日本の三大商人−大阪・近江・伊勢商人にみる日本商業の発達の軌跡−
はじめに・・・江戸末期に浪速商人による日本型株式制度の萌芽が
ユダヤ人、インド人、中国人を世界の三大商人と呼んでいます。日本人は近世までサムライの国でしたから、セールスは下手であると思われてきました。その江戸二百数十年間は「士農工商」の身分制社会が表しているように、武士が支配する時代だったといっていいでしょう。
ところが、それは表の顔にすぎず、実際に社会を動かしてきたのは商人たちでした。とくに江戸の中期以降は、商人の流通経済が武士のコメ経済を圧倒して、次第に武士は指導力を失っていきました。
すなわち江戸期の士農工商という身分・階級制度と米経済が、皮肉にも商業の発展、そして豪商の隆盛をもたらしたのです。
株式会社というと当然、明治以降に輸入されたものとされていますが、江戸末期に近江商人や浪花・浪速商人が出資者を集めて、大きな資本による商いを成功させて、配当金を配っています。
これを組合商人と称しましたが、これこそ日本型株式制度の始まりといっていいでしょう。
商人の誕生・・・物々交換の「商い」は人間の歴史と共に古代から存在
日本書紀や中国の史書に記録された文献資料がないことには、歴史上の事実として学界では認められませんが、「商(あきな)い」そのものは、史料のあるなしに関わらず、“物々交換”という形で、人間の歴史と共に存在しました。
文字もなく、したがって歴史も記録もない原日本人や縄文人の時代、そしてさらに弥生時代人から古墳時代の生活へと、歴史と文化が積み重ねられていくにつれて、この商いの方法は発達し、品数も増えていきました。
歌や記録に残された「〇〇〇〇の市」
万葉集には「海柘瑠市(つばいち)」「軽の市」「餌香(えか)の市」などの名が歌や記録に残されています。それは物々交換の市が立った場所で、各地からそれぞれの産物や手づくりの品を持った人たちが集まってきて、有無相通じる交換を行っていました。
この市も少し後の時代になると、例えば八の日ごとに開かれて、八日市(ようかいち)の地名を生むようになります。
平安時代に市の商品流通量が飛躍的に増大
やがて、貨幣が用いられるようになり、富の蓄積が行われて、富家と貧家の別が生まれ、徐々に格差社会に入っていきます。
大和の平城(なら)の都には東市と西市があって、食物や生活用品がいっぱい並べられていましたが、これは官営でした。
このような官営の市と各地で開かれた自由市は、そのまま平安時代に引き継がれ、平安京の東市と西市は奈良時代と比べ物にならないほど豊かな商品量を誇っていました。
庶民はもちろん貴族も、この市へくるのを楽しみとして、いろいろ買い物をしていきました。
都から絹布や針や化粧品を持って各地へ売りに行く者や、源義経の幼少時代、。
藤原氏の平泉王朝に代表される、奥州から金売り吉次のように黄金をもってくる者、北陸の海から魚を運んでくる者などがいて、商品の流通が盛んになっていきました。