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ふれあい塾あびこレポ-ト
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2011/02/08のBlog
[ 08:29 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
本日の講師は大学評価・学位授与機構教授 中央教育審議会委員 理学博士の荻上紘一氏。日本だけでなく、米国の大学でも授業され、このところ大学評価などの業務を通じて内外の大学の現状をよくご存じの講師は、日本の大学の現状について以下のように説明してくださいました。

1.数字で見る大学の現状。
 ①先ず数字で日本の現状を見てみると(数字は2010年)
大学は778校あり、10年前に比べると129校増加している。また、学生数は約2,88万人で、そのうち女子学生の比率は41.4%である。
 次に18歳人口と進学率をみてみると、18歳人口122万人に対し、短大を含めた進学率は56.8%となっており、二人に一人は大学に進学している。
 ②国際比較してみると(数字は2008年)
 日本の大学進学率は48%、一方OECD平均は56%で進学率は高いとは言えない。
 更に、大学入学者のうち25歳以上の割合は、OECD平均21%に対し、日本は2%と、極端に低い。また、世界の留学生は330万人で、日本への留学生は12万人強と全体の3.8%でしかない。
 
2.内容で見る大学の現状。
①大学とは、自主的・自律的な運営のもとに、高度な研究とそれに基づく高度な教育を行い、学位を授受する権限を持つ機関である。
②大学を卒業すると学位が与えられる。学士・修士・博士がそれである。
 一昔前には世間に向かって堂々と「学士」の品質保証期間をPRしていたが、昨今出荷時点での品質が疑われる「学士」が出回っている。
③これまでの我が国の大学教育は「履修主義」であり、「修得主義」ではなかった。その結果、高学歴低学力の人材を生み出してきた。4年以上在学し、124単位履修すると自動的に学士が授与される。
3.大学教育の質的向上のために。
 ①大学の「質」は公的な仕組みと、各大学の自主的な仕組みにより保証されるが、なんと言っても大学自身の自己評価力が不可欠である。そのためには、「学士」に要求される最低限の能力、どのような知識や技能が身につき、何が出来るか、という「学士力」を明確にする必要がある。
 ②教育成果の評価、財政的な支援、単位の実質化、学習時間や学習期間の充実、厳格な成績評価、奨学金等学生支援の充実、教育情報の公表など取り組むべき課題は多い。幸い、ここ数年、日本でも学生には厳しいが、個性ある「学士力」を提供する大学が増えてきており、そうした大学の就職率は90%強と非常に高い。大学は学生を社会的・職業的に自立できる能力を身につけて世の中に送り出さなければならない。
 ③日本の大学は18歳で入学し、22~23歳で卒業する学生が圧倒的に多い。これからはユニバーサル・アクセス、つまり大学で学びたい者が誰でも何時でも学べる機会を提供するようにすべきである。「社会人学生」という言葉は使うべきではないと思う。

本日は、あまり一般性のあるテーマではありませんでしたが、的確な資料をそろえた「あるべき大学」に向けての講師の熱弁に、会場に来られた方々はお話に引き込まれ、時間ぎりぎりまで、質問されていました。
本日の感想をいくつかご紹介します。(佐藤)

・「高学歴低学力」で卒業した49年前の我が身には大変耳が痛かったが、昨今の大学の現状が良く理解できました。ありがとうございました。
・大学の現状ははじめてお聞きしまして、大変勉強になりましたし驚いております。良いお話でした。大学生のいる親御さんたちが聞かれるとよいお話しだと思いました。
・普段考えてもいなかったこと、知らなかったことを分かり易くお話しいただきました。日本の大学の現状に危機感を持ちました。
2011/01/31のBlog
今日は、NHKの初代うたのおねえさんとして知られている、眞理ヨシコさんをお迎えしてのレクチャーコンサート「初代うたのおねえさんと歌う―中田喜直の世界~こどもの歌と抒情歌と~」(ピアノ伴奏は田中修二さん)でした。
会場のアビスタ・ホールには150名を越えるお客様のご来場を戴きました。中田喜直を敬愛し、生前を良くご存じの眞理さんは、あまり知られていない作品を含めてたっぷりと中田喜直の世界を歌い、解説してくださいました。眞理さんの美しい声と発音での、お話しと歌唱に会場の皆さんは大満足でした。

以下、当日のプログラムに従い、内容を記します。

第1部「こどもの歌」では「めだかのがっこう」を歌いながら、下手よりご登場。心憎い演出でした。次いで中田喜直が、お母さんへの思いを込めて作曲した5曲(めだかのがっこう かわいいかくれんぼ、おかあさん、夕方のおかあさん、べこの子うしのこ)の演奏。次に幼児童謡の6曲(かぜさんだっておんぶとだっこ、もんく、しずかにしてね、びっくりしちゃったの、怪我)を歌われました。「怪我」は西条八十の作詩で中田さん6歳の時の作品とのことでした。

 第2部「抒情歌」では眞理さんの高校受験の思い出などをお話し戴きながら3曲(ねむの花、ひぐれの中に、わたしの中に)を演奏。とりわけ、眞理さんがはじめて大人の歌として歌った「ねむの花」はいまでもどきどきしながら歌われるとされました。童謡の世界とは違う大人の歌で、中田喜直作品の別の一面を知ることが出来ました。
第3部「どうぞ、ごいっしょに」では、歌唱指導を戴きながら、春夏秋冬の作品4曲(さくら、夏の思い出,ちさい秋みつけた、雪の降る町を)を会場の皆さんと唱和しました。

この間、山川啓介作詩の「ピアニッシモの秋」と、江間章子作詞「おやすみなさい美しい夢をみて」の2曲を独唱してくださいました。「おやすみなさい美しい夢をみて」は作詩者の江間章子さんが、病の床にある中田喜直へのお見舞いとして作られ、喜直の遺作となった歌でした。

そして、最後はサトウ・ハチローの詩による「別れの歌」。「さよなら、さよなら、さよなら」で終わる、鮮やかなフィナーレでした。

アンケートも「久し振りに格調高い日本語を聞いた。歌も丁寧で上手い。流石です。」「ド演歌、カラオケしかしらない身には、心洗われる清浄なひとときでした」「言葉を大切に発声している」「先生の若さとうたに感動いたしました。素晴らしかったです。」など圧倒的に好評でした。(山崎)
2011/01/29のBlog
寒い日が続いている中、きょうは月一回の俳句教室。兼題は「初夢」と「成人の日」。
神長先生から「兼題がやさしかったかな~!今回はどんぶりの背比べだ!」の声がかかる中、選句が始まりました。48句の内訳は初夢がやや多かったもののほぼ半々。

高点句から3句。
1.良い初夢で目覚めが良かった朝、雨戸を開ける情景を詠み込んだ句の下五、「やや軽し」が全部を表現していて俳句らしい良い句として高い評価を得ました。

2.八十路を超えての初夢を詠んだ句では「絶えて久しき」の中七をどう解釈するかで作者を巻き込んで大いに話が盛り上がりました。

3.川柳っぽい滑稽句を得意とするKさんの、成人の日にあやかって老人会を催したことを詠んだ句では、Kさんから初めて点を入れてもらい嬉しいと感激の言葉も。

また、初夢の句で、妻の寝息を詠んだ句では上五と下五が切れ字であったため、下五の「寝息かな」を「寝息して」に。

その後全句に対する先生からの講評後、俳壇誌への投句8句を決めて句会を終えました。

2月句会の兼題は「寒明」と「まんさく」(足助)

2011/01/23のBlog
[ 20:12 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
“江戸という時代シリーズ”第23回目の講座は、立正大学非常勤講師(文学博士)高尾善希先生による「幕末史を考える-外圧の危機と政治体制の選択」。いつもの通り豊富な資料と要領の良いレジメを用意され、明瞭な口調で講義が始まりました。

 前置きとして、一体「幕末」とは何時から何時までを指すのか、を解説されました。先生は、「広義には天保の改革の挫折から幕府崩壊までとする説もあるが、私は、ペリー来航の1853年から幕府崩壊・大政奉還までの15ヶ年と考える」とされ、「なかでも幕末の中央に当たる1860年以降の7年間に政局が集中し、大きな変化が起こっている」と強調された。

 そして、幕末史を考える上での素朴な疑問として、
①攘夷派が開国派にあっさり変化するのは何故か
②天皇という古めかしい権力者が出てくるのは何故か
③幕末史の登場人物は何故多いのか
の3つをあげられ、この疑問への回答を中心に、以下のような解説をしてくださいました。

1.「明治維新」とは何か
 ・幕末史の到着点「明治維新」とは、日本における「近代国民国家」の創出である。
 江戸と明治の決定的な違いは、国民国家意識の有無にある。藩の実権が下級武士に移ることにより、政治に参画する層が厚く・広くなる。これが幕末史の登場人物が多い理由でもあり、これらを束ねる旗として天皇の存在が必要とされた。単純に古代王朝の復興ではない。

 ・「近代国民国家」の3つの構成要素について考えると―
 ①「主権」:対外的・体内的に排他的な正統な権力を確立すること。そして国家主権を守るためのルールとしての「万国公法」の枠組みに入ること。近代国家であるヨーロッパ中心の国際秩序(国際法)に参入することにより、明治政府の願望であった不平等条約の撤廃を図る。当時の国際法では、世界は欧米キリスト教国の文明国と日本や中国などの半未開国、そしてアフリカやオーストラリア等の未開国の3群に分けられ、未開国の領土は無主の領土として獲得することが正当とされていた状況であったからこそ、後発国としての日本が、国際社会に登場するためには欧米の世界に似せた国家作りが必要であった。

 ②「領土」:厳密に区画された国家の領域をもつこと。領土概念は近代から始まった。
 千島樺太交換条約締結、小笠原条約締結、北海道開拓などはその表れである。

 ③「国民」:恒久的に帰属する国籍を持ち、同一身分・同一文化を持つこと。
 その為に身分階級をなくし(同一身分)、標準語を話す(同一文化)ことなどを進めた。一方でアイヌ民族・琉球民族・朝鮮民族のもつ独自文化の抑圧などに繋がった面もあった。
2.「尊王攘夷」の役割とは
 ・「尊王攘夷」とは
 ①近代国家をつくるきっかけとなった思想。対外的には欧米列強の影響力を排除し、体内的には国家変革の思想であった。
 ②「尊王」とは何か。当時尊王は常識で幕府も尊王であった。
 厳しい身分秩序をヒックリ返す思想として、周王朝時代の言葉として尊皇ではなくが使われた。 
③「攘夷」とは何か。攘夷には単純な攘夷(外国人を見たらすぐ戦おうとするような素朴な排外思想)、いわゆる小攘夷主義と、攘夷のために開国するというような戦略的な攘夷、つまり大攘夷主義に加え、建前としての「尊王攘夷」があった。
 大攘夷主義者たちは当初は国を富まし、軍艦を買って戦うと云う思想から、やがて開国派になり、主流となり明治政府を動かして行き、富国強兵へと進んでいく。

 天皇を中心に据え、新しい日本国を創ろう、その為には身分階級をなくす、と云うよりは、草莽の士が中心になって国を治めて行こう、と云う考え方が広まっていった。

例えば、陸軍軍医・子爵石黒忠悳(1845年陸奥国伊達郡梁川生れ)の回顧録「懐旧九十年」によると、彼は14才頃「日本書紀」「国史略」「日本外史」「日本政記」などの書物を読み、小攘夷思想と云うべき尊王攘夷思想に目覚めた。やがて19才の折佐久間象山に出会い、大攘夷主義を教わった。例えば、20才になって西洋医学を学ぶが、「この医学を学ぶにしても、訳書は勿論だが洋書を学んでその奥義を究め、洋書も一つの参考書として我が日本国独立の医学を起こし、その方面において真の攘夷をせねばなるまいか、・・・」と書いている。又25才大学東校で医者として活躍中のころにも「我が国医道の改正を断行し、~私の年来の宿願たる攘夷の実を上げようと・・・」と、“攘夷の実”を語っている。

 先生の熱弁をお聞きしているうちに、1時間半がここまでで過ぎてしまいました。残されたテーマである「3.維新の志士達の実態」は残念ながら講義未了となりました。ブログ子もぜひ再講義をお願いしたいものと思っています。受講生のアンケートには、「幕末の中で民意大衆の動きが良く分った。よくまとまった講義である」、「分り易く、ポイントを要領よくおさえた講義であった」など次回講座を待たれる声が多かった。(酒井)
2011/01/19のBlog
我孫子で執筆された志賀直哉の代表作「暗夜行路」の連載が始まって、ことし1月で90年になります。これを機会に、文芸評論家、元中央学院大学教授の早川雅之氏に、志賀文学における我孫子時代の意義を、公開講座3回シリーズで解説して頂くことになりました。

第一回目の本日は、「反逆と放浪期の志賀直哉―宿命的な対立から遥かな〈暗夜行路〉の旅へ」と題して、父との対立、我孫子に至るまでの長い彷徨のお話をして頂きました。

1.父と子の宿命的な対立。
 明治という時代は日本の近代化が急激に進んだ時代であった。嫡男に後を継がせたい親と、親の束縛から独立したいと願う子の対立は志賀家に限らず、この時代決して珍しいことではなかった。直哉の場合も家庭という事情に矮小化せず、この時代背景の中で考えるべきだ。しかし、志賀家ほど深刻な対立は少なかった。祖父直道―父直温―子直哉という三代の価値観の対立は大きかったが、4つの対立で話を進めたい。

 ①足尾銅山鉱毒事件(明治34年、18歳)
 祖父直道は銅山の共同開発者の一人。内村鑑三を師と仰ぐ直哉はその影響も受け、自分の目で実際の鉱山を見てみたいと父に頼むが反対される。
 ②女中との結婚問題(明治40年、24歳)
 女中の千代と結婚する、という直哉の話に父は激怒する。千代と男女の中になった直哉は結婚を諦めきれず、内村鑑三に相談したりする。この時期、父は「あんな息子は死んでしまえ」といい、子は子で、「たとえ父でも殺してやりたい」、という最悪の状況になる。
 ③出版費用問題(大正元年、29歳)
直哉の処女出版「留女」の出版費用に端を発し、直哉の将来の方針を巡って父との対立が激化する。父はいつまでも小説書きなどするな、親の後を継げと迫る。これに対し直哉は、小説は男子一生の仕事だと譲らない。対立は決定的になり、志賀家の跡取り息子は家を出ることになる。
 ④康子との結婚(大正3年、31歳)
 31歳の時、勘解由小路康子と見合い結婚した。康子には亡夫との間に一子いたこともあり、父は激しく反対した。この時、直哉は志賀家の戸籍から自分の籍を抜き、新しい戸籍を作り、家督相続を放棄した。

2.遥かな〈暗夜行路〉の旅へ。
 ①大正元年、家を出た直哉は尾道へ。「白樺」の仲間とも離れ、遠い土地で宿願の長編、小説家になることを反対する父との宿命的な対立を主題とする、「時任謙作」を完成するためだった。しかし、宿命的な父と子の相剋と作品の中で父との私怨をはらしたくないという矛盾は直哉にとって最大の難関(アポリア)であった。
 この難題を抱えて苦しみ、尾道から更に―松江―京都―鎌倉―赤城―そして我孫子へと旅を続けて行くことになる。
 ②大正3年、父の激しい反対を押し切り直哉は26歳の康子と結婚。結婚に反対した父の、直哉夫妻に会いたいという願いを拒絶したりする。板挟みになった康子はノイローゼ状態になり、康子の療養もかねて向かった先が赤城山であった。深い山の静けさや山頂の湖水の美しさ、そうした大自然の中で康子は快癒する。この4ケ月という赤城の体験が後年我孫子で、神品ともいうべき「焚火」(大正9年)となって結晶する。その背景には志賀直哉の大きな自我の変容があったのである。これについては2回目にお話する。
 ③大正4年9月、直哉は我孫子に到着し、放浪の旅は終わる。以降我孫子に7年半住むことになる。志賀文学最盛期の幕開けとなる。
早川講師の名解説に満員の聴衆はすっかり引きこまれ、一時間半が短く思えるほどであった。それでは次回をお楽しみに、という早川講師のご挨拶に会場から大きな拍手がおきたのも、今日のお話がとてもよかったということではないでしょうか。
 以下、アンケート結果のいくつかをご紹介します。(佐藤)

・話術、真実味、熱血的、見てきたような身振りなどイメージを喚起させられる。研究の深さお見事さに驚きました。
・素晴らしい!久しぶりに感激する心と気の入った講義ありがとうございました、次が楽しみです。
・ありきたりの文学評論ではなく、実景を描くかの如き話し方に文学評論の神髄を味わう事が出来ました。ありがとうございました。“生きることを書くことは一つである”
・今まで志賀直哉について知りえなかった詳細な青春時代。また内村鑑三のこと、父との対立、康子さんのことなど「謎」と思われていたことが一気に解明されました。今日「暗夜行路」と「焚火」のページを開きたくなりました。また、自己変容した我孫子時代、次回がとても楽しみです。全体として講談「志賀直哉」というべき情熱的語り口には思わず引き込まれました。