ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
まなびの会
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:1589件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
2021/01/30のBlog
[ 17:59 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月30日(土)14時~15時30分
 19世紀にブラームス等と共に活躍したアントン・ブルックナー
(1824~1896)について、その生涯と主として交響曲第7番
(演奏時間1時間以上)を中心とした講座がありました。
 この講座は、ピアノとチェロによる実演(主題のメロディ等)と
DVDによるオーケストラを聴きながらのものでした。
 まず彼の生涯ですが、1824年にオーストリアのリンツにほど
近いアンスフェルデンという小村に小学校教師の長男として
生まれました。
 長じて父と同じ小学校教師の職につきますが、他方聖フローリアン修道院でオルガンのレッスンを受け、やがて修道院オルガニストに任命されます。
 その後、ウィーン楽友協会のジーン・ゼヒタに、続いてオットー・キッラーに音楽理論や作曲家になるための応用力等を学び、作曲家として本格的な歩みを始めました。
 交響曲第1番を1866年に書き上げ、第2番は1873年のウィーン万博の閉会祝典のひとつとして演奏され、さらに第3番は1877年に初演されます。
 その後、第4番・第5番・第6番と完成させ、本日のメインテーマである第7番は1883年に完成し、翌年にライプッチヒ歌劇場において初演されるに至りますが、その時のメディアは「作曲家は再三再四、嵐のような喝采で呼び出された」と表現したほど大成功だった由です。
2021/01/28のBlog
[ 18:04 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2021年1月28日(木)10時~11時30分
 大阪ゆかりの作家と題し、ノーベル文学賞受賞者・川端康成に
関する講座がありました。
 彼は1889年(明治32年)に大阪市北区に生まれ、父母の死に
よって茨木の祖父母に引き取られました。
 しかしここでも祖母が7才の時に死去し、16才になるまで祖父
と2人で暮らし、その16才の時に祖父も亡くなったので中学を卒業
と同時に上京しています。
 東京大学文学部を卒業後は文学を志し、数々の名作を生み出し
1968年(昭和43年)にノーベル賞を受賞いたしました。(69才)
 しかしペンクラブ等の多忙の中、1972年(昭和47年)夜、72才でガス自殺しております。(遺書はなし)
 上記の経歴で解りますように、16才で天涯孤独になった作家で、これを現す作品として「十六歳の日記」がありますが、内容は祖父の看取り日記で、27才の時に「あとがき」をつけて発表されており、これが川端文学の出発点であるとのこと。
 すなわち、1才で父を、2才で母を失い、祖父母に引き取られて育ちますが、7才の時に祖母を、そして別の親類に引き取られていた姉をも10才の時に失っています。
 孤児感情に苦しみ、また初恋と失恋を経て「伊豆の踊子」を発表します。(大正15年)
 その後、「雪国」「舞姫」「千羽鶴」等々を世に出し、ノーベル文学賞に繋がっていきました。
 なお、ノーベル賞受賞記念講演は「美しい日本と私」でした。
2021/01/20のBlog
[ 17:59 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2021年1月20日(日)11時~12時30分
 天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(明智光秀
が主君・織田信長に謀反)の時に織田信長の重臣たちの動向が
どのようであったか・・・のお話しがありました。
●柴田勝家⇒上杉景勝の与力・山本寺孝長たちが籠城していた
 魚津城を攻略中であった。
 これを落城させ、さらに越後へ向かおうとしていた時に信長の死
 が伝えられ(4日又は5日)、京へ戻り始めましたが上杉軍に追撃
 され、長浜に着いたのが18日でした。
●滝川一益⇒本拠地である厩橋(群馬県前橋)にて越後の上杉や関東の北条を攻略準備中、
 知らせを受けたがなかなか戻ることが出来ず、清州城に着いたのが20日過ぎでした。
●森 長可⇒柴田勝家の援軍として信濃の北部にいました。
 知らせを受けて戻るも、途中敵対する土豪らと戦を繰り広げて手間取りました。
●河尻秀隆⇒武田勝頼攻めに功績があって甲斐に滞在していました。
 知らせにより京へ戻りかけるも、土豪たちに討たれてしまいます。
●丹羽長秀⇒神戸信孝(信長の三男)の補佐役として、四国の長宗我部元親を攻めるため、堺に滞在中、
 知らせを聞いて大坂城にて光秀の内通者(?)織田信澄を討ちとりました。
●羽柴秀吉⇒備中松山城攻めの3日に知らせを受け、急遽毛利と和解して帰途につきました。
 世に言う「中国大返し」で、7日に姫路着、11日に尼崎着で、13日に山崎で光秀軍を打ち破りました。
2021/01/16のBlog
[ 14:25 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月16日(土)10時30分~12時
 モーツアルトの交響曲、(1)第32番、(2)第35番<ハフナー>
(3)第36番<リンツ>の3曲をCDで聴く集いがありました。
 (1)は、単一楽章で曲もソナタ形式という一般的な型であり、
提示部~展開部~再現部~結尾部と作曲されています。
 ごく普通の作風ですが、内容はモーツアルトらしい重みの中
にも優雅さのある曲でした。
 (2)は、ジークムント・ハフナーが爵位を得たための祝賀曲で
あった曲ですが、この交響曲は以前(1776年)に同じザルツ
ブルクのハフナー家の婚礼のために作曲したセレナーデ(K.250)をベースにしたものとのことです。
 すなわち、そのセレナーデから楽器の編成や構造を変えて交響曲の形(4楽章)に変更した由。
 セレナーデからの転用のためか、耳に心地よいシンフォニーでした。
 (3)は、ウィーンに居たモーツアルトが妻のコンスタンツェとともに生まれ故郷のザルツブルク(写真)に里帰りした時に、ウィーンに残してきた長男のライムント・レオポルトが病死したとの連絡が入り、急ぎリンツ経由でウィーンへの帰途についた時のものだとか。
 この帰路の途中、リンツにおいて急遽演奏会が開かれることになりましたが、モーツアルトには交響曲の持ち合わせがなく、たった4日で書き上げたのがこの曲だそうです。
 曲は伸びやかで、奥深いものでした。
2021/01/15のBlog
[ 17:59 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2021年1月15日(金)13時~14時30分
 人生を歩むうえでのバックボーンについて、明治の作家・夏目
漱石を例に解説がありました。
 漱石の「人生」を打ち出した作品として、彼が40才頃に発表
しました「草枕」があります。
 誰もが一度は手にした作品で、特に冒頭の部分に人生が凝縮
されていると言える由。 すなわち・・・
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に
棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住み
にくい。住みにくさが高じると・・・・・」とあります。
 これは30才の主人公(画家)が苦しんで苦しんで芸術を生み出していく物語です。
 また若き日の漱石は、人生について深刻に悩み、真っ向勝負の人生論を展開した寄稿文(明治29年10月・第五高等学校「龍南会雑誌」)があります。
 これによれば、「人生とは事物の幾遷推移であり(略)遭蓬百端千差万別、十人には十人の生活があり、百人には百人の生活があり(略)生涯を有す。」・・・・とあります。
 結局 「生まれた時は何者でなくても、死ぬ時は唯一の存在だ。」すなわち、生まれた時は野のものとも山のものともわからないが、人生を歩いていると失敗あり、喜びありで、しかし死ぬ時は人生が形作られている由にて、人生に万能なマニュアルはなく、オンリーワンであるとのことでした。
2021/01/05のBlog
[ 20:41 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月5日(火) 14時~15時30分
 プッチーニ(1858~1924)作曲のオペラ・蝶々夫人をDVDを
鑑賞しながらのオペラ講座がありました。
 プッチーニはイタリアを代表する作曲家で、イタリアオペラ
ではヴェルディと並んでオペラ部門の双璧です。
 彼はこの他にも中国・北京を舞台とした「トゥーランドット」等
東洋を舞台とした作品を発表しています。
 そしてこのオペラにはあちこちに日本の曲(宮さん宮さん、
お江戸日本橋、さくらさくら、越後獅子・・・)がさりげなく挿入
されていて、日本人には親しみやすいオペラだと言えます。
 あらすじですが、19世紀の長崎が舞台で、アメリカの海軍中尉・ピンカートン(東洋艦隊に勤務)は喋々さん(長崎・大村の士族の娘で、明治維新時に父が切腹したため、芸者をして働いている)を嫁に迎えます。
 やがて彼は本国へ帰国し、アメリカ人女性と結婚いたします。
 3年間ピンカートンを待ち続けた喋々さんですが、再来日した彼の現実を知り、子供を残して父が切腹した短刀で自害します。
 なお、今回はソプラノ歌手による代表的なアリア(「ある晴れた日に」「小さな神様」等)を生で聴くことができました。(写真)
2020/12/17のBlog
[ 17:56 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2020年12月17日(木)11時~12時30分
 昭和を代表する作家・山本周五郎の作品の中から「さぶ」の紹介が
ありました。
 彼は1903年山梨県に誕生(本名:清水三十六)、1916年小学校を
卒業し、貧困のため質屋:きねやに奉公、1926年文芸春秋に「須磨
寺付近」を掲載(出世作)、1943年「日本婦道記」が直木賞に選ばれ
るも辞退、1959年「樅の木は残った」の毎日出版文化賞を辞退、
1961年「青かべ物語」の文芸春秋読者賞を辞退、1967年死去。
 彼のペンネーム「山本周五郎」は、13才の時に奉公した質屋の
主人の名で、この経営者は店員全員に簿記と英語を習わせ、夜学にも通学を許すという人格者(精神的・物質的な庇護者)だったことによるのだとか。
 彼の特徴は、主人公は懸命に生きる無名の貧しい人々で、・反権力志向の作家、・賞を辞退する作家、・軍部からの報道班員要請を断った作家、そして「へそ曲がり」であった由です。
 「さぶ」のあらすじは、江戸下町で雨の中で泣いていたさぶの姿を見つけ、栄二がさぶを慰めるところから始まり、二人は表具屋・芳古堂で働いていましたが、無実の罪をきせられ人間不信におちいった栄二が、人足寄場で苦難と闘うのをさぶが支えるという友情を描いたものです。
 さぶは、回転が鈍く不器用だがひとつのことに一生懸命になるタイプで、栄二は男前で頭が良く器用な職人タイプという設定でした。
 彼の遺言は「貧困と病気と絶望に沈んでいる人たちのために、幸いと安息の恵まれるように」とのこと。
2020/12/16のBlog
[ 17:56 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2020年12月16日(水)11時~12時30分
 1582年に京都において、織田信長を臣下の明智光秀が謀反して
起こした「本能寺の変」についてのお話しがありました。
 この年(1582年)の主な経緯は・・・
 ●3月11日 ⇒ 武田勝頼、天目山で自刃(武田氏滅亡)
 *勝頼の首実検時に光秀、信長に叱られる。(諸説有)
 ●5月15日 ⇒ 光秀、家康の饗応役を命じられる。
 *饗応について叱責をうける。
 ●5月17日 ⇒ 光秀、中国攻めを命じられる。
 *坂本・丹波を召し上げ、出雲・石見切取次第(諸説有)
 ●5月28日 ⇒ 愛宕山大権現において、連歌を催す。
 *発句「とき(時→土岐)はいま(今)あめ(天)が下しる五月哉」(土岐家の自分が天下をとると宣言?)
 ●5月29日 ⇒ 信長、安土城を出て、本能寺に入る。
 ●6月 2日 ⇒ 早朝、本能寺の変
 光秀が信長を襲った理由は・・・
 (1)遺恨説、(2)足利義昭将軍黒幕説、(3)朝廷黒幕説、(4)四国取り次ぎ説、
 (5)信長非道阻止説、(6)イエズス会黒幕説、(7)秀吉謀略説 ・・・等々がある由。
 さて、その真実は???
2020/12/12のBlog
[ 19:21 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2020年12月12日(土)14時~15時30分
 近代を代表する音楽家のひとりであるグスタフ・マーラー(1860
~1911)について、交響曲第1番(巨人)と同第2番(復活)をDVD
で聴きながら解説をいただきました。
 その生涯は、カリシュト(ボヘミア地方)に誕生(1860)、ウィーン
音楽院入学(1875)、ライバッハ州立歌劇場指揮者に就任(1881)
をはじめ、ライプッチヒ、ブダペスト、ハンブルグ、ウィーン歌劇場
等々の指揮者を務め、ウィーンで没しました。(1911)
 まず交響曲第1番ですが、最初は2部構成の交響詩として発表
されましたが、後に4楽章(第1楽章:自然音のように、第2楽章:力強く躍動し、第3楽章:厳粛に重々しく、第4楽章:嵐にような激励)の交響曲になった由。
 副題の「巨人」は、マーラーの愛読書であったジャン・パウルの小説「巨人」に由来しているようですが、これは上演に際してつけられたとのこと。
 次に交響曲第2番ですが、これは5楽章(第1楽章:真剣で厳格な、第2楽章:ゆっくりと、第3楽章:静かに流れるような、第4楽章:厳粛に素朴に、第5楽章:荒々しく達成感をもって)からなっています。
 副題の「復活」は、もちろん「キリストの復活」のことで、第5楽章で歌われる歌詞からとられたもののようです。(第4楽章と第5楽章に声楽<シンフォニー・カンタータ>を導入)
2020/12/10のBlog
[ 17:56 ] [ 生活・社会 ]
日 時 2020年12月10日(木)10時~11時30分
 ソクラテスやプラトンとともに西洋哲学者の一人とされるギリシャの
哲学者・アリストテレス(BC384~BC323)についての講座があり
ました。
 彼の生涯は、エーゲ海北岸に生まれ(BC384)、アテネのアカデ
メイアに入学(BC367)、自身の学園・リュケイオンを設立(BC335),
没(BC323)・・・です。
 著作集は、論理学・物理学・心理学から経済学・芸術学・生物学・
倫理学等々、多岐にわたっています。
 そのうち、倫理学とは人柄学であり、幸福学であるとのこと。
 「幸福の生」とは、人によって考え方が異なる(ライフスタイルの数だけ存在する。)わけですが、「人間ならではの生き方」をすることが「人間として生きがいのある生き方」であるとし、
 (1)人間の徳をできるだけ発揮させて生きること。
 (2)理性をできるだけ働かせながら生きること。 ・・・・・ だそうです。
 徳には、知的徳(知恵・思慮・技術等)と性格的徳(勇気・温厚・節制等)がある由。
 後者にはいわゆる中庸論があって・・・・・
 ●「勇気」⇒「向こう見ず」と「臆病」の中間で、「恐怖」の感情に関わる。
 ●「温厚」⇒「短気」と「腑抜け」の中間で、「怒り」に関わる。
 ●「節制」⇒「ふしだら」と「無感覚」の中間で、「欲望」に関わる。 ・・・・・とのことでした。