百人一首の神となった帝

日 時 平成29年3月14日(火)14時〜15時30分
 古代において偉大な天皇と言われ、百人一首の第一番にあげ
られた天智天皇(中大兄皇子)の波乱万丈のお話しでした。
 一番札の御歌は、「秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが
衣手は露にぬれつつ」です。
 なぜ、藤原定家はこれを一番札にしたのでしょうか。
 実は天智天皇が崩御後、大友皇子(長男)と大海人皇子(弟)の
後継者争いである壬申の乱が起こり、後者が勝利して天武天皇が誕生します。
 その後天皇は、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳 と天武系が続きますが、称徳天皇に子供が居なかったことから皇位は天智系の白壁王(光仁天皇)に移ります。
 それ以降は天智系の天皇が続き、藤原定家の鎌倉時代には、天智天皇は王朝の中興の祖という位置づけにあったことから百人一首の一番札にしたものではないかと考えられるとのことです。
 顧みれば、中大兄皇子は「乙巳の変(大化改新)」によってあざやかに歴史に登場しました。
 その後、政敵であった有馬皇子(孝徳天皇の子)を罠にはめて処刑してしまいます。
 そして斉明天皇の時に、白村江の戦い(倭・百済vs唐・新羅)を実質指揮しますが大敗北してしまい、これが近江遷都の原因になります。
 この近江遷都時に、やっと天智天皇として即位いたしました。
 このように、手に汗握る古代史の中心に存在したのが、正に天智天皇であったと言えます。