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シニア文化塾だより
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2017/10/16のBlog
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日時:10月12日(木)午後.1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:辻村尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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**前回までの復習(第一回~第十回)**
元禄二(1689)年に「おくのほそ道」への道に赴いたのは芭蕉が46歳の時。同行するのは門人の曽良のみの二人旅。平安時代の歌人、西行や能因の歌枕や名所旧跡を辿るのが目的。3月末に江戸を立ち、東北・北陸を経て8月末に大垣(岐阜)に至る。その間約150日、全行程約600里(約2400km)。
◇第一回:旅立ち(3月27日〈陽暦5月16日〉)。江戸・深川から千住、草加。→◇第二回:室の八島、日光(4月1日〈5月19日〉)。→◇第三回:那須野、黒羽、雲岩寺。→◇第四回:殺生岩、遊行柳、白河の関(4月20日〈6月7日〉)。→◇第五回:須賀川、安積山、信夫の里、飯塚の里。→◇第六回:笠島、武隈の松、壺の碑。→◇第七回:末の松山、塩竈、松島(5月9日〈6月25日〉)。→◇第八回:瑞巌寺、石巻、平泉(5月13日〈6月29日〉)。→◇第九回:尿前の関、尾花沢、立石寺(5月27日〈7月13日〉)、最上川(6月3日〈7月19日〉)。→◇第十回:出羽三山、鶴岡・酒田、象潟、越後路(7月12日〈8月26日〉)。
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〇第十一回…越後路から「市振」、「那古」、「金沢」、「小松」、「那谷寺」、「山中温泉」
(一)「市振」(いちぶり)(新潟県糸魚川市市振)
(概説)「今日は、親知らず子知らずなどの北国一の難所を越えて来て疲れているので、早く寝ていたところ、隣の部屋に、若い女性二人の声が聞こえる。遊女で、伊勢に参拝をするという。…翌朝旅立つ時に、彼女たちは「不案内の旅路なので、ついて行こうと思います。」と、涙を流して頼む。「私たちは途中あちこち滞在することが多いから、とても同行できまい。同じ方向に行く人々の跡をついて行きなさい。神様のご加護で無事に行き着くことができるでしょう」。
◇「一つ家に遊女もねたり萩と月」(芭蕉)(季語:萩と月(秋))
(意訳)(思いかけず遊女も同宿していて、一つ屋根の下に泊まることになった。庭に咲く萩、空に冴える月のように、不思議なめぐり合わせがあったものだな。…なんとなく、なまめかしい遊女と世捨て人のような自分との巡り合わせを象徴しているようだ。)
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(二)「那古」・「金沢」・「小松」
(概説)「市振を出て金沢に向かった。越中の国に入り、黒部川を越え、那古(なこ)の浦を経て、加賀の国に入る。…[金沢]倶利伽羅が谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日。芭蕉は、当地の一笑(いっしょう)に会うことを楽しみにしていた。しかし、一笑は去年の冬に若死にをしていた。一笑の兄が追善の句会で.、芭蕉は一笑の死を悼む句を詠んだ。)
◇「塚も動け我が泣く声は秋の風」(芭蕉)(季語:.秋の風(秋))
(意訳)(一笑の塚よ、鳴動せよ。今ここに君の死を哀惜して慟哭する私の声は、秋風とともにあなたの墓を吹きめぐっていくことだ。悲痛哀切の情を秋風に託して具象化した。)
◇「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)(季語:秋の風(秋))
(意訳)(季節は秋になったというのに、まだ残暑がきびしく、陽は容赦なく照り付ける。しかし、さすがに吹いてくる風は秋らしい気分が感じられることである)
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(三)「那谷寺」・「山中温泉」
(概説)「小松から山中温泉に行き、旅の疲れを癒した芭蕉は、再び小松に帰る途中、那谷寺(なたてら)に参拝している。[那谷寺](なたでら)境内には珍しい形の岩石がかさなり、特に白っぽい凝灰岩の大岩の奇岩遊仙境が有名。…[山中温泉](7月27日〈9月10日〉)山中温泉の効能は有馬温泉に次ぐほどである。…随行の曽良は病気のため、ここで別れて、芭蕉は一人旅になる。」
◇「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」(曽良)(季語:萩(秋))
(意訳)(自分は今、師翁と別れて先立って行くが、病身なので、行き倒れになるかもしれない。しかし、私には不安も後悔もない。今の季節、そこは萩の花の咲く美しい野原であろうから)
◇「今日よりや書付消さん笠の露」(芭蕉)(季語:露(秋))
(意訳)(今日から一人旅になるから、巡礼者が傘に書く「同行二人」の書付を「笠の露」で消すことにしよう。「露」は季語であるとともに、芭蕉の別離の涙の意も含んでいる)
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**あとがき**
・「市振」の章は、紀行中の色っぽい話であるが、芭蕉の「作り話と」いう見方が有力。「遊女」という虚構→曽良の日記には、遊女の記事も芭蕉の発句も記載されていない。(芭蕉は事実にこだわらず紀行文を書いた。文学性を高めるために、旅行後、5年の歳月をかけ、「おくのほそ道」を完成。)
2017/10/09のBlog
・日時:10月3日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:蓑原俊洋先生(神戸大学教授)
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「ツキデデスの罠」
古代ギリシャのスパルタとアテネの覇権争い・ペロポネス戦争について著したツキデデスから名を借りた仮説を「ツキデデスの罠」という。旧大国と新大国との間では、覇権維持・交代をめぐる攻防が戦争に発展する危険性が極めて高い。
・これは歴史上15回起きたといわれるが、そのうち11回で戦争に発展している。日独伊が米英本位の世界秩序に挑んだ第二次世界大戦。戦後は、72年に及ぶパクス・アメリカーナ(アメリカが圧倒的な軍事力と経済力によって維持してきた平和。米国一極体制。)であるが、今は、中国という挑戦者が現れた。
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国際政治の地殻変動の時代:「覇権挑戦期」
・「変容するアメリカ」…戦後世界をつくったのはアメリカ。しかし、アメリカの影響は、徐々に弱くなってきている。オバマ「世界の警察官ではない」。トランプ「世界の大統領ではない」。
・「現存の国際秩序に不満を持つ勢力の出現」…中国、ロシア、IS(過激イスラム)
・「転落する英国」、「揺らぐEU、トルコ、タイ、モンゴル、フィリピン、ミャンマ-…」
・「不安定なアジア」…民主主義の後進国、不安定な韓国、核を有する北朝鮮
・「日本は?」…日本の80年代は高度成長、安全保障を考えてこなくてよかった(しかし、次の世代に何を残しただろうか)。すべての交渉をアメリカに依頼(日米対等はナンセンス)。
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トランプ大統領の動き
(1)トランプ大統領の苦悩
・クリントンより一般投票は300万票少ない。選挙人獲得は、「トランプ」304対「クリントン」227。
・大統領支持率…40%→36%(過半数を一度も越えられず)(1945年以来での最低の支持率)
・中間選挙を経てどうなるか。次の選挙は2020年。
(2)外交と安全保障政策
・「中東」…トランプの最初の訪問国(サウジ)。イランを敵視。
・「ロシア」…当初考えられていた以上に深刻な状況。北朝鮮と蜜月。
・「中国」…新たな国際秩序の枠組みを提示。習金平時代、「一帯一路」。G2(新型の大国関係)(今後、米中対決は厳しくなる)。
(3)「北朝鮮情勢
・北のICBM実戦配備までの期間を考えると、デッドラインは迫っている。危うい「言葉の戦争」。
・米国の62%が北朝鮮を脅威と認識し、対北朝鮮の軍事行動への支持は、民主党46%、共和党87%。
・戦争の可能性はゼロではない。
・米中両国の関与が必要と、トランプは強調している。
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**あとがき**
◆日本の「今」は…(簑原先生)
・自らの選挙ばかり考えている。こんな時(北朝鮮情勢)に選挙をするのか。
・真のリーダーがいない。
・若い人にとって明るくない。
・少子高齢化
・シルバ-・デモクラシ-(シニアの意見が優先)
◆「責任ある大国」としての日本
日本は今なお自由主義世界においてアメリカに次ぐ第2位の位置を占める。多くの国にとって日本は憧憬の的です。だからこそ「近隣の民主主義の価値観を持つ国々と連携をとり、世界の安全、秩序に関与する姿勢を見せることが大事である」。中国は将来的にアジアから米国の影響力を排除しようと狙っている。日本の役割は大きくなるばかりだろう。(蓑原先生)
2017/10/05のBlog
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・日時:9月21日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(富田林市)
・講師:瀧本和成先生(立命館大学教授)
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与謝野晶子『みだれ髪』
**「近代短歌史上においてもっとも光栄のある瞬間の一つは、22歳のうら若い女性の手に成った歌集『みだれ髪』の出現のときである」(小田切秀男(近代文学研究者)『みだれ髪』論・昭和43年より)
・与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』は、明治34年(1901)8月、東京新詩社より出版。雑誌「明星」掲載の歌を中心に、「臙脂紫」(えんじむらさき)、「白百合」、「舞姫」など六章からなり、全399首が収録。
・与謝野鉄幹との運命的な出会いやその後の激しい恋愛体験を軸に、鉄幹をめぐる山川登美子や京の舞妓たちを詠んだ「白百合」や「舞姫」の章など、歌集全体が物語的な興趣に包まれている。
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歌の特徴(抜粋)
●「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
(意訳)(私の乱れた黒髪。その幾筋もの髪のように私の心は恋のために千々に思い乱れている)
●「おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合
(意訳)(お互いに相手のことを思い続けていたためでしょうか。いったいどっちがどうだったのか分からなくなってきます。あなたが白萩で、私が白百合だったのでしょうか。)…〈当時、「明星」の女性歌人は、お互いを白い花の愛称で呼び合っていた。ここでは、わざと取り違えて自分の混乱ぶりを表している。白萩は晶子、白百合は登美子。)
・歌の特徴は、「くろ髪」や「百合の花」に代表されるように、大胆な自己の解放と青春の賛美に貫かれている。
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●「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
(意訳)(私の柔らかい肌の下に脈打つ熱い血汐。それに触れ、その情熱の炎も知ろうともしないで、あなたは世間一般の道徳を語ろうとする。さびしくはないですか。)
・恋愛の讃歌の数々は、若さと無限の可能性を謳いあげている。それ故悶え苦しむことは決して恥ずかしいことではなく、むしろ人間の生の姿として肯定しようとしたところにこの歌集の特徴がある。。
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●「星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝たむと云へな
(歌人「山川登美子」を「星の子」と詠み、登美子の身の上を思い、励ました歌。)
・「明星」派の歌人たちは、当時〈星菫派〉と呼ばれている。それは天上への憧れだけから来るものではない。小さな俗世間から解放された者として、大きな宇宙の中を翔ぶ「星の子」の存在を謳いあげている。
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藤島武二の装丁・挿絵
歌集『みだれ髪』は、斬新な歌とともに、藤島武二の手になる装丁や挿絵によっても、当時の読者に大きな衝撃を与えている。歌集に「この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり/表紙絵のみだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」と記されているように、扉絵のほか、七葉の挿絵が盛り込まれている(*表紙絵は、右の資料で左側の絵)。
ア-ル・ヌ-ヴォの影響-特にアルフォンス・ミュシャの影響
ア-ル・ヌ-ヴォ-とは、19世紀末ヨ-ロッパに起こった建築工芸運動のことで、曲線をモチーフとする新しい様式は、美術にとどまらず、都市デザインにまで発展していった。
・雑誌「明星」には、藤島武二のほか一条成美等が担当した表紙絵・カットが数多く登場しており、女性の裸体や髪、花々を大胆に曲線によって表現している。…「明星」には、アルフォンス・ミュシャを代表とするアール・ヌ-ヴォ-の様式美を日本にいち早く取りこみ、新風を吹き込もうという意図があった。右上の資料で中央の絵は、舞台女優サラ・ベルナールを描いたポスターで、ミュシャの作品。「明星」第6号で、一条成美の模写したカットが注目された。
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**あとがき**
・近代短歌革新…明治時代に入っても、和歌は「古今集」を手本にした歌が中心であったが、落合直文(国文学者・歌人)は、短歌革新論を展開し、「あさ香社」を結成(明治26年)。主観を重視する浪漫的な短歌を目指した。与謝野鉄幹は、落合直文に師事し、妻晶子とともに、明治浪漫主義に新時代を開き、北原白秋、吉井勇、石川啄木らを輩出。また、正岡子規は、写生主義、万葉集を基本にすることを提唱。子規の死後、伊藤左千夫・長塚節らにより短歌結社「アララギ」へと発展。
・「明星」の歌風は、「星菫派」(せいきんは)と呼ばれ、情熱的で旧来の制約にとらわれない、自由・自我の表現を求め、近代浪漫主義の大きな柱となった。
2017/10/02のBlog
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月日:9月29日(金)
・【コース】:南海天下茶屋駅(8時40分)-泉佐野駅=バス=犬鳴山バス停-瑞龍門-義犬の墓-七宝滝寺-行者の滝-(昼食)境内-往路戻り-犬鳴山温泉街(現地解散13時30分)
・参加者:14名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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犬鳴山・七宝滝寺(右上は、参道の入口にある案内地図)
・犬鳴山(いぬなきやま)とは、山の名ではなく、七宝滝寺(しっぽうりゅうじ)の山号。
・真言宗犬鳴派七宝滝寺は、修験道の開祖・役行者が661年に開山したと伝えられ、葛城修験道の道場と有名。
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森林と渓流に恵まれた犬鳴山
犬鳴山は、市街地からそれほど遠くないが、巨岩に続く渓谷と奥深い森は、霊験あるパワースポットとして人気がある。(右の写真の滝をふくめて、巨岩にかこまれた大小いくつかの滝がある。)


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いろいろな伝説
義犬伝説
今から1000年以上も昔のこと。宇多天皇の代、猟師が狩をしているとき連れてきた犬がうるさく吠え立て、狙った鹿に逃げられた。怒った猟師は犬の首をバッサリ。その犬は、猟師に襲いかかろうとしていた大蛇に噛みついて息途絶えたといいます。猟師は自分を救ってくれた犬を供養するため七宝滝寺の僧になる。この事を聞いた天皇はいたく感動し七宝滝寺に以後「犬鳴山」に改めよと勅号を賜ったという。
志津女伝説
官女の志津は、御所に出入りしているうちに淡路の小聖という修験僧に恋い慕うようになった。しかし、小聖は修行に妨げになるからと犬鳴山に逃れた。…志津はあきらめきれず、犬鳴山に小聖が修行していることを聞き、犬鳴山を訪れた。しかし、険しい渓谷の山路、飢えと寒さ、そして、山は白雲に包まれて道を見失い、路傍で悶死した。…憐れんだ村人は懇ろに葬った。このことがあってから犬鳴山に白雲がたちこめる日は必ず雨が降ったので「志津の涙雨」といい、さらに、志津が倒れた付近から湧きだす清水を「志津の涙水」と呼ぶようになった。現在でも、涸れることなく、清水がしたたり落ちている。
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行者の滝
七宝滝寺の本堂の奥に、行者の滝がある(12mの滝)。霊力のある滝として、全国各地から訪れる人が多いという。弘法大師もこの地で修業したと伝えられる。(写真の右奥に見えるのが「行者の滝」です。)
2017/09/25のBlog
・日時:9月19日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学助教)
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**関係年表**
-1850年(嘉永3):井伊直弼彦根藩主
-1853年(嘉永6):(6月)ペリー浦賀に来航
-1854年(安政1):(1月)ペリー再来。(3月)日米和親条約調印
-1858年(安政5):(4月)井伊直弼大老就任。(6月)日米修好通商条約調印。(9月)安政の大獄始まる。(10月)14代将軍に徳川家茂。
-1859年(安政6):(10月)吉田松陰ら刑死。
-1860年(万延1):(3月)桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)

1.彦根藩井伊家と徳川譜代
(1)近世大名の諸類型[*新井白石著『藩翰譜』(はんかんふ)(1702年成立)より]
徳川家との親疎により、「親藩」、「譜代」、「外様」に分類。
①親藩…徳川家の血を引く大名。「御三家」・「連枝」・「越前家」、「保科家」など。
②譜代…関ヶ原戦い以前に徳川家に臣従した.大名。「松平郷」、「安祥」、「岡崎」、「井伊」など。
③外様…新しく徳川家に臣従した大名。「島津」、「毛利」、「伊達」.など。
(2)井伊家の由緒
平安時代から井伊谷を本拠とする国人領主の井伊家。→戦国時代。今川家の配下において活動→23代直親が今川氏直への謀反の嫌疑→領地没収、その子直政は逃亡。1575年(天正3)徳川の近習として仕官。⇒直政は、次々と武功をあげ、徳川四天王の道。上野箕輪12万石を与えられる。→.関が原の戦いの戦功→近江佐和山城18万石。…直孝、大坂の陣での活躍。35万石の大大名へ。.
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2.井伊直弼(いいなおすけ)(*右の資料を参照)
・1815年(文化12)~1860年(万延1)。直中(なおなか)の14男。(序列からいっても当主になることは不可能であった。)
部屋住み時代(17歳~32歳)
彦根「尾末町屋敷」(おずえちょうやしき)に住む。部屋住みとして、役職もつかず、300俵の扶持(生活費)をもらい暮らしていた。この頃の直弼のあだ名を「チャカポン」という(「茶」と「歌」と「鼓(ポンは擬音)にうつつを.抜かしている.男という意味。)
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」(「埋木舎の記」)
(意訳)(この世を厭うにあらず。一生をうもれ木で朽ち果てることを覚悟したが、失意のなかでも、なすべき業があった)
…儒学、国学、禅、洋学、武術、茶の湯、能、狂言など文武・芸道に出精。
・32歳で、兄直亮(なおあき)の養子となる。…1850年(嘉永3)、直亮が急死し、直弼が15代彦根藩主。
◆直弼の藩主時代[1850年~1860年]の10年間
・大老は、1858年(安政5)5月に就任。
・参勤交代で江戸にいたので、彦根在城は、約3年間。この短い間に、領内を9回も巡見している。直弼は、民の住むところはあまねく巡見して、領民の声を聞いた。
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3.大老井伊直弼の「米国との通商条約の締結」
直弼が大老に就任した頃の政情は、内政では13代将軍家定の継嗣問題があり、外交では米国からつきつけられた条約に調印すべきか否かで紛糾していた。
・老中阿部正弘の時代(1854年)には、幕府が開国したからには条約調印も「やむをえず」と思っていた。ハリスは調印を早く早くと迫る。一方、朝廷の許可(勅許)を願ったが、得られない。
・老中松平忠固(ただたか)との対立。→直弼に条約調印を迫った。
◆直弼は「天朝へ御伺い済みに相成らざるはうちは、いかほどご迷惑に相成り候とも、仮条約調印は相成り難く」(勅許なしでは調印を避けたい)と主張。(直弼は埋木舎時代から国学を学び、尊王論者)…しかし、多数意見は、調印を迫る。
・結果として、「勅許なしの条約を結んだ」という禍根を残し、大老は責められる。→日米修好通商条約の調印[1858年(安政5)6月]
・側役の宇津木六之丞の記録「公用方秘録」によれば、「大老は、最期まで悩み抜いていた。」⇔明治20年頃(1887年)井伊家から政府に出された「東京大学史料編纂所所蔵の「公用方秘録」では、「大老は、勅許を待たないで調印する罪を責められても、一身で甘受する覚悟で調印決断した」と内容が書き改められていた。
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〇末路としての桜田門外の変(*右の資料を参照)
直弼は、大老に就任するとすぐ勅許を待たず1858年6月に日米修好通商条約に調印、同時に継嗣も慶福(のちの家茂)と定める。これに憤った水戸斉昭らは、強行登城して争ったが、それに対しては処罰した。それにより反対派の運動も活発になり、その弾圧にのり出し、「安政の大獄」を強行した。…末路として、1860年(万延元)、井伊直弼は江戸城へ登城の途中、桜田門の近くで水戸藩士たちに襲撃されて暗殺された(桜田門外の変)。
・『維新史』…(要約)「幕府の勅許なしの調印を非難し、井伊大老は自己の権威を振るうため、数々の罪状をあげて攻撃し、天誅に代わって、これを斬戮した。」
・井伊大老を倒した桜田門外の変は、尊王攘夷派によって画策されたもので。彼らには倒幕の意識はなかったが、こののち時局の切迫とともに、尊王攘夷は尊王倒幕への運動に展開し、王政復古を実現した。
2017/09/18のBlog
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・日時:9月14日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
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**国宝『源氏物語絵巻』について**
国宝『源氏物語絵巻』は、紫式部が『源氏物語』を書き綴ってから約百年後の平安時代後期(12世紀前半)に制作された現存する最古の絵巻である。現在は保存のため「絵」と「詞書」(ことばかき)を切り離して額装され、絵19面、詞書37面が、徳川美術館と五島美術館に所蔵されている。『源氏物語』の華やかな舞台を描いたこの絵巻は、現在では色が褪せ、剥落が進み、当時の面影はない。「源氏物語絵巻の復元プロジェクト」は、1999年に「柏木(三)」の復元を行ったのがはじまりで、2005年までにすべての絵巻の復元が完成した。

◇国宝『源氏物語絵巻』を読む解くは、平成25年3月に始まり、今回で第10回です。
①蓬生巻、②関谷巻、③柏木(一)、④柏木(二)、⑤柏木(三)、⑥横笛巻、⑦鈴虫(一)、 ⑧鈴虫(二)、⑨夕霧巻、 ⑩御法巻
*講義では、「源氏物語」を読み、『源氏物語絵巻』の現存するものと、復元したものとを見比べて鑑賞します。
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講義の内容
第四十帖「御法巻」(みのりのまき)
・主要人物の年齢…光源氏(51歳)、紫上(43歳)、明石中宮(23歳)、夕霧(30歳)
「この巻は、源氏の最愛の妻、紫の上が終焉する物語。…「紫の上は大病の後すでに四年が経過し、残り少ない命を仏道に捧げるのが望みであった。しかし、源氏は紫の上の出家を許さなかった。夏になると、紫の上の衰弱は進み、明石中宮は養母の紫の上を見舞う。待ちわびた秋がきたが、紫の上の病状は急変した。風の強い秋の夕暮れ、明石中宮が紫の上の病床を訪れて、源氏も加わって歌を詠み交わす。その直後、紫の上は容態を崩し、源氏と中宮に見守れながら、消えゆく露のように世を去ってしまった。…源氏は、悲しみのあまり、紫の上から離れようとしない。夕霧が駆けつけて代わりに万事の世話をした。」
**右上は、現存する『源氏物語絵巻』御法巻で、衣服などの色は褪せたり、剥落している。銀泥も剥落している。
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紫上の病状重く、出家の志も遂げ得ず。
紫の上は、随分前から重態ではないが、健康がすぐれず良くなりそうな様子もない。源氏のご心痛はこの上もない。紫の上は、出家をしたいと口に出してもおっしゃるが、源氏はどうしてもそれをお許しにならない。
紫上、源氏・中宮と決別の後、死去する。
待ちかねた秋になっても、紫の上の容態は思わしくなくい。明石中宮は、養母紫の上の病床を見舞うために、特に許しを得て里下がりしてきている。八月十四日、源氏と明石中宮に看取られながら、二条院で紫の上は、露のように消えていった。
源氏、夕霧に紫上の落飾のことをはかる
涙にむせぶ源氏は、せめてもの供養にと、夕霧に紫の上の落飾(髪を削(そ)ぐこと)の差配を命じます。
◆即日葬儀を行なう。源氏、出家を志す。

■亡くなっていく情景(比喩)
・藤壺-「燈火(ともしび)の消えいるやうに…」
・柏木-「泡の消えいるやうに…」
・紫の上-「消えゆく露の心地して…」
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国宝『源氏物語絵巻』~御法巻~(復元模写)
右の絵巻は、「御法」を復元模写したものです。
・画面は、吹抜屋台の構図(屋根・天井を省き、やや上方より見下ろすように描写。外の風景と室内との対比を描く-3分の1が庭(前栽))。
・場所は、二条院の紫上の邸の廂の間。
・3人描かれている。…几帳を背に、脇息にもたれる紫上、対座する源氏、中央の几帳の陰(後ろ姿)は明石中宮であろうか。
・銀泥を刷いて、月光に照らし出された前栽のありさまを描き出している。萩や桔梗などの秋草が咲き乱れる中を、ススキがおりからの風を受けて、大きく波打っている。
2017/09/11のBlog
・日時:9月7日(木)午後1時半~3時40分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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〇今回から5回シリーズで『伊勢物語』の講義です。第1回は、作品概説と第一段「初冠」、第四段「西の対」、第五段「関守」、第六段「芥河」です。

◇『伊勢物語』概説
・平安時代中期の歌物語。作者、成立年未詳。在原業平(825-880年)-成立は、何人物作者が手を加え、10世紀中にはある程度成立したとみられる。
・在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語。
・章段は、流布本(定家本)で125段。伝本によって多少増減。初冠(元服)の段から臨終まで生涯をたどる形に配列。
・それぞれの冒頭が、「むかし、男…」と始まり、内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたる。
・別称に『在五が物語』、『在五中将日記』。(在五は、在原氏の五男業平のこと)
・江戸時代、人気のあった古典は、『源氏物語』、『古今和歌集』と並んで、『伊勢物語』でした。
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第一段「初冠」(ういこうぶり)(右の資料を参照)
(訳)【昔、ある男が元服して、旧都(奈良)の春日の里に領地を持っていた縁があって、狩りに出かけた。その里には、たいそう若く美しい姉妹が住んでいた。男は、それをのぞきみしてしまった。思いがけず、里には不似合いな姉妹だったので、男の心は乱れた。そこで、来ていた狩衣の裾を切って、歌を書いて贈った。男は、信夫摺りの狩衣を着ていたのであった。
(歌訳)「春日野の若紫のように美しいあなたがたにお会いして、私の心は信夫摺りの模様のように、乱れに乱れております。」…とすぐに詠んでやったのだ。こういう折に触れて歌を思いつき、女に贈るなりゆきが、面白い趣向だと思ったのであろう。
この歌は、(歌訳)「奥州の信夫の里で作られる、しのぶ草のもじずり染めのように、私の心が乱れはじめたのは、あなたゆえなのですよ。」…という、源融(みなもとのとおる)の有名な歌と同じ趣によったのである。昔の人は、こんなにも熱情をこめた、風雅な振舞をしたのである。】
・「初冠の段」を巻頭にもってきている。「初冠」は、男子の成人儀礼で、正装して、冠、烏帽子をつける。
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第四段「西の対」
(概略)(むかし、東の京の五条に、文徳帝の皇后の宮(藤原順子)がおいでになられ、その御殿の西の対屋に住んでいる女があった。心ならずも彼女に恋してしまった男が、その女をしきりに訪れていたところ、正月の10日頃、女はほかへ姿をかくしてしまった。…普通の者が通っていけるような所でもなかったので、つらい思いで日を過ごしていた。その翌年の正月、梅の花ざかりに、去年のことを恋しく思って、西の対に行き、立ってみたり座ってみたりして、見まわしてみたが、去年の面影はなかった。…追憶の歌を詠んだ。(以下、省略)。
・西の対に住む女性…藤原長良(藤原順子の兄)の娘、高子(たかいこ)。清和天皇の女御となることが決まった。

第五段「関守」
(概略)(むかし、男がいた。東の五条あたりに住む女(清和天皇の二条の后高子が、まだ藤原長良の女(むすめ)であったころ)に、人目を忍んで、土塀の壊れたところから通ったのだった。世間の評判もあるので、高子の兄たち(藤原の国経や基経)が番人をおいて、見張り(関守)をさせていた。)(以下、省略)。
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第六段「芥河」 (あくたがわ)(右の資料を参照)
(訳)【むかし、男がいた。とうてい自分のものにはなれないと思われた女のところに、幾年も求婚しつづけてきたが、やっとのことで女を盗み出して、とても暗い夜に逃げてきた。芥河という河のほとりにさしかかったところ、草の上に置いて露を見て、女が「あのきらきらするものは、なに?」と男にたずねた。―行く先は遠く、夜もすっかりふけたので、鬼の住む所とも知らずに、男は女を、荒れはてた蔵の奥の方に押し入れて、弓や胡簶(やなぐい)(矢をさして背負う具)を負って戸口を守っている。夜が明けてくれるのを念じていたところ、鬼がたちまち女を一口に食ってしまった。「あれっ」と悲鳴をあげたのだが、雷のやかましい音に消されて、男の耳には聞こえなかった。だんだん明るくなっていくにつれ、見れば連れてきた女はいない。男は地団駄を踏んで泣いたが、いまさらしかたがない。
(歌訳)「白玉かしら、何かしらと愛しい人がたずねた時、露のきらめきさと、そう答えて、露のように私の身も消えてしまったらよかったのに。)
―これは、二条の后が、従姉妹の女御にお仕えするような形でいられたのを、后がたいそうな美人でしたので、男が恋慕し、盗み出して背負って言ったところ、后の兄の堀河大臣や長兄の国経大納言が、ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、引きとめて取り返した。それをこのように鬼にたとえた話なのである。后がまだたいそう若くて、普通のご身分でおありになった時のことだということである。
・芥河…現在の大阪府高槻市にこの地名がある。
・「白玉か…」の歌は、女が露というものを見たことがないという想定で、それまで一度も野外にでたことのない深窓の貴女であることを暗示している。
・四段、五段、六段は、二条の后との恋物語。
2017/09/08のBlog
・日時:9月5日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
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**前回の講義「戦国期の女城主」(H29年3月)の復習**
今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎に関連して、2回講義。前期は「戦国期の女城主」について。
・[井伊直虎」:天文4年(1535)~天正10年(1582)。戦国期の井伊家は、遠江の井伊谷という地域を治める地頭職で、小さな勢力。直虎は、井伊直盛の家に、一人娘として生まれる。→井伊家の男子がことごとく死亡(暗殺・討死)という事態が起きる。→次郎法師(直虎)を当主にして、直政(2歳)の後見人として井伊家を託される。
・戦国期の女城主…戦国時代、家を存続させていくうえで、後家にそれなりの権限を持たせていた。家督の決定権を握る場合もあったし、跡取りが決まるまでの家父長権を握ることもあった。戦国時代の女城主は、家督も財産も継承。
・[寿桂尼(じゅけいに)]-駿河・遠江の二か国の戦国大名だった今川氏親に嫁いできた。氏親の死後、今川家の補佐役として見守る。1536年家督争いで、自分の子である五男(義元)が家督を継承(義元は、1560年の桶狭間の戦いで信長に討たれる。)…武田信玄は、寿桂尼を恐れて、寿桂尼が死ぬまで動かず。1568年3月に寿桂尼死去。同年10月信玄は駿府を占領。[女城主-赤松洞松院尼、立花誾千代は、省略。]
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徳川家の大黒柱・井伊家の活躍(*右の資料を参照)
1.国衆・井伊家の苦悩
・井伊家の初代共保(ともやす)は、寛弘7年(1010)正月、井戸から誕生したという。
・井伊家の継承…戦国時代、今川氏(駿河)、武田氏(甲斐)、北条氏(相模)がしのぎを削る狭間で、井伊家は滅亡寸前に追い込まれる。→井伊家第20代直平(なおひら)は中興の祖。(今川氏に抗って戦わず。存続の道を繋ぐため、今川氏に恭順。)
・井伊家の男子がつぎつぎと死亡(暗殺・討死)…直平の二男直満、三男直義は暗殺。直盛、桶狭間に死す。直親(虎松の父)、掛川に死す。直平死去。⇒井伊家の家督を相続すべき男子は、直平の死ですべていなくなった。
・次郎法師(直虎)を当主にして、虎松の後見人とし、井伊家を託す。
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2.赤鬼・井伊直政(*右は、井伊直政画像(桃山~江戸時代初期)、本館蔵)
**井伊家第24代直正―永禄4年(1561)~慶長7年(1602)
・天正3年(1574):虎松、徳川家康へ出仕。家康、虎松に万千代の名を与える。
・天正10年(1582):元服し、井伊直政を名のる。家康の養女と結婚。
*直政の家臣団…井伊谷以来の家臣、旧武田家臣の編入、家康直臣。(山県昌景の赤備えや武田の軍法を継承。)→次々と武功をあげると、「井伊の赤鬼」として天下に名をとどろかす。
◆豊臣秀吉との関係
・小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))…豊臣秀吉と徳川・織田連合軍。直政は家康の本陣を守る旗本隊、しかし、先陣を切って武功をあげる。家康は戦では勝ったが、秀吉の策略により講和に持ち込まれる。→直政は、秀吉にも気に入られる。秀吉は、直政の武力・政治的手腕を高く評価し、従五位下・豊臣姓。
◆関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))
・9月15日の行動…家康の四男松平忠吉とともに、福島正則と先陣争い。島津義弘軍と戦い負傷(鉄砲傷)。
・戦後の役割:黒田長政と共に西軍と戦後処理。大坂には、無傷で残った毛利軍がいる。→毛利輝元を大坂城から退去など。
・直政は、近江佐和山18万石を与えられる。軍功だけでなく、政治力が評価。関ヶ原に至るまでの諸将の味方への取り込みから戦後の交渉まで、重要な役をこなす。
・慶長7年(1602)直政、死去。
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3.赤牛・井伊直孝(*右は、井伊直孝画像(江戸時代)、清涼寺蔵)
**・第25代直孝[天正18年(1590)~万治2年(1659)]
◆直政の跡継ぎ問題
・直政の長男直継(なおつぐ)は、彦根城を築城。(慶長8年(1603)~慶長11年)
(慶長11年(1606)、彦根城に入城し、ここに、明治まで続く井伊家の近江・彦根藩主としての歴史が始まる。)
・病弱であった直継は、上野安中に「押籠」(慶長18年(1613))。井伊家を分割。家康は、弟の直孝(なおたか)を井伊軍の大将に指名。
◆赤牛・井伊直孝
・大坂の陣-真田丸の戦い(慶長19年(1614)12月)。直孝と前田利常が、真田信繁の挑発にのって、真田丸に突撃。→井伊軍は、500名を超える死者。徳川方の惨敗。⇔家康は咎めず。
・大坂の陣-慶長20年(1615)5月6日、八尾・若江の戦いで木村重成軍を打ち破り、大坂城に向かう。5月8日、山里曲輪に籠もる秀頼と淀殿を包囲して、直孝は自害に追い込んだ。
・この戦いで、5万石加増と従四位下・侍従に昇進。→井伊家は寛永11年(1634)には、譜代大名での中で、最高の30万石に。
・直孝がやっていたことが、「大老」という役職になる。直孝の役割を継承したものが大老。元禄から幕末まで大老になったのは井伊家のみ。
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**あとがき**
・井伊家は、1000年前の平安時代にルーツをもつ。しかし、決して順調ではない井伊家の歴史。井伊谷時代は、弱小国衆の悲哀、複雑な家督継承、一族・家臣団の分裂。
・戦国時代は、領地(知行)をもらうことは、軍功をあげることが第一。
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