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シニア文化塾だより
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2017/12/14のBlog
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・日時:12月8日(木)9時20分(近鉄道明寺駅集合)
・【コース】:道明寺駅-大寅蒲鉾見学-道明寺-道明寺天満宮-梅廼家(昼食)-誉田八幡宮-白鳥神社-近鉄古市駅(15時解散) (約6km)
・参加者:18名
・天候:午前(小雨)、午後(曇り)
・リ-ダ-:佐藤義夫
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○「大寅蒲鉾 道明寺工場」(柏原市石川町)
・新鮮な魚(ハモ・グチなど)を使用した蒲鉾作りを見学。
・【作業工程】水洗い→採肉→すり身(石うす)→板付け→焼き板かまぼこ→包装→冷蔵庫に保管→出荷(形、蒸し、焼き具合などは職人さんの熟練した技術が必要)。
・かまぼこ製品が、初めて文献に登場するのは平安時代初期。魚介類のおいしさを追求した日本独特のかまぼこ技術。
・大寅蒲鉾(㈱は、明治9年(1876年)に創業。
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○「道明寺」(どうみょうじ)
道明寺天満宮の南側にある道明寺は、古墳造営にかかわった土師氏(はじし)の氏寺(土師寺)として、7世紀に建立されたと考えられる。土師氏の子孫の菅原道真ゆかりの寺で、道真公の別名道明から道明寺と呼ばれる。本尊は十一面観音菩薩像。
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○「誉田八幡宮」(こんだはちまんぐう)(羽曳野市誉田)
六世紀に欽明天皇の勅令で、応神天皇陵の直ぐ南に設けられた日本最古の八幡宮と称される。主祭神は応神天皇。
・応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は墳丘長420m、仁徳陵に次ぐ全国2位の規模をもつ、五世紀初頭に築造。
・応神天皇陵を信仰の対象とし、陵の後円部を背に神域が広がる神社。古墳の被葬者をまつる神社が、陵畔にあるのは珍しい。
2017/12/11のBlog
・日時:12月7日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**「平家物語」について**
・成立:平家滅亡(1185年)から40~50年後の頃(1230年頃)に成立。作者未詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・関係年表:(1118年)清盛誕生、忠盛の嫡男として生まれる。→(1153年):清盛(36歳)、平家の棟梁。→(1156年)保元の乱、(1159年)平治の乱で清盛は平家繁栄の基礎を作る。→(1167年)清盛、太政大臣。…【1180年】4月、以仁王-平家追討の令旨。9月、源頼朝、伊豆で挙兵。→【1181年】清盛逝去(60歳)→【1183年】平家一門(宗盛、維盛、忠度ら)、安徳天皇、建礼門院とともに都落ち。(西国落ち)→【1184年】一の谷の合戦.。
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講義の内容
○『平家物語』巻七-十六
忠度都落(ただのりのみやこおち)
・平忠度は、忠盛の六男。清盛の末弟。1180年(治承4年)正四位下・薩摩守に任じられる。歌をよくしたが、「熊野育ちの大力」でもあった。
・(要約)「薩摩守忠度は、都落ちに際しては、途中で都へ引き返し、和歌の師の藤原俊成(しゅんぜい)に面会を請い、自作の和歌の巻物を預け、勅撰和歌集の選考の入集を願っている。…後に俊成は、「千載和歌集」に「読み人知らず」として歌一首を採用した。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
(意訳)(志賀の旧都(天智天皇の大津京)は荒れてしまったが、長等山(琵琶湖西岸にある山)の山桜は昔そのままの姿だな)
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○『平家物語』巻第九-十四
忠度最期(ただのりさいご)
「薩摩守忠度は一の谷の西の手の大将軍であったが、味方の軍勢百騎ほどの中に囲まれて、少しも慌てずに逃げていく。途中、源氏の岡部忠純が大将軍だと気が付いて、〈あなたはどういう方ですか?。お名乗り下さい〉と申し上げたので、「私は味方だ」といって、振り切ろうとした時、岡部が甲(かぶと)の中の顔を見ると、お歯黒である。源氏の中には、お歯黒をする武将などいないので、平家の公達に違いないと馬を並べて組みついたところ、この様子を見ていた百騎の平家方の武者たちは、寄せ集めの雇われ兵であるので、一騎も助けに駆けつけず、我先にと逃げていった。…熊野育ちの強力で、岡部を押さえつけて三度刀で突いた。しかし、鎧(よろい)の上からなので、軽い傷なので死ななかったのを、取り押さえて首を斬ろうとしたところ、岡部の家来が、後方から駆けてきて、打ち刀を抜き、忠度の右腕を斬り落とした。…もはやこれまでと、左手で、岡部を投げ飛ばし、西に向かって、念仏を唱えているところを、岡部が忠度の首を討つ。…名を名乗らなかったので、誰ともわからなかったが、箙(えびら・矢を入れる筒)に結ばれていた文(ふみ)を解いて見ると、「旅宿花」という題で、一首の歌が書きつけてあった。**「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし 忠度」**〈意訳:旅の途中で日が暮れて、もし桜の木の下に宿ったなら、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれたであろうに〉。…忠度と書かれていたので、薩摩盛忠度とわかったのであった。岡部が忠度を討ち取ったと名乗りをあげると、敵も味方も、「ああ気の毒に、武芸にも和歌の道にも秀でていらっしゃった人なのに。惜しい。」といって、落涙した。
・平家武士のお歯黒…平忠度は、源氏武士に呼び止められ、味方と偽るが、お歯黒から.平家と見破られ、討たれる。
・.平忠度の歌は、「新勅撰.和歌集」、「玉葉和歌集」、「風雅和歌集」、などにも入集。
2017/11/30のBlog
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・日時:11月28日(火)集合場所:JR大阪城公園駅 午前10時
・【見学コース】:大坂城コース案内板→大坂城北外堀→極楽橋付近→山里丸→刻印石ゾーン→本丸(天守閣内部には入らない)→桜門枡形・蛸石-南外濠→東外濠→解散:12持30分
・参加者:50名
・天候:快晴
・講師(ガイド):森岡秀人先生(橿原考古学研究所共同研究員)
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大坂城コース案内板(全体説明) (*右上の写真)
・大坂城は、過去に2回、変身している。一回目は石山本願寺から、豊臣秀吉による大坂城への変身。二回目は秀吉の大坂城から徳川幕府の大坂城への変身である。
・今日みる大坂城の石垣は、すべて徳川期もの。豊臣期のものはその下に埋もれている。徳川期の石垣は、元和六年(1620年)から寛永六年(1629年)にかけての天下普請によるもので、三回の工期に分けて実施された。
・石垣は場所により築造年代が違い、石垣の構築法が少しずつ異なる。今日の現地見学は、石垣の見方について学びます。
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大坂城外濠
・第1期工事の石垣で、石垣編年、石垣勾配の見方、矩と反りとスキなどについて学ぶ。
・矢穴…石を分割する際に石の表面に一列に開けられた穴で、その線に沿って石を割る。(矢穴の大きさは時代によって違いがある。)
・石垣出隅部分の構築法(積み方)…石の長い面を交互に使用する「算木積み」。これによって反りのある石垣が完成した。
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刻印石ゾーン
・天下普請を物語る(丁場分担を示す)証拠として、石垣表面に家紋や家印の刻印が残されている。
・刻印石広場、刻印と割普請、家紋刻印、家中組刻印
・刻印…大名家の家紋、姓・官職名等。(しかし、刻印全体から見て多いのは、石切り場における何らかの符号、目印としてきざまれた方が多い。刻印の解明には、あと100年ぐらいかかると思われる。)
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桜門枡形・蛸石
・城内第一の巨石は「蛸石」の愛称で知られている。備前岡山藩主・池田忠雄が備前犬島(推定)から運ばせたもの。高さ5.5m、横幅11.7m、推定重量130トン。
・大坂城に使われている石材は、100万個とも推定。100トンもある巨石が多く用いられていることも、大坂城の特徴の一つ。

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**あとがき**
今回の現地見学は、天候に恵まれ、大坂城を新たな視点(石垣)からみるキッカケになっただけでも良かったのでは、…。
2017/11/25のBlog
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・日時:11月24日(金)
・【コース】:阪急梅田駅(10時発)-桂駅(乗換え)-嵐山駅-渡月橋-亀山公園-展望台-常寂光寺-万葉広場(昼食)-二尊院-落柿舎-トロッコ嵐山駅-竹林の道-天龍寺-嵐山駅(現地解散15時30分) (約6km)
・参加者:20名
・天候:晴れ時々曇り
・リーダー:佐藤義夫
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渡月橋からみた秋の嵐山(*右上の写真を参照)
桂川に架かる渡月橋からみた嵐山は、春は桜、秋は紅葉の名所と、四季の移ろいが美しい。
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二尊院(にそんいん)(京都市右京区二尊院門前長神町)
嵯峨天皇の勅願により建立。釈迦如来・阿弥陀如来の二尊像を祀ることから二尊院と呼ばれる。総門から長く続く参道は、「紅葉の馬場」と称される紅葉の名所。
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竹林の道
大河内山荘から野宮神社へ向かう約100mの竹林のなかの道。空を隠すほどに茂った嵯峨野名物の竹林の小径をたどってゆく。



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天龍寺(てんりゅうじ)(京都市右京区天龍寺芒の馬場町)
室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈って開創。臨済宗天龍寺派の大本山で京都五山の第一位。夢窓疎石作の庭園は、国の特別名勝に指定。法堂(はっとう)に釈迦・文殊・普賢の尊像があり、天井の雲龍図が傑作。

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**あとがき**
・平日というのに、大勢の人で、外国人も多い。桂駅-嵐山駅間の電車も、すし詰め状態。平安貴族の別荘地として愛された嵐山は、今も京都随一の人気観光エリア。古い寺社と自然があいまって魅力的な美景も、人が多すぎて、じっくり拝見は無理な行楽地となり、疲労感が残った一日であった。
2017/11/23のBlog
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・日時:11月16日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:末延國康先生(元大阪芸術大学教授)
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ポール・ゴーギャンの生涯(1848~1903年)後期印象派
・1848年パリに生まれる。…「数奇な人生」-南米のペルーで幼年時代を過ごし、船乗りや株式仲買人の仕事を経て、1882年の株価大暴落で失業。職業画家への転身。貧乏画家の一家離散へと宿命の放浪が始まる。…フランスのブルターニュ地方のポン=タヴェンやアルル、南太平洋のタヒチへ向かい、画家としての才能を開花。
◇主な作品
《裸婦習作》(1880年)、《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(1888年)、《黄色いキリスト》(1889年)、《浜辺のタヒチの女たち》(1891年)、《タ・マテテ(市場)》(1892年)、《われわれはどこから来たのか・・・》(1897年)など。
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○ゴーギャンの作品(抜粋)
「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」
[1888年 画布・油彩 73×92cm スコットランド国立美術館]
・画面を横切る大きな樹木。その手前は現実の世界で、祈りをささげる女性たち。樹の向こうは幻影(ヤコブと天使の闘い)。二つの世界は樹によって隔てられる一方、平担にぬられた赤大地で結ばれている。
・ヤコブと天使の闘い(組打ちする人物)は、葛飾北斎の「北斎漫画の力士図」を手本にした。
・ゴーギャンは、総合主義の絵画を確立する。
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■「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか
[1897年~1898年、画布・油彩 139×375cm ボストン美術館]
・画面には、右下には赤ん坊、左下に老婆の姿、中央には手を挙げて果物を採る人物。赤ん坊は生命の始まりを表わし、老婆は終末を待っている。
・ゴーギャンは、この作品を自殺する前の遺書として制作したと言われている。
2017/11/18のBlog
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・日時:11月7日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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奈良・飛鳥の小山田古墳
小山田古墳は、2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、橿原考古学研究所が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割が出土。今年3月、新しい発表で、一辺の長さが約70mの方墳で、当時最大級の墓であることがわかった。…これは非常に大きな発見で、蘇我馬子の墓として知られる石舞台古墳よりも大きい石室を持つ巨大な方墳であることがわかった。
小山田古墳の被葬者は?
被葬者像をめぐり、研究者の間では、舒明天皇(641年没)の初葬墓とする説と、乙巳の変(645年)で滅ぼされた大豪族・蘇我蝦夷の墓とする二つの説に分かれて、議論が続いている。
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舒明天皇の墓なのか?
この時期としては最大級の大きさから、舒明天皇の初葬墓であると主張する方もいる。小山田古墳は榛原石とよばれる板石を積み上げて墳丘を化粧していた。この形状は現在舒明天皇陵と考えられている段ノ塚古墳に用いられている板石と似ているので、小山田古墳と同じ被葬者であると考える。
●【舒明天皇の初葬墓とするには、無理がある】
・飛鳥時代に大王や有力な豪族の古墳を造営したのは、土師氏と呼ばれる墳墓の造営集団であった。同じ集団が作った古墳なので、同じ技法や同じ石材を使うことは十分に考えられる。
・舒明天皇陵(段ノ塚古墳)は、日本で最初に作られた八角墳で、小山田古墳と大きな違いがある。
・小山田古墳は、7世紀後半のわずかな期間内に埋められた可能性が強い。(改葬をしたあと時間を置かずに、天皇の墓の石室を壊して濠を埋めるほどの徹底的な破壊を行なうのは、当時の常識からありえない。)
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蘇我蝦夷の墓と考える
『日本書紀』の記述を読む
《あらかじめ双墓を今来に造る。一つをば大陵と日ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と日ふ。入鹿臣の墓とすう。》
・大陵(おおみささぎ)は蘇我蝦夷の墓で、小陵(こみささぎ)は蘇我入鹿の墓で、死んでから周りが困らないように生前のうちに墓を造っていたと「書紀」にある。→白石先生は、小山田古墳が「蘇我蝦夷の墓」と考えられる。入鹿は年若く、蝦夷と違って墓を造る年齢ではなかった。
天皇よりも大きい墓
当時造営された天皇の墓は、最大級でも一辺が60mほどのものがほとんど。豪族の墓は、同時期の天皇の墓よりも大きくならないようにしている。…蝦夷が造らせた小山田古墳ではその配慮がなくなり、自らの本拠地である飛鳥に、天皇の墓よりも一回り大きい墓を造ってしまった。
・それゆえに、蘇我氏の専横は極まれりと、中大兄皇子らによって討たれることになった。だからこそ、完成したばかりの小山田古墳は石室も失われるほど激しい破壊にあったと思われる。破壊痕こそは、現時点では、小山田古墳が蘇我蝦夷の墓であったことのなによりの証拠なのかもしれない。
2017/11/17のBlog
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「北斎館」 (長野県上高井郡小布施町大字小布施)
11月10日(金)、午後1時頃、画狂老人 葛飾北斎肉筆画の世界「北斎館」を見学。
・右の写真は、「北斎館」。北斎の肉筆画と天井絵を備えた祭屋台2基を展示。また、特別展示(9/2~11/27)『北斎漫画の世界展』を開催中。
・葛飾北斎(1760年~1849年):江戸後期の浮世絵師、90歳まで描き続けた。ゴッホやモネら西洋絵画に影響を与えた。
・北斎は、80代半ば、小布施の豪商・高井鴻山の庇護の下、江戸から約240kmの小布施を訪れ、晩年の集大成である肉筆画に全力を注ぎこんだ。

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「岩松院」天井絵(小布施町雁田)
(11月10日)、「北斎館」から東に約1kmのところにある、曹洞宗梅洞山「岩松院」(がんしょういん)の本堂内の大間、21畳の大きさの天井絵「八方睨み鳳凰図」を見学。嘉永元年(1848)北斎89歳、晩年最大の作品。
*(C)絵葉書「鳳凰図の一部」*
岩松院の天井図。中国から輸入した岩絵具に、金箔4400枚を用い、百数十年以上過ぎるもその光沢は輝いて、北斎翁と高井鴻山の不滅の意気がうかがえる。
・(A)絵葉書:祭屋台天井「男浪」、(B)絵葉書:祭屋台天井「女浪」
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〇大阪・あべのハルカス美術館
「北斎-富士を越えて-」の見学
11月14日(火)午後1時過ぎに行き、約2時間待ちで見学。やっと入場しても、場内は混雑。…しかし、小布施の「北斎展」でそれなりに見学していたので、少し速足で2回往復して、好きな作品を見学。
2017/11/06のBlog
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・日時:10月19日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:北見真智子先生(大阪音楽大学講師)
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狂言とは…
・狂言は、日本の古典芸能のひとつ。南北朝時代に発生した「せりふ劇」。
・狂言は能と一括して「能楽」と呼ばれる。能は、幽玄美を第一とする歌舞劇。狂言は日常的な出来事を笑いを通して表現。
・狂言の成り立ち…ルーツは奈良時代に中国から伝わった「散楽」(さんがく)。平安時代には「猿楽」(さるがく)と呼ばれる。14世紀末、南北朝時代に喜劇風の寸劇として狂言という言葉が使用され、そのころは「おかし」とも呼ばれていた。
(「散楽」→「猿楽」→【「能」(歌舞劇)・「狂言」(滑稽な物真似/寸劇)・「大道芸」(曲芸・奇術)】
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狂言の種類(*右の資料を参照)
「脇狂言」、「大名狂言」、「小名狂言(太郎冠者狂言)」、「聟(むこ)狂言」、「女狂言」、「鬼狂言」、「山伏狂言」、「出家狂言」、「座頭狂言」、「舞狂言」など。

狂言の表現の工夫…セリフとしぐさによって筋を展開
[始め]→狂言のほとんどが【名のり】ではじまる。「これはこの辺り(あた)りの者でござる」など。
[終わり]→【留め】舞台上で演技が完了。「くさめ留め(くしゃみ)」など。

現在の流派
・大蔵流:大蔵家、山本家、茂山家、善竹家
・和泉流:山脇家、三宅家、野村家
(狂言師は、東京・名古屋・京都・金沢などに在住。)
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狂言『止動方角』(しどうほうがく)
・分類:小名狂言(太郎冠者がシテとなる狂言)
・登場人物:シテ「太郎冠者」、アド「主人」、アド「伯父」、アド「馬」
◆あらすじ
茶の湯が道楽の主人(あるじ)。今日も「茶比べ」の会があって出かけたいのだが、持っていくお茶がない。そこで、裕福な伯父から借りようと太郎冠者をつかわすことに。ついでに持って行く太刀と乗って行く馬も借りて来いという。内心うんざりしている太郎。しかし、伯父は茶・太刀・馬、すべてを快く貸してくれた。…伯父は太郎に、「この馬は悪い癖があって、後ろで咳でをすると暴れ出すので気を付けよ」。それを鎮めるには「寂蓮童子六萬菩薩、鎮まり給へ」(じゃくれんどうじ ろくまんぼさつ、しずまりたまへ)と呪文を唱えると鎮まる、と教えてくれた。…主人は、冠者の帰りが遅いと迎えに出ている。「よく借りてきた」とも言わずに、主人は馬に乗るので、太郎は咳をする。と、馬は暴れ出して主人を振り落とす。そこで伯父に教えられた呪文を唱え、馬を鎮めるが、主人は「もう馬には乗らない」と言い、それならば太郎が乗り、茶壷や太刀は主人が持って歩くはめになる。…馬で乗る者は主人だからと、主人になりすまして乗り、ふだんの主人の小言をそのまま真似をするので、主人は腹を立て、太郎を突き落とし馬に乗る。太郎はまた咳をすると、主人は落馬して馬は逃げてしまう。太郎は主人を馬と間違えて、主人にまたがる。
・太郎冠者…狂言の代表的な登場人物で、身分は低い。
・(みどころ)…わがままで気短な主人。知恵ある太郎冠者との会話が、あいだに馬をいれて繰り広げられる。馬は黒頭で、赤い縫いぐるみを着て活躍する。(*右上の場面は、一度落馬して代わりに太郎冠者が馬に乗り、主人が茶壷と太刀を持って従っている場面)。日頃のうっ憤を晴らそうと、主人に報復。ここに、下克上が感じられる。
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