『幕末の会津藩』

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15講義)の第15回講義の報告です。
・日時:7月30日(火)am10時〜12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:幕末の会津藩
・講師:前原 圭介先生(立命館大学非常勤講師)
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**幕末の動乱(関係年表)**
・1853(嘉永6)年:ペリーの来航
・1854(安政1)年:日米和親条約
・1858(安政5)年:安政の大獄
・1860(万延1)年:桜田門外の変
・1862(文久2)年:松平容保、京都守護職就任
・1863(文久3)年:8月18日の政変
・1864(元治1)年:池田屋事件、蛤御門の変(禁門の変)、第1次長州征討
・1866(慶応2)年:薩長連合成立、慶喜・将軍就任
・1867(慶応3)年:慶喜・大政奉還、王政復古の大号令
・1868(慶応4)年:鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.会津松平家と松平容保
(1)会津松平家 [23万石、親藩]
・三代将軍家光の異母弟保科正之を始祖として成立
【正之は、二代将軍秀忠の四男で信州高遠家保科家(3万石)の養子になる→家光の取立てで、会津藩主⇒家光は、息子家綱(四代将軍)の後見を正之に託す(家綱を補佐して安定した政治体制)】
「家訓十五箇条」…右上の資料を参照
(要約)「徳川家には一心に忠勤に尽くせ。他の藩と同じ程度の忠勤で満足してはならない。徳川家に逆意を抱くような藩主があらわれたら、私(保科正之)の子孫ではないから従わなくてもよい」 [1668(寛文8)年正之が制定→藩是]
(2)松平容保(まつだいら かたもり)[ 会津藩九代藩主]
・美濃高須家松平義建(よしたつ)の六男で、1846(弘化3)年(12歳の時)、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となる。⇒容保、1852(嘉永5)年、家督を継ぐ
**高須、四兄弟…義建の子≪[二男:慶勝(→尾張藩主)、五男:茂栄(もちはる)(→一橋家)、六男:容保(→会津藩主)、七男:定敬(→桑名藩主)≫
容保は、桜田門外の変後、幕府と水戸藩の調停に尽力。⇒1862(文久2)年、幕政参与を命ぜられる。

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2.京都守護職
(1)京都守護職
・江戸時代、朝廷や西国大名を監視し、京都の治安を守るのは、京都所司代と京都町奉行の役割だった。・・・しかし、尊王攘夷派志士たちのテロが横行する幕末の京都は今までの力では治められなくなっていた。そのため、幕府は1862(文久2)年、京都守護職を設置。
・京都守護職に任じられた松平容保は、同年12月に、約1000人の藩兵を率いて上洛。
(2)八月十八日の政変
・三条実美ら尊王攘夷派(長州藩士)が朝廷から締め出される。⇔会津藩は薩摩藩と共に中心的役割を果たす。
孝明天皇の信頼…右上の資料を参照
・容保は、孝明天皇より「御書」「御製」を賜る。
「御書」(要約:堂上公卿以下が、暴論を並べて不正な行為が多くなったので、憤慨に堪えず、追放せよとの内命を下したところ、すぐに聞き入れてやってくれ、朕の思いを貫き通してくれた。これはすべて容保の忠誠心であって、深く感謝して、この一箱を贈るものである。)
「御製」(ぎょせい)(箱には、孝明天皇の和歌が二首入っていた)
・容保は、会津戦争のときも、この御製を身辺から離さずに戦ったという。

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3.「一会桑」
(1) 「一会桑」(いちかいそう)の成立
・一橋慶喜(将軍後見職)は、1864(元治1)年2月に「禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮」就任(徳川一門でありながら朝廷の役職につく)。4月には桑名藩主松平定敬(容保の弟)が京都所司代に任命され、上京。
・孝明天皇に信頼の厚い一橋、会津、桑名が「一会桑」政権とよばれる体制を築く。
(2)禁門の変
●池田屋事件(6月5日)…会津・桑名両藩兵、新撰組と共に出動。尊攘派を捕縛
●禁門の変(蛤御門の変)(7月19日〜22日)…長州藩兵、上京。御所付近で激しい市街戦→長州藩は敗退
●第一次長州征伐…幕府は徳川慶勝(尾張藩主)を征長総督に任命し諸藩を動員(9月)→長州藩、降伏(11月)。
(3)長州再征(=第二次長州征伐)
・6月、幕府は長州藩の再征討に向かうが各地で敗北。→7月20日、大坂城にいた将軍家茂、病没(享年21歳)。→8月20日将軍の喪を理由に停戦(幕府軍の完敗に終わる)。
(4)孝明天皇崩御
・12月5日、慶喜15代将軍に就任。12月25日、慶喜の理解者、孝明天皇が崩御(享年36歳)。

会津藩、京都守護職の辞職を申し出る…右上の資料を参照
・会津藩は、経済的負担が莫大になり、京都守護職の辞職を何度も願い出ているが慶喜・定敬らの説得と、「幼帝(明治天皇)の意思」により辞職・帰国を断念。

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4.京都守護職の終焉
(1)大政奉還[1867(慶応3)年10月14日]
○「十四日、将軍と主君が御参内、天皇に政権返上を上奏された。一同驚愕茫然である。六年にわたる当藩の誠忠も水泡に帰し、残念至極・・・」(「京都守護職始末」より)
・土佐藩が大政奉還を慶喜に建白し、政権を返上。(慶喜の真意は、大政奉還後も実質的に徳川家が政権を担うことを見越してのものである)
(2)王政復古のクーデター[1867(慶応3)年12月9日]
・薩摩藩ら討幕派および岩倉具視は、宮中クーデターで新政権を樹立。
【幕府の廃絶、摂政・関白の廃止、天皇の下に三職(総裁、議定、参与)の設置】
鳥羽伏見の戦い
「武門の習い、どうして薩長の暴挙を黙過することができよう。ことここに至って、容保公が多年辛苦して尽くした公武一和は、空しく一朝の水泡と化し去り、ついに戊辰変乱のもととなる。噫」(「京都守護職始末」最終章)
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(%緑点%)平成25年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15講義)は、7月30日で終了しました。
講義の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。

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