ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
まなびの会
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:1566件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
2020/10/12のBlog
[ 18:42 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2020年10月12日(月)14時~15時30分
 中国・明時代に登場した処世訓「呻吟語」について学ぶ機会が
ありました。
 「呻吟」のもともとの意味は、「苦しみあえぐ声」だそうですが、
内容は決して堅苦しいものではありませんでした。
 すなわち日々に役立つ知恵が満載で、たとえば「人間の品格
とは」「暮らしの心がけは」「世の中の流れへの対処は」・・・等々。
 著者は呂坤(1536~1618)という人で、実に30年の歳月を
かけて書き上げたと言われる処世訓の傑作だとか。
 冒頭の「性命篇」は陽明学の最重要テーマであった人間の本性や運命について、また続く「存心篇」は心の在り方についての言葉を集めている由です。
 日本での高名な愛読者のひとりに大坂奉行所の与力であった大塩平八郎が居り、1837年の挙兵の思想的背景に陽明学があったとのことでした。
 具体的に名言集の一部をご紹介しますと・・・・・
 ・人の最大の過ちは自分だけが正しいとし、自分だけを守ろうとすることだ。(修身篇)
 ・うわついた議論が横行する風潮に心が痛む。(世運篇)
 ・多くの人が言っているから正しいとは限らない。(治道篇)
 ・あの世へ持っていくものは「物」ではなく、「心」である。(存心篇)
 ・才能と学問は剣のごとし。(問学篇) ・・・・・等々
2020/09/24のBlog
[ 13:09 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2020年9月24日(木)10時15分~11時45分
 戦国時代の覇者・徳川家康の後半生の講座がありました。
 1598年に天下人・豊臣秀吉が逝去し、その後秀頼の後見人
前田利家が1599年に死去しますと、家康の一人勝ちとなり、
五大老の前田利長、続いて上杉景勝へ謀略を仕掛けます。
 やがて石田三成が西国大名を中心に挙兵しますと、これとの
合戦に切り替えます。
 家康は関ヶ原の合戦に当たっては、いろいろと手を打ちました。
 (1)北政所の甥・小早川秀秋の寝返り工作
 (2)黒田官兵衛・長政父子ら、秀吉子飼いの武将の取り込み
 (3)京極高次が居城・大津城を死守し、立花宗茂をくぎ付け
 (4)毛利一族は吉川広家との約束で結局動かず ・・・・・・・・・・ 等々
 家康は関ケ原の勝利後は大名の配置換えを行い、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいます。
 家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開きますと、豊臣家の滅亡を見届けて征夷大将軍の位を秀忠に譲り、大御所として浜松に隠居いたしました。
 大御所とは摂政・関白や征夷大将軍等の実父の尊称で、第一線を退いても影響力を持つ長老の意。
 そして家康は1616年に75才で駿河城において永眠いたしました。 辞世は・・・
 「嬉しやと ふたたびさめて 一眠り うき夜の夢は あかつきの空」
 「先にゆき あとに残るも 同じこと つれて行かぬを 別れとぞいう」
2020/09/18のBlog
[ 18:03 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2020年9月18日(金)11時~12時30分
 ヴァイオリンと音楽史にまつわるトークのコンサートがあり
参加してきました。
 私たちの音楽は原始時代からあったとかで、古代の遺跡
や古墳の壁画からも明らかであるとか。
 ただ学術的な音楽史ということになると、西暦800年頃の
グレゴリオ聖歌あたりからである由。
 このグレゴリオ聖歌は、カトリックの僧侶(グレゴリア1世等)
が教会で日頃から歌われていた讃美歌をまとめたものとの
ことで、どこで歌われても同じメロディーになるよう、五線譜の原形が出来たのもこの頃だそうです。
 そして中世に入りますと、宗教色の濃い教会音楽から王侯貴族のサロン等で食事やお遊び時のBGM的な役割を担う深みがあり静かな宮廷音楽へと移っていきました。
 それが1300年頃のルネサンス、1500年頃のバロック、1700年頃の古典音楽です。
 まず演奏の1曲目は土着の音楽から「ユダヤの母」、続いて「アイリッシュ」(民族音楽)を聴かせていただき、これら市井の音楽をサロン風にすれば・・・と、バッハの「メヌエット」をご披露くださいました。
 やがて各地で革命の風が吹き荒れ、貴族が衰退し庶民が歴史の舞台に躍り出ると、音楽も地域性のある華やかなものへと移行し、ショパンがポーランドのポロネーズを、ブラームスがハンガリアン舞曲を、ドボルザークがチェコのメロディーをひっさげて登場いたしました。
 最後の演奏は、「ハンガリアン舞曲・第5番」、「チゴイネルワイゼン」でした。
2020/09/10のBlog
[ 13:09 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2020年9月10日(木)10時~11時30分
 大阪の新興住宅として開発・発展した南部の帝塚山にモダニズム
の香り高い文学が・・・
 その帝塚山派と呼ばれた文学学会の中から、美貌の俳人・橋本
多佳子についてお話しがありました。
 彼女は、1899年(明治32年)に東京で生まれ、18才で建築家・
実業家の橋本豊次郎と結婚して夫の赴任先である小倉に転居し
ました。
 やがて「櫓山荘」を建てて移り住んだ時に高浜虚子が来遊し、
句作を始めることになります。(地元の杉田久女に師事)
 そして「ホトトギス」に「たんぽぽの 花大いさよ 蝦夷の夏」が初入選しますが、これは北原白秋らと橋本夫妻が樺太・北海道旅行した時のもののようです。
 その後義父の死去にともない帝塚山に転居し、杉田久女から山口誓子を紹介され師事します。
 戦後は、中村貞女・星野立子・三橋鷹女とともに「4T」と言われ、俳壇の女流スターになっています。
 さて彼女の句集ですが、第1句集「海燕」、第2句集「信濃」、第3句集「紅糸」、第4句集「海彦」があり、死後に遺稿集「命終」が刊行されました。
 また代表句としましては、「曇り来し 昆布干場の 野菊かな」(海燕・ホトトギス入選)、「さびしさを 日日のいのちぞ 鴈わたる」(信濃)、「いなびかり 北よりすれば 北を見る」(紅糸)・・・等々。
2020/09/05のBlog
[ 17:04 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2020年9月5日(土)14時~15時30分
 ヒトはいつ、どこで、どのように誕生したのでしょうか。
 人類の誕生の地はアフリカだと言われており、2000万年
前から300万年前にかけて「ヒトのようなサル」から「サルの
ようなヒト」への進化等についてお話しを伺ってきました。
 まず我々が住んでいる地球ですが、これは約46億年前に
出来たと言われており当初はマグマに囲まれていた由ですが
その後約6億年後に大爆発が起こって原型が出来たらしい。
 さてヒトのことですが、よくヒトはサルから進化したものだと
言われますが、チンパンジーは途中までヒトと同じ進化の過程をたどったようです。(途中から枝分かれ)
 ヒトとは、「常時、2足歩行するもの。」と定義できるとか。
 また類人猿・ヒト化石発見史ですが・・・
 ・1856年 ネアンダール人発見(ドイツ・ネアンデル峡谷)
 ・1856年 ドリオビテクス人<大型類人猿>(フランス)
 ・1891~93年 ジャワ原人(インドネシア・ジャワ島)
 ・1921・29・66年 北京原人(中国) ・・・・・ 等々についての解説
 そして南アフリカで発見された約300万年前の頭骨化石(デプリカ)を見せていただきました。(写真)
 将来、人間はさらに進化するのか?「否、単純なもの(例:ウイルス)が生き残る」だとか???
2020/09/04のBlog
[ 18:35 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2020年9月4日(金)13時~14時30分
 桓武天皇は794年の平安遷都の際、平城京時の反省(仏教
が政治に影響を与える等々)から、政策上 官寺の東寺と西寺
を除いて寺院を置かないことにしたのだとか。
 しかし10世紀も後半になりますと、かなり偶発的で自然発生
的に小堂が建立されるようになり、そのような原則寺号を持た
ない「堂」について解説がありました。
 これら小堂は観音や薬師等の信仰を目的としたもので、庶民
の間に信仰され、やがて貴族の帰依も得るようになります。
 特に室町時代後期になりますと経済力で勢力を伸ばし、自治的な組織力を持つようになって(「町衆」)、「町堂」とも呼ばれた由で、もっぱら便宜的な人の集まりやすい場所として用いられたとのことです。
 そうした町堂の代表格が下京の「六角堂(写真)」「因幡堂」、上京の「革堂」などです。
 伝承によれば、「六角堂」の本尊・如意輪観音は聖徳太子が淡路にて見つけたものとのことであり、ここは華道・池坊とも深いかかわりがあります。
 また「因幡堂」は因幡守行平の邸宅跡にあり、行平が赴任していた因幡から薬師如来像が行平邸に飛来したとの伝承がある由。
 「革堂」は行円(道を開いたり、架橋したり、貧民に施行したりした聖僧)の創建であるとのことでした。
2020/08/29のBlog
[ 19:38 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2020年8月29日(土)14時~15時30分
 ドイツの歌曲王フランツ・ベーター・シューベルト(1797~
1828)の名曲の中から、歌曲集「美しき水車小屋の娘」に
焦点をあてたお話しがありました。
 これは彼の歌曲集の中でも、「冬の旅」「白鳥の歌」と並ん
でシューベルト3大歌曲集と言われるものであるとか。
 シューベルトは教師の父と元コックの母の間に生まれ、父
がアマチュア音楽家であったことから、音楽教育を受け始め
ますが、やがて父の手に余るほどの才能を発揮して、教会
の聖歌隊に預けられます。
 そのおかげで貧しい彼には触れることができなかった良質な楽器で勉強することができたのだそうです。
 さてこの歌曲の内容ですが、粉屋職人の若者(第1曲)がある水車小屋で修行することになり(第4曲)、そのうち水車小屋の親方の娘に思いを寄せ、娘もそれを受け入れて若者は有頂天になります。(第11曲)
 やがて狩人が現れ(第14曲)、娘は狩人に心を奪われ(第15曲)、若者は絶望の果てに小川で死ぬことを考えます。(第19曲) 終曲(第20曲)は小川による「子守歌」です。
 極論として、そもそも「水車小屋の娘」など居たのかで、当時の水車小屋は同時に旅籠兼酒場でもあったことから、「粉屋の女」はしばしば「不実な女」とも考えられる由です。
 上記のような解説をお聞きしながら、その演奏も第1曲から順次映像で聴かせていただきました。
2020/08/28のBlog
[ 14:28 ] [ 生活・社会 ]
日 時 2020年8月28日(金)10時30分~11時30分
 近頃の気象は、正に命にかかわるものになっています。
 そこでテレビや新聞等で公表される気象情報に関心をもち、
防災に努めようとする講座がありました。
 まず気圧についてですが、気圧には高気圧と低気圧があり、
これの区分ですが、何となく1013ヘクトパスカルが基準かと
思われがちですが、実は特に数値的な基準はなく、要は周辺
より高いか低いかにより決まるのだそうです。
 この気圧に大きく関係するのが台風で、台風の勢力は雨の
量ではなく、風の強さでその規模の表現が変わるのだとか。
 また台風の季節による特徴ですが・・・
 ・夏台風⇒速度は遅い(自転車なみ)、影響は長期化する等々。
 ・秋台風⇒速度は速い(自動車なみ)、状況は急変する等々。
 次に大雨警報についてですが、この警報はたくさん雨が降った時ではなく、雨によって災害が起こる可能性があると予想される時に発令される由です。
 なお気象庁では気象情報をホームページで10分ごとに更新しながらリアルタイムで発表している由にて、これは個人でも見ることができるので、、ぜひ活用してほしいとのことでした。
 今年の夏は災害級の暑さですので、男性も日傘を使用してほしい由です。
2020/08/27のBlog
[ 13:34 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2020年8月27日(木)10時15分~11時45分
 徳川家康側から見た「小牧長久手の戦い」に焦点を当てたお話し
がありました。
 ここに至る経過は、「本能寺の変(信長暗殺)」→「山崎合戦(光秀
討伐)」→「清須会議(織田家相続)」→「賤ケ岳の戦い(秀吉×勝家
)」・・・で、これに勝ち残った秀吉と信雄(信長の次男)の内紛が発端
でした。
 この時、信雄は家康を誘い、家康もこれに応じています。
 また信雄は重臣である岡田重孝・津川義冬・浅井田宮丸の3人が
秀吉に通じていたとして、伊勢長島城で殺害するにおよび、秀吉は奇貨として戦端が開かれたのがこの「小牧長久手の戦い」であったとか。
 この時の陣容は、家康・信雄連合軍は約4万、秀吉軍は約10と言われています。
 当初の戦歴は、初め家康の陣営であった「岩崎城」(写真)が秀吉陣営の池田軍(池田恒政・長男元助・娘婿森長可等)によりおとさます。
 しかし小牧合戦(家康不在の岡崎城攻め)では反対に池田軍が敗れ、一勝一敗となりました。
 その後は膠着状態となり、やがて秀吉・信雄は和睦し、結果 家康は放置されますが、やがて秀吉の麾下に入ります。
 家康は、秀吉政権下では徹底して「律義者」で通し、後の天下取りにつなげていきました。
2020/08/22のBlog
[ 13:13 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2020年8月22日(土)10時30分~11時30分
 クラシックの定番中の定番であるドヴォルザーク作曲「交響曲
第9番・新世界より」をベルリンフィル(カラヤン指揮)のCDで聴く
集いがありました。
 ドヴォルザークはボヘミアのいち小村であるネラホゼヴェスと
いう所で1841年に生まれました。
 実家は旅籠屋兼肉屋であった由。
 そのような家に出入りする旅音楽家の演奏を聴いてヴァイオリン
を習い覚え、音楽家になる決心を固めたのだそうです。
 彼は晩年オーストリア政府から「終身貴族院議員」の栄誉を受けるに至ったとかで、音楽史上ではまれに見る立志伝中の人と言えます。
 当初彼は、プラハの音楽学校を苦学卒業し、ヴィオラ奏者として同市の国立劇場管弦楽団で働きながら作曲に精進していました。
 そしてついにリストやブラームスの知遇を受け、その才能を認められて音楽院教授になりました。
 その後1892年(51才)にニューヨークに招かれ、ナショナル音楽院の院長となり、その3年間のアメリカ滞在中に書かれたのがこの「新世界より」でした。
 彼は新大陸で聴いた黒人霊歌や民謡などを好み、それを自己の創作音楽に同化させたようです。
 彼は「作曲家は自己の属する国民の民謡の精神を曲中に反映させる義務がある・・・」と言っていたとか。