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2017/10/13のBlog
新内多賀太夫襲名記念 日本の古典芸能新内節の古典「蘭蝶」
志賀直哉の名作「和解」の創作曲
新内節冨士元派七代目家元 新内多賀太夫

ふれあい塾あびこで過去4回、新内節の魅力を紹介してくださった新内剛士氏が、この度「新内節冨士元派七代目家元新内多賀太夫」を襲名されました。そこで新内多賀太夫襲名記念として、改めてご出演をお願い致しました。

新内多賀太夫は冒頭に日本の古典芸能である新内節について
「約260年前に京都で派生した、一中節が始まりです。一時は幕府によって禁止された音曲ですが、常磐津・清元と並んで新内節が江戸に残ります。常磐津と清元が歌舞伎と共に歩んだのに対して新内節は、対象を町の人々としました。手ぬぐいを被り、縞模様の着流しで三味線と共に町を流す『新内流し』は大変な人気でした。新内節の特徴は歌と語りで綴る心中物が得意で、蘭蝶・明烏・伊太八が代表作です」
と解説された後、以下の三曲をご披露下さいました。

*「蘭蝶」
新内三大名曲のひとつ、90分の語りの中から「四ツ谷」のさわりの段。
浮世声色身振師の蘭蝶が廓の女と馴染を重ねる。女房お宮が蘭蝶と別れるよう、女のいる遊郭を訪ねる。遊女は別れようとするが、心中の道に進む蘭蝶。二人が初めて出会ったのが、四谷。

*「和解」志賀直哉原作 新内多賀太夫作曲
2011年4月のふれあい塾あびこのレクチャーコンサートの為に、新内多賀太夫が創作された曲。大正6年に志賀直哉が我孫子で書いた「和解」の名場面を抜粋し、創曲した弾き語り。我孫子と麻布の居宅を舞台に、父と息子の相剋から和解のシーンを描いた感動的な場面。

*「沼のほとり」中勘助原作 新内多賀太夫作曲
これもふれあい塾あびこのレクチャーコンサートの為に、新内多賀太夫が創りあげた作品。我孫子の志賀直哉邸の傍に住んで中勘助が書き上げた「沼のほとり」は、手賀沼の日常生活を描写している。中勘助が生まれ育った神田と我孫子を結んで、神田から見た手賀沼をイメージして作曲したと新内多賀太夫が話された。

以下、かたりものである新内節、その自由で情感あふれる場面を朗々と語って下さった新内多賀太夫コンサートに寄せられた感想の一部をご紹介します。

*大変素晴らしいコンサートでした、次回も期待しています、ぜひお願い致します。特に古典は調子よくて、目をつぶって聞きました。三味線の音色と共に、聞き惚れて居りました。講師は良い声で、聞き取りやすかったです。耳にここち良い声です!アナウンサーよりもずーーと美声。
*初めて新内節を聞かせていただきました、三味線の音色と共にたいへん粋な世界に浸れました。いろっぽい蘭蝶も良かったですが、和解がとても印象に残りました。また次回も楽しみにしております。
*新内節を初めてお聴きしました、古典のものはところどころ言葉の聞き取れないところがありましたが、三味線の音とうたいの声がとても澄んでいて素敵でした。和解と新内節という組み合わせにとてもびっくりしました、志賀直哉は理知の極み、三味は情けの極み、斬新な試みだと思いました。たいへんすばらしいものを聴かせていただき、ありがとうございました。
2017/10/11のBlog
10/11市民カレッジ・「我孫子を知る」コース第8回・「市内史跡めぐり②布佐地区」

 当市民カレッジでは、全12回の講座のうちの2回を市内の史跡巡りに充てています。本日は、‘我孫子の文化を守る会’の副会長である越岡禮子氏のご案内によって、布佐地区の史跡巡りをいたしました。布佐駅を起点として、以下の諸史跡を約3時間にて訪ね回りました。

①竹内神社・高台に建つ布佐の鎮守、境内には日露戦争にかかわる貴重な記念碑が建つ。
②勝蔵院・当市で唯一の天台宗寺院、広壮な墓域を持ち、柳田國男とその恋人の墓もある。
③延命院・真言宗の寺院、勝蔵院と同じく16世紀末の建立、岡田武松の墓がある。
④旧松岡邸、旧凌雲堂医院・柳田國男は当家出身、長兄の鼎が昭和初期まで医院を営む。
⑤布佐河岸跡・利根川東遷によって、当地は銚子発鮮魚輸送の重要中継地点となった。
⑥「ふさの風」<岡田武松邸跡>・現在は近隣センター、岡田氏ゆかりの品々の展示も。
⑦榎本家邸宅・当家は布佐御三家のひとつ、雅趣豊かな建屋と庭園が今もなお健在。
⑧布佐観音堂・問屋や馬主たちが斃れた荷役馬の霊を慰めるために建立したもの。
⑨鮮魚(なま)街道・陸揚げされた鮮魚は、馬の背に乗せられ、この道を通って松戸へ。

講師の越岡氏は、一連のご説明の中において、この布佐地区には二つの大きな特色があると力説されました。
 ひとつは当地が、17世紀の後期において銚子発鮮魚輸送の重要なる中継揚陸地点になったことによって、一躍我孫子地区をはるかに凌ぐ活気に溢れた地域に大変身し、かつこうした状況が明治中期に至るまで続いたこと。毎年秋に催される竹内神社の祭礼の華やかさは、その繁栄ぶりを今によく伝えるものである。
 いまひとつは、当地が文化の香りに満ち満ちていること。我孫子市には文化勲章の授章者が7人も在住したが、その中で地元の人々への影響という点において、当地出身の岡田武松(気象学者)と柳田國男(民俗学の創始者)はまさに双璧という存在。またこの両者が、この地において全く同じ時期にしかも隣接する居宅において成人している点にも注目したい。

 以下に、アンケートの一部をご紹介します。 (佐藤明)
 ・布佐にもいろいろ見るところがあったことは新たな発見でした。
 ・我孫子市にゆかりのある著名人について認識を新たにすることが出来ました。
 ・延命時の堂内、榎本家の庭園に入れたのは貴重な体験でした。
2017/10/06のBlog
唐詩鑑賞② 李白「早発白帝城」「春夜洛城聞笛」「贈汪倫」
二松學舍大学名誉教授 大地武雄氏

中国文学を代表する唐詩は、中国文学の華といわれ、数多くの詩人によって5万首ほど作られています。季節の変化や出会いの喜び、友との別れ、旅の苦しさ、酒宴の楽しさ、人生のはかなさなど、当時の人々の喜怒哀楽が、見事に詠じられています。
二松學舍大学名誉教授 大地武雄氏による唐詩鑑賞の2回目の作者は李白で、以下のように解説頂きました。

*唐詩を鑑賞する場合に大事なことは、①作者がどういう生活を送っていたのか②作者の生涯の中でどの時点で作られた詩なのか③当時の時代背景はどうであったか―の3点で、これを前もって理解しておくことが望ましい。

*李白は長編の古詩や絶句に秀で、豪放磊落の詩人であった。62年の生涯を放浪の旅で過ごし、『詩仙』と称された。その生涯の青・壮・老年期を代表する3首を紹介する。

「早発白帝城」つとに白帝城を発す:青年期
朝焼け雲に染まる白帝城に、朝早く別れを告げてから千里も離れた江陵まで、一日で着いた。川の両岸からは猿の鳴き声が絶えず聞こえ、その鳴き声がやまない中を船は、幾重もの山々の間を過ぎていく。

「春夜洛城聞笛」春夜洛城に笛を聞く:壮年期
どこの家の、誰が吹いているのかは分からないが、どこからともなく笛の音が、洛陽の
町の隅々にまで満ち渡る。別離を歌う『折楊柳』を聞いて、故郷を思い出さない人はいない。

「贈汪倫」汪倫に贈る:老年期
私は、いま船にのって出発しようとしている。すると岸辺から、汪倫や村人が足踏みをしながら見送ってくれる歌声が聞こえてきた。桃花潭の水の深さは千尺というが 、汪倫が私を見送ってくれる情の深さには及ばない。

大地講師は李白を「どこのとか、だれだれがとか、敢えて特定しない作風が逆に無限の深さや奥行の拡がりを読者に伝えてくれます。また比較級や数量表現を巧みに使い、赴いた先々での人々との交流を大事にした詩人でもありました」と結ばれて解説を終えられました。

<比喩を交えながら、分かりやすく説明いただきました。>
<漢詩を学ぶのは高校時代以来で、たいへん新鮮に感じました。先生のご説明がわかりやすく、思わず引き込まれました。>
<大学での講義より楽しく、わかりやすくなおかつ深かった。>
などのご感想を頂きました。
2017/10/02のBlog
10/2 もう一つの古典文学(2)伊勢物語(1)
國學院大學講師・文学博士 堤康夫氏

私たちが知っている「伊勢物語」では、在原業平を彷彿させる主人公の男性が、東国の各地を遍歴します。しかし中世では主人公がいわゆる“東下りをしない”「伊勢物語」が存在しました。東国へ下らなければ、男はどこで、何をしていたのでしょう。きょうは人気の堤康夫氏が、このなぞと周辺の事情を解説してくださいました。

*『伊勢物語』は平安前期、十世紀前後の筆者不詳の歌物語で125段からなっています。主人公は六歌仙のひとり、在原業平を思わせる男性です。因みに六歌仙は、美女と美男+二人の僧侶+善玉と悪玉で構成されます。この男性主人公の東下りを否定する書物が、宮内庁書陵部にある『冷泉家流伊勢物語抄』です。

*東下りが始まる第七段で主人公は、京に居られなくなって関東に向かう途中、寄せる浪を羨み、帰るべきところの無い身を嘆きます。→この場面について冷泉家流は、伊勢は陰と陽のことであり、尾張は男女の関係の終わりを表しているとします。海を行くは恨みのこと、帰る浪は泣きの涙のこととしています。

*第八段は東国に向かった主人公が浅間山の噴煙を見て、みんなこの煙を気にしているだろうなと歌います。→冷泉家流では、東の方にいく、とは京都の東山の事としています。信濃の国とは、身分を落とされた業平の苦のこと。浅間の嶽とは、わが身を浅ましく思うこととしています。

*第九段で男は三河の国 八橋に着きます。そして沢のほとりで乾飯を食べ、カキツバタを愛でて歌を詠みます。→冷泉家流では、三河の国とは恋する三人の妃のことであり、八橋とは思いわびる八人の女性の事と記しています。そして下馬した沢は、京の忠仁公の大層なお屋敷の事であるとしています。

更に進んで駿河の国の宇津の山に至ります。暗い山道を心細く分け入ると、京で知っていた修行の僧に出合います。そこで京の女性宛の文を、この僧に託します。→冷泉家流では、駿河の国とは長官の駿河の守の家の事であり、宇津の山は会うことのできない空しい恋の事であるとしています。富士の山とは天皇の高い位を例えており、37才で出家した清和天皇の位の高さを表したものだそうです。

*さらに進んで武蔵の国と下総の国の境を流れる、隅田川に至ります。京からは随分遠い所へ来てしまった、嘴と脚が赤い水鳥の名を船頭に尋ねると都鳥だと答えます。→冷泉家流では、隅田川とは吹田河のことであり、吹田河の北に武蔵の守の御屋敷、吹田河の南に下総の守の御屋敷があったと記しています。嘴と脚が赤い都鳥は、陽成院天皇のことを表しているとしています。

以上のようなご説明の後、講師は「冷泉家の注釈がねつ造とダジャレで、主人公が関東には行っていないことに拘ったのはなぜでしょうか?京都と鎌倉、貴族と幕府、公卿と武家の長く続く生存競争。京都生まれで京都暮しの冷泉家が生き残るために、わざと関東の地名を散りばめた京都への執着心の表れだと考えています。」と話されて、きょうの解説を終えられました。
2017/09/28のBlog
9/27 市民カレッジ.「我孫子を知る」コース第7回「明治以降の我孫子」

 本日は市民カレッジ「我孫子を知る」コースの7回目で、講座のテーマは「明治以降の我孫子」です。講師には我孫子市教育委員会で歴史文化財を担当されている小林康達氏をお迎えしました。氏はこのテーマを三つの動きに括って以下のように話されました。

①“我孫子市域町村の変遷”
 当我孫子市域は明治維新以降、総体的には順調に発展してきたが、地域別には著しい明暗が発生している、我孫子地区の飛躍的な発展と布佐地区の長期的停滞である。因みに明治22年と昭和30年の人口とを比較すると、我孫子地区が34百人から128百人へと大幅に増加しているのに対して、布佐地区は32百人から41百人への微増に止まっている。
 こうした格差を招来した最大の要因は、明治29年の常磐線(当時は日本鉄道)の開通だった。事実、当線の開通は、我孫子地区を東京近郊有数の別荘地に大変身させた一方で、利根川の舟運を一挙に衰退させたことで布佐地区の展開力を弱めてしまった。

②“別荘の人々と景観保護運動”
 手賀沼は景観に恵まれた、東京から最も近い湖沼。その存在は、常磐線の開通によって、一躍脚光を浴びることとなり、やがて沼に臨む高台一帯に別荘の建築が始まった。
 この動きと並行する形で、一般住宅としての評価もにわかに高まる。大正5年のサーベイでは、当我孫子町は、東京都府中市、千葉県市川市についでの第3位という高人気。
 大正期に入ると別荘建設はより活発化し、この動きは昭和10年代まで続く。別荘を建てたのは、財界人、政治家、学識者、文人など多岐にわたるが、大正中期までは、いわゆる白樺派文人たちの存在感が際立つ。

 この別荘ブームは昭和初期にかけて、思わぬ逆風に遭遇する。米不足を解消すべく全国的に干拓計画が打ち出され、手賀沼畔も有力候補となったことだ。この動きに当地では景観保護の見地から猛反対の声が挙がる。当活動は功を奏し、干拓計画は棚上げとなった。
 この運動の中核となったのが杉村楚人冠。彼は朝日新聞に入社するや国際記者として縦横に活躍、若くして同紙の大立者に。また地元の人々との交流にも終生大いに尽力した。

③“戦後の我孫子の変貌”
 昭和20年の敗戦後暫くして、手賀沼畔湖北以東地区の干拓という、新たな農地造成計側か策定され、これは計画通りに完成した。これによって、手賀沼の面積はほぼ半分へと大幅に縮小する。
 この一方、昭和30年代の後半には、若松地区にディズニーランド的な施設を建設する計画が持ち上がり、埋め立て工事が始まる。しかし、この計画はあえなく頓挫し、造成された土地はその後、宅地に転用された。

小林講師は、多様なプロジェクター映像を活用しつつ、詳細な解説を展開されました。広範囲にわたり多くのエピソードを紹介されましたが、それもまた歴史を知る楽しみです。

以下に、アンケートの一部をご紹介します。 (佐藤 明)
 ・我孫子の成り立ちに関係した人物の様子が詳しく聞けてよかったです。
 ・初めて聞くことが多くて大変興味を受けました。
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