「祈るということ、雑感」

神社仏閣、お墓や仏壇のある場所に行きますと、

みなさん手を合わせて祈っておられます。

最近観じていることは、

本来は上記の場所を含めての人生全てにおいて

【祈り・信仰】というものが必要で、

生活の中に自然に溶け込んでいるもの

であるということです。

神や仏というたぐいの、目に見えない存在たちは、

各種自我・我欲に囚われている程に

正しく認識出来ないように出来ておりますが、

その大いなる存在たちは

【万物(人間も含む)】に宿っていて、

神社仏閣、お墓&仏壇だけにある訳では

ないということです。

従いまして、

上記の場所の中だけで手を合わせ謙虚に過ごし、

その他の場所では、他人のものを奪ったり、

約束を平気で破ったり、

物(他者の命)を粗末に扱ったり、

地球環境を破壊をするなど、

自我我欲に流されて我が儘に過ごすということは、

万物に宿る無限大の神々に対する冒涜であり、

その大罪が塊となり、

その人の人生にありとあらゆる問題

〜苦難〜を起こしていきます。

途中でそのこと(罪)に気づき、反省懺悔&改心し、

自我我欲を消そうと努力し始めると

やがてその苦難は消えていき、

苦難が起こる前よりも幸福な状態になりますが、

何も気づかなかったり、何も変えなかったりすると、

その苦難はどんどん酷くどうしようもなくなって、

最悪の場合死んだりします。

神々曰く

「死んでからゆっくりじっくり反省懺悔してください」です。

ま、これは因果応報・自業自得という名前の

自然の摂理【宇宙の法則】です。

また一方で、「〇〇に御利益がある」

「今お参りすると〇〇が貰える」云々と、

それに飛びついてあっちこっちの神社仏閣を渡り歩き、

ひたすら祈願や貰うことばかりを追いかけている

参拝‘客’を私はたくさん観て来ました。

信仰の世界は数ではなく、

【大いなる一つの想い(絶対的信念)の

高さ・深さ、正しさ】です。

(だから私は、お四国を何度もお参りしております。

何周お参りしたかではないです)

他力で神々にすがるだけの祈願、

はたまた【真我】からではなく、

【自我】から発心された祈願は

一瞬叶うように見えたとしても、

神々は真にその人を救い上げず、

更に堕しにかかります。

それがその人に与えられた神々からの御利益

【愛】であることに気づかず、

「ここの神は御利益がない、他のところに行こう!」と

更に渡り鳥状態となり、

そんな他力にすがる人間が集まる低次元場所で、

同じような低次元の人間から放出される

【悪想念】を貰って帰り、

さらに多くの人間がドツボにはまり続けています。

信仰という、目に見えないありとあらゆる力を

味方につけることの基本中の基本は

【他力】ではなく、【自力】です。

日々の生活全てに信仰を落とし込むのです。

真我(世のため人のために自らの命を燃やす心)に生き、

日々自己努力を惜しまない人間のもとに

絶大かつ偉大なる神々【他力】が宿り、

その人の物心両面のあらゆる応援をされるのです。

地球を含む宇宙全体の次元が

遥か彼方なる勢いで上昇をし続けており、

真我・自力で生きる人間と、

自我・他力で生きる人間との差が開いていきます。

人間は幸せになるために生まれて来ました。

自我・他力ではもう幸せにはなれない

次元に入っております。

宇宙が地球が大いなる意思を持って

本気でそう成されており、

我々人間もそのように変わらなければ、

未来に待っているのは絶対的不幸であり

【永遠なる死】しかありません。

我々日本人だけではなく、

地球人全員が試されるXデーも近いと観じております。

自我とともに自滅するか、

あらゆる苦難や葛藤を経、

真我に成長進化して真の幸福の境地を得るか、

道はどちらかしか選べないように

なっているようです(=人=)☆