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2021/02/18のBlog
[ 13:52 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2021年2月18日(木)11時~12時30分
 関西文化に育まれた文学の中から、今回は浅田次郎の「壬生
義士伝」が紹介されました
 浅田次郎(本名:岩戸康次郎)は、1951年(昭和26年)に東京
に生まれ、中央大学を卒業後、自衛隊に入隊、その後様々な職に
つきながら、執筆活動を続けてきた人です。
 また彼は数々の賞を受賞しており、その功績を称えられ2015年
に紫綬褒賞を受賞しています。
 主な受賞作品は・・・・・
・1995年:「地下鉄(メトロ)」で吉川英治文学新人賞、・1997年:「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞、2000年:「壬生義士伝」で柴田錬三郎賞、2006年:「お腹召しませ」で司馬遼太郎賞、2008年:「中原の虹」で吉川英治文学賞、2016年:「帰郷」で大佛次郎賞 等々。
 「壬生義士伝」の主人公は、新選組に実在していた諸士調役兼監察の吉村貫一郎という武士です。
 物語は吉村の関係者の証言という形で始まります。⇒頃は明治維新直前で、南部盛岡藩の下級武士・吉村は貧困にあえぐ家族(妻と3人の子供)を救うため、脱藩して新選組に入り、その給金を故郷の家族に送金していましたが、新選組は鳥羽・伏見の戦いで敗北し、吉村は大坂にある盛岡藩の屋敷に逃げ込むも、旧友の大野次郎右衛門は彼に切腹を命じるというものです。(宝塚歌劇でも上演されました)
 後日 子供達は、長男→五稜郭で戦死、長女→大野の息子と結婚、次男→農学博士となりました。
2021/02/17のBlog
[ 14:20 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2021年2月17日(水)11時~12時30分
 NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が終わりましたが、今回は
放送にはなかった”光秀の最期”についてのお話しでした。
 「本能寺の変」から「光秀の最期」までを、順を追ってみて
いきますと・・・
<天正10年(1582年)6月2日> 本能寺の変が起こる。
<6月5日> 光秀は坂本城から安土城へ移動する。
 (信長の茶器類等の接収や諸将への書状作成等々)
<6月7日> 吉田兼見が訪れ、都を光秀に任すとの意向を伝える。
<6月8日> 安土城を明智秀満に任せ、光秀は坂本城へ帰城する。
<6月9日> 光秀は上洛し、朝廷や五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)などに献金する。
 丹後の細川藤孝から「藤孝・忠興父子は信長追悼のため髪を切った」との書状を受けとる。
 光秀は下鳥羽→洞ヶ峠(筒井順慶が気懸り)へ出陣する。
<6月10日> 秀吉が尼崎城へ入場したとの知らせが入る。
<6月13日> 山崎の合戦始まる。(秀吉軍は疲労で、主に摂津の大名らが活躍する)
 光秀は敗北して勝竜寺城に後退し、その夜に城を抜け出し坂本城を目指す。
 そして小栗栖で襲われる。(「太田牛一旧記」による)
 その時に光秀は落命したとも、それは影武者で後々まで生きたとも言われておりますが・・・???
2021/02/16のBlog
[ 17:58 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年2月16日(火)14時~15時30分
 ドニゼッティ(1797~1848)の代表作「愛の妙薬」を
DVDを観ながら解説をしていただきました。
 彼はイタリアのベルガモに生まれ、同地で没した19世紀
を代表するオペラ作曲家です。
 このオペラは「オペラ・ブッファ(喜歌劇)」の傑作と言われて
おり、牧歌的な香りのするコミカルなものです。
 そのあらすじは、アディーナ(村の裕福な地主の娘)に夢中な
ネモリーノ(村の純朴な青年)は、ドウルカマーラ(いかさま薬
売り)から愛の妙薬と称したワイン(安物)を買うも、アディーナをベルコーレ(守備隊の軍曹)にとられそうになります。(アディーナはいったんベルコーレのプロポーズを受ける。)
 そこでネモリーノは再び愛の妙薬を買うお金をかせぐため、守備隊に入隊しようとしますが、それを聞いたアディーナは心をうたれ、ついに愛を告白するというものです。
 舞台の設定がスペインのバスク地方ということもあってか、田園風で明るく仕上がっています。
 このオペラは、第2幕のネモリーノのアリア「人知れぬ涙」を聴くだけのもの・・・という人もいるようですが、今回の解説をお伺いしながらアディーナ・ベルコーレ・ドウルカマーラのアリアを聴かせていただき、各々の性格をよく表したものと感じましたし、アンサンブルも魅力的でした。
2021/02/06のBlog
[ 14:44 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年2月6日(土)10時30分~12時
 五嶋みどりの弟である五嶋龍のヴァイオリンをCDで聴く
集いがありました。
 彼は、1988年にニューヨークで生まれ、3才からヴァイ
オリンを始め、今では演奏活動にとどまらず、教育活動、
国際文化交流、社会貢献活動などをグローバルに展開
しています。
 曲は4曲で(1)ブラームス作曲:ヴァイオリンソナタ第2番
(2)ラベル作曲:ツィガーヌ、(3)リヒャルトシュトラウス作曲
ヴァイオリンソナタ、(4)サラサーテ作曲:カルメン幻想曲でした。
 (1)第1楽章はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の中の曲に似ている部分がありますが、直接関係ないとのこと。
 ブラームスはウィーン楽友協会の蔵書を自由に閲覧できる立場にあったことから、古い音楽形式から多くを学んだ由。
(2)ラベルは、鋭い知性と敏感な感性で斬新な響きの音世界を追求したフランスの作曲家で、この曲はロマ風の音楽でした。
(3)ロマンチックな情熱にあふれる曲でした。
(4)サラサーテは、スペインが生んだ大ヴァイオリニストで、この曲はビゼーの歌劇「カルメン」(写真)の旋律をもとに、華麗な曲に仕上げたものです。
2021/01/30のBlog
[ 17:59 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月30日(土)14時~15時30分
 19世紀にブラームス等と共に活躍したアントン・ブルックナー
(1824~1896)について、その生涯と主として交響曲第7番
(演奏時間1時間以上)を中心とした講座がありました。
 この講座は、ピアノとチェロによる実演(主題のメロディ等)と
DVDによるオーケストラを聴きながらのものでした。
 まず彼の生涯ですが、1824年にオーストリアのリンツにほど
近いアンスフェルデンという小村に小学校教師の長男として
生まれました。
 長じて父と同じ小学校教師の職につきますが、他方聖フローリアン修道院でオルガンのレッスンを受け、やがて修道院オルガニストに任命されます。
 その後、ウィーン楽友協会のジーン・ゼヒタに、続いてオットー・キッラーに音楽理論や作曲家になるための応用力等を学び、作曲家として本格的な歩みを始めました。
 交響曲第1番を1866年に書き上げ、第2番は1873年のウィーン万博の閉会祝典のひとつとして演奏され、さらに第3番は1877年に初演されます。
 その後、第4番・第5番・第6番と完成させ、本日のメインテーマである第7番は1883年に完成し、翌年にライプッチヒ歌劇場において初演されるに至りますが、その時のメディアは「作曲家は再三再四、嵐のような喝采で呼び出された」と表現したほど大成功だった由です。
2021/01/28のBlog
[ 18:04 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2021年1月28日(木)10時~11時30分
 大阪ゆかりの作家と題し、ノーベル文学賞受賞者・川端康成に
関する講座がありました。
 彼は1889年(明治32年)に大阪市北区に生まれ、父母の死に
よって茨木の祖父母に引き取られました。
 しかしここでも祖母が7才の時に死去し、16才になるまで祖父
と2人で暮らし、その16才の時に祖父も亡くなったので中学を卒業
と同時に上京しています。
 東京大学文学部を卒業後は文学を志し、数々の名作を生み出し
1968年(昭和43年)にノーベル賞を受賞いたしました。(69才)
 しかしペンクラブ等の多忙の中、1972年(昭和47年)夜、72才でガス自殺しております。(遺書はなし)
 上記の経歴で解りますように、16才で天涯孤独になった作家で、これを現す作品として「十六歳の日記」がありますが、内容は祖父の看取り日記で、27才の時に「あとがき」をつけて発表されており、これが川端文学の出発点であるとのこと。
 すなわち、1才で父を、2才で母を失い、祖父母に引き取られて育ちますが、7才の時に祖母を、そして別の親類に引き取られていた姉をも10才の時に失っています。
 孤児感情に苦しみ、また初恋と失恋を経て「伊豆の踊子」を発表します。(大正15年)
 その後、「雪国」「舞姫」「千羽鶴」等々を世に出し、ノーベル文学賞に繋がっていきました。
 なお、ノーベル賞受賞記念講演は「美しい日本と私」でした。
2021/01/20のBlog
[ 17:59 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2021年1月20日(日)11時~12時30分
 天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(明智光秀
が主君・織田信長に謀反)の時に織田信長の重臣たちの動向が
どのようであったか・・・のお話しがありました。
●柴田勝家⇒上杉景勝の与力・山本寺孝長たちが籠城していた
 魚津城を攻略中であった。
 これを落城させ、さらに越後へ向かおうとしていた時に信長の死
 が伝えられ(4日又は5日)、京へ戻り始めましたが上杉軍に追撃
 され、長浜に着いたのが18日でした。
●滝川一益⇒本拠地である厩橋(群馬県前橋)にて越後の上杉や関東の北条を攻略準備中、
 知らせを受けたがなかなか戻ることが出来ず、清州城に着いたのが20日過ぎでした。
●森 長可⇒柴田勝家の援軍として信濃の北部にいました。
 知らせを受けて戻るも、途中敵対する土豪らと戦を繰り広げて手間取りました。
●河尻秀隆⇒武田勝頼攻めに功績があって甲斐に滞在していました。
 知らせにより京へ戻りかけるも、土豪たちに討たれてしまいます。
●丹羽長秀⇒神戸信孝(信長の三男)の補佐役として、四国の長宗我部元親を攻めるため、堺に滞在中、
 知らせを聞いて大坂城にて光秀の内通者(?)織田信澄を討ちとりました。
●羽柴秀吉⇒備中松山城攻めの3日に知らせを受け、急遽毛利と和解して帰途につきました。
 世に言う「中国大返し」で、7日に姫路着、11日に尼崎着で、13日に山崎で光秀軍を打ち破りました。
2021/01/16のBlog
[ 14:25 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月16日(土)10時30分~12時
 モーツアルトの交響曲、(1)第32番、(2)第35番<ハフナー>
(3)第36番<リンツ>の3曲をCDで聴く集いがありました。
 (1)は、単一楽章で曲もソナタ形式という一般的な型であり、
提示部~展開部~再現部~結尾部と作曲されています。
 ごく普通の作風ですが、内容はモーツアルトらしい重みの中
にも優雅さのある曲でした。
 (2)は、ジークムント・ハフナーが爵位を得たための祝賀曲で
あった曲ですが、この交響曲は以前(1776年)に同じザルツ
ブルクのハフナー家の婚礼のために作曲したセレナーデ(K.250)をベースにしたものとのことです。
 すなわち、そのセレナーデから楽器の編成や構造を変えて交響曲の形(4楽章)に変更した由。
 セレナーデからの転用のためか、耳に心地よいシンフォニーでした。
 (3)は、ウィーンに居たモーツアルトが妻のコンスタンツェとともに生まれ故郷のザルツブルク(写真)に里帰りした時に、ウィーンに残してきた長男のライムント・レオポルトが病死したとの連絡が入り、急ぎリンツ経由でウィーンへの帰途についた時のものだとか。
 この帰路の途中、リンツにおいて急遽演奏会が開かれることになりましたが、モーツアルトには交響曲の持ち合わせがなく、たった4日で書き上げたのがこの曲だそうです。
 曲は伸びやかで、奥深いものでした。
2021/01/15のBlog
[ 17:59 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2021年1月15日(金)13時~14時30分
 人生を歩むうえでのバックボーンについて、明治の作家・夏目
漱石を例に解説がありました。
 漱石の「人生」を打ち出した作品として、彼が40才頃に発表
しました「草枕」があります。
 誰もが一度は手にした作品で、特に冒頭の部分に人生が凝縮
されていると言える由。 すなわち・・・
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に
棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住み
にくい。住みにくさが高じると・・・・・」とあります。
 これは30才の主人公(画家)が苦しんで苦しんで芸術を生み出していく物語です。
 また若き日の漱石は、人生について深刻に悩み、真っ向勝負の人生論を展開した寄稿文(明治29年10月・第五高等学校「龍南会雑誌」)があります。
 これによれば、「人生とは事物の幾遷推移であり(略)遭蓬百端千差万別、十人には十人の生活があり、百人には百人の生活があり(略)生涯を有す。」・・・・とあります。
 結局 「生まれた時は何者でなくても、死ぬ時は唯一の存在だ。」すなわち、生まれた時は野のものとも山のものともわからないが、人生を歩いていると失敗あり、喜びありで、しかし死ぬ時は人生が形作られている由にて、人生に万能なマニュアルはなく、オンリーワンであるとのことでした。
2021/01/05のBlog
[ 20:41 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2021年1月5日(火) 14時~15時30分
 プッチーニ(1858~1924)作曲のオペラ・蝶々夫人をDVDを
鑑賞しながらのオペラ講座がありました。
 プッチーニはイタリアを代表する作曲家で、イタリアオペラ
ではヴェルディと並んでオペラ部門の双璧です。
 彼はこの他にも中国・北京を舞台とした「トゥーランドット」等
東洋を舞台とした作品を発表しています。
 そしてこのオペラにはあちこちに日本の曲(宮さん宮さん、
お江戸日本橋、さくらさくら、越後獅子・・・)がさりげなく挿入
されていて、日本人には親しみやすいオペラだと言えます。
 あらすじですが、19世紀の長崎が舞台で、アメリカの海軍中尉・ピンカートン(東洋艦隊に勤務)は喋々さん(長崎・大村の士族の娘で、明治維新時に父が切腹したため、芸者をして働いている)を嫁に迎えます。
 やがて彼は本国へ帰国し、アメリカ人女性と結婚いたします。
 3年間ピンカートンを待ち続けた喋々さんですが、再来日した彼の現実を知り、子供を残して父が切腹した短刀で自害します。
 なお、今回はソプラノ歌手による代表的なアリア(「ある晴れた日に」「小さな神様」等)を生で聴くことができました。(写真)