ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
シニア文化塾だより
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:633件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
前のページ   |   次のページ
2019/04/18のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日時:4月14日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:北川央先生(大坂城天守閣館長)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.西国巡礼の信仰(本文)
・大和長谷寺徳道上人の開創(地獄からの蘇生譚)…養老2年(718)、大和・長谷寺の徳道上人が病んで仮死状態に陥った。すると、夢の中に閻魔大王があらわれ、「悩める人々を救うため、三十三ヵ所の観音霊場をつくるように」と告げたという。息を吹き返えした上人が、これを守り、近畿地方の三十三ヵ所寺に霊場を設けたのが、現在の西国三十三ヵ所の始まりと言われている。
・花山法皇の中興…平安時代中期、花山(かざん)法皇が熊野権現より廃れていた霊場を復興させるようお告げを受け、仏眼上人、性空上人らを伴って巡拝し、以後、西国巡礼が盛んになったという。

2.西国巡礼の歴史(史料)
・行尊・覚忠の巡礼:『寺門高僧記』…11世紀~12世紀、三井寺の行尊と覚忠が巡礼。三井寺の僧の伝記をまとめた『寺門高僧記』に二人の高僧による三十三ヵ所巡礼記が収められている。巡礼の日数は、行尊は120日、覚忠は75日を要した。現在のような形となった西国巡礼は、応保元年(1161)頃。
・『竹居清事』(ちっきょせいじ)…永享(1429~1440年)頃、「巡礼の人、道路織るがごとし」と、その盛況を記している。
・『天陰語録』(てんいんごろく)…(1422~1500年)頃、「巡礼の人、村に溢れ里に盈(み)つ.」。各々、その背中に《三十三所巡礼某国某里」と書いた布をつけていると伝える。そして、その姿の者からは、「関銭」を取らず、船頭は「舟賃」を要求しなかった。
(以下、省略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西国という呼称
・西国巡礼の順序は、当初は大和長谷寺から御室戸寺、または那智山より御室戸寺への順路であったが、室町時代には、東国の人々向きに那智山から谷汲という現行の順路が固定したようである。
・この順路は、東国の者が伊勢神宮を経て、札所を打ち始め、終わって信州善光寺へ.詣でるのに好都合である。.
・善光寺は、番外札所的参詣所として、西国巡礼信仰と強い結びつけを持っている。
**(史料)『天陰語録』に「始干南紀那智。終干東濃谷汲。」とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あtがき**
・1200余年の昔、大和長谷寺の徳道上人によって創設。988年花山法皇の手で中興されたと伝えられる西国三十三ヵ所。2府5県にわたるこの最も古い観音霊場は、今日も多くの巡礼者が詣でる。
・江戸時代、封建的身分制度の.厳しい.時代の時、比較的自由に出かけられるのは、神仏参拝を目的としたものであり、巡礼もその一つである。
2019/04/14のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日時:4月9日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヤマトタケルと白鳥
・『日本書紀』の景行天皇条によると、ヤマトタケルは伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなったが、白鳥に化して大和の琴弾原(ことひきがはら)に留まり、さらに河内の奮市邑(ふるいちむら)にとどまった。人々はその三ヵ所にそれぞれの陵を作り、白鳥陵と言ったという。そして最後にヤマトタケルは、天をめざして飛び去ったという。
*ヤマトタケルノミコト…日本武尊(日本書紀)、倭建命(古事記)

◆『延喜式』(延長五年(927))の陵墓歴名にヤマトタケルが登載。
・伊勢の能褒野墓が、日本の古代国家が国家的祭祀の対象としていた天皇や皇族の一覧表である『延喜式』の陵墓歴名に登載され、しかも墓歴名の筆頭に位置づけられている。
*景行の皇子ヤマトタケルは、崇神・垂仁・景行など初期のヤマトの大王たちと応神・仁徳にはじまる大王たちをつなぐきわめて重要なところに位置づけられている。この点からも、ヤマトタケルの墓が墓歴名の筆頭に位置づけられていることは決して不自然ではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭国王墓
・古墳時代には、日本列島各地の首長たちが、畿内と呼ばれる近畿中央部の大首長を中心に首長連合を形成したと考えられている。この首長連合に加わっていた各地の首長たちは、その連合内での身分秩序に応じて大小さまざまな前方後円墳を造営していた。…このことから、それぞれの時期で他の古墳と隔絶した規模を持つ巨大古墳こそが首長連合の盟主である倭国王の墓であろうと考えられている。
・古墳の形と規模は、各豪族のヤマト政権内における政治的地位があらわれていると考えられる。古墳は単なる墳墓ではなく、すぐれて政治的な構造物であった。

【近畿中央部における大型古墳の編年】
*出現期(3世紀後半)~(4世紀中頃)*
「箸墓」→「西殿塚」→「外山茶臼山」→「メスリ山」→「行燈山」→.「渋谷向山」
*(4世紀末葉)~(5世紀)
「宝来山」→「五社神」→(古市)「仲ツ山」⇒(百舌鳥)「上石津ミサンザイ」⇒(古市)「誉田御廟山」⇒(百舌鳥)「大仙陵」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・白鳥伝説の語るもの…白鳥となったヤマトタケルあるいはその霊魂が、その生涯を閉じた伊勢の能褒野でもなく、大和の琴弾原でもなく、最終的には河内の古市の地に飛んできたことである。さらに白鳥は天に飛び去るのであるがこれはこの物語の神話的表現であり、最終的にその墓は古市に営まれたというのである。このことは、この伝説の原型が形成されたと考えられる6・7世紀段階では、大王やその一族の墓が営まれるべきところは、河内の古市にほかならないと考えられていたことを何よりも明確に物語っている。(白石太一郎先生)。
2019/04/10のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日時:4月4日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:芝池昌美先生(大阪音楽大学講師)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フランツ・シュ-ベルト(Franz Schubert)(1797-1828年)
オーストリア(ウィーン)生まれ,、ウィーン育ちで、10代のころからドイツ歌曲(リート)を数多く作曲し、このジャンルを芸術的レベルまで高めた。シューベルトは、歌曲の他、ピアノ曲、室内楽曲、交響曲、オペラなど多岐にわたる。わずか31歳でなくなるまで600曲を超える歌曲を作曲し、「歌曲の王」ともよばれる。

◆シューベルトの作曲を聴く
・「野ばら」(詩・ゲーテ、1815年作曲)
・「糸を紡ぐグレートヒェン」(詩・ゲーテ、1814年作曲)
・「魔王」(詩・ゲーテ、1815年作曲)
・四手用ピアノ曲「3つの軍隊行進曲」(1818年作曲)など。

*音楽の講義は、すばるホール内のカルチャールームを利用。
2019/04/07のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日時:3月28日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**平家物語**
・成立:平家滅亡(1185年)から40~50年後の頃(1230年頃)に成立。作者不詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・四重田(よえだ)先生の講義-『平家物語を読む』は、2011年1月に始まって、今回は18回目の講義です。

*平重衡について *
1157年~1185年。平清盛と平時子の子。.本三位中将。平氏軍制の中核にあり、反乱追討(源氏追討)に活躍。治承四年(1180)12月には南都攻略の総大将となり、大仏殿などを焼き打ちした(奈良炎上)。…一の谷の合戦で捕虜となり、鎌倉へ送られ、のち奈良(南都)に護送されて、木津川辺で処刑された。(享年28歳)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇平重衡(たいらのしげひら)の罪と罰
「奈良炎上」(南都焼き)
治承四年(1180)12月:清盛は、奈良の討手の大軍を奈良に差し向けた。大将軍は平重衡、副将軍平通盛で、四万余騎。…夜の戦いになって、平重衡の下知で在家に火をつけたところ、真冬の風にあおられて、火は奈良の寺院を焼き尽くした。辺りはまるで地獄のよう。大仏の頭部が焼け落ちて地上にある。御身体は溶解して山のようである。…凱旋した重衡を清盛公だけが喜んだが、建礼門院をはじめ心ある人々は、「悪僧を滅ぼすとも、伽藍を破壊し滅ぼしてよいものだろうか」と、嘆いた。

△治承五年(1181)閏2月、平清盛、熱病に冒されて亡くなる。(清盛死去

◆巻第九「重衡生捕」(しげひらいけどり):寿永三年(1184)2月:重衡28歳
平家軍の副将軍・平重衡は、一の谷の合戦で、味方の軍勢は全員逃げ失せたので、乳母子(.めのとご)の.後藤盛長と主従二騎で西へ落ちていった。…途中、敵の武将・梶原景季(かじわらのかげすえ)の追撃を受け、景季に馬を射られて立ち往生すると、盛長は主君の重衡を見捨てて、鎧につけた平家側の赤い印を引きちぎって捨て、必死で逃げた。…残された重衡は、切腹しようと観念したが、馬を射た景季の捕虜(生け捕り)になった。→後日、主君を裏切った、乳母子の後藤盛長は、人々に「ああ、ひどい盛長だな。あれほど重衡に可愛がっていらっしゃたのに、同じ所で死なずに、憎らしい奴よ」と非難されたので、盛長もやはり恥ずかしそうに、扇をかざして顔を隠したと噂になった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・南都は、以仁王の謀反挙兵のとき、三井寺とともに興福寺が以仁王に同調したこともあり、かねてから清盛は、南都の焼き払いを企んでいた。…大将軍・平重衡は、まさにこれが後の身の終わりを招き、清盛もこの暴挙を犯してのち2か月余りで、熱病で命を奪われる。
・平重衡は、馬を射られたとき、最も信頼していた乳母子にも見捨てられて、自害の直前、生け捕りになった。その後、南都焼打ちの張本人として処刑されることになる。…重衡は捕虜となり、伊豆の国にいたが、奈良の僧侶たちは、奈良の寺を焼いた重罪人として重衡を引き渡せをしきりに申し立てた。奈良方に重衡の身柄を渡すことになる。南都の大衆は重衡の身柄を受け取り、木津川の川原で処刑した。
2019/04/01のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日時:3月26日(火)am10時~12時
会場:すばるホール(富田林市)
講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
斉明天皇とは
・594~661年。皇極天皇、重祚して斉明天皇は、第35代、第37代天皇。在位:皇極(642~645年)、斉明(655~661年)。
・舒明天皇の皇后で、天智天皇(中大兄皇子)、間人皇女、天武天王(大海人皇子)の母。(.孝徳天皇は弟)。
・皇極4年(645)に乙巳の変が起きる。中大兄皇子と中臣鎌足らが謀り、蘇我入鹿を殺害。皇極は退位し、軽皇子が即位(孝徳天皇)。→孝徳天皇は難波に遷都し難波長柄豊崎宮を造営。

◆難波から飛鳥へ
・白雉4年(653)に、中大兄皇子は難波を去って「倭(やまと)の京(みやこ)」に戻ることを奏請したが、孝徳は拒否。→中大兄皇子は、母・皇極、妹で孝徳の皇后、間人(はしひと)皇女を奉じ、大海人皇子や公卿大夫・百官の人らを率いて、大和の飛鳥に帰った。→この事態は孝徳に大きな痛手。翌654年、孝徳は難波で崩御。655年、皇極が飛鳥板葺宮で重祚…斉明天皇である。
◆斉明天皇の時代
(1)飛鳥での大土木工事
『日本書紀』は斉明について、「時に興事を好む」。「溝を掘らせ、香具山の西から石上山にまで及んだ」と大工事を行い、「狂心」(たぶれごころ)の渠(みぞ)の工事に,舟200艘、3万人余りを動員、垣を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗られたとある。他にも、多武峰(とうのみね)に観(たかどの)と両槻宮(ふたつきのみや)を建てたり、苑池などの大土木工事を行なったとある。(来朝した外国人使節に見せるため。)
(2)東北の平定(7世紀後半)
阿倍比羅夫が率いる軍が遠征し、蝦夷(えみし)のほか、粛慎(みしはせ・民族系統不明)を討ったと『日本書紀』に記録されている。
(3)斉明5年の遣唐使の派遣。
(4)朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代
斉明6年(660)、百済滅亡に伴う救援軍を朝鮮半島に派遣。大軍団が朝鮮半島に送られ、斉明女帝も中大兄皇子とともに、九州の前線(筑紫)に赴いて指揮をとったが、遠征中に女帝は病没。⇒663年、白村江の戦いで大敗北。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期である。
2019/03/23のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日時:3月14日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇1.ゆく河
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・」
*有名な序章で、「河の水は刻々変化している。流れていないように見える淀みも、無数の水の泡が留まることはなく浮かんでは消えて、休むことなく形を変えている。この世は人間も自然もたえず移り変わり亡び去っていく、無常なものである。」

〇2.安元の大火
無常の体験の最初として、安元三年(1177)の大火を取り上げた。「…風が強くて、すごい晩だった。戌の時(午後八時)ごろ、平安京の東南から火事になって、西北へ焼けていった。しまいには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで火がついて、一夜のうちに灰になってしまった。…全体で、平安京の三分の一に達する家屋が焼失したという。」

〇3.飢渇
養和(1181~82)のころ、二年間もつづく飢饉で、ひどいことがあった。(以下、省略)。

◆『方丈記』概説
鎌倉時代初期の建暦二(1212年)成立の随筆。鴨長明作。冒頭で人と棲家の無常をうたい、それを五つの天災の体験によって裏付ける。そして世俗を捨てた閑居生活の安楽さを語り、さらに仏教者としての自己を顧みて全体を結ぶ構成になっている。
・鴨長明の面白いところは、人生について同じくらいの比重と情熱をもって住居を語る。
・日本三大随筆:枕草子、徒然草、方丈記
2019/03/21のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日時:3月12日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学文化学部教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇の権威をめぐる.幕末政治
孝明天皇とは
・江戸時代末期の天皇。1831年-67年。121代天皇。在位:1847-67年
・安政元年(1854年)のペリー来航以降、幕政の乱により、幕府の権威が失墜し、天皇の権威が浮揚することになる。
・孝明天皇は、安政5年(1858年)日米修好通商条約勅許を拒否し、攘夷の立場をとる。以後、積極的に政治に関与。
・「攘夷親征と行幸」….天皇みずからトップに立って行う。(宮中に奥深くに安座する天皇からの脱却)。(天皇の御所の外への行幸は、幕府が許さなかった。)
賀茂社行幸
文久3年(1863年)3月2日、攘夷祈願のため、孝明天皇は加茂下・上社へ行幸した。(このことは、幕府による天皇・朝廷統制が崩壊してしまったことである。)…1か月後の4月には、石清水八幡宮を同じく攘夷祈願のための行幸が行われた。
錦絵に描かれる天皇
行幸などの風景が錦絵に描かれ、一般市民に、幕府(将軍)から朝廷(天皇)への権力移行を表していた。

元号
・孝明天皇朝(在位20年弱)は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治と改元されている。改元の理由は、さまざまな天変地異や政局を転換したい時などであったと考えられる。
「明治」の改元で、「一世一元の制」が導入された。
・今年の4月1日には新元号が発表される。元号は中国から日本に伝わり、天皇が大化から平成まで1300年以上にわたり、代替わりや災害などを機に改めてきた。
2019/03/11のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日時:3月7日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:瀧本和成先生(立命館大学文学部教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作品の梗概
・冒頭文…「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼びだされて、そこで暇乞いをすることを許された。(以下、省略)」
あらすじ…「寛政の頃、京都町奉行所の同心、羽田庄兵衛は、一人の罪人も護送を命ぜられる。名は喜助。弟殺しの罪人である。一般的に高瀬舟に乗せられる罪人たちは、一晩中涙を流して己の仕業を悔やむのだが、喜助は違っていて、顔は晴れやかで愉しそうに見える。聞けば、これまで骨身を惜しまず働いても現金で物を買って食べることもままならなかったのに、入牢中に働かず二百文も頂き、初めて財産を持ったという実感を味わうと共に、そう思うと愉しいのだと言う。さらに、弟殺しについても病を苦に自殺を図ったが死にきれなかった弟の頼みを聞いた末の行為だったという。それを聞いた庄兵衛は、財産というものの観念(知足=足るを知る)と安楽死(苦しんでいる弟を楽にさせる)について思いを馳せる。」

◆作品構成
・森鷗外は、1881年(明治14)に東大医学部卒業、陸軍軍医となり、明治17年から21年にかけてドイツに留学し、衛生学など学ぶ。明治40年(1907)陸軍軍医総監(軍医の最高位に就く)。『高瀬舟』(1916年初出)。
・作品の素材・題材…「高瀬舟」は、江戸時代の神澤貞幹『翁草』「流人の話」を題材。
・作品が書かれ当時の統制から逃れるために、江戸時代を描く。弟殺しを明記した(長男殺しは死刑。弟殺しは遠島になる物語。)(以下、省略)
前のページ   |   次のページ