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シニア文化塾だより
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2017/06/21のBlog
・日時:6月8日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:北見真智子先生(大阪音楽大学講師)
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◇能とは…
・古典題材を取り上げ、幽玄美を第一とする歌舞劇。
・能楽堂、面、脚本、音楽、演技に独自の様式を備える。
・南北朝時代から室町時代にかけて発達、江戸時代中期にほぼ様式の完成をみる。

能『俊寛』
・作者:不明 素材:『平家物語』 場所:薩摩・鬼界ヶ島
・登場人物: シテ/俊寛僧都(面俊寛) ツレ:平判官康頼 ツレ:丹波少将成経
 ワキ:赦免使 アイ:船頭
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あらすじ
高倉帝の中宮徳子の御安産の祈祷の大赦があり、平家打倒の陰謀が発覚して、鬼界ヶ島に流されていた平判官成経(なりつね)と丹波少将康頼(やすより)が赦され赦免使(ワキ)が都を発った。鬼界ヶ島では、成経(ツレ)と康頼(ツレ)が島に紀州熊野の三社を勧請し、赦免を祈る。ところが俊寛はこの熊野詣に加わらない。その後、熊野詣でから戻ってくる二人を俊寛が出会って、水を酒に見立てて宴のまねごとへと場面は展開。…そこへ赦免使が到着し、赦免状を示す。俊寛は慌て騒がず、康頼に読むようにいう。そこには成経、康頼の二人の名はあるものの、俊寛の名はなかった。誤りではないかと疑うが、赦免使は都で拝命したときも俊寛は残島させよとのことであったと告げた。俊寛は、長くもない巻紙を繰り返し見るけれど、どう見ても成経と康頼の名前しか書かれていない。…やがて、赦免使は二人を船に乗せて漕ぎ出そうとする。俊寛は「せめて向かひの地(九州の薩摩の地)まででも」と懇願し、康頼の袂にすがり、船のとも綱に取りすがるが、舟人はそれも押し切って船を出す。俊寛は渚に一人取り残される。

**『平家物語』-鹿ヶ谷陰謀発覚〈治承元年(1177年)〉
・「鹿の谷」(ししのたに)(巻一):俊寛の山荘(京都東山の鹿の谷)で、新大納言藤原成親、後白河院の寵臣(丹波少将成経、平判官康頼、僧俊寛、西光法師)らが、平家打倒のクーデターの陰謀を行なう。
・「西光被斬」(さいこうがきられ)(巻二):陰謀に参加していた武士の多田蔵人行綱が変心して、清盛に密告。驚いた清盛は、後白河院は幽閉、関係者は逮捕処断。西光は斬首されてさらし首、主犯成親は、備前の児島に流され(流刑先で殺される)。成経、康頼と俊寛三人は、鬼界ヶ島に流される。
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シテ 「俊寛」の扮装
*(おもて)(上記の写真を参照)
「俊寛」のシテしか使われない専用面、げっそりと肉が落ち目がくぼむ。(憔悴した相貌が不可欠。(注)通常は現実に生きている男役は、面をつけないことが多い。「俊寛」が面をつけるのは、それだけ主人公俊寛の個性が強いということになる。
*扮装(右の写真を参照)
かつて僧職、今は流人。二つの側面を考慮しながら、どちらをどの程度表面化するかがポイント。(演者の解釈や演出意図が託される)。
・流派によって扮装は違う。
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**あとがき**
・能「俊寛」は、三人が鬼界ヶ島に流されてから三年後の物語。
・結末…能では、なぜ俊寛だけが許されないかを因果関係で説明していない。悄然たる俊寛を残し、船影も人影も消えてゆく。劇的な能で舞が無い。理不尽な運命を前に、戸惑い、怒り、嘆く、極限に追い詰められた人間の弱さを、俊寛の姿を通じて描いている。
2017/06/16のBlog
〇「揺らぐ秩序 日本は責任大国に」(「産経新聞」2017年6月11日)




〇「トランプ大統領と今後の日米関係」(TOYRO BUSINESS 2017.7)


*簑原俊洋先生(神戸大学教授)よりの情報を、受講生の皆さんに送ります。
今、時代が動いているのを感じます。 (シニア文化塾 常本知之)
2017/06/14のBlog
・日時:6月9日(金)10時~15時
・【コース】:京阪淀屋橋駅(10時集合)-中書島駅-伏見港公園-濠川遊歩道-角倉了以記念碑-長建寺-月桂冠大倉記念館-寺田屋-油掛け地蔵-伏見銀座-(昼食は周辺の食堂)-銀座発祥の地-魚三郎玄関弾痕-御香宮神社-伏見桃山駅(現地解散 15時頃) (7km)
・参加者:25名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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「濠川遊歩道」(伏見の町中を流れる川に沿って、遊歩道があり散策)
伏見は、江戸から明治にかけて、京都~大坂間を結ぶ要衝の地であった。伏見港を築いたのは豊臣秀吉。秀吉の伏見城築城に伴って城下町が造られ、さらに宇治川の水運の港町として発展する。当時、人口は6万で京・大坂に次ぐ大都市となった。
・(*右上の写真)は、濠川遊歩道で、時々、十石船に出会う。川沿いには、柳並木、紫陽花など緑が美しい季節。
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「長建寺」 (ちょうけんじ)(伏見区東柳町)
元禄時代伏見奉行の建部内匠守が創建し”島の弁天さん”で親しまれ信仰されている。唐様の山門が印象的。江戸時代には、淀川を往復する廻船の守護神として、また遊女町には欠かせない音曲技芸の仏さまとして庶民の信仰を集める。
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「寺田屋」(伏見区南浜町)(龍馬襲撃の舞台となった船宿)
文久2年、寺田屋で会合していた薩摩藩士(尊皇攘夷派)が、島津久光が差し向けた穏健派の藩士らと同士討ちとなり、攘夷派9名が命を落とした寺田屋騒動。また慶長2年(1866)には、坂本龍馬襲撃事件の舞台となった。鳥羽伏見の戦いで焼失し、現在の建物はその後再建されたものと伝わる。
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「御香宮神社」 (ごこうのみや)(伏見区御香宮門前町)
貞観4年(866)に境内から香水が湧き出し、清和天皇に御香宮の名を賜ったと伝わる。神功皇后を主祭神とし(安産祈願で信仰)、仲哀天皇、応神天皇ほか6柱の神をまつる。幕末の1868年(慶応4)の鳥羽伏見の戦いでは、御香宮神社が官軍の陣地となった歴史を持つ。
・(*右の写真)御香宮神社の境内での集合写真。
2017/06/05のBlog
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・日時:5月25日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:末延國康先生(元大阪芸術大学教授)
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フィセント・ファン・ゴッホの生涯(1853~1891年) 後期印象派
・オランダ南部フロートズンデルトの牧師の父のもと生れる。画商店員、語学教師、伝道師などを転々とし、27歳で画家になることを決意。86年パリに行き、弟テオとともに暮らす。ロートレック、ベルナール、ゴーギャンらに出会う。ゴッホを明るい色彩に目覚めさせたのは、印象派の画家たちとの交流、日本の浮世絵との接触、南フランスの太陽。1888年、南仏のアルルへ行き、すぐれた作品を多数描く。1889年5月発作や幻覚にも悩まされるようになり、精神病院に収容された。1890年7月末ピストル自殺をとげた(享年37歳)。画家としての活動期間は10年ほどですが、約2000点の作品を残している。
◇主な作品
素描《悲しみ》(1882年)、《ジャガイモを食べる人々》(1885年)、 《タンギ-爺さんの肖像》(1887年)、《アルルの跳ね橋》(1888年)、《ヒマワリ》(1888年)、《夜のカフェテラス》(1888年)、《星月夜》(1889年)、《耳を切り落としたゴッホ》(1889年)、《糸杉と星の見える道》(1890年)、《オ-ヴェ-ルの教会》(1890年)、《鴉の群れ飛ぶ麦畑》(1890年)など。
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ゴッホの作品(抜粋)
「ジャガイモを食べる人々」
[1885年 油彩 82×114cm アムステルダム国立ヴァン・ゴッホ美術館蔵]
・質朴な農民生活を描いている。暗い鈍重な色彩。
・一日の労働を終えて、そのささやかな報いであるつつましい食事を食べながら憩う農民の家族が描かれている。照明のかもしだす雰囲気(ランプは、絵の中核をなし、オレンジ色の絵の具によって”暖かさ”をあたえている。ジャガイモの湯気が後ろ姿の少女の周囲に後光を形作っている)。

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「ひまわり」
何輪ものひわまりが燃えるように輝きながら、花瓶からあふれている〈ひまわり〉は、ゴッホの代表作として、また、人間の強い生命力を象徴する絵として高く評価。1887年から89年までのわずか2年間で描かれている。
*(注)1987年3月、旧安田火災海上保険がロンドンの競売で〈ひまわり、15本〉を約58億円で落札。[1888年 油彩・キャンバス 100.5×76.5cm東京・損保ジャパン東郷青児美術館]
・強烈な色彩とうねるようなタッチで描かれたゴッホの〈ひまわり〉は、合計11点,描かれている。花の数を増やしたり、背景の色を変えている。.…「4つのひまわ、」、「ひまわり、12本」、「ひまわり、14本」、「ひまわり、15本」などがある。
・ゴッホが明るい色彩に目覚めるのは33歳の時、パリの印象派の絵に出会ったことによる。さらに、日本の浮世絵からも、ものの印影を大胆に省略し、簡潔な色の面だけで表現する手法も学び取る。

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「鴉の群れ飛ぶ麦畑」
熟れた麦畑の上を黒い烏(からす)が舞う。道は3つに分かれて広がっていく。荒々しい筆触。ダーク・ブルーの空は威圧的で、広大な麦畑は.強い。終末的な印象を与えるせいか、絶筆という伝説がある。
2017/05/29のBlog
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・日時:5月18日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:田端泰子先生(京都橘大学名誉教授)
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明智家、細川家、吉田家とは
(1)明智家
・美濃の土岐家支流。
・明智光秀は、越前の朝倉義景に仕え、ついで織田信長に仕える。
・光秀、天正10(1582)年、本能寺の変。
(2)細川家
・細川藤孝(ふじたか)は、本姓三淵氏。細川家の養子となり、足利氏、信長、秀吉に仕える。
・秀吉の重臣となり丹後田辺城主。
・藤孝の息子・忠興は、関ヶ原の戦いでは、東軍(家康側)に属する。
(3)吉田家
・京都吉田神社の神主(かんぬし)を平安期より代々務める吉田神道の家柄で、朝廷とも親交があった。
・吉田兼和(かねかず)(後の兼見(かねみ))…「唯一神道」を継承・発展させる。連歌・茶湯・絵画に及ぶ広い趣味を持つ。
『兼見卿記』 (かねみきょうき)を書き残す。…この日記は、家職継承のために書き残す。「神事」・「政治情勢」(信長、秀吉の動静など)・旅行した時の紀行・世間の見聞・文芸(連歌、能楽)など多方面の記事が含まれ、安土桃山時代の重要資料。
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明智・細川・吉田 三家の結びつきと友情
◇誕生年
・享禄元(1528)年?明智光秀誕生
・天文三(1534)年 細川藤孝誕生
・天文四(1535)年 吉田兼和誕生
*信長誕生(1534年)、秀吉誕生(1537年)、家康誕生(1542年)
『兼見卿記』を読む
◇永禄11年(1568)…足利義昭、信長の岐阜城に入る。信長の「奏者」光秀と義昭の「臣」藤孝が尽力。【光秀と藤孝の出会い】。
◇元亀元年・二年(1570、71年)…信長、浅井・朝倉を討ち、「比叡山焼打ち」。光秀は近江国滋賀郡を拝領し、坂本城を築城。光秀は京都と坂本を管轄。【この頃に、光秀と兼和が出会い】
◇元亀四年(1573年)…光秀の坂本城内において連歌の会。(光秀の坂本城に集う常連は、藤孝、兼和、連歌師の里村紹巴、茶の湯の津田宗久ら。)
◇天正四年(1576年)…光秀「以外所労」により帰陣。曲直瀬氏の治療を受ける。兼和が見舞う。藤孝と兼和が交流。【明智家と吉田家は政治面をきっかけに広く親交。細川家と吉田家は文化の面で親交。】
◇天正六年(1578年)…細川忠興と明智玉子(細川ガラシャ)の婚姻。兼和は坂本城を訪れ、結婚祝いに茶碗を送る。藤孝は兼和を訪問。忠興と玉子の婚姻により三家は固く結びつく
◇天正七年(1579年)…12月「荒木村重事件」(村重が妻子を城に残して逃亡。信長は、荒木一族(婦女子を含めて)の大殺戮。)
◇天正八年(1580年)兼和はこの年4回、光秀を訪問。光秀は丹波経営に専念。藤孝は信長から丹後を拝領。
◇天正九年(1581年)…2月信長の「馬揃え」、光秀は奉行。4月藤孝・忠興の招きで、光秀は連歌師の紹巴と宮津へ、天橋立を遊覧し、連歌と茶を楽しむ。
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天正十年「本能寺の変」(『兼見卿記』を読み解く)
・3月:信長に従い信州・武田攻め。光秀、従軍す。兼和より「祓」と「ゆかけ」(弓を使用する皮の手袋)。
・5月:光秀は家康の接待を途中でやめ、信長の命で中国出陣。
・5月26日:光秀、坂本城を発ち、丹後亀山城の居城へ、途中愛宕山で連歌。
・5月29日:信長入京し本能寺へ。
・6月2日:(本能寺の変)。光秀、本能寺で信長を討つ。その後、光秀が安土城を目指すのを知ると、午後2時頃、粟田口まで馬で駆けつけ、光秀と会い、所領のことを頼む。
・6月7日:兼和は朝廷の「御使」として光秀が滞在していた安土城を訪問。
・6月9日:光秀上洛し、兼和邸で禁裏・親王に銀子などを寄進。兼和は夕食を差し上げる。
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**あとがき**
〇『兼見卿記』の謎…兼見の日記である『兼見卿記』には、「天正十年」(1582年)の巻きが二種類ある。正本と別本である。
・本能寺の変とその後の光秀の敗北によって、不都合が生じて、その年の元旦からの日記を書き直したのである。〈六月十二日〉で終わっている別本のほうがもともとの日記。年末の〈十二月〉まで記されている正本は書き直されたものである。
・〈六月十二日〉で終わっている日記を封印して隠したが、焼却しなかった。そのことが後世「別本」として残り、今日まで伝わった。(別本は、本能寺の変の直後のありさまが、書かれている。)
〇本能寺の変の約1年前の天正九年4月に、藤孝・忠興父子と光秀らが天の橋立に遊び、そこで連歌の会。しかし、変後、光秀は永年の盟友であった細川藤孝と忠興に書状を送り、共に立つことを促したが、細川父子はついに動かなかった。
・光秀と細川の盟友関係は15年近く続いたのであるから、光秀の書状が細川家文書の中にたくさんあってしかるべきだが、ほとんど残っていない。
2017/05/23のBlog
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・日時:5月16日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:蓑原俊洋先生(神戸大学教授)
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2016年米大統領選挙を振り返る
トランプ大統領の苦悩(少数派の大統領)
・一般投票数は、「トランプ」(46.1%)対「ヒラリー」(48.2%)(ヒラリーが約300万票多い)。選挙人獲得数は、「トランプ」304対「ヒラリー」227。(一般投票では約300万票の大差をつけながら、クリントンは敗北を喫した。)

大統領就任から100日経過
2017年1月20日に就任式したトランプ氏第45代米大統領は、4月29日就任100日を迎えた。この100日間は、ハネムーン期間と言われる。トランプ氏は、大統領勝利の原動力となった「ラストベルト」(さびついた工業地帯)で演説し、「美しく偉大な雇用を米国に取り戻している」と実績を誇った。
トランプの公約と実際の政策(就任100日までに計32本の大統領令)
[有言実行]…TPP離脱、NAFTAの再交渉、二国間協議、環境保護政策の撤回、オバマケア廃止、メキシコ国境との壁の建設、移民と犯罪取り締まりの強化等。
[政策の修正・転換]…対イスラエル、対NATO、対ロシア、対中国等。
・32本の大統領令で派手に打ち出したが、実現段階では議会や司法、外交の壁にぶちあって、足踏み状態が続いている。
数字が示すのは「綱引き」と「綱渡り」(政治的基盤は、まだ脆弱)
・足並みがそろっていない、信頼できるのは親族だけ→古豪の共和党員との対立。ホワイトハウスVS連邦議会。政権内の内紛。きわ立つ体制派(軍人、億万長者、ゴールドマンサックス関係者)の存在。
・かつてローマ帝国が衰退期を迎えた際に、「パン」と「サーカス」を民衆に与えれば君臨して統治し続けられると豪語した皇帝たちの姿と重なる。
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覇権挑戦期の時代(今後の行方)
第二次大戦後の秩序を構築したアメリカは徐々に衰退期へと突入→挑戦者の台頭によって世界は動乱期へ?
現在の国際秩序に不満を持つ勢力の出現
・中国。ロシア、IS(過激イスラム)
・現状変更の実行…南沙諸島、クリミア
・世界情勢の不安定化と疲弊する民主主義…揺らぐEU、英国、スペイン、トルコ等
・変容するアメリカ外交…「世界の警察官ではない」、「世界の大統領ではない」
・不安定なアジア…民主主義の後進地帯、成熟しない韓国、暴発寸前の北朝鮮など。
三皇帝時代
・三皇帝…トランプ、プーチン、習近平
・中国の台頭…「一帯一路」(21世紀になって、アメリカに代わって中国が枠組みを作っている)

日本の対応
・日本は、まずトランプ氏が型破りな大統領で今まで用いていた定規では測れないという現実を直視することである。(トランプ氏の外交・安保政策が予測不能。)
・日本は世界第3位の経済大国。「自国の利益のみを追求すれば良い」との考えを排し、共通の価値観を有する各国とのつながりを深化させながら、世界システムの安定に寄与するために、積極的に行動すべきだ。(簑原先生)
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**あとがき**
・5月11日の新聞記事には、「トランプ氏、FBI コミー長官を解任。〈ロシア疑惑〉隠蔽狙う?」とある。当面、トランプ政権のゆれる情況は続くと思われる。
・トランプ氏は大統領になって、支持率は50%を切っている。政権100日時で、不支持が上回った大統領は、戦後でトランプ氏はただ一人。
・全米の主要都市で、大規模な反トランプ集会デモが展開されているが、これは、アメリカの民主主義がまだまだ堅固である実態。
・1930年代に酷似した混迷の時代に入っているのか?(1930年代の保護主義が、第二次世界大戦の経済的な原因となった。)
2017/05/17のBlog
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・日時:5月11日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:辻村 尚子先生(柿衞文庫 学芸員)
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**前回までの復習(第一回~第九回)**
元禄二年(1689年)に「おくのほそ道」への道に赴いたのは芭蕉が46歳の時。同行するのは門人の曾良のみの二人旅だった。3月末に江戸をたち、季節は秋も深まった8月末に大垣にたどり着く。その間約150日、全行程約600里(約2400km)。
◆第一回:旅立ち(3月27日〈陽暦5月16日〉)。江戸・深川から千住、草加。→◆第二回:室の八島、日光(4月1日〈5月19日〉)。→◆第三回:那須野、黒羽、雲岩寺。→◆第四回:殺生岩、遊行柳、白河の関(4月20日〈6月7日〉)。→◆第五回:須賀川、安積山、信夫の里、飯塚の里。→◆第六回:笠島、武隈の松、壺の碑。→◆第七回:末の松山、塩竈、松島(5月9日〈6月25日〉)。→◆第八回:瑞巌寺、石巻、平泉(5月13日〈6月29日〉)。→◆第九回:尿前の関、尾花沢、立石寺(5月27日〈7月13日〉)、最上川(6月3日〈7月19日〉)。
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〇第十回…最上川から「出羽三山」、「鶴岡・酒田」、「象潟」、「越後路」
(一) 「出羽三山」 (山形県鶴岡市)(*右の資料を参照)
(概説)「6月3日〈陽暦7月19日〉、羽黒山(はぐろさん)に登った。羽黒権現の別当代にお目にかかり、そして、南谷の別院に泊まった。4日、本坊で俳諧の連句の会が催された。5日、羽黒権現に参詣した。羽黒山に月山(がつさん)と湯殿山(ゆどのさん)とを合わせて、出羽三山といっている。8日、強力(ごうりき)というものに道案内してもらって、月山に登った。山小屋で一泊。夜が明け、朝日が出て雲が消え去ったので、湯殿山に下った。」
◇「有難や雪をかほらす南谷」(芭蕉)(季語:南薫(夏))
(意訳)(この南谷には、まだ雪が残っているのか、暑い盛りのいま時なのに、雪の上でも吹き渡ってきたかのような、さわやかな薫風(くんぷう)が吹いてきて清浄なこの地のありがたさが、ひとしお感じられることだ。)
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(二) 「鶴岡・酒田」(山形県鶴岡市・酒田市)
(概説)「出羽三山の巡礼を終えて、芭蕉は鶴岡(つるがおか)の城下に行き、庄内藩士、長山重行の屋敷に滞在して、俳諧の連句一巻を作った。翌日は、鶴岡から船に乗って酒田(さかた)の港に下った。
・芭蕉は、出羽三山を走った疲れが出て体調を崩す。鶴岡では、腹具合が悪かったのか粥(かゆ)を望み、日中は眠っている。
・酒田は、室町時代から商人の町。東北の生産物を各地に運ぶための重要な港町。裕福な商人が多かった。
◇「暑き日を海に入れたり最上川」(芭蕉)(季語:暑き日(夏))
(意訳)(暑い一日を海に流し込んでくれた、と大河の最上川を称える句で、夕涼みの心地よさを詠む。)
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(三) 「象潟」(秋田県にかほ市)
(概説)「当時、象潟(きさがた)は松島と並ぶ名勝で、芭蕉が楽しみにしていた場所の一つ。敬愛してやまない西行と、能因法師の歌枕の地。まず船で能因島に向かい、能因法師が3年間静かに隠れ住んでいたという跡を、次にその向こう岸に見える島を訪ねて、西行の面影を偲んでいます。…(中略)。入江の広さは縦横それぞれ一里ばかりで、その様子は松島に似通っているが、違ったところもある。《松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし》。芭蕉は、象潟の景色にはどこか憂いをふくんでいると感想をもらしている。」
・象潟は、芭蕉が訪れてから115年後の文化元年(1804)の大地震によって、湖底が隆起したため陸地(水田に利用)となった。
◇「象潟や雨に西施がねぶの花」(芭蕉)(季語:ねぶの花(夏))
(意訳)(象潟に雨が降りしきるなか、ねぶの花が咲いている。それは古代中国の美女、西施(せいし)の憂いのある面影にも似ているようだ。)
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(四) 「越後路」
(概説)「象潟から酒田に戻った芭蕉は、いよいよ北陸道の旅路(日本海側を南下する帰り道)である。聞けば加賀の国府金沢まで百三十里あるということである。鼠の関を越えると、出羽の国から越後の国に歩みを進め、やがて越中の市振(いちぶり)の関に着いた。この間九日ほどかかったが、暑気や雨の苦労で気分がすぐれず、病気まで起こったので、越後路の見聞を道中記に書かなかった。」
◇「荒海や佐渡によこたふ天河」(芭蕉)(季語:天河(秋))
(意訳)(目の前の日本海が荒波を立てている。その向こうに横たわるのは佐渡がある。夜空を仰げば、天の川が広がっている。)
・「荒海や」は名句。出雲崎(7月4日)で想を得て詠んだといわれる。省筆でつづられた越後路の旅憶は、この一句にすべて語りつくされている。
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**あとがき**
・芭蕉の足跡を見ると、各地に俳人がいてネットワークができていたようである。藩士や藩の侍医や富裕な商人など、各地で俳人たちと歌仙を巻いたりしている。地方の文化も高かったと言える。
・『おくのほそ道』は、推敲に推敲を重ね、旅から5年がたって、元禄七年初夏に完成した。
2017/05/12のBlog
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・日時:5月9日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(府立近つ飛鳥博物館館長)
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〇6世紀末葉から7世紀前半にかけての推古朝という時代は、前方後円墳の造営が停止されるとともに、国土の大開発や大改革が行われ、仏教文化の本格的受容なども進められた。
1.前方後円墳の終焉と大型方墳・円墳の造営
3世紀中葉から約350年間にもわたって造り続けられた前方後円墳が、一斉にその造営が停止されるのは推古朝初期である。これは、古い首長連合体制と決別し、天皇を中心とする強力な中央集権国家の形成を目指すことを内外に示したものである。さらに東日本の場合、この前方後円墳の終焉は、国造制という新しい地方支配システムの成立に対応するものと考えられる。
(1)畿内における前方後円墳の終末
・橿原市「五条野丸山古墳」-[墳丘長318m、最大の横穴式石室、6世紀後葉、欽明天皇を被葬者とする見方が有力]
・桜井市「珠城山(たまきやま)3号墳」-[墳丘長約60m、6世紀後葉)。葛城市「平林古墳」-[墳丘長約60m、6世紀後葉]、平群町「烏土塚(うどづか)古墳」-[墳丘長約60m、6世紀後葉]など。
(2)畿内における終末期大型方墳・円墳
・明日香村「石舞台古墳」-[方墳、一辺約50m、7世紀初頭、被葬者を蘇我馬子とする見方が有力]など。
・広陵町「牧野(ばくや)古墳」-[円墳、直径約60m、7世紀初頭]など。
(3)東日本における前方後円墳の終末の状況
・東日本における前方後円墳の造営停止時期は7世紀初頭で、畿内より少し遅れるが、推古朝の出来事であった。さらに注目されるのは、7世紀初頭以降になってもある程度の墳丘をもつ古墳の造営を続けたのが、上野全域の中でのちに「国造」が置かれる前橋市の総社古墳群だけに限られる。→「国造(くにのみやつこ)制」とは、畿内王権がそれぞれの地域の有力な豪族を選んで、それにその地域の支配を委ねる地方支配システム。
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2.国土の大開発の時代
(1)狭山池という大規模な農業用溜池
堤の下から見つかった築造当初のコウヤマキ製の樋管を年輪年代法によって伐採年代が推古24年(616)と判明。この狭山池の水は、西除川、東除川、丹比大溝、古市大溝をふくめて、南河内における灌漑網の一環として7世紀前半に整備されたと考えられる。(広瀬和雄氏)。
(2)畿内の計画道路網が整備(*右の資料を参照)
中国や朝鮮半島諸国からの使節の来朝を契機に畿内の計画道路網が整備された。考古学的にも下ッ道、丹比道、大津道などの側溝、あるいは上ッ道の盛土中から7世紀初頭の土器が出土。これらから、7世紀初頭には、奈良盆地や大阪平野の計画道路の整備がいっきに進んだと考えられる。
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3.東アジアの国際情勢と推古朝
首長連合とは.呼べないような体制に変化したことは、地方に巨大古墳がみられなくなるという考古学的な状況からも、文献による古代史研究からも明らかにされている。こうした政治体制の大きな変革だけではなく、各地で積極的に耕地の開拓や灌漑施設の整備が進められたこと、畿内の計画道路網の整備が本格的に進んだこと、さらに仏教寺院の本格的な造営が開始されたのも推古朝。→どうして推古朝になって始まったのか。それは、東アジアの国際情勢の大きな変化によるものである。
・589年、随(ずい)、中国統一(270年ぶりに南北朝に分裂していた中国全土の再統一を果たす)。そして、早くも598年には高句麗を攻める。この隋による中国の再統一と高句麗への侵攻が、朝鮮半島諸国や倭国に大きな衝撃を与えた。この東アジア情勢の大きな変化を受けて、朝鮮半島諸国と同じように倭国もまた、大王を中心とする中央集権的政治体制の整備を急ぐ。
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*ご案内*
今月の「文芸春秋」(6月号)に、白石太一郎先生「小山田古墳は蘇我蝦夷の墓だ」が掲載されています。
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