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シニア文化塾だより
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2013/08/02のBlog
前期講座(歴史コース)(3月~7月:全15講義)の第15回講義の報告です。
・日時:7月30日(火)am10時~12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:幕末の会津藩
・講師:前原 圭介先生(立命館大学非常勤講師)
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**幕末の動乱(関係年表)**
・1853(嘉永6)年:ペリーの来航
・1854(安政1)年:日米和親条約
・1858(安政5)年:安政の大獄
・1860(万延1)年:桜田門外の変
・1862(文久2)年:松平容保、京都守護職就任
・1863(文久3)年:8月18日の政変
・1864(元治1)年:池田屋事件、蛤御門の変(禁門の変)、第1次長州征討
・1866(慶応2)年:薩長連合成立、慶喜・将軍就任
・1867(慶応3)年:慶喜・大政奉還、王政復古の大号令
・1868(慶応4)年:鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)
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講義の内容
1.会津松平家と松平容保
(1)会津松平家 [23万石、親藩]
・三代将軍家光の異母弟保科正之を始祖として成立
【正之は、二代将軍秀忠の四男で信州高遠家保科家(3万石)の養子になる→家光の取立てで、会津藩主⇒家光は、息子家綱(四代将軍)の後見を正之に託す(家綱を補佐して安定した政治体制)】
「家訓十五箇条」…右上の資料を参照
(要約)「徳川家には一心に忠勤に尽くせ。他の藩と同じ程度の忠勤で満足してはならない。徳川家に逆意を抱くような藩主があらわれたら、私(保科正之)の子孫ではないから従わなくてもよい」 [1668(寛文8)年正之が制定→藩是]
(2)松平容保(まつだいら かたもり)[ 会津藩九代藩主]
・美濃高須家松平義建(よしたつ)の六男で、1846(弘化3)年(12歳の時)、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となる。⇒容保、1852(嘉永5)年、家督を継ぐ
**高須、四兄弟…義建の子≪[二男:慶勝(→尾張藩主)、五男:茂栄(もちはる)(→一橋家)、六男:容保(→会津藩主)、七男:定敬(→桑名藩主)≫
容保は、桜田門外の変後、幕府と水戸藩の調停に尽力。⇒1862(文久2)年、幕政参与を命ぜられる。
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2.京都守護職
(1)京都守護職
・江戸時代、朝廷や西国大名を監視し、京都の治安を守るのは、京都所司代と京都町奉行の役割だった。・・・しかし、尊王攘夷派志士たちのテロが横行する幕末の京都は今までの力では治められなくなっていた。そのため、幕府は1862(文久2)年、京都守護職を設置。
・京都守護職に任じられた松平容保は、同年12月に、約1000人の藩兵を率いて上洛。
(2)八月十八日の政変
・三条実美ら尊王攘夷派(長州藩士)が朝廷から締め出される。⇔会津藩は薩摩藩と共に中心的役割を果たす。
孝明天皇の信頼…右上の資料を参照
・容保は、孝明天皇より「御書」「御製」を賜る。
「御書」(要約:堂上公卿以下が、暴論を並べて不正な行為が多くなったので、憤慨に堪えず、追放せよとの内命を下したところ、すぐに聞き入れてやってくれ、朕の思いを貫き通してくれた。これはすべて容保の忠誠心であって、深く感謝して、この一箱を贈るものである。)
「御製」(ぎょせい)(箱には、孝明天皇の和歌が二首入っていた)
・容保は、会津戦争のときも、この御製を身辺から離さずに戦ったという。
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3.「一会桑」
(1) 「一会桑」(いちかいそう)の成立
・一橋慶喜(将軍後見職)は、1864(元治1)年2月に「禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮」就任(徳川一門でありながら朝廷の役職につく)。4月には桑名藩主松平定敬(容保の弟)が京都所司代に任命され、上京。
・孝明天皇に信頼の厚い一橋、会津、桑名が「一会桑」政権とよばれる体制を築く。
(2)禁門の変
●池田屋事件(6月5日)…会津・桑名両藩兵、新撰組と共に出動。尊攘派を捕縛
●禁門の変(蛤御門の変)(7月19日~22日)…長州藩兵、上京。御所付近で激しい市街戦→長州藩は敗退
●第一次長州征伐…幕府は徳川慶勝(尾張藩主)を征長総督に任命し諸藩を動員(9月)→長州藩、降伏(11月)。
(3)長州再征(=第二次長州征伐)
・6月、幕府は長州藩の再征討に向かうが各地で敗北。→7月20日、大坂城にいた将軍家茂、病没(享年21歳)。→8月20日将軍の喪を理由に停戦(幕府軍の完敗に終わる)。
(4)孝明天皇崩御
・12月5日、慶喜15代将軍に就任。12月25日、慶喜の理解者、孝明天皇が崩御(享年36歳)。
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会津藩、京都守護職の辞職を申し出る…右上の資料を参照
・会津藩は、経済的負担が莫大になり、京都守護職の辞職を何度も願い出ているが慶喜・定敬らの説得と、「幼帝(明治天皇)の意思」により辞職・帰国を断念。
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4.京都守護職の終焉
(1)大政奉還[1867(慶応3)年10月14日]
○「十四日、将軍と主君が御参内、天皇に政権返上を上奏された。一同驚愕茫然である。六年にわたる当藩の誠忠も水泡に帰し、残念至極・・・」(「京都守護職始末」より)
・土佐藩が大政奉還を慶喜に建白し、政権を返上。(慶喜の真意は、大政奉還後も実質的に徳川家が政権を担うことを見越してのものである)
(2)王政復古のクーデター[1867(慶応3)年12月9日]
・薩摩藩ら討幕派および岩倉具視は、宮中クーデターで新政権を樹立。
【幕府の廃絶、摂政・関白の廃止、天皇の下に三職(総裁、議定、参与)の設置】
鳥羽伏見の戦い
「武門の習い、どうして薩長の暴挙を黙過することができよう。ことここに至って、容保公が多年辛苦して尽くした公武一和は、空しく一朝の水泡と化し去り、ついに戊辰変乱のもととなる。噫」(「京都守護職始末」最終章)
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平成25年前期講座(歴史コース)(3月~7月:全15講義)は、7月30日で終了しました。
講義の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。

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2013/07/26のBlog
前期講座(歴史コース)(3月~7月:全15講義)の第14回講義の報告です。
・日時:7月23日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:鎌倉時代の発展
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
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講義の内容
1.鎌倉幕府の性格
・京・鎌倉ふたつの政権
・鎌倉幕府は、「東国政権」と「朝廷の軍事警察権の分担者」
・守護と地頭の設置(1185年)…現在は、鎌倉時代の成立は1192年ではなく1185年が有力な説。
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2.源頼朝の死去(1199年)-頼家-実朝・・・後家・北条政子
(1)頼朝は、建久十年(1199)正月に急死。落馬が原因といわれるが、詳細は不明。
・頼朝の妻は、北条時政の娘・政子(1157-1225年)。北条義時は政子の弟。
(2)二代将軍は、嫡男頼家
・建仁二年(1202)、頼家 征夷大将軍
・北条氏と他の御家人との対立
・建仁三年(1203)8月、北条時政は、比企氏(頼家の妻の実家)を滅ぼし、頼家を修善寺に幽閉し、のちに殺してしまう。⇒9月には、実朝が三代将軍。
(3)三代将軍.、実朝(頼家の弟)
・実朝は、後鳥羽上皇を手本として、和歌や蹴鞠など京都文化を求める。藤原定家について和歌を学ぶ。万葉調の歌人と知られ、家集『金塊和歌集』。
〇後鳥羽上皇と実朝…実朝の親朝廷的態度(京の文化にあこがれた)
*「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君に二心わがあらめやも」(実朝)
(意訳)(どんあことがあっても、君=後鳥羽上皇に真心を尽くします)
*「官打(かんうち)」(官位による呪詛)…後鳥羽上皇は、実朝を希望のまま昇進させ(権中納言→権大納言→内大臣→右大臣)、実朝が果報負けして早死にすることを望んだ。
・承久元年(1219)正月、実朝は右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮で行なった際、兄頼家の子の公暁(くぎょう)に殺された。(実朝28歳)
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3.承久の乱(1221年)
(1)北条政子の大演説
・朝廷(後鳥羽上皇)は、源実朝暗殺を機に、北条義時を討とうとする。
★承久三年(1221)5月15日:後鳥羽上皇、五畿七道諸国に宛てて、北条義時追討の宣旨(後鳥羽上皇は、公家勢力を結集して挙兵した。討幕でななく、義時追討としたのは、御家人の分裂を期待したためである)

この知らせは、5月19日には、鎌倉に伝わった。
『吾妻鏡』 承久三年五月・・・*右上の資料を参照ください。
二品(北条政子)が、御家人等を簾の下に招いて、 【みんな心を一つにしてよく聞け。これは最後のことばである。今はなき頼朝公が朝敵を征伐し、鎌倉幕府を開いた後、お前たちの戴いた官位や俸禄のことを考えると、そのご恩は山よりも高く海よりも深い。ところで今逆臣という讒(そしり)によって、まちがった(義時追討)の綸旨が下された。名誉を重んずる人は、早く秀康・胤義(有力な御家人で、朝廷側に加わった北面の武士)を討ち取り、三代将軍のあとを守るべきである。ただし、院の方へ味方したい者は、ただ今申し出よ】と。 集まった武士たちはすべて命令に従い、或いは涙があふれて返事もはっきりできず、命をかけて恩に報いようと思った。
・幕議が、足柄・箱根を固めて防御しようという意見と、上洛しようという意見とに分かれたとき、上洛する断を下したのは、北条政子。
・合戦は、わずか1ヶ月で幕府軍の圧倒的勝利。
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(2)承久の乱の戦後処理
①三上皇配流
・後鳥羽・順徳の両上皇は、隠岐・佐渡に流された。土御門(つちみかど)上皇は、幕府は責任を追求しなかったが、上皇自ら希望して土佐に流され、のちに阿波に移された。
・幕府は、新しい院・天皇(皇位継承)にも干渉する力を持つようになってくる。
②六波羅探題
・北条時房・泰時は六波羅探題として、朝廷を監視し、京都や西国の行政・裁判を担当。
③新補地頭
・幕府は、上皇方の所領三千余ヵ所を没収し地頭を任命した。⇒多くの御家人が西国に所領を与えられて移住し、東国と西国という二つの世界が出会うことになる。

朝廷と幕府という二元政治が終焉し、鎌倉幕府の発展(=武家の全国政権)が確立したのである。
2013/07/22のBlog
前期講座(文学・文芸コース)(3月~7月:全13講義)の第13回講義の報告です。
・日時:7月18日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:『平家物語を読む』~祇王~
・講師:四重田 陽美(よえだ はるみ)先生(大阪大谷大学教授)
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講義の内容
1.平家物語について
・全12巻…巻六で清盛の死。清盛の若い頃のことは語られていない。
・成立…未詳(平家滅亡から40~50年後・1230年頃に書かれた)
・作者…未詳
・同じ時代に軍記四作品…『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』
・語り本(覚一本など)と読み本
2.平清盛 [関係年表]
・1118年:平忠盛の嫡男として生まれる
・1156年:保元の乱
・1159年:平治の乱
・1167年:太政大臣
・1181年:清盛逝去(64歳)
・1185年:壇ノ浦の戦いで平家滅亡
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3.『平家物語』を読む~祇王~ [清盛に人生を変えられた舞姫]
(あらすじ)
〇清盛、祇王を寵愛
「平清盛は、天下を掌中に握りなさったので、世の非難も遠慮せず、思いがけない事ばかりなさった。・・・白拍子の名手で、祇王(ぎわう)・祇女(ぎにょ)という姉妹の姉の祇王を寵愛し、母のとぢにも良い邸を造ってやり、毎月米百石と銭百貫を与えて、一家は富み栄えていた。」 
・・・「三年後、加賀の仏(ほとけ)という16歳の白拍子が、清盛殿のところに、招かれていないのに自ら押しかけていった。清盛は、“なんということだ。よばれもしないのに押しかけてくるなどあってはならない。そのうえ祇王がいる所へは、参る事は許されない。とっと退出せよ」
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〇清盛は、仏御前に心を移し、祇王を追い出す
・「清盛は、最初はそんな者には会わないといっていた。・・・祇王のとりなしで、呼び戻され、仏御前が今様と舞を披露すると、たちまち心を移された。」⇒「祇王は、清盛殿が“さっさと退去せよ”おっしゃるので、自室を掃いたり拭いたり、見苦しいものを整理して、とうとう出て行くことになり、襖に、泣く泣く一首の歌を書き付けた。
萌え出づるも枯るるも同じ野辺の花 いずれか秋にあはで果つべき
(意訳)(人の愛を受けるも、人の愛情が離れてゆくのも同じ野辺の草のような白拍子の身であるならば、いずれは飽きられ、秋になる前に捨てられる運命なのだろう)
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〇清盛、失意の祇王を呼び出す
・「翌年の春のころ、清盛殿は失意の祇王を呼び出して、“歌や舞で仏御前をなぐさめよ”と命じた。・・・母親のとぢに諭されて、泣く泣く清盛公の屋敷に参上する。」
⇒「・・・行ってみると、以前とは違い各段に低い扱い。落ちる涙を押えて今様を一曲歌った。」
仏も昔はただの人 我らも死んだら仏 どちらも仏性を持っているのに 分け隔てされるのが悲しい
・・・その座にたくさん控えていた人々はみな感動の涙を流した。
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〇祇王出家
・「清盛邸での屈辱的な扱いに祇王は、いったん身投げをしようと考えたが、妹の祇女や母のとぢの嘆きを聞いて思いとどまり、21歳で尼となり、嵯峨野の奥の庵室にこもった。・・・その翌年の秋の夜、念仏を唱えていた親子三人の庵の戸を叩く者がいる。・・・そこには尼になった仏御前が立っていた。」
⇒その後、この四人の尼は同じ庵で念仏して、往生を遂げたという。
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平成25年前期講座(文学・文芸コース)(3月~7月:全13講義)は、7月18日で終了しました。
講義の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。

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2013/07/17のBlog
前期講座(歴史コース)(3月~7月:全15講義)の第13回講義の報告です。
・日時:7月9日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「万里の長城と中国の国防史」(第1回)
・講師:来村 多加史(きたむら たかし)先生(阪南大学教授)
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講義の内容
「万里の長城と中国の国防史」の講義は、2回にわたって行います。今日は、前篇で「春秋戦国時代から魏晋南北朝時代」です。
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春秋戦国時代【前770~前221年】
[時代背景]
・550年もの間、中原(黄河中・下流域)を舞台に、覇権を争った「下克上」の時代
・戦国の七雄…燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚
長城の建設
・前555年に斉国の国境に塹(ほり)が掘削される。
・戦国時代(前5~3世紀)には、外敵に備えるために、戦国七雄の全ての国が長城を建設。
・北に接している燕・趙・秦は、異民族(匈奴や東胡)の侵入を防ぐ長城を建設。
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秦代【前221~206年】
[時代背景]
・秦王朝は16年間と短かったが、中国の歴史で最初に全国統一した王朝。
《万里の長城と直道》
・六国を平定した始皇帝は内地の長城を撤廃する一方、北辺の長城を連接・強化し、朧西から朝鮮半島に至る「万里の長城」を完成させた。また、首都咸陽から九原郡までの全長1800里(1里=400m)の「直道」を建設。
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前漢時代【前206~後9年】
[時代背景]
・前漢武帝は、積極的な対外政策。⇒北方の匈奴(きょうど)に対し、衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)を派遣して征討。
《長城の建設》
・秦が建設した万里長城の外に幾重にも長城を築き、総延長7930kmの長城となった。2万里である。
後漢時代【25~220年】
《長城の建設》
・中央集権体制が揺らぎ、長城経営を放棄(長城防衛はお金がかかりすぎる)。⇒防衛は長城防衛から拠点防衛へと転換した。
三国魏晋南北朝時代【3~4世紀】
・魏・呉・蜀の三国が鼎立。魏王朝・西晋王朝はいずれも長城を建設しなかった。
南北朝時代【420~589年]
・五胡十六国の乱世を勝ち抜いた鮮卑族の北魏王朝は主に山西方面の長城を修築。
・建康(南京)に都を置いた東晋・宋・斉・梁・陳の南朝は長城を建設することはなかった。
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*あとがき*
・長城は、最初は騎馬の侵入を防ぐ程度の簡単な土壁であり、異民族の侵入を防ぐというよりも、隣国からの侵入を防ぐ目的でつくられた。(辺境に点在する砦や見張り台を大ざっぱに繋いだものにすぎなかった。)
・戦国時代、北に位置する燕・趙・秦の諸国は、匈奴に悩まされ、北辺に長城を築いて侵入を防いだ。
・後漢の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われなかった。
・その後五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、漢民族は長江流域へと南下。(漢代長城より南寄りに新しく長城を築く)
・万里の長城は、修築・増築が繰り返される。今日見られるような煉瓦造りのものは、15~16世紀、明時代に完成したもので、秦の長城より、ずっと南に後退している。
2013/07/12のBlog
前期講座(文学・文芸コース)(3月~7月:全13講義)の第12回講義の報告です。
・日時:7月4日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「世阿弥の生涯とその業績」~生誕650年~
・講師:天野 文雄先生(大阪大学名誉教授)
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講義の内容
〇世阿弥の生涯
・貞治二年(1363年)?~嘉吉三年(1443年)?
-生誕については、貞治二年(1363)とする説と貞治三年(1364)の二説が現在も併立している。
-1363年生まれとすれば、今年が生誕650年
1.足利義満の時代[1368~1394年]
(1)少年時代から青年時代(12歳頃から21歳)
・世阿弥は、父・観阿弥の子で2代目の観世太夫
・観阿弥が、洛東・今熊野の能で催した猿楽能を湘軍義満が見物して以来、観世父子を庇護。(世阿弥は12歳)
☆ 『後愚昧記』 (ごぐまいき)(押小路公忠の日記)…右の資料を参照
「義満は、祇園会の山鉾見物の桟敷に、大和の猿楽児童(=世阿弥)を同席させ、みずから盃を与えたりした。猿楽は身分の卑しい者(「乞食の所行」)であるのに、将軍がそのように少年世阿弥を寵愛するものだから、周辺の大名達が競って世阿弥に財物を与えている。」…《義満による世阿弥寵愛》
(2)青年時代から壮年時代(21歳から45歳)
・至徳元年(1384年):父・観阿弥の死
☆応永六年(1399年)に、「一条竹が鼻」で、義満後援のもと、3日間の勧進能を興行。世阿弥36歳。まさに盛りの年齢で、将軍をはじめ公武の貴顕が見物する公開の勧進能を催したのは、まさしく「天下の許され」と「天下の名望」を獲得したことにはかならなかった。⇔《世阿弥の.絶頂期》
・応永八年(1401年):「世阿弥」と名乗る
・この頃、世阿弥は「風姿花伝」をはじめ多くの伝書を書き、能を創作し、自分も演じ、指導者として張り切っていた。
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2.足利義持の時代[1394~1423年]
(3)壮年期から老年期まで(45歳から65歳まで)
・応永十五年(1408):義満の死。
・義持は、増阿弥を後援。(増阿弥の芸は、「冷えに冷えたり」という閑寂なもので、それが禅に深く傾倒していた義持の嗜好とも一致したらしい。)←世阿弥は、義持に冷遇されたわけではなく、1422年出家し、観世太夫を長男・元雅に譲り、次男・元能(「申楽談義」の筆録者)、甥の元重も成長し、充実していた。
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3.足利義教の時代[1429~1441年]
(4)老年期から晩年期まで(65歳から73歳まで)… 《世阿弥父子へ迫害》
・世阿弥の境遇は一変。⇒老役者・世阿弥は、はじめて好意的でない将軍を戴くことになり、また、甥の観世三郎元重との相克。
・世阿弥の次男・元能が出家(永享二年(1430))、嫡男・元雅が伊勢で客死(永享四年(1432))。永享六年(1434)世阿弥は佐渡へ配流。
★「なぜ、世阿弥は佐渡に配流されたのか」
・世阿弥が著した数々の秘伝書を観世太夫たる甥の元重に渡さなかったことによるという説があるが、理由は定かでない。
・佐渡に配流された世阿弥は、そこで二年ほど流人として生活し、謡い物集「金島書」をまとめる。→1436年頃に許されて帰還したものと思われる。…没年・享年とも不明であるが、81歳と思われる。
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〇世阿弥の業績
・世阿弥は能を創作する。従来の曲を改作するほか、台本・作曲・演出すべてを、自分ひとりで仕上げ、「能作者」の出現。
・能を高度な舞台芸術として確立させた世阿弥の功績は、その後600年以上の時を経ても、色あせる事はない。
(1)能作
・世阿弥は、能の台本たる謡曲の作者で、改作を含めれば約50曲
・《老松》《高砂》《養老》《敦盛》《頼政》《実盛》《西行桜》《野守》《恋重荷》《井筒》《江口》などが.代表作で、現在も盛んに演じられている。
(2)能楽論書
『風姿花伝』を皮切りに、21種もの伝書を残している。…『音曲口伝』、『至花道』、『花鏡』、『二曲三体人形図』、『三道』 、『六義』、『拾玉得花』など。
・これらは、世阿弥50代後半から60代前半にかけての思索の成果である。しかも、これが著述を業としない能役者の仕事であることを思うと、まことに驚くべきものがある。
・これらの芸論には共通して用語や発想のうえに「禅」の影響が認められる。
2013/07/06のBlog
◇シニア文化塾について
・名称:南河内シニア文化塾(通称:シニア文化塾)
・設立:2010年(平成22)1月
・講座:「歴史コース」と「文学・文芸コース」の2つのコースがあり、年間を「前期」(3月~7月)と「後期」(9月~1月)に分けています。
・シニアであれば、地域を問わず、どなたでも申込できます。
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*右の写真は、昨年、9月16日・公開講座「平家物語」(場所:府立狭山池博物館)の講義風景です。(講師は小野恭靖先生)
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2013年(平成25)『後期講座』(文学・文芸コース)のご案内
・期 間:2013年9月~2014年1月
・開催日:木曜日(月2回~3回)
・時 間:午後1時半~3時半
・場 所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
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*右の日程表をご覧ください。
〇講義回数:全13回
【古典】:土佐日記、源氏物語、平家物語、古事記、説話(和歌)
【現代文学】:太宰治、坪内逍遥、田辺聖子
【短歌】:石川啄木
【俳諧】:芭蕉(奥の細道)
【川柳】:時実新子
【文芸】:能(世阿弥)
【トピックス】:「八重の桜」(新島八重/京都時代)
・講師:13名…各分野でご活躍の先生方です。
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現在、受講生・聴講生 募集中です。
☆「受講生」…全ての講義(全13回)を受講申込
・定員:40名
・受講費用:8,300円(7,800円/全13回講義+後期会費500円)
☆「聴講生」…学びたい講義を選択して聴講申込(聴講回数:6回以上9回以内)
・募集:30名
・聴講料:800円/1講義あたり

〇申込方法:往復はがきで申込(定員になり次第締め切ります
・受講・聴講が決定した方には、「受講・聴講案内」を通知します。
・受講・聴講決定者は、納入期限内に郵便振込みで納入してください。
・入金確認後、「受講票」or「聴講票」をお送りします。

*申込先:〒584-0062 富田林市須賀3-11-15 シニア文化塾・事務局 常本宛
*問合せ:「シニア文化塾」事務局 常本(ツネモト) 携帯:090-3990-3907
2013/07/03のBlog
◎南河内シニア文化塾のご案内
・南河内シニア文化塾(通称:シニア文化塾)は、2010年1月に設立して、今年で4年目になります。
・シニア層を対象に、「歴史・古典・文学・文芸・自然などを楽しく学ぶ講座」を中心に運営しています。
・年間を、「前期」(3月~7月)と「後期」(9月~1月)に分けています。
・講座など運営費は受講料(聴講料)のみで運営しています。また、受講料(聴講料)は、シニアにとってリーズナブルな参加料です。
・現在の受講生(聴講生)は、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、河南町、太子町、千早赤阪村、堺市、和泉市、羽曳野市、藤井寺市、松原市、柏原市、八尾市、岸和田市、東大阪市、大阪市、枚方市、橋本市(和歌山県)、橿原市・生駒郡(奈良県)から参加しています。
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『後期講座』(歴史コース)(9月開講)のご案内
・期 間:9月~1月
・開催日:火曜日、午前10時~12時
・会 場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
講義回数:全15回
*“古代史から近現代史まで”…バラエティに富んだユニークな歴史講座です
【古代史】…8講義(現地見学1講義を含む)
(注1)10月29日は、公開講座(午後)で会場は大阪府立狭山池博物館です。
(注2)11月22日(金)は、現地見学(今城塚古代歴史館など)。
【中世史】…2講義
【近世史】…1講義
【幕末・維新史】…1講義
【現代史】…1講義
【中国史】…1講義
【名僧と仏教】…1講義
・講師:15名・・・各分野でご活躍の先生方です。
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現在、受講生・聴講生を募集中です
☆「受講生」…全15講義を受講申込
・定員:55名
・受講費用:9,500円(受講料9,000円/全15講義+後期会費500円)
☆「聴講生」…学びたい講義を選択して聴講申込(聴講回数:7回以上10回以内)
・定員:15名
・聴講料:800円/1講義

申込方法:往復はがきで申込(定員になり次第締め切ります
・受講・聴講が決まった方には、「受講・聴講案内」を通知します。
・受講・聴講決定者は、納入期限内に郵便振込で納入してください。
・入金確認後、「受講票」or「聴講票」をお送ります。
*申込先:〒584-0062 富田林市須賀3-11-15 シニア文化塾・事務局 常本宛
*問合せ:シニア文化塾・事務局 常本(つねもと) 携帯:090-3990-3907
2013/06/29のBlog
[ 16:07 ]
前期講座(文学・文芸コース)の第11回講義の報告です。
・日時:6月27日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「八重の桜」
・講師:本井 康博先生(同志社大学神学部 元教授)
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講義の内容
1.大河ドラマ「八重の桜」の舞台裏
*右は、「八重の桜 前編」(NHK大河ドラマストーリー)より。
・NHK大河ドラマは、「八重の桜」で第52作になるが、経済効果も大きく、そのため、誘致運動はかなり激しい。→全国的に見て、ほとんど無名に近い「八重」が取り上げられたのは何故?→『3.11 東北大震災・福島原発事故』でNHKは方針転換(3.11の悲劇を受けて、大河ドラマの人選を洗い直した。もはや、単なる娯楽番組を作るべきではない)…【福島県+女性パワー】で福島・東北に元気と勇気を与えるのが主眼の番組を目指した。
・「桜」に希望を託す⇒「春は必ず来る」メッセージの発信
2.なぜ八重か
・福島県人を主役…男ならば、「保科正之」、「野口英世」。近代史の中の会津の女性ならば、「中野竹子」(幕末のジャンヌ・ダルク)、「山川捨松(大山巌夫人)(クリスチャンレディ)」、「海老名リン」、「若松賤子(しずこ)」、「瓜生岩子」の五人の女性があげられるが、会津でも無名に近かった「山本八重子」が取上げられたのは→《東北大震災後の福島振興番組のヒロインに最適(持ち前のキャラ)ー頑固、元気、信念、男優り。》《たくましくなくてはいけない、21世紀の起き上がりこぶしのように》
3.新島八重(山本八重子)の生涯(1845~1932)
(1)第1ステージ:会津時代(1845~1871)
◇山本家(会津藩士、砲術指南)
兄・覚馬(かくま)(日新館教授)⇒準主役
覚馬は、江戸・長崎で修業(佐久間象山、勝海舟ら)。江戸で川崎尚之助をスカウトし藩校教授に⇒八重の初夫。-会津藩主(松平容保)の京都守護職就任に伴い上洛(蛤門の変、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)を指揮)。⇒敗戦後、薩摩藩邸(現、同志社大学今出川校地)に幽囚【幽囚中、『管見』を口述筆記。戦後、新政府(京都府庁)に取り入られ、顧問(京都府知事のブレーン)に】
八重
男児と遊ぶ、怪力⇒女丈夫(女傑)
初婚:川崎尚之助(但馬出石(たじまいづし)藩士)
鉄砲、大砲が操れる⇒白虎隊士を指導、会津戦争で篭城戦
戊辰戦争(1868)で敗者に[鳥羽伏見の戦い:父と弟(戦死)、兄(幽閉)]」
「戦争上がりのおてんば娘」を自称
敗戦後に離婚(離縁):理由は不詳
(2)第2ステージ:京都時代は、次回の講義(10月17日)となります。
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**「八重の桜」はこれから**
・2009年4月22日に放送されたNHK「歴史秘話ヒストリアー悪妻伝説、初代ハンサムウーマン・新島八重の生涯」は視聴率がよく、何回も再放送されて好評。
・しかし、現在、放送中の「八重の桜」の視聴率は低迷(13%台)しています。…兄・覚馬が主役的(京都で活躍する場面)で、主人公・八重がまだこれといった活躍をしていない。⇒「八重の桜」は全編で50話から構成され、約30話が会津時代です。その後の新島夫人(「初代ハンサム・ウーマン」の京都時代は、もう少し待たなくてはいけません。兄・覚馬を準主役として出番が多いのは、八重とともに京都時代の中心となる背景があります。
・3年前、八重を知っている人は少なかったとき、本井先生は八重を取上げた『ハンサムに生きる』(思文閣出版、2010年)を出版されています。⇒現在は、NHKの番組作りを支援されたり、東北など各地に講演に出かけられています。