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シニア文化塾だより
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2018/06/24のBlog
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・日時:6月21日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:末延國康先生(元大阪芸術大学教授)
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岡本太郎の生涯(略歴)(1911年~1996年)
・1911年(明治42)、漫画家岡本一平、作家・歌人岡本かの子の長男として生まれる。(芸術家一家の一人息子)。
・1929年(昭和4)、東京美術学校入学後、すぐに中退。両親の渡欧に同行。
・1930年(昭和5)から1940年(昭和15)まで、フランスで過ごす。ピカソの作品に感涙して以来、抽象画を志す。また、また、パリ大学で哲学・民俗学を学ぶ。
・1942年(昭和17)、兵役として召集され、中国戦線で5年間過ごしている。
・第二次世界大戦後、日本で積極的に、絵画・立体作品を製作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表。
・1970年(昭和45)に大阪万国博覧会のシンボル《太陽の塔》を制作。…時代の寵児として次々と話題作を発表。「芸術は爆発だ」など、数々の名言を残す。
代表作品
《傷ましき腕》(1936/1949再制作・油彩)、《重工業》(1949年、油彩)、《森の掟》(1950年、油彩)、2極の大作:《太陽の塔》(1970年)と《明日の神話》(1969年制作、2008年東京・渋谷駅に設置)など。
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◆大阪万博 《太陽の塔》 (1970年、高さ72.5m 基底部直径20m)
今から約50年前、大阪万博は、参加国77ヵ国、6400万人を超える入場者で賑った。そのテーマは「人類の進歩と調和」。
・《太陽の塔》は、すっかり万博のシンボルみたいになったが、「なんであんなもの、国のお金で国の広場に建てるんだ」と批判された。…岡本太郎は、誰も思いつかないものを作った。「異物なもの。不条理なもの。妖怪のようなもの。なんだ、これは。」と言われたものが、現在では、「圧倒的な存在感があり、色あせない魅力がある」。
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◆巨大壁画 《明日の神話》(2008年、東京・渋谷駅に移設。縦5.5m、.横30m)
・右の写真-画面中央に象徴的に表されているのは、原爆で燃えている骸骨を配している。(第五福竜丸が被爆した際の水爆の炸裂がモチーフになっている。)…悲惨な体験を乗り越え、再生する人々のたくましさを描いたといわれる
・メキシコのホテルのオーナーに依頼され、ホテルのロビーに設置するために製作した壁画。この作品はメキシコで行方不明になっていたが、2003年メキシコ郊外で発見、修復され、2008年、無条件に不特定の人々が観る、東京・渋谷駅に恒久設置された。
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**岡本太郎の名言集**
・「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」(岡本が言わんとするところは、他者に好まれようと媚びるような芸術は、芸術であって芸術ではないということであろう。)、
・「異質なものをぶつけ合って、火花を散らすことにより、新しいものがうまれる。」(対極主義)
・「伝統とは創造である。」、「法隆寺は焼けてけっこう」(失われたものが大きいなら、それよりももっとすぐれたものを作る。」
・「絵画は美術館で観るものではない。お金を出して観るものではない。」
・「芸術は呪術である。」、「人間の原始に帰るべきだ。」
・「芸術は爆発だ。」など。
2018/06/18のBlog
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日時:6月16日(土)9時~15時
・【コース】:JR三国ヶ丘駅(9時集合)-JR和泉砂川駅-林昌寺-岡中鎮守の大楠-馬頭観音・一之瀬王子跡-熊野街道(信達街道)-往生院-梶本邸野田藤-市場稲荷神社-長慶寺-信達本陣跡角谷家-JR新家駅(15時解散) (約6km)
・参加者:19名
・天候:晴れ(青空で、さわやかな風)
・リーダー:佐藤義夫
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◆「熊野街道
大阪と和歌山とを結ぶ幹線道路として古来からあった道。ルートはほぼ同一だが時代によっていくつもの呼び名がついていた。延暦七年(907)、宇多天皇の熊野参詣から始まるとされる熊野詣(くまのもうで)は、院政期に大流行した。
*《王子社》(右上の写真:一之瀬王子跡)
中世の熊野街道には、熊野神を分霊勧請した王子社(おうじしゃ)が設けられた。(一般に熊野九十九王子とよばれる。)
◆「紀州街道
近世に入り、岸和田藩、紀州藩の参勤交代に使われた街道で、熊野街道に代わって大阪から紀州を結ぶ主要街道。紀州街道の本陣は、堺、助松、貝塚、信達(しんだち)宿、山中宿に設けられ、周辺の村々が助郷をおこなっている。
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・○「岡中鎮守社の大楠
ひときわ目立つ樹齢800年の巨木(大楠)。楠の木の根元は、周囲12m、樹高30m。枝は、各所で鉄柱でその重さを支えられているが、ただ巨木だけでなく、姿形も近くで眺めても美しくみごと。(根元の幹回りは、参加者が手をつないで13人の巨木)。
・昭和45年(1970)に大阪府の天然記念物に指定。
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○「長慶寺
真言宗泉涌派。参道石段は100段。信長・秀吉の根来攻めで焼失、焼け残った観音堂を慶長年間に秀頼が移築。その後、岸和田藩主岡部氏により堂宇が整備された。
・泉南市の紫陽花の寺で有名。境内にふたつある紫陽花の谷、本堂横や本堂裏の紫陽花の小道など。約6000の紫陽花が咲き揃う。

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**あとがき**(緊急情報)
今朝(6月18日)、午前7時58分頃、震度6弱の大阪地震。…大阪市内の受講生数名に電話連絡(電話もかなりつながりにくい)。「立っていられないほど、かなり、揺れたらしい」。(夕方6時現在、今のところ関係者の被害情報は無し)。
2018/05/31のBlog
★連絡事項
・6月5日(火)の講義「前期難波宮の八角形建物をめぐる諸問題②」(中尾芳治先生)には、前回のレジュメ(昨年12月5日・前期難波宮…諸問題①)をご持参ください


☆ただいま(5月下旬~6月上旬)は、、「シニア文化塾だより」のブログは、休息中です。いつものことですが、30人近い先生方とメール/FAXのやり取りで、後期講座(9月~1月)の日程表づくりに取り組んでいます。
2018/05/13のBlog
・日時:5月8日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館 名誉館長)
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史料(*右の資料を参照)
『日本書紀』天智即位前紀 斉明七年(661)七月条
天智天皇は、父は舒明天皇、母は皇極天皇。皇極天皇四年に、天皇は位を孝徳天皇に譲られた。そのとき(後の天智)を立てて皇太子とされた。孝徳天皇は白雉5年10月に崩御。翌年に皇祖母(皇極)が重祚して斉明天皇になられた。七年7月24日に斉明天皇が崩御
『日本書紀』天智四年(665)二月条
四年2月25日、間人大后(斉明天皇の娘、天智天皇の妹、孝徳天皇妃)が亡くなる。
『日本書紀』天智六年(667)二月条
六年2月25日、斉明天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合葬した。この日に、大田皇女(天智皇女)を陵の前の墓に葬った。
『続日本紀』文武三年十月(699)条
文武3年(699)に越智山陵すなわち斉明陵と、山科陵すなわち天智陵が「修造」されている。しかも単なる修理ではなく、位置を変えて大規模な修築事業であった。
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牽午子塚古墳の発掘調査
2009~2010年にかけて、明日香村教育委員会の発掘調査がおこなわれ、重要な成果を挙げた。
・墳丘は版築で築かれた対辺約22mの八角形墳が確認。
・凝灰岩の巨石を刳り抜いて内部に2室を設けた横口式石槨。
・この八角形の墳丘の南東側に、鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨をもつ陪塚的な小古墳(越塚御門古墳)が検出された。⇒報道各紙はこれを報じた。『日本書紀』天智六年(667)条の内容が、符号するともみられることから、多くの新聞が真の斉明陵が確定したように報じた。
考古学からみた斉明陵-白石先生説
・牽午子塚古墳の横口式石槨の型式を7世紀末ないし8世紀初頭の頃と想定。天智六年(667)、7世紀の第3四半期にまで遡るとは考えられない。
・岩屋山古墳(牽午子塚古墳の東方約500mの所に位置する)を、最初の斉明陵と考える。
・『続日本紀』文武三年(699)、牽午子塚古墳は、この文武三年に新たに修造された斉明陵である。
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牽午子塚古墳の造営年代
(1)石棺系横口式石槨の編年(右の資料を参照)
・第Ⅰ類:大きく石槨の前に前室・羨道あるいは長い羨道を持つ。7世紀前半~中葉。
・第Ⅱ類:石槨部の前に石槨部とほぼ同じ長さの短い羨道を付設した。7世紀中葉~後半の中頃。
・第Ⅲ類:石造りの羨道部を持たなくなった。7世紀末~8世紀初め

◇「白石先生の想定
・牽午子塚古墳の横口式石槨は、第三類の石槨であり、7世紀末ないし8世紀初頭前後のものである。⇒牽午子塚古墳は天智朝の斉明陵ではない。
・越塚御門古墳も、鬼の雪隠・俎古墳系列と同じタイプの石槨形態から、第Ⅲ類であり、牽午子塚古墳とほぼ同時期の造営。
・牽午子塚古墳・越塚御門古墳の石槨の内法は唐尺を用いている。(7世紀中葉から第3四半期と想定される岩屋山式の横穴式石室が高麗尺を用いていることから、牽午子塚古墳が7世紀中葉や第3四半期まで遡らないことは確実と考えられる。)
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**あとがき**
・古墳の年代想定は、考古学的にその古墳の石室の型式と副葬須恵器の型式、それにもとづく年代観に矛盾がない事を確認する。そのうえで、補強する材料として文献史料から伺える被葬者の想定もまた意味があると考える。(白石先生)
2018/05/06のBlog
5月4日(金)、午前11時頃、近鉄吉野線飛鳥駅に降り、西側の近くの踏切を渡り、標識を見ながら牽午子塚古墳を訪れました。歩いて約1km(約20分)。
・右の写真は、牽午子塚古墳の遠景(古墳の位置は、中央に小さく写る石塔の場所)。現在、明日香教育委員会文化財課が史跡整備中。工事中で立入禁止の立札がありましたが、了解を得て、細い道を辿って墳丘に上がり、写真を撮影。
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牽午子塚古墳(けんごしづか)(奈良県高市郡明日香村大字越)
・現地にある《解説文》-史蹟「牽午子塚古墳」
「万葉集」に多く詠まれた真弓丘陵の一画に位置している。墳丘は版築によって構成されている。墳丘の北西部に花崗岩の切石3個が露出しており、これをが外護列石とする二段築成の八角形墳の可能性が強い。墓室は巨大な凝灰岩をくりぬいた横口式石槨で、中央部に間仕切り部を削り出す二室の複室構造をしており、当初から追葬を意識して石槨を製作したものと考えられる。それぞれの石室の床には、長さ1.9m、幅80cm、高さ10cmの低い棺台を削り出す。夾紵棺の破片や七宝金具などが出土。
・右上の写真は、南に開口する横長の石室(石槨)入り口で、周辺はシートに覆われているが、巨石をくりぬいて2つの墓室も設けた内部構造は見ることができる。

越塚御門古墳(こしつかごもん)(奈良県高市郡明日香村大字越)
2010年、牽午子塚古墳に隣接する古墳が新発見されたのが、越塚御門古墳。①墳丘は版築で築かれているが、墳形・規模は不明。②横口式石槨。③築造年代は7世紀後半頃。
・牽午子塚古墳は斉明女帝と間人皇女の陵墓との説があり、隣接する越塚御門古墳は、大田皇女の墓であるとの説がある。⇒父・舒明天皇、母・皇極天皇(斉明天皇)の娘-間人皇女(はしひとのひめみこ)(孝徳天皇の皇后)。兄中大兄皇子(天智天皇)の娘-大田皇女。
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岩屋山古墳(いわややま)(奈良県高市郡明日香村大字越)
牽午子塚古墳を訪れた帰りに、近鉄飛鳥駅の近くにある岩屋山古墳に行く。
・岩屋山古墳:国の史跡に指定されている。牽午子塚古墳の所在する真弓丘の東端にあたる。7世紀代の一辺約54mの方形墳と推定。石室は切石造りの南面に開口する横穴式石室。このような切石造の横穴式石室は、飛鳥地方から桜井地方にかけて多く分布し「岩屋山式」とよばれる。被葬者については、斉明天皇らの名があがるが詳細は不明。

*あとがき**
5月8日(火)に白石太一郎先生の講義『明日香村牽午子塚古墳は斉明陵か』があるので、休日を利用して飛鳥を訪れました。…良い天気で、近鉄吉野線飛鳥駅には、、多くの人が降りて、東側に出る人が大半。西側に出て、牽午子塚古墳へ行く人は私一人でした。…牽午子塚古墳と越塚御門古墳は、シートで覆われていますので、見学するのは、後日をおすすめします
2018/04/30のBlog
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・日時:4月26日(木)、集合時間:10時(近鉄奈良駅行基像前)
・【コース】:近鉄奈良駅-猿沢池-興福寺-国立博物館-鷗外の門-(昼食)-春日大社神苑(萬葉植物園)-春日大社-水谷神社-若草山麓-手向山八幡宮-二月堂-東大寺大仏殿-奈良県庁屋上-奈良駅(解散:15時半)
・ガイド:浅田隆先生(奈良大学名誉教授)
・参加者:35名
・天候:晴れ
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猿沢池(*右上の写真を参照)
興福寺を望む池。周囲には柳が植えられている。奈良時代に帝の寵愛を失って、池に身を投げたという采女(うねめ)を祀る采女神社がある。
・[会津八一の歌碑]-猿沢池にて-
わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐりぬ かささしながら
(歌意:采女が身を投げるとき衣を掛けた柳を見たいと思って、折からの雨に傘をさしながら、猿沢池をめぐり歩いた。)
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興福寺(奈良市登大路町)(*右の写真を参照)
藤原氏の氏寺として栄華を極めた古刹。高さ約50mの五重塔は古都奈良のシンボル。数々の火災や明治期の廃仏毀釈で規模が縮小するが、それでも歴史的遺産は多い。
*奈良公園…興福寺、東大寺、春日大社から、若草山、御蓋山、春日奥山の一帯、東西4km、南北2kmの範囲は奈良公園として管理されている。

奈良国立博物館(奈良市登大路町)
・明治28年(1895)に建築。明治中期の代表的な欧風建築として国の重要文化財に指定)。日本随一の仏教美術専門の博物館。
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鷗外の門
森鷗外は、帝室博物館総長に1917年(大正6)に就任。正倉院の開封に立ち会うために奈良に来た。鷗外が滞在した官舎の門がある。母屋は門だけ残っていて、「鷗外の門」と呼ばれ、門の前には大きな石碑がある。
*「奈良五十首」…鷗外の奈良来訪は公務出張。正倉院の開かない雨の日だけ、傘をさしながら奈良めぐりを楽しんでいる。奈良における和歌の連作「奈良五十首」が生まれた。
・「猿の来し 官舎の裏の 大杉は 折れて迹(あと)なし 常なき世なり
(歌意:われわれは、有限の世界に生きている。)
・「勅封の 筝(たけのこ)の皮 切りほどく 剃刀の音の 寒きあかつき
(歌意:今まさに天皇の署名入りの封が切られ、正倉院の扉が開けられる情景。)

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春日大社神苑(奈良市春日野町)(*右の写真は神苑の藤の花)
藤原氏の氏神。千古の森に包まれた境内は広大で、朱塗りの社殿が美しい。今日の神苑(萬葉植物園)は、「藤の花」が咲き、華やかさを添えている。
・「会津八一歌碑」-春日野にて-(歌碑が神苑にある)
かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも
(歌意:月の澄みわたった光が春日野をあまねく照らしていることを「ほがらかに」という語で表現している。)
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**あとがき**
◇奈良の風景と文学
・会津八一(あいづやいち):1881年(明治14)~1956年(昭和31)。新潟県生まれの歌人、美術史家。早稲田大学教授。奈良を愛し、奈良の古跡・古美術を詠んだ歌人。奈良県内には、八一の自筆歌碑が21基ある。歌集『鹿鳴集』他。
・森鷗外:「奈良五十首」
・和辻哲郎:『古寺巡礼』
・井上靖:『天平の甍』
・堀辰雄:『大和路 信濃路』
・(俳人):正岡子規、高浜虚子、橋本多佳子、細見綾子
2018/04/23のBlog
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・日時:4月17日(火)am10時~11時50分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:宮田由紀夫先生(関西学院大学教授)
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アメリカの政治経済システムの特徴
三権分立
・民主主義国家では、立法(議会)、行政(大統領)、司法(最高裁判所)が独立して互いに牽制し権力の集中を防ぐ、三権分立と呼ばれるシステムができている。アメリカの場合、これが堅固である。
・アメリカの場合、上院与党、下院与党、大統領の政党の三つが一致しない限り「ねじれ」が生じる。
・最高裁判所の裁判官は、大統領が任命して上院が承認する。就任したら、任期はなく、死亡するか自ら引退するまで勤め続ける。(以前の大統領に任命された人が引き続き職にとどまるので、政権は大きく変わっていることがある。)
州権主義(大統領選の不思議)
・アメリカでは、州政府が独自の憲法を持っていて、独自に州を治めている。州の自治権の範囲は大きい。
・州権主義の表れが大統領選挙の仕組み。人口に比例した選挙人が各州に割ら当てられるが、勝った候補がその州の選挙人を総取りする。→[2016年米大統領選挙](選挙人)トランプ:306人、クリントン:232人。(得票数)クリントンが約290万票上回る。
・米国議会は、各州2議席=合計100名によって構成される上院と、人口に基づいて州ごとに議席数が決められる下院(定数435名)からなる。
◇アメリカ大統領の権限
・憲法第2条:行政権はアメリカ合衆国大統領に与える。大統領は米国軍の最高司令官である。
・議会で通った法案は、大統領が署名して初めて法律となる。(拒否権を行使することができる。)
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異端のトランプ政権
・保守的…環境(地球温暖化)での規制緩和、医療保険制度廃止(医療保険加入を義務付けたオバマケアの廃止)、金融の規制緩和。
・非保守的…保護貿易、製造業をターゲットにして産業政策。米国内では自由を重んずる一方、海外に対しては、保護貿易、移民排斥といった保護主義を掲げる。(自国の経済が悪化すると、保護主義が台頭)
・トランプが「アメリカ第一主義」を唱える背景にあるのが、アメリカの貿易赤字。→スローガン「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国にしよう)。
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アメリカの経済政策
・「産業政策論争」…1980年代初めと90年代初めに、アメリカ産業の対日競争力低下⇒日本の通産省(当時)の産業政策が過大評価される⇒アメリカでも産業政策の是非が議論されるが、結果的には実現はされなかった。それゆえに?アメリカ経済は90年代に好調。
・「特許政策」…(1935~1970年代末):アンチパテント(特許を重視しない)。(1980年代~2010年):プロパテント(特許を重視する)。日本に模倣させない(特許侵害訴訟を起こす)。現在は、プロパテント維持派(医薬品、大学、基本特許を持つエレクトロニクス企業)。アンチパテント転向派(電子・機械、ソフトウエア)。
・「反トラスト政策(独占禁止法)」…共和党:自由放任主義。民主党:(大.企業)に厳しい反トラスト政策。(政権によって振れている)。
・共和党の政策…市場メカニズムへの信頼。自由放任主義(企業の好きにさせれば経済は繁栄する)。自助努力の重視(福祉切り捨て)。イノベーションも政府の役割は基礎研究に支援のみ。クリントン政権のハイテク産業振興政策は、予算削減。
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**あとがき**
・日米貿易摩擦を思い出す。…1980年代、日米貿易摩擦に伴うジャパンバッシング(日本車や日本製の家電がハンマ-でたたき壊される)。(1980年代、米国貿易赤字の約50%が日本。現在は、中国50%、日本は約10%。)
◇日米首脳会談(2018年4月17日・18日)…米フロリダ州で安倍首相とトランプ大統領の会談。「北朝鮮問題」、「貿易・通商問題」など。
・貿易・通商問題…米側は「米国は多額の対日貿易赤字を抱えている。それを取り除き、均等にしたい。二国間の自由貿易協定(FTA)が望ましい」。日本側は「TPP(環太平洋経済連携協定)が両国にとって最善と考える」。⇒日米間で厳しい交渉が予想される。


2018/04/16のBlog
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日時:4月12日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・平家滅亡(1185年)から40~50年後の1230年頃に成立。全12巻、平家の栄華と没落を描いた戦記物語。作者不詳。琵琶法師による語りものとして流布。
・四重田先生の講義『平家物語を読む』は、2011年に始まって、今回で16回目の講義。
・平家物語は、平家一門の滅びに焦点を合わせ、敗者の悲運を主題にしている。戦いに敗れて滅んでゆく人々の悲劇的な運命が数多く描き出されている。→しかし、今回の「敦盛最期」の直実の物語では、敗者のあわれではなく、勝者のむなしさ、いわば、勝者のあわれが語られている。
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講義の内容
○『平家物語』巻第九-十六
敦盛最期(あつもりさいご)
「平家が一の谷の合戦に負けたので、源氏の熊谷直実(くまがいなおざね)は、敵の大将と取り組みたい思って、磯の方へ馬を進めていると、美しく立派に着飾った一騎の武者が、沖の船に目をかけて、海に馬を乗り入れ、5~60mほど泳がせていた。それを見て、熊谷は、〈貴殿は立派な将軍と拝見します。敵に後ろを見せるとは卑怯。戻られよ〉と、扇を上げて招くと、武者は引き返してきた。波打ち際で、馬を並べてぐっと組んでどさっと落ち、取り押さえ首を切ろう兜を押し上げてみると、十六、七歳ぐらいの武将で、薄化粧してお歯黒をつけている。わが子の小次郎の年齢ぐらいであった。…熊谷は名乗ったが、若武者は名乗り返さずに《お前にとっては、私は良い敵だ。名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねよ。誰でも私を見知っているだろうよ》。…熊谷は、見逃そうとも思ったが、後方を見ると、味方の土肥・梶原の軍勢が50騎ほどでやってくるのが見える。熊谷は、〈お助けしようと思ったが、味方の武士が大勢こっちへ寄せてきた。他の者の手におかけするよりも、この直実の手でお討ちして、死後のご供養をいたそう〉。というと、《ただ、さっさと首を取れ》と言われた。…泣く泣く、若武者の首を斬ってしまった。やがて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。〈ああ、今日の明け方、敵陣の中で笛を吹いておられたのは、この人々であったのか。味方の東国勢は何万もの兵士がいるが、戦いに笛を持ってくるような人はいない。身分の高い人はやはり優雅なものだ〉と思って、源義経に見せたところ、涙を流さない者はいなかった。…後に聞くと、この若武者は、平経盛(つねもり)の息子で、当年17歳の敦盛であった。」
・「敦盛最期」の物語は、敦盛という名前は伏せられ、最後になってこの若武者が敦盛という名前であることが明かされる筋立てになっている。
・熊谷直実:武蔵国(現・埼玉県熊谷市)熊谷郷の小領主。敦盛の物語は、直実が語りつないだから、後世に残った。また、直実は、若武者の首を斬るという非常な行為の中でわが身の疑念を抱き、人の世の無常へと思いを深め、出家している。

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○『平家物語』巻九-十七
知章最期(ともあきらさいご)
「平知盛は、息子の知章と侍の監物頼方と、たった主従三騎になって、助け舟に乗ろうと波打際の方へ逃げる。そこに、源氏の武士が十騎ほど、大声を上げて追いかけてきた。…その中で大将と思われる者が、知盛と組もうと馬を並べてたが、息子の知章が間に割ってはいって、馬を並べてむんずと組んで、どうっと馬から落ち、取り押さえて首を斬り、立ち上がろうとしたところ、敵の童(少年)が追いかけて来て、知章の首を討つ。監物も、知章の仇は取ったが、左の膝を射られて、討ち死にした。…知盛は、強力な名馬に乗って、海上を約2km、馬を泳がせて、兄・宗盛の船に追いついた。…(中略)。知盛は、《子が親を助けようと敵と勝負しているのを見ながら、子が討たれるのを助けないで、このように逃げ回っているのでしょうか。どんな親だと、他人の事でしたら、どれほど非難したに違いありません。自分のことになると、命は惜しいものだと、思い知らされます。他人に何を思われるか考えるだけでも、恥ずかしい。》
・父知盛の身代わりとなって死んだ知章は16歳。「知章最期」の段は、子を見捨てた父知盛の心情が、主として描かれている。
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