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シニア文化塾だより
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2017/04/24のBlog
・日時:4月18日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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木簡について
木簡とは、発掘調査によって地中から見つかる墨で字が書いてある木片の総称。1961年「平城京跡」での最初の発見が、日本における木簡の存在が広く認知される契機になった。これまで日本で出土した木簡は、小断片や削屑(けずりくず)も含めて、総計43万点余り。

日本最古の木簡 (*右上の資料を参照。)
現在、年紀の書かれた日本最古の木簡は、難波宮跡出土の「戊申年」と書かれた木簡で、西暦648年で、大化四年にあたる。
・その他の事例を含めて、確実な日本最古級の木簡は640年代頃。当時、政治の中心である飛鳥・難波とその周辺地を中心に出土している。出土点数は少ないが、文書・記録・荷札・付札・呪符(じゅふ)・習書・その他の木簡が存在している。木簡を削り取った際の削屑も見つかっている。
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法隆寺金堂釈迦三尊像の台座の補足材(*右の資料を参照)
発掘調査による出土品ではないが、法隆寺に興味深い史料がある。それは金堂釈迦三尊像の台座の補足材。もともと建物の扉材であったが、建物を解体したのち、加工して台座の補足材に転用したもので、そこに次のような墨書が残る。
・「辛巳年」(推古二九年(621))の墨書資料。(上記の648年より古い)。
・「留保分七段」「書屋一段」「尻官三段」「ツ支与三段」「椋費二段」などの墨書があり、当時「段」は布の単位として使われたことなどから、布の出納状況を記したものと考えられる。
*注目すべきは、「椋費二段」です。「椋」は「クラ」と訓(よ)む。倉庫を示す「椋」の字は、朝鮮半島で生れたもの。つぎに、「費」は、「費直」と二文字で書く場合もある。これは、氏族のカバネの一つ「直」(アタイ)の古い表記で、「椋費」(くらのあたい)は倉の出納業務に携わった渡来系氏族となる。
このころの戸籍作りなど、文字で記録する仕事は、朝鮮半島からの渡来人に頼っていたようだ。
・飛鳥京苑池遺構からは、「大椋費直伊多」と書かれた木簡が出土している。
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朝鮮半島の影響(*右の資料を参照)
◆ 『古事記』応神記
「百済の照古応(しょうこおう)が和邇吉師(わにきし)を派遣して、『論語』十巻と『千字文』一巻を伝えた話がみえる」。(年代は信用できないが、朝鮮半島の百済を経由して、両書が日本に伝わったことが説話化したものとみられる。)
日本では『論語』『千字文』は役人レベルでは広く読まれたようで、その習書木簡が多数見つかっている。
《事例》
*「観音寺遺跡出土木簡」(徳島市)(7世紀後半)-60cm以上の長大な角材を使い、四側面に墨書(『論語』学而篇の冒頭部など)…韓国の金海遺跡で論語木簡が出土。角材を使用。
*「北大津遺跡出土木簡」(滋賀県大津市.)(7世紀後半)-「字書木簡」。漢字の音を借りて、和訓を示す。(例)「賛」(田須久・タスク)、「鎧」(与里比・ヨロイ)、「慕」(尼我布・ネガフ)など。
*「飛鳥京跡苑池遺構」-「前白木簡」。飛鳥時代には上伸する際、「某の前に白(もら)す」という前白様式が広く使われた。「某の前に白す」は、宣命や祝詞で使用されることもあって、日本独自とみられがちであるが、明らかに朝鮮半島の影響を受けている。
日本語と中国語は言語体系や文法構造が大きく違う。日本語を漢字で記録するために、日本語と近い朝鮮語の記録方法を取り入れたのだろう。
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**あとがき**
・日本における木簡の隆盛は、律令国家の整備・確立とともにもたらされ、最盛期は8世紀であった。
・木簡は、用済みとなった「ゴミ」として捨てられたもの。内容も日常的な、ごく些細なものにすぎない。しかし、それだけに、当時の実態を考える第一級の史料となる。
2017/04/22のBlog
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・日時:4月20日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小林一彦先生(京都産業大学教授)
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**「百人一首」の講義は、第二回**
「百人一首」は、百人の歌人から一首ずつを選んだもので、「古今和歌集」から「続後撰集」にいたる二十一の勅撰和歌集の中から選ばれている。選者は藤原定家とされている。
◇第一回:右大将道綱母
(五十三番)「嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜(よ)の 明くるまはいかに久しき ものとかは知る」
(歌意)(嘆きながらひとりで寝る夜の明けるまでの時間が、どれほど長いものか、ご存じでしょうか。きっとご存じないでしょう。)
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「百人一首」第二回講義
〇80 「長からむ心も知らず黒髪のみだれて今朝は物をこそおもへ」
(歌意)(八十番)(あなたの愛情が長続きするかどうか、わかりかねます。黒髪も寝乱れ、心も乱れて、あなたとお逢いした後の今朝、あれこれ行く末が案じられて、わたしは物思いに沈んでいるのです。)

作者:待賢門院堀河
・待賢門院堀河(たいけんもんいんほりかわ)は、平安時代後期の歌人。神祇伯源顕仲(あきなか)の娘。鳥羽天皇の中宮で、待賢門院璋子(しょうし)に仕え、堀河と呼ばれた。待賢門院の出家にしたがって尼となった。父もすぐれた歌人。西行とも親交があり、勅撰集にとられた歌は65首。生没年未詳。

・(出典)この歌は、(百首歌奉りける時、恋のこころよめる)として、『千載和歌集』・恋三に出ている。
・「長からむ」「乱れて」は、「髪」の縁語。。
・「黒髪のみだれて」…黒髪のように(心が)乱れて。
・「物をこそおもへ」…もの思いにふけっています。「こそ」は強意の係助詞で、文末はこれを受けて「思ふ」の已然形「思へ」で結んでいる(係り結び)。
*この歌は「後朝の歌」…後朝(きぬぎぬ)の歌とは、男女が共寝して別れた朝に、男性から女性へ贈る和歌。「きぬぎぬ」は、男女が共寝の時、互いの衣(きぬ)を重ねて敷いたり掛けたりするが、翌朝、衣をそれぞれ身につけるの意。それから転じて、男女が共寝して過ごした翌朝、あるいは、その朝の別れを意味する。
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◇紀貫之の歌に、「朝な朝なけづればつもる落ち髪の乱れて物を思ふころかな」。髪の乱れを詠んでいるこの歌を本歌として、堀河の歌が詠まれている。
◇和泉式部の歌に、「黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきや人ぞ恋しき」。(後拾遺和歌集・恋三)…(黒髪の乱れが初出)。和泉式部と堀河の歌は、女性の「黒髪」が歌語として確立するうえで重要な歌だった。黒髪は白髪(老い)の反対概念として、「若さ」の象徴となり、そこから女性の妖艶美が派生していった。
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**あとがき**
・この待賢門院堀河は、当時、有数の女流歌人として名高かった人である。
・萩原朔太郎の恋愛名歌集より。…この堀河の歌は、「男と別れた翌朝である。昨夜、愛の言葉を交わしながら、男心のたよりなさを考えれば、行く末のことが不安でならない。どうせ〈長からむ心も知らず〉である故に、今朝の寝乱れ髪が乱れるままに、いっそどうにでもなってしまえと言ふ心を歌って居る。」…(以下省略)。
・西行と親しく、『山家集』『西行法師家集』に贈答歌が見える。
2017/04/17のBlog
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・日時:4月13日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:吉村 稠先生(園田学園女子大学名誉教授)
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松本清張**略歴**(1909-1992年)
・1909年(明治42)福岡県生まれ。尋常高等小学校卒。
・作家清張の歴史は、1950年(昭和25)に始まる(41歳)。週刊誌の懸賞小説への応募、『西郷札』が懸賞三等。
・1907年(昭和27):(43歳)『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。
・代表作:『点と線』(1958年)、『眼の壁』(1958年)、『ゼロの焦点』(1959年)、『日本の黒い霧』(1960年~61年)、『砂の器』(1961年)、『深層海流』(1962年)、『昭和史発掘』(1965~1972年)、『邪馬台国』(清張通史)(1976年)など。(作家40余年、その作品は長編・短編他あわせて千篇に及ぶ。)
・清張のジャンルは広く、現代小説、推理小説、歴史小説、時代小説、ノンフィクション、現代史・古代史の研究など。
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松本清張の原風景
父母について
・父・松本峰太郎は、鳥取県日野郡矢戸村の裕福な田中家の長男として生れたが、貧農の松本家の里子となった。19歳の頃、家出し、広島で看護雑役夫をしていた。広島で紡績女工として働いていた岡田タニとは、広島で知り合って、結婚。しかし、峰太郎はタニを入籍しなかった。
・清張が生まれて明治43年には、広島から北九州に移っている。清張一家は、貧しい家。父は、病院看護雑役夫。、母は、字は一字も読めなかった。
松本清張の原風景を語りだす『父系の指』(私小説)
「…私は、自分の両親が人力車をひく車夫と紡績女工であったことにも、ほとんど野合に近い夫婦関係からはじまったということにも、あからさまな恥を感じない。しかし、自分の出生がそのような環境であったという事実は、他人とは異質に生れたような卑屈を青年のころには覚えたものであった。…(略)。」
・学歴は、尋常高等小学校卒。16歳頃からは家計の補助に働きに出た。学歴差別と貧窮に痛めつけられた清張の前半性-「私に面白い青春があるわけはなかった。濁った暗い半生であった。」と清張は『半生の記』で語っている。
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小説執筆で生活(職場・家庭)の停滞感打破を
懸賞小説への応募-『西郷札』が三等に入選
・1950年(昭和25)、「週刊朝日」が懸賞小説を募集した。清張は、《応募する気持ちはなかった。…ある日、冨山房の百科事典を広げた時、「さいごうさつ」という項目が目に入った。「西郷札」とは西南の役で西郷軍が熊本から日向に転進した時、その地方の物資を徴発するために発行した軍票のことである。(略)事典の解説は、西南戦争後のインフレにもふれていたので、現在の世相にもよく似ていると思い、西郷札を買占めて一儲けを企む商人的な人間を配したら面白い筋になりそうだと思った》。
・三等は賞金十万円。清張41歳。(当時、大卒初任給が5000円くらいだった。)
『或る「小倉日記」伝』が芥川賞を受賞
短編小説。「三田文学」(1952年初出)。1953年(昭和28)芥川賞を受賞。44歳。
**(あらすじ)「小倉在住の田上耕作は、頭脳明晰であったが身体の障害のため不遇をかこっていた。白川病院の書庫で蔵書整理の仕事を手伝い始めた耕作は、森鷗外の『小倉日記』の発見のために一生を賭けることを決意し、母の献身的な力に助けられて、鷗外の事跡を執拗に調査する。しかし、次第に病状が悪化し、歩行も困難になり、耕作の執念は実らなかった。『小倉日記』が発見されたのは、耕作の死の2か月後であった。」
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『天城越え』の意義
冒頭文に見る清張の強烈な『伊豆の踊子』への挑戦的意図
主人公の状況と容貌
「伊豆の踊子」は、高等学校の学生であり、紺飛白の着物に袴をはき、朴歯の高下駄を履く。「天城越え」は、16歳の鍛冶屋の倅で、裸足(はだし)。袴ははいていないが紺飛白を着ている。
天城越えの方向
「伊豆の踊子」の主人公は、東京からトンネルを越えて、踊子の一行と半島の先端の下田までくだる話。「天城越え」は、下田から北へ向かって天城を越えていくが、途中で下田に帰る。
時代の設定
「伊豆の踊子」は、主人公の今・現在のこととして述べられ、「天城越え」は、三十数年昔のこととして語られている。
松本清張の文芸的新境地
清張の天城越えは、主人公が30数年後に自分が天城越えをした時に起こった事件を回想する形式の推理小説である。(事件性を扱った〈社会派〉推理小説の確立)
**(あらすじ)「16歳だった「私」は、下田街道から修善寺方向に天城越えを試みた。この山を越えたら、自由な天地が広がっているように思えた。トンネルを通り抜けると、私は初めて他国に足を踏み入れる恐怖を感じた。…30数年後、「私」が経営する印刷所に、静岡県警から「刑事捜査参考資料」の印刷が持ち込まれた。「私」が驚いたのは、犯罪例に記された〈天城山の土工殺し事件〉が、天城越えの時、出会った流れ者の土工と自分が心引かれた艶やかな女に関わる事件であり、しかも少年だった自分が登場していることだった。印刷を依頼してきた田島老人は、この迷宮入りの事件の担当刑事で、事件の真犯人は当時少年であった私であることを知っている。…(略)」
2017/04/10のBlog
・日時:4月4日(火)am9時50分~11時45分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部 昌利先生(京都産業大学助教)
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**坂本龍馬・関連年表**
・1835年(天保6):郷士坂本家の次男として高知城下に生まれる。
・1848年(嘉永1):(14歳)日根野道場、武術を学ぶ。
・1853年(嘉永6):(19歳)江戸に遊学。北辰一刀流・千葉道場に入門。*黒船来航*。
・1858年(安政5):(24歳)ふたたび江戸に剣術修行。
・1861年(文久1):(27歳)土佐勤王党(武市半平太)に加入。
・1862年(文久2):(28歳)3月、土佐藩を脱藩。九州遊歴、大坂・京都から三度目の江戸へ。12月、勝海舟との出会い(海舟40歳)。
・1864年(元治1):(30歳)長崎・亀山社中(のちの海援隊)を設立。
・1866年(慶応2):(32歳)薩長同盟成立。(薩長同盟を仲介)
・1867年(慶応3):(33歳)11月25日、京都・近江屋で暗殺。刺客は幕府見廻組といわれる。(一ヵ月前の10月13日には二条城で大政奉還。)
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*(右の写真)坂本龍馬肖像(高知県立坂本龍馬記念館蔵)。1867年(慶応3)1月に長崎で撮影(靴をはき、刀は短刀、剃髪なし-龍馬独特のスタイル)。
1.高知城下町(土佐藩の特殊性)
高知城は、市の中心部を東西に流れる鏡川と江ノ口川に囲まれた大高坂山の地に築かれた平山城。関ヶ原の戦いで東軍に属した山内一豊(遠州掛川5万石)は、土佐一国(24万石)を家康から与えられ、10年の歳月をかけて築城した。
・高知城下は城を中心に、山内家臣でも上士の住む「郭中」と、郷士や足軽などが多く住む上町・下町に分かれていた。
2.土佐と「郷士」
①戦国時代の領主・長曾我部氏の遺臣の懐柔策
「長曾我部元親の四国統一を支えたのは、一領具足(半農半士)たち。山内家の支配に抵抗したが、郷士として扱うことにより、体制に取り込んでいる。」
②土地開発のために募集される郷士
「土地開発によって富農になった者や、商人出身者たちも、次第に郷士に取り立てられ、さらに郷士株の売買も許可。」
[複雑な身分差が形成]
「上士」、「陪臣」、「白札」、「郷士」、「下士」、「庄屋」、その他。
3.坂本龍馬は郷士
龍馬は、才谷屋を営む坂本家から分家した郷士坂本家の二男。郷士とはいえ裕福な家。(才谷屋は、坂本家の本家である商家で、質屋のほか酒屋などを営む城下の豪商。)
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龍馬の「脱藩」
「1862年(文久2)3月、脱藩。長州へ赴いた後、九州をめぐり、江戸に下って、8月千葉道場に入る。12月、龍馬は勝海舟と出会い、新しい道を見つけることになる。」
・当時の龍馬には、藩から逃げなければならない切迫した事情というのが、どうも見当たらない。一説には、武市半平太との路線対立から訣別への道を選択したといわれているが、ともかく藩の外に出て活動したかったのではないか。龍馬脱藩の理由には多くの謎が残される。
龍馬の罪
脱藩者を出したにもかかわらず、坂本家に藩から何らかの処罰がされた形跡はないという。龍馬が脱藩した頃は、関所の国境警備はそれほど厳しくない。
・該当する先例は「御関所犯」の条目(関所を通らないで抜けて、出奔した場合は、期間により罰の規定がある。)
(例)3ヶ月以内出奔(城下町ほか四村への立ち入り禁止)。3年以内、5年以内、7年以内、10年以内(追放刑、高知城下より周縁へ)。10年以上出奔(他国に追放)。
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*(右上の写真)桂浜の龍馬像。大正末期、高知県内の青年たちが桂浜の地に龍馬の銅像を建てようと募金活動を開始。1928年(昭和3)除幕。総高13.4m。龍馬像は高さ約5.3m。
**あとがき**
・脱藩は武士の身分を失うだけではなく、重大犯罪であり、捕縛されれば死罪に処されることもあり得た。…と、今まで言われてきた。しかし、脱藩は重罪に違いないが、比較的に短時間で放免され、龍馬に至っては、海舟らの口添えで謹慎で済んだ。それどころか、脱藩の果ての海舟との出会いは、大きな人間像創出のためのプラス要因であった。
2017/04/09のBlog
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・日時:4月8日(土)10時~15時
・【コース】:京阪淀屋橋駅(10時集合)-京阪八幡市駅=ケーブル=男山山上駅-石清水八幡宮-エジソン記念碑-ひだまり散策路-石不動-寝物語国分橋古跡の碑-頼風塚-八幡市役所(食堂で昼食)-単伝庵(落書き寺)-淀屋辰五郎邸跡-飛行神社-高良神社-神応寺-走井餅老舗-背割堤(現地解散:15時)-八幡市駅 (約7km)
・昼食は八幡市役所の食堂で、イタリア料理。
・参加者:18名
・天候:午前中は曇り、午後1時すぎ頃から小雨。
・リーダー:佐藤義夫
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石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊30)(*右上の写真)
石清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)は、九州の宇佐八幡宮、関東の鶴岡八幡宮とともに、日本三代八幡宮の一社。京都盆地南西の男山(標高143m)の山上に鎮座する。貞観二年(860)の創建。祭神は神功皇后・応神天皇・比咩(ひめ)大神の三神で、伊勢神宮に次ぐ天下第二の宗廟。創建以来、公家と武家の信仰が篤く、とりわけ清和源氏が氏神と崇めたことから、必勝の神社として知られる。源氏の流れをくむ徳川家も信仰をよせ、現社殿は三代徳川家光の造営で、国宝に指定されている。
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ひだまり散策路-竹林の小径
石清水八幡宮が鎮座する男山一帯は、三つの散策路がある。今日は、「ひだまりルート」で麓まで1200mを歩く。途中、見事な竹林に出会い、精気を感じて足が軽やか。
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背割堤の桜
背割提(せわりてい)は、京都市八幡市にある堤防で、宇治川と木津川にはさまれた合流部に、全長1.4kmにわたって二つの河川を区切るように設置されている。約250本のソメイヨシノは見頃を迎え、多くの花見客で賑わう。(1.4kmの満開の桜のトンネルで有名)
2017/04/03のBlog
・日時:3月23日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:瀧本和成先生(立命館大学教授)
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『坊っちゃん』を読む
(1)作品の時間構成
・現在-過去(回想)-現在
(2)作品の舞台:東京と四国
(3)あらすじ
◆書き出し-「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。父は可愛がってくれず、母は兄をひいきにする。…ところが下女の清(きよ)だけは、〈あなたは真っすぐでよい気性だ〉とおれをほめてくれる。」
◆四国の中学校の教師に赴任-「物理学校を卒業し、数学の教師として四国の中学に赴任。四国はおれには野蛮なところに見えたし、中学にはロクな教師はいない。宿直の日に蒲団にバッタをいれるなどタチが悪い。策士の赤シャツ(教頭・東大出の文学士)、その取り巻きの野だいこの姑息な策略にまきこまれる。ことなかれ主義の校長の古狸、許嫁のマドンナを赤シャツに取られる好人物のうらなりなどが絡む。」
◆ラスト-「山嵐と坊っちゃんは、赤シャツと野だいこを鉄拳制裁し、松山をあとにする。東京に帰ったおれは、街鉄の技手(市電の運転手)となって、清と一緒に暮らした。…《清は、気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺に埋めてください。お墓のなかで、坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。だから清の墓は小日向の養源寺にある。》」
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(2)作品の基調
この作品は、清と一緒でなかった四国が舞台であるが、清という存在の価値を発見していく過程が、作品の基調となっている。
「おれは、到着早々、清に宛てて、松山での体験や学校のことなどを報じた手紙を書いた。…何か事件にあうごとに、まわりの人間と比べて清が、〈教育もない身分もない婆さん〉ながら、〈人間としては頗る尊い〉ことに気づく。遠くの土地で孤独を味わうことによって、始めて身にしみてわかってきたのだ。」
・(右の資料)「坊っちゃん」の冒頭文…「坊っちゃんは父親、兄とは仲がよくない。ある時兄貴と将棋をさしたら、卑怯な待駒をして冷やかしたので、手に在った飛車を眉間へ放ったら、当たって血が出てしまった。父親から勘当だと言われる。そうすると清が、どうか勘弁してやってくださいと涙を流して父親に詫びを入れて許される。」…この清が、漱石が描いていた理想の母親像。
・「坊っちゃん」とは、清が「おれ」に親愛の情をこめて呼んだ愛称であった。
・清は理想的な女性(母であり、妻であり、恋人であり)。坊っちゃんと清の愛情物語。
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**あとがき**
・夏目漱石(1867-1916年)。本名金之助。江戸に生まれる。五男三女の末っ子。母42歳で晩年の子として疎まれ、すぐに里子に出される。里子が終わると今度は養子にやられ、養父母に育てられる。9歳の時、養父母が離婚し、夏目家に帰ったが、父母は必ずしも温かく迎えなかった。肉親の愛に恵まれなかった幼児の原体験が、後年の漱石文学に様々な愛とエゴイズムの種々相を描くことになる遠因の一つである。
・「坊っちゃん」:明治39年(1906)発表。
・「坊っちゃん」がいかに清を愛していたか。…「清の墓は、小日向の養源寺にある。」(清の遺言通り、坊っちゃんンの家の墓に入れた)というラストの一文は心に響く。

*(注)近代小説の恋愛小説の始まりは、森鴎外の『舞姫』で、美しい踊り子と孤独な留学生の悲しい恋物語。人間のエゴイズムが出てくる恋愛。鷗外自身の体験をもとに書かれた。『舞姫』作品の時間構成は、『坊っちゃん』と同じく、現在-過去(回想)-現在である。n
*「恋愛は人生の秘鑰である。」(北村透谷) 秘鑰(ひやく)(=秘密を解くカギ)
2017/03/29のBlog
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・日時:3月21日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:山田邦和先生(同志社女子大学教授)
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織田信長**関係年表** (抜粋)
・1534年(天文3):織田信長、尾張勝幡城に生まれる。
・1552年(天文21):父信秀死去。信長、家督相続(19歳)。
・1560年(永禄3):桶狭間の戦い(今川義元を敗死。)
・1567年(永禄10):美濃を攻略(斎藤を追放。岐阜城に本拠をおく。)
・1568年(永禄11):【信長35歳】足利義昭を奉じて上洛。
・1570年(元亀元):姉川の戦い(浅井・朝倉の連合軍を破る。)
・1573年(天正元):【信長40歳】京都の室町幕府の滅亡(将軍義昭を追放)。
・1575年(天正3):長篠合戦(織田・徳川連合軍が武田勝頼を撃破)。(11月)従三位権大納言、右近衛大将に任官。
・1576年(天正4):(11月)正三位内大臣に任官。安土城築城。
・1577年(天正5):(11月)従二位右大臣に任官。
・1578年(天正6):【信長45歳】(4月)右大臣・右近衛大将を辞任(但し、従二位は保持する。)
・1580年(天正8):大坂本願寺を平定。
・1581年(天正9):朝廷は左大臣任官を提示したが、信長は辞退
・1582年(天正10):【信長49歳】(4月~5月)「三職推任」。(6月2日)(本能寺の変。信長自刃。)
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信長の官職と政権構想
・信長は、尾張時代は上総介、尾張守と称していた(自称)。朝廷より任官を受けることはなかった。
・天正元(1573年)足利義昭を京都から追放。このころから信長は、官位を上げ始める。→天正二(1574年)従三位参議に昇任。天正三(1575年)に従三位権大納言・右近衛大将の任官。天正4年には、正三位内大臣に昇任した。
・逆に、天正六(1578年)4月には、突如として、右大臣・右大将の両官を辞任した。(理由-①まだ、征伐の功いまだ終わらず。敵対勢力が残っているので官職を辞退したい。②全国平定をなしとげた際は、登用の勅命を受けたい。③官位は、嫡男・信忠に譲りたい。) …信長は、正二位にとどまって、朝廷との適度な距離を保ちつつ、後継者の信忠に任官させたと考えられる。
・信長の政権構想は、「官位にとらわれない天下人をめざしていた」、「天皇をも乗り越えようとか」、「中国の明を征服して中華皇帝となろうと考えていた」、「あるいは神となる」など、さまざまな憶測がある。⇒信長は天皇家を無視していない。全国統一は目前であった。その信長にとって関心事は、「天下」を一代で終わらせず、子孫に安定i的に継承していくことである。(当時は、人生50年の時代。すでに信長は49歳。)
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「三職推任」
「天正十年夏記」(権大納言勧修寺晴豊『晴豊記』断簡)
(意訳)「天正10年(1582)4月25日。武家伝奏の勧修寺晴豊は、京都所司代・村井貞勝を訪ね、【信長を太政大臣か関白か将軍のどれかに推任すること】の問題について話し合った。…公家の勧修寺晴豊が勅使として5月4日安土へ。信長は会おうとせず、森蘭丸を通じて用件を尋ねてきた。晴豊は、〈関東討ち果たされ珍重に候間、将軍になさるべきよし〉とし、将軍が嫌なら、関白でも太政大臣でも構わないと申し入れた。〉信長は、返答せずに晴豊を帰らせたため、その意図は永遠の謎となった。」

*三職推任問題-「推任を提案したのは、誰だったのか」
従来は、推任は朝廷の意向だったと考えられてきた。
山田邦和先生説
「太政大臣や将軍ならば、信長が就任するのには何の問題もない。しかし、関白だけは事情が異なっている。関白職は伝統的に藤原氏の摂関家の独占物であり、摂関家以外の者に関白就任を約束するなど軽々しくできない。これは、朝廷側からの提案である可能性は低い。→三職推任を言い出したのは信長側の村井貞勝である。貞勝が信長の意思を確かめて朝廷に提示したものである。三職推任は信長の意思であった。…信長は、朝廷からの提示が関白でなく将軍であったことに失望し、それが明確な受諾の返事をしないという結果につながったと思う。」
ルイス・フロイス
キリスト教の宣教師ルイス・フロイスは、秀吉が関白になった時のことを本国に報告する中で、信長は最高位の官職である関白に就任することを望んでいたが、彼の権勢をもってしてもついにはその地位に手が届かなかった、とフロイスは繰り返し述べている。」
2017/03/27のBlog
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・日時:3月24日(金)9時半~15時半
・【コース】:JR大阪駅(9時半集合)-JR明石駅-平忠度塚-亀の水-天文科学館-柿本神社-月照寺ー妙見寺-(昼食)マルセイユ(レストラン)-文化博物館-明石城公園-魚の棚商店街(現地解散:15時半)-JR明石駅 (約5km)
・昼食は、海鮮フレンチ。前菜、ポタージュ、パンを含め、美味しい昼食でした。
・参加者:17名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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明石城跡・公園(明石市明石公園1丁目)(*右上の写真)
明石駅から北を見ると、櫓(やぐら)が二つ見える。譜代大名小笠原忠真が築城した平山城の本丸跡。明石の城下町は宮本武蔵によって町割りがされたという。…公園には陸上競技場などのスポーツ施設などがある。
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明石市天文科学館(明石市人丸町)
明石市は、東経135度の子午線上の町(時のまち)として有名。天文科学館は高さ54m、大時計と共に明石のシンボル。…ここから、明石海峡大橋が一望できる。
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柿本神社(明石市人丸町)
歌聖・柿本人麻呂を祀る柿本神社がある。祭神は柿本人麻呂。歌道の神として信仰を集め、そこから学問文芸の神として崇められる。また、旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。人丸を「火止まる」「人生まる」と読み替えて火災除けや安産にご利益があるとされる。
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魚の棚商店街(明石市本町1丁目)
明石の台所として約400年の歴史をもつ商店街で、鮮魚店や食事処が約100店舗連なる。(地元では、魚の棚=「うおんたな」と呼ばれる。)
☆名物の「明石焼」(*右の写真は、四人分。)
玉子と明石タコ。玉子をふんだんに使った生地はふくよか。付け出し(昆布とカツオ節)に浸して食べる。 たこ焼きのルーツといわれる。15個 600円。
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