小牧長久手の戦いを考察

日 時 2020年8月27日(木)10時15分〜11時45分
 徳川家康側から見た「小牧長久手の戦い」に焦点を当てたお話し
がありました。
 ここに至る経過は、「本能寺の変(信長暗殺)」→「山崎合戦(光秀
討伐)」→「清須会議(織田家相続)」→「賤ケ岳の戦い(秀吉×勝家
)」・・・で、これに勝ち残った秀吉と信雄(信長の次男)の内紛が発端
でした。
 この時、信雄は家康を誘い、家康もこれに応じています。
 また信雄は重臣である岡田重孝・津川義冬・浅井田宮丸の3人が
秀吉に通じていたとして、伊勢長島城で殺害するにおよび、秀吉は奇貨として戦端が開かれたのがこの「小牧長久手の戦い」であったとか。
 この時の陣容は、家康・信雄連合軍は約4万、秀吉軍は約10と言われています。
 当初の戦歴は、初め家康の陣営であった「岩崎城」(写真)が秀吉陣営の池田軍(池田恒政・長男元助・娘婿森長可等)によりおとさます。
 しかし小牧合戦(家康不在の岡崎城攻め)では反対に池田軍が敗れ、一勝一敗となりました。
 その後は膠着状態となり、やがて秀吉・信雄は和睦し、結果 家康は放置されますが、やがて秀吉の麾下に入ります。
 家康は、秀吉政権下では徹底して「律義者」で通し、後の天下取りにつなげていきました。