ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
シニア文化塾だより
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:553件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
前のページ   |   次のページ
2017/08/18のBlog
〇「松永久秀ホントに悪人?」(朝日新聞夕刊 2017年8月17日)



*「松永久秀 歪められた戦国の”梟雄”の実像」天野忠幸著(宮帯出版社 2017年4月17日)
・「悪役」として語り継がれる戦国武将・松永久秀の逸話は、後世の作り話で、天野先生の最新の研究によって、久秀の実像が明らかになってきた。

2017/08/15のBlog
〇昨年に続き、今年も夏の下鴨神社に参詣。右の写真は、涼やかな風が吹きぬける下鴨神社糺の森で毎年行われている「古本まつり」です。主催は京都古書研究会で8月11日~16日に開催。(撮影は、8月14日(月)午前10時頃)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
9月から『後期講座』が開講します
◇歴史コース(9月~1月:全14講義)
・開講日時:9月5日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・演題:「徳川家の大黒柱・井伊家の活躍」
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
*尚、後期講座の受講生募集(歴史コース)は、定員になり締め切りました。

◇文学・文芸コース(9月~1月:全13講義)
・開講日時:9月7日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・演題:「伊勢物語」①」
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
*尚、後期講座の受講生募集(文学・文芸コース)は、定員になり締め切りました。

まだまだ暑い日が続きますので、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
2017/07/31のBlog
・日時:7月25日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**前回の講義(復習)-「仁徳天皇の即位をめぐって」(H28年12月)
・仁徳天皇:(390年?~433年頃)。第16代天皇、その名を大雀命(オオサザキ)と呼ぶ、応神天皇の第4子。父は応神天皇、母は仲姫命(なかつひめ)。。
・応神天皇は、大山守命(オオヤマモリ)、大雀命、菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコ)の3人の異母兄弟を皇位継承者として重用した。
・【記紀が伝える王位継承の経緯】…応神死後に王位をめぐる紛争が起こった発端は、応神が生前、ワキイラツコを寵愛し、自らの後継者にしようと考えたという。…応神の死後、大山守が王位を狙って動き出し、ワキイラツコを殺害しようとして挙兵にいたる。オオサザキは、そのことを知ってワキイラツコに知らせ、両者の戦いとなって大山守が滅ぼされた。…しかし、記紀は、大山守が滅ぼされた後も、オオサザキとワキイラツコが王位を譲り合ったが、その混乱は、ワキイラツコの死によって解消し、オオサザキが即位することになる。
*仁徳天皇は応神の後継者の第一人者ではなかった、譲り合いで漁夫の利を得たという負い目があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳天皇聖帝伝説(*右に資料を参照)
仁徳天皇というと、聖帝のイメージが強い。それを物語るのが、民の竈に立つ煙と租税の免除をめぐる伝説である。
・(要約)「天皇は高い山に登って、四方の国をみて、「国の中に煙が立たないのは、国が貧しいからである。今から三年間、人民の税負担を免除せよ。」と命じた。そのため宮殿は壊れて雨漏りがしても修理せず、木の箱で雨水を受けるし、雨漏りしていないところに移ったりしている。その後、国の中を見ると煙が満ちている。そこで、人民は富んでるとして、租税徴収を再開。そのため、国民は栄えて、税負担に苦しまなかった。そこで、その時代を賛美して聖帝の世という。」

---
仁徳朝の土木事業(抜粋)
・『古事記』の伝える諸事業は、秦人を役ちて(渡来人を使役)、茨田堤また茨田三宅を作り、また、丸邇池、依網の池を作り、、難波の堀江を掘りて、海に通わし、また、小椅の江を堀り、墨江の津の造営する。(いずれも河内地方を舞台)。
・「茨田(まんだ)の堤」(右の資料を参照)
『日本書紀』仁徳朝十一年十月条、北の河(淀川)の氾濫を防ぐために、川の南に堤防を築く(茨田の堤)という治水事業である。なかなかの難工事で、人身御供の伝説が語られている。
・「難波堀江の造営」(右の資料を参照)
『日本書紀』仁徳朝十一年四月条、「いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。また、雨の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上がり、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、あふれた水は海に通じさせ、逆流を防いで田や家を浸さないようにせよ」。(河内湖の水を大坂湾に流して宅地や耕地を安定させる目的があった。そのころ湿地帯が広がって耕地が少なく、川の水が長雨にあえば海の潮が逆流して周囲を水没させてたという。それを防ぐために、海に水路を開いて、逆流をとどめようとした。そのために掘削された堀江が、現在の大阪市を流れる大川である。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・・河内の集中的な開発は、仁徳天皇が難波に王宮を構えたことに関係する。仁徳天皇は、皇子時代から難波に宮を構え、おそらく大阪湾沿岸の港湾施設を管理する任に当たっていたと思われる。
・難波は淀川と大和川が流れ、かつては生駒山地の東に大きな湖もあり、たびたび洪水に悩む地であった。河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うために、茨田(寝屋川市付近)に治水用の堤を築き、さらに海に通じる大規模な堀江を堀り、低湿地の水を抜いて耕地を拡大(これが日本最初の大規模土木事業だったとされる)。また、田畑に引く灌漑用水を確保するために、丸邇池や依網池を造り、墨江の港(住吉区)を新設して、水上交通を整備。また茨田には朝廷直轄の穀倉も築造している。
***********************************************************************
平成29年前期講座(歴史コース)(3月~7月:全15回講義)は、7月25日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
***********************************************************************
2017/07/24のBlog
・日時:7月13日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師・四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**『平家物語』の概要**
・成立:平家滅亡(1185年)から40~50年後(1230年頃)成立。作者未詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・冒頭句:「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。」
・四重田先生の講義『平家物語を読む』は、2011年に始まって、今回で14回目。前回は、「木曽義仲の横暴と最期」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
講義の内容
〇『平家物語』巻九-七
三草勢揃(みくさせいぞろへ)(*右の資料を参照)
「寿永三年(1184)正月29日、範頼・義経は後白河法皇の御所に参上して、平家追討のため西国に出発。…2月4日、大手・搦手の二軍に分かれて都を出発。大手の大将軍は源範頼(のりより)、付き従う人たち(以下中略)総勢五万余希騎。搦手の大将軍は源義経(よしつね)、付き従う人たち(以下中略)、武蔵坊弁慶をはじめとして、総勢一万余騎。…大手の範頼軍は、昆陽野(こやの・伊丹市)に.進攻。搦手の義経軍は三草山(みくさやま・播磨と丹波の境)の東麓に到着した。…2月5日、義経は、夜討ちをかけ、三草合戦に勝利を収める。」
・「源義経」…源義朝(よしとも)の子。母は常盤(ときわ)。幼名は牛若。富士川の合戦後に兄頼朝の陣に加わる。その後、木曽義仲との合戦や平氏追討の一の谷、屋島、壇の浦の合戦に勝利。頼朝との不和から、吉野から奥州に逃れたが、藤原泰衡に攻められて自害した。
・大手(おうて):敵の正面に向かって攻撃する軍団。
・搦手(からめて):敵の背後から回って、攻めこむ軍団。
・「揃へ(そろえ)」(右上の資料を参照)。この章段は、大半を源氏の人名を並び立てるていることから、勢揃へと名付けられた。
---
〇『平家物語』巻九-九
老馬(ろうば)(*右の資料を参照)
「平家が立て籠もった一谷は、山がすぐ海に迫って、深い谷が幾筋もきれこんでいる。平家の総大将・宗盛は、教経(のりつね)に一万余騎を付け、兄の通盛も同行して山の方を固める。(山の方とは鵯越(ひよどりごえ)の麓である。)…2月6日の明け方に、義経は一万余騎を二手の分け、土肥実平の部隊を一の谷の西口に回し、自身は一隊を率いて、一の谷の後方、鵯越を馬で降りようと、丹波路から横手にまわった。…武蔵坊弁慶は、土地の猟師を連れて来て、義経が〈ここから一谷の城郭へ馬で下ろうと思うが、どうか〉と尋ねると、〈馬に乗って下るのは無理だという〉。〈それでは、鹿は通るか。と聞くと、鹿は通るという〉。…《鹿が通るなら、馬が通れないことはない。すぐに、お前が道案内しろ。》と、老人に道案内を命じた。自分は年をとってるので、代わりに18歳になる息子・鷲尾義久を道案内につけた(この鷲尾義久は、のちに、奥州で義経を守り、同じ所で討ち死にする)。
・平家は、難攻不落の一の谷に居を構えるまで勢力を回復していた。
・平教経…平家きっての勇将。
---
〇『平家物語』巻九-十二
坂落(さかおとし)(*右の資料を参照)
「源平の全軍が乱戦となり、矢の雨の降る中で、どちらの軍にも相手の乗じる隙があるとも見えなかった。…2月7日の明け方、義経隊は敵の背面に回って、一の谷後方の鵯越に登り、平家の城郭を遠くから見まわして、〈馬を何頭か降りさせてみよう〉といって、鞍を置いた馬を追って降りさせた。《馬どもはそれぞれ乗り手が注意して降りさせたら、その時はけがをしないはずだ。では降りろ。義経を手本とせよ》といって、その先頭を切って下りた。残りの軍勢は、みな続いて下る。…この奇襲作戦で平家軍は逃げ惑うばかりだった【有名な鵯越の坂落とし】。平家軍は海上から船で脱出しようとしたが、混みあって沈没したり、乗せまいとして同士討ちしたりして、一の谷の水際は真っ赤に染まった。勇将平教経は何度の合戦で一度も敗れたことのない人だが、馬に乗り屋島へ逃走するしまつだった。」
・平家一門の中で、指導的な立場にある重要な人物が、一の谷の戦いで、多くの命を落とした。
===========================================================================
平成29年前期講座(文学・文芸コース)(3月~7月:全14回講義)は、7月13日で終了しました。
講義の先生並びに受講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。
===========================================================================
2017/07/17のBlog
・日時:7月11日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:佐藤興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.原始・古代(*右の資料は、韓国・高校生向けの教科書「韓国史」)
・南韓では、京畿道全谷里遺跡などから握斧、尖頭器などの石器類が出土。(旧石器時代とみられるが、古人類の化石骨などは未解明。)
・「古朝鮮」…紀元前2000年頃、檀君(ダングン)が王国を築いたという。.
・「青銅器時代・初期鉄器時代」…金属器文化は、紀元前1500年頃、中国東北部から流入し、弥生中期頃、日本列島にも広まる。
・「稲作」…韓半島では紀元前700年頃の青銅器時代の遺跡から炭化米が出土し、本格的な水田稲作が始まる。稲作は、韓半島には大陸を経由。日本の稲作は、紀元前400年頃に長江下流の江南地方から伝播し、北九州に伝わった。
・・・・・・・・・
2.三国時代の始まり
(1)「辰韓・馬韓・弁韓」時代(*右の三世紀の韓半島を参照)
紀元前4世紀頃より、鉄器文化が普及し、生産が増加し、新しい政治勢力がおこる。
・韓半島南部には、辰韓・馬韓・弁韓の三韓をおこし、北方には、扶余、高句麗、沃沮、東濊などの小国連盟体を形成して発展した。
*韓民族は、早くから満州と韓半島に住んでいた。北方民族(胡族、匈奴、突厥、モンゴルなど)、西方の中国の漢族、そして日本列島の日本族、この三つの種族と互いに戦ったり、密接に協力しながら、歴史を歩んできた。
・・・・・・・・
3.いくつかの国が3国に統合され、統一新羅に。
高句麗
4世紀初頭には中国領であった楽浪郡を奪取して、領土を大きく拡張する。首都は、桓仁→集安→平壌。5世紀末には、東アジアの強大国として威勢を振るった。
百済
中国東北部の政治的混乱から逃れて移住した人々が、半島西北地方に勢力を伸ばし、3世紀中頃には漢江流域に統合して国を建て、韓半島西南部(馬韓地方)を領土とした。首都は、漢城→公州→扶余。
・先進文化を大和朝廷に伝える。
新羅
三国の中で最も遅く建国した新羅は、慶州地方にあった小国家から出発し、周辺の小国家を統合しながら4世紀末には古代王国へと発展した。
統一新羅
しばらく三国は鼎立状態にあったが、6世紀後半に新羅が北方に進出し、百済のあった漢江流域を侵略したことから、百済は高句麗と連合して新羅と対抗。孤立した新羅は中国の唐と結んで大軍で百済を滅亡させた(660年)。百済が崩壊すると、新羅と唐の連合軍は高句麗を攻撃し、滅亡させた(668年)。新羅は、その後、唐の干渉をしりぞけ、韓半島の統一を成し遂げる(676年)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・アンケート…韓国:日本が嫌い(70%)、日本:韓国が嫌い(60%)。隣国でありながら、複雑な問題が絡みあっている。
・佐藤興治先生は、遺跡発掘などを通して、長年にわたって、韓国と交流されています。…「歴史の認識は、国によって違う。」、「韓国は、今でも歴史的な文化圏が続いている。例えば、新羅の人は自己主張が強く、語調がキツい。」、「三国間の抗争の中で安住の地を求めて、日本へ移住する集団は少なくなかった。彼らがもたらしたものは、日本古代文化の形成と発展に大きく寄与した。」
・先ずは、少しでも、韓国の歴史と現状を知ることができればということで、今回の講義を企画しました。
・次回の「韓国の歴史と現状(2)」は、「高麗時代」→「朝鮮時代」→「近代」です。
2017/07/10のBlog
シニア文化塾について
・名称:シニア文化塾(南河内シニア文化塾)は、2010年(平成22年)1月に設立し、今年で8年目になります。
・シニア層を対象に、「歴史・古典・文学・文芸などを楽しく学ぶ」講座を中心に運営しています。講座は、「歴史コース」と「文学・文芸コース」の二つのコースがあり、年間を「前期」(3月~7月)と「後期」(9月~1月)に分けています。
・シニア世代であれば、地域を問わず参加できます。

*右上の写真は、今年、5月11日(木)「芭蕉『奥の細道』旅空間(10)」(辻村尚子先生)の講義風景です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○「後期講座」(文学・文芸コース)のご案内
・期間:H29年9月~H30年1月
・曜日:木曜日
・時間:午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○講座日程表(*右の日程表をご覧ください。)
・講義回数:全13回
【古典】:万葉集、伊勢物語、源氏物語、平家物語
【近現代文学】:森鷗外、村田沙耶香
【和歌(短歌)】:百人一首、与謝野晶子
【俳諧】:芭蕉(おくのほそ道)
【能・狂言】:狂言
【絵画】:ゴ-ギャン
【音楽】:ベ-ト-ベン
・講師:12名…各分野でご活躍の先生方です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎受講生募集中です。(定員になり次第締め切ります。)
・定員:65名
・受講費用:10,400円(受講料800円×全13回講義)

◇申込方法
・往復はがきに、住所・氏名・年齢・電話番号を明記の上、下記宛に申し込み下さい。
【申込先】:〒584-0062 富田林市須賀3-11-15 「シニア文化塾」事務局 常本宛
【問合せ】:シニア文化塾・事務局 常本(つねもと) 携帯:090-3990-3907

◎シニア文化塾について
・名称:シニア文化塾(南河内シニア文化塾)
・設立:2010年(平成22年)1月
・対象:シニアであれば、地域を問わず、どなたでも申し込めます。
・年間を、前期講座(3月~7月)と後期講座(9月~1月)に分けています。
・受講生は、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、河南町、太子町、千早赤阪村、堺市、羽曳野市、松原市、東大阪市、大阪市、奈良県などから参加しています。

*右上の写真は、今年、4月18日(火)「黎明期の日本古代木簡」(市大樹先生)の講義風景です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇「後期講座」(歴史コース)のご案内
・期間:H29年9月~H30年1月
・曜日:火曜日
・時間:午前10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇講座日程表(*右の日程表をご覧ください)。
★古代史から中世史、近現代史まで、バラエティに富んだ歴史講座です。
・講義回数:全14回
【古代史】:8講義
【戦国・江戸時代】:2講義
【近現代史】:2講義
【韓国の歴史】:1講義
【現在の国際政治】:1講義
☆講師:14名…各分野でご活躍の先生方です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎受講生募集中です。(定員になり次第締め切ります。)
・定員:65名
・受講費用:11,200円[受講料800円×全14講義]

◇申込方法
・往復はがきに、住所・氏名・年齢・電話番号を明記の上、下記宛にお申し込み下さい。
【申込先】〒584-0062 富田林市須賀3-11-15 「シニア文化塾」事務局 常本宛
【問合せ】シニア文化塾・事務局 常本(つねもと) 携帯:090-3990-3907

2017/07/01のBlog
---
・日時:6月27日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:中尾芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藤原宮の宝幢遺構と『続日本紀』大宝元年の朝賀式
2016年夏、藤原宮大極殿院の南門の前で、元日朝賀で飾る宝幢(ほうどう・宝珠で飾った旗)を立てた柱穴が七つ見つかる。『続日本紀』の大宝元年(701)の律令国家に完成を祝う儀式で、7本の幢(はた)が立てられた」との記述と一致した。
『続日本紀』大宝元年(文武天皇) (*右上の資料を参照)
「天皇、大極殿に御(おは)しまして朝(ちょう)を受けたまふ。正門(せいもん)に烏形(うけい・カラス)の幢をたつ。左(東)は日像・朱雀・青龍の幡、右(西)は、月像・白虎・青龍の幡なり。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇が大極殿で群臣の拝賀をうける儀式のイメージ(*右の資料を参照)
天皇の即位式や元日朝賀、外国使節などの国家的セレモニーの様子である。天皇は、南門に出御して、重臣や外国使節と会ったり、歌舞や供宴を楽しんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇各宮跡の宝幡遺構
(1)位置
・大極殿院前庭 《平城宮・長岡宮》
・西院前庭 《平城宮》
・朝堂院 《藤原宮、恭仁京》
(2)構造
・楕円形の掘形内に2本の支柱と貫板で固定。東西に7本の宝幡が並列する。《平城宮・恭仁京・長岡宮》。
・方形の堀形に1本の柱を7本立てる。並列しない。《藤原宮》。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・藤原宮の南門(東西39m、南北14m)は、大極殿のすぐ南に位置し、柱穴列は、南門の約3m南側で検出。柱を据え付けるための穴は、1辺80cm~1mの大型で、長さ43mにわたって、15個の柱穴が2~3mごとに南門と平行に並んでいる。
・柱穴列は、「元日朝賀」や「天皇即位式」に伴う、関連施設の一部と推定。
・古代の元日朝賀の起源は、一般に孝徳朝の大化2年(646)に始まったといわれる。(元旦朝賀の初見史料『日本書紀』孝徳朝の元日朝賀式。)→前期難波宮に宝幡は立てられたか?。いまのところ、不明である。孝徳朝の前期難波宮と後期難波宮は、遺構が重なっており、今後の再調査を待つ。)
前のページ   |   次のページ