住友のルーツには、「企業経営の本質」がある
広瀬と伊庭が明治初期に思い描いた百年の計
TBSテレビ『百年の計、我にあり』取材班 2016年01月02日
広瀬から伊庭へと続く経営者時代には、実に多くの難題が降りかかった。明治初期から20年代にかけての話である。
2代目の伊庭貞剛 (写真提供:住友史料館)
財閥が鉱山から興るのには理由がある。世界との生産競争を戦うには、その時代の最先端に触れなければならない。幕末から明治期は世界の動力が一気に変わっていった。蒸気が産業に導入され、そして電気に取って代わられていく——。その変化を体験しなければならなかった。こうした競争に耐えた企業は、産業の多くの分野で飛躍的な発展が必要だった。そこに財閥形成の素地があったといえる。
江戸期の別子銅山はすべて手掘りを行いそして人力で運んだが、効率が悪かった。銅山は別子山中にあり、1000メートルを超える高さから鉱石を掘り出し、今の新居浜市まで運んだ。日本の技術力、経済力がもろに反映する。すべてが難題だった。
ガス灯が灯り電気がやっと作られ始めた時代に、蒸気機関車を山の上まで走らせようとし、手掘りに代わって蒸気の削岩機を導入し、黒色火薬やダイナマイトを導入し始めたのだ。すべて初めての体験だった。
さらには山をぶち抜きトンネルを作り発電も始めた。それは東京や大阪の都会とそれほど変わらない時期にスタートさせるということだった。明治22(1889)年に東京から大阪に鉄道が敷設され、さらに西に延びようとする時期の明治26(1893)年に山岳鉄道が建設された。電話は鉱山にも作られた。鉱山には国の最先端技術が集まった。その最先端を走ったのが初代総理事の広瀬宰平である。
100年先を見なければ欧米と肩を並べられない
広瀬は100年先を夢見た。それが経営哲学にもなっていた。「百年の計、我にあり」。100年先を見わたさなければ、欧米と伍して銅の生産を続けることはできなかった。
伊庭貞剛を演じる石黒賢(左)と広瀬宰平を演じる榎木孝明(右)TBSテレビ新春スペシャルドラマ『百年の計、我にあり』は1月3日12:00〜13:54放送
時代的な幸運もあった。明治22(1889)年に広瀬宰平はパリ万博を見学する。そこで巨大な建築物エッフェル塔を見る。ヨーロッパはこの巨大な建築物で騒然としていた。広瀬は最先端に触れた。また、パリ万博では電気が大きな目玉になっていた。当初、巨大建築物を作り、それをライトアップする計画だった。あまりに壮大すぎ、それが変更され、エッフェル塔建設に繋がった。
巨大な建築物・エッフェル塔。まさしくこれは鉄である。近代化を図る意思を広瀬はさらに強めることになる。銅ばかりではなく鉄をも日本で作り出そうとした。そして米国では蒸気機関車が山道を走るのを見た。ゴールドラッシュである。別子の山にも走らせたい。近代化への思いはさらに強くなった。欧米もまた近代化の最中だった。欧米とともに走る、それが夢となっていく。
だが、広瀬の夢はすぐに実現することではなかった。公害が発生したのである。製錬所から排出される亜硫酸ガスは農作物に多大な被害を及ぼした。これもまた世界の最先端を走っていたからだが、科学の力はまだ追いついていなかった。日本だけではなく、世界の技術がこれを解決できなかった。
そして解決に向けた研究が始まる。それは世界の研究の最先端を知ることと同じだった。100年遅れているはずの日本がさまざまな場面で世界との距離を縮めていく。
そして、住友は広瀬から伊庭へと経営者が交代した。広瀬宰平が住友の経営を任されたとき、まず手を付けたのは西洋の技術の導入だった。フランス人技術者ルイ・ラロックを呼び、別子銅山を約2年にわたって調べさせ改善計画を作らせた。当時お雇い外国人の全盛期であった。