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2017/11/14のBlog
シリーズ「絵画を観る喜び」(10) 現代美術その2 キュビスム&素朴派
美術愛好家 長野一隆氏

好評の長野絵画解説シリーズ10回目の今回は、現代美術 その2、「キュビスム」と「素朴派」について、世界中で公開されている名画32枚をスライドで披露しながら、その魅力を熱く語って下さいました

長野講師は、これまで40年近くにわたって、42カ国、2000以上の美術館・博物館・教会・美術展示施設を訪問してこられたギネスブック級の美術愛好家です。その豊富な鑑賞体験をもとに、テーマ別に「絵画を観る喜びはどこにあるか」を、きょうも以下のように分かりやすく語って下さいました。

*ブラック(1882-1963)はピカソと年齢もほぼ同じ、ピカソと二人でキュビスムを興した。現実離れした抽象画に走る方向を目指した後に、現実の絵に方向転換した。
「レスタック」アノンシアード美術館、サン・トロペ 1906年
「レスタックの家々」ベルン美術館、スイス 1908年
「ヴァイオリンと蝋燭立て」サンフランシスコ近代美術館 1910年
「果物皿とグラス」メトロポリタン美術館、ニューヨーク 1912年
「ピンクの魚のある静物」インディアナポリス美術館、アメリカ

*ブラックと並んで絵画の世界に革命を起こしたのがピカソ(1881-1973)で、ジュット以来の観方を変えた作品が「アヴィニョンの娘たち」である。
彼はパートナーの女性が変わるたびに画風も変わっていった。キュビスムの様相がロシアの将校の娘を描いた絵ではキュビスム以前の作風に戻り、地下鉄で出会ったマリー・テレーズの画ではキュビスム風になる。そしてその作風は、モノトーンのゲルニカに行きつくこととなる。
「アヴィニョンの娘たち」ニューヨーク近代美術館、アメリカ 1907年
「ベレー帽の男」ピカソ美術館、バルセロナ 1895年
「自画像」ピカソ美術館、パリ 1901年
「大道芸師の家族」ワシントン・ナショナル・ギャラリー 1905年 
「カーンワイラーの肖像」シカゴ美術館、アメリカ 1910年
「肘掛椅子に座るオルガ」ピカソ美術館、パリ 1918年
「マリー・テレーズの肖像」ピカソ美術館、パリ 1937年
「ゲルニカ」ソフィア王妃芸術センター、マドリード 1937年
参考:セザンヌ(1839-1906) 「台所のテーブル」 オルセー美術館、パリ 1890年

*レジェ(1881-1955)はセザンヌに傾倒し、華やかな色彩のあるキュビスムを得意とした。
「形態の対比」国立フェルナン・レジェ美術館、ビオット 1913年
「赤い背景の余暇」国立フェルナン・レジェ美術館、ビオット 1949年

*ドローネー(1885-1941)は、ルソーから言われてエッフェル塔を描き、有機的かつ運動感のある作風を作り上げた。
「エッフェル塔」シカゴ美術館、アメリカ 1911年
「同時的なコントラスト 太陽と月」ニューヨーク近代美術館1913年
「読書する裸婦」ヴィクトリア国立美術館、メルボルン 1915年

*上記のキュビスムと正反対の素朴派は、日常画家として絵を書いていた人たちで、絵画教育を受けてこなかったグループのこと。アンリ・ルソー(1844-1910)は税理士の傍ら絵を描いていたが、49才で退職して画業に専念。風景画の中に肖像画を描きこむなど、遠近法を無視した画風が特徴である。
「私自身:肖像=風景」プラハ国立美術館、チェコ 1890年
「戦争」オルセー美術館、パリ 1894年
「眠るジプシー女」ニューヨーク近代美術館1897年
「蛇使いの女」オルセー美術館、パリ1907年
「詩人に霊感を与えるミューズ」バーゼル美術館、スイス 1909年

*ルイ・ヴィヴァン(1861-1936)は、17歳で郵便配達夫となり、その傍ら日曜画家として過ごす。ルソーの没後15年の節目に、素朴派として脚光を浴びる存在となる。目で見て描くのではなく、記憶の中から追想として描くのが特徴。
「ムーラン・ギャレット」ポンピドゥー・センター、パリ1926年
「ヴェネツイア:教会の見える運河風景」サウサンプトン市立美術館、イギリス1933年

*アンドレ・ボーシャン(1873-1958)は、素朴派としてもっとも成功した画家で、製図を必要とした園芸師からの転向が幸いした。
「自画像」シャルロッテ・ツァンダー美術館、ベンニクハイム1938年
「フルーツのある風景」ハーモ美術館、下諏訪町 1948年

*カミーユ・ボンボワ(1883-1970)は、父は船乗り、生まれながらの画家としての資質があり、ピカソに近い存在。印刷工として夜勤しながら、昼間に絵を描いた。人生の後半は、成功者として過ごす。
「自画像」グルノーブル美術館、フランス 1936年
「池の中の帽子」ハーモ美術館、下諏訪町 1935年

*グランマ・モーゼス(1860-1961)は、アメリカ人で唯一の女性素朴派。農園で働きながら27才で結婚。75才になってから、リウマチ罹患の右手をかばいながら絵を描き始める。80才でニューヨークでの個展が大成功し、89才でホワイトハウスに招かれるほどの人気者となった。101才で亡くなるまで、心の中にある記憶のみで絵を描き続けた。
「ベニントン」ベニントン美術館、アメリカ合衆国 1945年
「古い格子縞の家」東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館、東京1944年

以下は、お客様アンケートの一部です:
*絵も説明もすばらしかったと思います、熱意のこもった迫力のある説明をありがとうございました。キュビスムも素朴派も知らなかったので、大変勉強になりました。
*90分間最初から最後まで内容が充実している、写真+語り+美術館+Mapの全てが充実している。Q&Aの明快さ!絵の評価は個人的、死亡してから評価はあがるなど。出し惜しみをしない講話、文句なしに素晴らしい。
*絵そのものの解説だけではなく、画家の背景、絵を描きかけた動機など絵を理解するときに必要な付加情報があることが良い。
2017/11/09のBlog
11/8市民カレッジ「我孫子を知る」コース第10回

本日の講座では、当市の地域活動の現状や課題、その中核になっている市民のボランティア活動の現状などについて、我孫子市役所の担当部署及び市社協のボランティア担当者からお話をして頂きました。

まず市民活動支援課の森山拓朗氏から市民活動その他地域活動の現状とその支援策について、以下のようなお話をして頂いた。

▽我孫子市では、市民活動を行う団体は400以上、そのうちNPO法人は51法人ある。その活動分野は福祉、環境、文化、教育、子育て、スポーツなど多岐にわたり、活動に参加している人は60歳以上の方が大多数。
▽この中には、会員の高齢化・会員の減少・後継者の引き受け手がいないなど、「ヒト」に関する悩みを抱えている団体が多い。
▽市は市民公益活動を支援するため、活動ステーションなど支援拠点の提供、広報やHPでの情報提供、公募補助金など資金の支援などの施策を推進している。
▽また、市では地域コミュニティ活性化基本方針を作成し、地域の様々な団体による「地域会議」を編成して、地域単位の活動を推進している。
ついで我孫子市社会福祉協議会(市社協)のコーディネーター・浜田なつき氏に、「我孫子市社協の活動-30分で伝えます!ボランティアのいろは」という演題で、以下のお話をして頂きました

▽我孫子市のボランティア・市民公益活動は頭抜けて活発。この活動に参加している人数の市人口に占める比率を見ると、柏市0.9%、松戸市1.7%、流山市1.3%であるのに対し、当市のそれは4.9%という驚異的高水準。
▽全国の市町村にある社会福祉協議会は、社会福祉活動を推進することを目的とした組織。事業はボランティア市民活動を支援することのほか、ケアプランの作成、介護事業の支援、結婚相談など多岐にわたる。
▽我孫子市には介護保険ボランティアポイント制度がある。事前に登録した65歳以上の市民の方が、指定された受け入れ施設等でボランティア活動に参加し、その実績に応じて付与されるポイント数に対して年間最大5000円の交付金が受け取れるというもの。
▽ボランティア活動相談窓口を「て・と・り・あ」といい、ここには私を含め5人のコーディネーターが配置されている。ボランティア活動にかかわることなどのご相談、お手伝いに一段と積極的に取り組んでゆきたい。
▽ボランティア活動は、広報紙、チラシ、ネット、相談窓口、活動している人などから情報を集め、個人でやることも、団体に入ってやるなどいろんな方法がある。

以下に、アンケートの一部をご紹介いたします。 (佐藤明)
・ボランティア活動の全体の様子が大変良く知ることが出来ました。
・市民活動のかかわり方がよく分かりました。「協働」がなくては行政が成り立たないという言葉は胸にひびきました。
・「て・と・り・あ」のことは知りませんでした。参考になりました。
2017/11/07のBlog
もう一つの古典文学(3)伊勢物語(2)
國學院大學講師・文学博士 堤康夫氏

「伊勢物語」は、在原業平を彷彿させる主人公の男性が、東国の各地を遍歴します。しかし中世では主人公がいわゆる“東下りをしない”「伊勢物語」が存在しました。前回 堤講師は宮内庁書陵部の主人公が東下りをしない『冷泉家流伊勢物語抄』を紹介され、解説して下さいました。
今回は、前回に続いて「伊勢物語」はいくつかの例外を除いて登場する女性の実名は記されていないが、この宮内庁書陵部の『冷泉家流伊勢物語抄』では、女性の名前が記されている点について、以下のように分かりやすくお話頂きました。

*在原業平は3733人の女性と交際があった、と記述されています。業平は55歳で亡くなっています。さて彼の生物学的活動は?、などが取り沙汰されていますが、この『冷泉家流伊勢物語抄』には、小野小町など12人の女性の名前が以下のように紹介されています。

第三十段でチラリと見た女性は、染殿后の明子であった
第三十一段である女房の前を通った女性は、大和守藤原継陰女の伊勢であった
第三十二段で物言いける女とは、近江の小野小町であった

*『冷泉家流伊勢物語難義注』第十七段や第二十三段でも、有常の娘の名前が出てきます。また世阿弥作の謡曲「井筒」は、在原業平と紀有常の娘の恋物語です。この「井筒」は世阿弥が時の権力者足利義満に取り入って、短時間に『伊勢物語』に似せて作ったものと推察しています。
世阿弥は決して世俗にとらわれない天才ではなく、普通の人だったと考えるのが常識のようです。

*女性の実名を出すということは、何か理由があるはずです。そこで、第六段に注目しました。この段は身分の高い女性に恋い焦がれ、交際を許してくれない高貴な女性に実力行使をします。
芥川という魔性が棲みそうな川沿いに、女性を連れ歩き、あばら家に押し入ります。休息の為に入ったこの廃屋で、大きな鬼がひと口で女性を食べてしまう件です。ここで高貴な女性の名を、二条后 高子だと暗示しています。武家社会の鎌倉時代、実名で正体を暴露する理由は、生き残りをかけた迎合の結果だと思われるのです。

以上、東下りをしなかった、「もう一つの伊勢物語」の女性の名は、今でいうネットの世界で晒されていました―という何とも楽しいお話でした。
2017/11/04のBlog
-自著を語る③「昭和解体」-国鉄分割・民営化30年目の真実-
ノンフィクション作家 牧 久氏

きょうは今年3月に「昭和解体」(講談社)を出版されたジャーナリストの牧 久氏に、国鉄の分割と民営化30年の真実について解説頂きました。

牧 久氏は日本経済新聞記者として国鉄本社記者クラブに常駐され、その後も丹念な国鉄の取材を続けて来られました。そして積み重ねて来られた膨大なエビデンスを根拠に、国鉄の栄枯盛衰=昭和という時代の最大の政治経済事件を再検証されました。

冒頭、牧講師は「私たちが生きてきた昭和という時代が、どういう時代であったか。薄れゆく昭和への思い出の記として、昭和20年以降の歴史を纏めました」と話されました。

1872年にスタートした日本国有鉄道が、1987年に終焉を迎えた理由は何か。仕掛けられたのか、終わるべくして終わったのか。遠い昔のようでわずか30年前の事件を、鋭く切り込まれたのがこの「昭和解体」です。

占領軍の司令官であったマッカーサーは、「農地解放」「財閥解体」「学校教育の民主化」などとともに、「労働3権の確立」を進めます。その結果国鉄と組合の関係は、紆余曲折を経て国鉄当局よりも組合が上位に立つシステムが出来上がります。その組合が勢いのみで突進した結果、国鉄そのものの解体を呼び込んでしまいます。

ストライキをする権利を求めて1975年に行った組合の「スト権スト」は、予定の10日間に至らず8日目で終結します。通勤や通学の足は乱れたものの、トラックによる代替輸送で生活物資の物流に混乱は生じませんでした。このスト権ストの労組側の敗北が、国鉄解体の大きな流れに弾みをつける皮肉な結果となりました。

牧氏の解説は詳細にして広範に及び、とても簡単な要約に纏める事は不可能です。「ノンフィクション作家というより、真実を追求するジャーナリストとして、裏付けを基に書き上げた」と話された、牧 久著「昭和解体」(講談社刊)をぜひご一読下さい。

みなさんから頂いたアンケートの一部です。
*新聞記者という立場で実際に現場で聞き調べた話なので、生きた歴史の証人でした。ウラ話やはみだし話も大事なことでよかったです。私たちの時代でした。

*国鉄民営化時代までサラリーマンであった私は、「ストライキばかりやっている会社」としてあまり評価しておりませんでしたので、民営化は大賛成でした。「良くなるぞ」と喜びました、その通りになりました。しかしあの時、どんな攻防があったのかは知る由もありません。きょうの講座は、私の歴史観を変えてしまうようなお話でした。

2017/10/25のBlog
10/25 市民カレッジ・「我孫子を知るコース」(第9回)“白樺派の文人たち”

 本日の市民カレッジでは、白樺文学館の学芸員である稲村 隆氏による掲題の講義が行われました。稲村講師は、解りやすい説明資料を活用しつつ、以下のような多面的かつ踏み込んだ説明を展開されました。

①白樺派のプロフィール
▽明治43年、学習院出身者11名が結集し、月刊雑誌‘白樺’を創刊した。当誌は大正12年の関東大震災時まで、13年間にわたり刊行される。収載ジャンルの主体は文学ではあったが、美術評論などにも広く及び、中でもロダンの本邦への紹介は著名である。
▽明治末葉の文学界では、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声等による‘自然主義文学’が主流の座を占めていた。白樺派は、それに反発、反抗する形で、‘理想主義、人道主義の文学’を標榜した。

②我孫子が白樺派の拠点に
▽白樺派の中核を形成する3人のメンバーは、大正期に入ると相次ぎ我孫子に移り、当地は白樺派の拠点となった。最初に来住したのは新婚家庭を築こうとした柳宗悦。そして彼の強い勧めで志賀直哉が、また志賀の手引きで武者小路実篤も、相次ぎ当地に居を構える。因みに本年は、武者小路が当地に転居して100年目に当たる。

▽この3人は当地においても親交を深めつつ、各々が全く異なった形で飛躍を遂げてゆく。稲村講師は、各人の当地との関わりようの違いを次のように描出された。柳宗悦:「出会い」と「絆」の地。志賀直哉:新たなステップを踏み出した「創作の地」。武者小路実篤:自らの思いを実現するための「思索の地」。

③「白樺」文人たちから画家たちへ
▽大正12年に、上記3人の中で唯一当地にとどまっていた志賀直哉が京都に転居した。これによって、「白樺派による我孫子文士村」は自然消滅した。
▽ただ、このような展開の中で、白樺派文人と交流を重ねていた洋画家の活動は継続したことに留意したい。我孫子・白樺派を継ぐ者として、核となったのは原田京平であった。春陽会を活動の場とした岸田劉生、原田恭平、三岸好太郎等の面々も我孫子にやってきて、白樺派の去りし我孫子は若き画家たちの文化空間となった。現在白樺文学館で企画展、「原田京平をめぐる人々-白樺と民芸の絆」(11月26日まで)を開催している。

以下に、アンケートの一部をご紹介します。 (佐藤明)
・知らない話が多く、興味深く聞きました。
・ユーモアを交えた理解しやすい講座だった。新発見がありました。
・白樺派の文人たちのつながりや人物像がよく分かった。