「人間は何故不幸なのか」

日々人間観察に勤しんでいる中で、

永続的に最高次元の幸福の境地に

達している人はほぼいないと認識しています。

古今東西人間は幸せになりたいと

願い生きては死んで逝きます。

文明は進歩し、ちまたに物があふれ

便利で快適な世の中になりましたが、

精神的な次元での進化というものは、

自己中心的な大人や未だ戦争や搾取が蔓延る

今の地球を見て、到底なし得たものではなく、

逆に退化しているのでは?と一種の虚無感を観じています。

みんな幸せになりたいといつも心底

思っているのにも拘わらず、

「自分(人間)は何故今、不幸なのか?」と、

多くの人は真剣に考えようとはしていません。

真剣に考えていても、日々目先のことで手一杯になり、

枝葉のいくつかの要因だけを知り、

根元的な原因〜不幸の元凶〜を見つけることなく

道半ばでタイムオーバーとなり(寿命が来て)、

この人間界を去っていかれる人もまた多いです。

【人間の不幸の源は、自らが持つ欲(自我と我欲)】

であると私は推測しております。

自我:恐怖心(その究極は「生命欲」、

永遠に生きたい・死にたくないという想い)

我欲:恐怖心から発心された、貪りなど

「自分さえよくなったら相手を殺してもいい」的な

自己中心的な言動を引き起こす想い

その自我は一体どこから来たのか?

その根源(もと)を様々なアプローチで探っています。

その過程で

【死に対する恐怖心→死を忌み嫌う心、生への執着心】

というものが根源であると現時点では認識しています。

昨年秋に青森の三内丸山遺跡に行って来ましたが、

少なくとも古来の日本(縄文時代)までは、

【死に対する恐怖心/生への執着心】は

薄かったように思います。

(三内丸山遺跡の地場には、人間が遺した執着の念はありません。

戦争・武器の痕跡もありません。殺し合いをした形跡がないのです。)

稲作文化が大陸からやって来て(弥生時代)、

狩猟生活から農耕(定住)生活に変わっていきました。

収穫した米などを大量に貯蔵するようにより、

食べ物が少ない時期でも困ることがなく、

飛躍的に人口が増えまた人口が大陸から

流入して来た時もあったかと思います。

稲作をするための定住生活を利用し、

我が国のかつての支配者たちは、

民衆を効率よく支配管理したという側面もあります。

ところが、この【貯蔵すること】が、

「もしも我々の貯蔵庫の中の食べ物が

すっからかんになったらどうしよう。みんな餓死してしまう!」

という、不安や恐怖心をどんどん生んていき、

さらに個人また家族、村ごとに格差

(蓄えの多い・少ないという貧富の格差)を生み、

多い方は優越感、少ない方が劣等感を生んでいき、

「どんなことがあっても餓死しないように、

我々の貯蔵庫にはたくさん食べ物を入れておきたい!」と、

時には他の村々の貯蔵庫の中の食べ物をこっそり盗んだり、

「どんなことをしても我々は生き残っていく」と

他の村人と争って皆殺しにし、村ごと搾取するいう・・・

貯蔵・所有することへの執着→格差→対立という

【罪】をどんどん生んで行ったように思います。

稲作文化が大陸からやって来た時、

それと一緒に大陸の人間に長く培われて来た

【死に対する恐怖心→死を忌み嫌う心→

他人を殺してでも自分が生き残っていくのだという

究極の生命欲/執着心】も日本にやって来て、

土地や米などの作物を専有することによって、

上記の自我我欲(罪)が日本人の心の中/

DNAにどんどん積み重なって今日に至り、

陰に陽に今を生きる人間の人生(心)に

悪影響を齎しているようです。

そもそも論といたしまして、この人間界に

一度オギャーと生まれて来た人は、

若干の長い短いはあっても必ず一回死にます。

過去一人の例外もないのです。

お母さんのおなかを通して虚空からやって来た

瞬間の私たちは物は何も所有していません。

死ぬ時(肉体とたましいが分離する時)は

何も持って逝けません。

たましいの中に入れていけるものは

「徳」と「罪」だけのようです。

自分たちが耕している田畑って、誰のものなのでしょうか?

役所の書類に記載されている「土地所有者」のものなのでしょうか?

この土地、この地球(の大地)は、本当は誰のものでもなく、

と同時に「みんなのもの」なのです。

「死にたくない」「奪われたくない」「もっと欲しい」

「この土地は絶対に誰にも渡さない」と言った執着心は、

地球・宇宙(自然界)の法則と違うもの・心の有り様であり、

真冬の雪道を裸で歩くような不自然さなので、

ありとあらゆる苦難が“天与の恵み”として

その人に与えられ、その執着心(罪)に気づいて、

その心を手放すように仕向けていかれます。

私は日本の歴史で言うところの縄文時代、

はたまた一時期の平安や江戸時代のような、

人間同士が分け合い、助け合い、

認め合う国家(コミュニティ)を形成し、

人間と人間以外の地球上の万物が

調和を描き共存共栄する地球に

還らなければならない・・・と観じております。

でないと、我々地球人類が積み上げてきた数々の罪により、

地球が破滅し、地球人類が絶滅の危機に陥るからです。

とりあえずの終焉を迎えるこの度の“コロナ騒ぎ”で、

地球人類の【Xデー】は近いと気づかれた方、多いと思います。

ま、信じるも信じないも“おまかせ”です(笑)♪

真に幸せな地球になるためのしばしの「産みの苦しみ」の時期です。

【写真】八尾の里山から大阪平野を望む