「嵯峨天皇御陵」〜ミニ京都旅②〜

「法輪寺の虚空蔵菩薩様にお会いしただけで

帰るのはもったいない!」ということで、

嵯峨の美しい田舎風景を満喫しつつ、

嵯峨天皇の御陵

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/052/index.html

にお参りに行って来ました。

20分程のちょっとした登山でした(笑)♪

嵯峨天皇は、弘法大師空海(お大師さん)と

同時期に生きておられた、第52代天皇です。

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日本の歴史を1200年くらい巻き戻してみます。

都が京都・平安京に移った時代。

中国の影響を残す一方で、

唐から帰国した最澄が天台宗、空海が真言宗を開き、

日本仏教が独自路線に歩み始めた時期でもありました。

仏教だけではなく、国全体が“日本らしさ”に

向かって歩み始めた時代なのではないでしょうか。

50代・桓武天皇(737〜806)が

平城京から長岡京を経、

794年平安京に都を移しました。

国家の首都を移すということは、

我々現代人が想像出来ない国難

(国家の末期的状況)があったのでしょう。

その息子である平城天皇(774〜824)が

51代になるのですが、病弱でたった3年で

弟の嵯峨天皇(786〜842)が天皇を譲り、

自分は旧都の平城京に引っ込んで暮らしていました。

平城天皇は、当時権力を握りまくっていた一家である

藤原家の藤原薬子という女性を妃としていました。

最初は薬子の娘が妃だったのですが、

平城天皇が次期天皇になると分かったとたん、

平城天皇をそこのかし、不倫関係になり・・・

その事実を知った桓武天皇は薬子を追放するのですが、

不倫関係は秘密裏に続き、やがて平城天皇の世になり、

娘を追い払って自分が妃になりました。

で、一旦は平城京に引っ込んだ平城天皇と薬子なのですが、

平城天皇の病状が良くなったことで薬子が

「貴方、もう一度天皇になりましょう!」と、

嵯峨天皇を追い出そうとあれこれ画策する

(所謂「薬子の変」)のですが結局失敗して、

薬子は自害、平城天皇は出家します。

ま、薬子を悪用した藤原氏の勢力がいた訳です。

以上のように、父親が遷都したことと

身内のスキャンダル・謀反だけでも、

嵯峨天皇がいかに苦悩の連続で大変で、

【鎮護国家】こそ最も切実な願いであったかが分かります。

嵯峨天皇は上皇時代を含めおよそ30年もの間、

国政の中心的人物になりました。

その嵯峨天皇の絶対的信頼を受けたのが、

弘法大師空海(お大師さん 774〜835)です。

二人の関係は、上下という感じがしなくって、

活躍する分野はそれぞれ政治(まつりごと)と

真言密教(宗教)と違いますが、

「共に鎮護国家をして参ろうぞ!」と

タッグを組む【絶対的信頼のあるパートナー】であったと

私は観じています。

お大師さんの生前の偉業や思っておられたことを

更に深く知るためには、

この嵯峨天皇の想い【念】や実際の動きを知る必要があると、

普段より感じていました。

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現在もある種の【国難】に置かれています。

この嵯峨天皇の御陵ですが、

3年程前に土砂崩れが起こり、

1年くらい登拝を禁止し、

2年程前に新しい道(ひたすら綺麗な階段の道)が

出来たそうです。

“土砂崩れ” 御陵が崩れる・・・

嵯峨天皇から今を生きる我々への

“メッセージ〜忠告〜”でしょうか。

・・・1200年以上前の先人たちが

どのように国難を捉え、思い、

そして乗り越えられたのか?

私はその御二方のことを想うだけでも、

目頭が熱くなります。。。(=人=)☆