明です。しかしこのような価値観を持つことは、今の世を考えなおすときにも必要なことでしょう」と話されて、解説を終えられました。

ご参加下さったみなさんからの、ご感想の一部をご紹介します。
*有名な「ローマの平和」については日本の「徳川の平和」を勉強したおり、比較的に話されて少しは認識しておりましたが、今回極めて丁寧に説明して下さり、徳川とは全く異なる治世を理解させて頂きました。ありがとうございます。
*ローマの平和は領土拡大による政治だったことが良くわかった、特に文化的支配は皇帝の智慧が元老院の智慧から絞り出てきたもの。
*地方都市のローマ化⇒ローマ支配の確立の話が面白かった。「ローマ人の物語」ではこのプロセスを大きく評価しているように見えるが、最終的にはもともとの文化を捨てて奴隷化になってしまったという話が理解出来たし、実際にそうだったのかと思った。

2017/06/09のBlog
新シリーズ唐詩鑑賞①王維「竹里館」「送元二使安西」
二松學舍大学名誉教授 大地武雄氏

きょうは二松學舍大学の名誉教授で、全国漢文教育学会や全日本漢詩連盟の要職に就いておられる大地武雄氏にお話し頂きました。「ふれあい塾あびこ」初めての漢詩講座でした。

大地講師は「漢詩は紀元前200年ころから漢文で書かれた詩のことで、五音絶句や七音絶句などのルールがあります。7世紀から8世紀にかけて作られた唐詩は中国文化の華といわれ、数多くの詩人によって5万首ほど作られています。季節の移ろい、出会いの喜び、別れの悲しさ、旅の苦しさ、宴の楽しさ、人の世の儚さなどが詠まれ、多くの人たちの魂を揺さぶりました。」と話されて、次のように解説下さいました。

*杜甫・李白と並ぶ王維は地方の出身であるが都に出て、優秀な人材を発掘する「科挙」の試験を受けて見事合格。特に漢詩に豊かな才能を持つ有能な役人、として認められて順調に出世をする。ほかに書、画、音楽にも優れ、南画の祖とも言われた。

*「竹里館」は、「(わたしは)ただひとり、この奥深く静かな竹の林に座って、琴をひき、また詩を口ずさむ。この奥深い竹(の趣の深さ)は、世の人々の知ることではなく、ただ明月だけが訪れてきて、わたしを照らしてくれる」と、人情のない世界を詩っている。

*漱石は「草枕」の冒頭で、「この詩には、智・情・意の人情の世界でない、俗から解脱した非人情の世界が存在する」と王維の「竹里館」の境地を取り上げている。

*「送元二使安西」は、西安から天山南路の庫車までの使者を送る詩である。沙漠を行く使者の旅は過酷で、復路の生還も保証されない旅。その旅立ちの朝の詩で、惜別の思いに溢れている。サラリと読み流すにはあまりにも勿体ない名詩である。

「王維の詩、特に『送元二使安西』は、日本人の琴線に触れる感動深い詩です。いまや漢詩は若い人にとってはますますなじみの薄いものになっていますが、シニアの方にはもっともっと馴染んで頂いて、漢詩のすそ野をもっと広げて頂きたいと願っています。これからの講座でも1300年前の人々の喜怒哀楽が、今のひとの心にも共感できることを訴えています」と話されて、きょうの解説を終えられました。

参加頂いたみなさんの、ご感想の一部をご紹介します。
*竹里館、送元二使安西いづれも良く詩意の解説を頂きました。ぜひ漢詩鑑賞のシリーズ化をお願いします。
*情景が目に浮かびました、奥に竹林、明るい月、青々とした柳、雨にしっとりとした空気感など。順次いろいろと、ご講義頂ければ嬉しいです。
*長安も陽関も行ったことがありますので、詩のご説明で当時のことを思い出しました。なるほどと、理解が深まりました。あの砂漠の中を行くことは大変だったでしょう、ありがとうございました。
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