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シニア文化塾だより
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2013/10/31のBlog
2013年秋季・公開講座の報告です。
・日時:10月29日(火)午後1時30分~3時40分
・場所:大阪府立狭山池博物館2階ホール(大阪狭山市)
・演題:「箸墓古墳内部立入りが明かす謎」~果たして卑弥呼は眠っているか~
・講師: 森岡 秀人(もりおか ひでと)先生(日本考古学協会理事)
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*公開講座の参加者*
・参加者数:114名
・男女比:女性32名、男性82名
・年齢:57~86歳
・地域:明石市・神戸市(兵庫県)、和歌山市、橿原市(奈良県)、豊能町(豊能郡)、枚方市、豊中市、吹田市、大阪市(東淀川区・東住吉区・大正区・住之江区)、寝屋川市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、熊取町(泉南郡)、和泉市、堺市、河南町・千早赤坂村(南河内郡)、河内長野市、大阪狭山市、富田林市からご来場いただき、厚くお礼申し上げます。(関係者一同)
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講義の内容[要約]
*右の写真は「箸墓古墳」です。(ウィキペディアより)
〇箸墓古墳内部立ち入り観察の実現
[箸墓古墳は宮内庁の管理] :陵墓は『古事記』・『日本書紀』などの文献をもとに、江戸時代末期から明治時代に指定され、現在740ヵ所あるが、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
[箸墓古墳]: 正式な名称「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)・大市墓(おおいちのはか)」-第7代孝霊天王の皇女。最近の研究では出土遺物などから年代がずれていることが判明し、卑弥呼の墓という説がでている。規模は、墳丘長 280mの前方後円墳で200mを超える巨大古墳で最も古いとされる。大型なことを除けば、定形的な前方後円墳に比べ多くのイレギュラーな点が認められる。極端に開く撥形の前方部をはじめに、前方部4段、後円部5段とされる段築も最上段や最下段の認定を含め、異論が存在。 
[約130年ぶりに内部立ち入り]:1880年に立ち入りが禁止されてから約130年ぶり、2013年2月20日、奈良県桜井市箸墓古墳と天理市西殿塚古墳の2基の巨大前方後円墳の観察調査が実現。参加者は15学協会の16名の考古学・歴史学の研究者。…実際の観察は、午前10時頃から約1時間半、墳丘の下段を歩いて観察するだけの立ち入り調査で、撮影は自由ですが、発掘はダメ、測量もダメ、遺物の採取もダメという条件が付けられている。
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〇観察のようす(抜粋)
◆宮内庁職員の案内のもと、16人の研究者は、箸墓古墳前方部北西の隅角からその第一歩を踏み入り、テラスの狭い墳丘裾部分を最下段とする宮内庁の判断に基づき、後円部方向に右回りでゆっくりと歩きながら、自由に観察を開始。
◆しばらく歩くと、くびれ部に向かう前方部側辺の美しいカーブと大池沿いの葺石が数多く見えてくる。この部分の葺石は流失し動いたものである。(*右上の写真をご覧ください)
◆墳丘側では前方部側面の段築の有無について目を凝らして確かめたが、後円部との接続は不分明であり、完周するようなテラス面は視認できない。
◆古墳を横切るよう付けられた里道…奈良県立橿原考古学研究所が最近発表した赤色立体図からは、この農道が墳丘を鋭く断ち割るようすが見て取れ、所見は合致する。墳丘裾部から小さな谷地形が横断するように入り込んでおり、日常的な道であることを想像させる。(*右下の写真をご覧下さい。)
◆後円部では大小の葺石が確認された。大きい石材は基底石が動いたものとみられ、これらは近在の巻向川流域や初瀬川流域の河原石が運ばれてきたようである。
◆注目すべき石材として、大阪府柏原市の芝山玄武岩の板石も数個確認。竪穴式石槨やその裏込め以外の場で用いられたことを推測。しかし、かなり低位置にも存在が確認できることから、多様な使用法が考えられる。
◆南側くびれ部付近では、土器の散布が認められた。中世・近世・近代の土器・陶磁器に混じって、箸墓古墳築造前の高坏の脚部など弥生土器片や古式土師器片が存在していた。
◆特殊器台や特殊壺、特殊器台形埴輪や壺型埴輪、二重口縁壺の破片などは未確認。
◆前方部先端における段築は下位の斜面にも段差を認め、全部で4段になると観察した。…(以下、省略)
〇箸墓古墳出土品(土器・埴輪)(宮内庁書陵部調査資料)…(省略)

《森岡先生の感想》
「中学校の部活以来の宿題の一つが無事に終わったと同時に、学問的関心が新たに加わった箸墓立ち入りの貴重な時間であった。」
「前方部と後円部の接続状態や平坦部の長さなど、箸墓古墳の規格を実感できた。葺石は年代研究に役立つ史料。築造時期に極めて近い弥生最末期の土器もあり、箸墓古墳に邪馬台国が係わる情報が得られた。」
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◇学芸員による狭山池博物館の見学
・当日、午前11時から1時間半、村上学芸員による博物館の展示などの解説。約15名が参加。…右の写真は、1400年間の歴史が積み重なる、高さ15.4m、幅62mの狭山池の堤です。
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*アンケートより(感想)(抜粋)
・最先端の現地調査をした先生の話で、資料とスライドの講座で話も比較的よくわかり満足しました。(男性 70代)
・ワクワクしながら、楽しく勉強させていただきました。(女性 70代)
・おもしろい話ですが、難しいですね。(女性 60代)
・貴重な話を聞くことができて良かった。ただ、後半は少し専門的になり、理解不足になりました。(男性 60代)
・おもしろかったが、話が速いので解らなくなるところが出てくる。何回かわけてゆっくり又聞きたいです。(女性 70代)
・配布資料と説明がスムーズにかみ合っていないので、わかりにくかった。スライド編ととりまとめ編を分けてほしかった。また、短時間では、土器の話は分かりにくい。(男性 60代)
2013/10/26のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月24日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:世阿弥の『頼政』を読む
・講師:天野 文雄先生(大阪大学名誉教授)
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1.素材-平家物語・巻四
世阿弥の『頼政』はの素材(出典)は、『平家物語』巻四-「橋合戦」「宮の御最後』 に拠りつつ、平家討伐を企て高倉の宮(以仁王)を擁して挙兵するも敗れ、二子を失い、宇治で自害した頼政の奮戦ぶりを描く。合戦の描写に重点が置かれ、敵方(平家)の忠綱(若武者・足利又太郎忠綱)の活躍ぶりが生き生きと描かれている。
★源頼政[長治元年(1104)~治承四年(1180)]・・・保元の乱では源義朝らとともに戦ったが、平治の乱では平清盛に味方して家を守った。歌人としても著名で「千載集」「新古今集」などの勅撰集の60余首入集。…『平家物語』では、「源三位(げんさんみ)頼政』として登場(頼政が従三位に叙せられたのは治承二年(1178)で、清盛の奏請によりものであった。)…治承四年の以仁王の反平家運動で、頼政が謀反を勧める役を担う。平家から追討される以仁王・頼政は、奈良興福寺を目指して落ちる途中、宇治平等院に寄り追撃する平家軍と闘い、七十七歳の老将頼政は、自害して果てた。長男・次男をはじめ、一族も討死。平等院を脱出した宮(以仁王)は、奈良に向かう途中、矢の雨を浴びて、あえなく戦死(三十歳)。⇒頼政の挙兵は10日間で終わったが、以仁王の令旨は頼朝や義仲らに挙兵の名分を与え、治承・寿永の内乱の火ぶたを切ることになる。
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2.能楽-世阿弥の『頼政』を読む
○能楽『頼政』
【分類】二番目物。修羅能(老武者物)
【作者】世阿弥 【素材】平家物語・橋合戦ほか 【場所】京都・宇治 【季節】初夏
【登場人物】前ジテ(老人) 後ジテ(源頼政の霊) ワキ(旅の僧) アイ(里の男)
あらすじ
旅の僧(ワキ)が宇治の里を通りがかると、そこに里の老人(前ジテ)が現れて、数々の宇治の名所を教え、さらに平等院へ案内する。僧が平等院の庭に扇型に刈り込まれた芝を見つけ、その由来をたずねる。老人は、頼政が自害した「扇の芝」を教えたあと、自分が頼政の霊であると名乗って消えてしまう(中入)。…里人(アイ)が頼政の挙兵から討死までの経緯、高倉の宮の落馬、頼政の最期を語り、弔いを進めて退く。…夜になり読経する僧の前に、老体で甲冑姿の頼政の亡霊(後ジテ)が現われ、敗戦の様子を語り始める。高倉宮を奉じて挙兵、三井寺から南都に向かう途中、この宇治で平家を迎え討ったこと、味方の筒井の浄妙の奮戦、平家方の若武者田原の又太郎忠綱が馬を川に乗り入れ、兵をみごとに指揮して対岸に乗り上げた。これにより味方は敗退、頼政はもはやこれまでと芝の上に扇を敷いて辞世の歌「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果ては あはれなるけり」を詠んで自害したことを語り、自分の供養を僧に頼み姿を消すのだった。

★世阿弥の「頼政」と『平家物語』の頼政
『平家物語』巻四の「橋合戦など」では、頼政の最期は、不遇であった自身の生涯を慨嘆する辞世とともに描かれているが、そのような頼政個人の感慨を、この世を前世から来世への中間とみる世界観(仮世界)へと展開したのが、世阿弥の「頼政」である。そのテーマを端的に表しているのが、「中宿」(なかやど)という語である。前場(まえば)で登場した老人(頼政の化身)が自分のことを「前世から来世への旅人」と言っているのは、「この世は中宿」という世界観の表れである。そのようなテーマを表現するためには、京と奈良の「中宿」である宇治は恰好の場であり、そこで展開された合戦が、まさにはかない現世における「蝸牛角上の争い(取るに足りない小さな争い)」だというのである。
*著名な「扇の芝」のことは『平家物語』諸本には見えない。応永三十年(1423)頃にそのような伝説があったのか、或は謡曲作者の創案したものであろう。
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3.能楽のあれこれ
・能とは、主人公が「能面」をつけて演舞する日本独特の演劇で、650年の伝統を持ち、ユネスコも無形文化遺産に指定されています。長い歴史で、存亡の危機もありましたが、今日まで脈々と受け継がれています。
・正直なところ、能は、初心者には、わかりにくいところが多い。今日の講義の参加者は、初心者と経験者が半々で、講義の反応は、良かったいう反応とわかにくいという反応に大きく分かれています。
2013/10/23のBlog
H25年第6回ウォーキング(主催:文化塾友歩会)の報告です。
・日時:10月18日(金)10時~16時
・集合場所:JR王寺駅10時
・解散場所:法隆寺16時
・【コース】:JR王寺駅-三室山・竜田公園-吉田寺-龍田神社-斑鳩文化財センタ--藤ノ木古墳-法隆寺-中宮寺 (約7km)
・参加者:42名
・スタッフ:佐藤リーダー、置田、塚田、房田
・天候:曇り(少し肌寒い日でした)
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「三室山・竜田公園」 (斑鳩町)
*右上の写真は、三室山を降りて、竜田公園に向かうところです。
・上代から有名な神の山、御室(みむろ=三室)山(標高82mの小さな山)は、周辺に竜田川が流れ、紅葉の名所として有名で、多くの和歌に詠まれています。
☆「千はやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅(くれない)に 水くくるとは」(古今集・在原業平)
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「吉田寺」(きちでんじ)
・平安時代末期(987年頃)、恵心僧都源信が開基したと伝えられ、“ぽっくり寺”として親しまれ、中高年の参詣が多い。
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「龍田神社」
・万葉集にも詠まれた紅葉の名所・竜田川の東に鎮座し、法隆寺の守護神・鬼門除神として祀られ1400年。
・境内には御神木の楠の大樹、天然記念物の蘇鉄の巨木があり、また、能楽「金剛流」発祥の地です。
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「藤ノ木古墳」
・6世紀後半の築造の円墳(直径50m以上、高さ約9m)。
・内部は未盗掘で、超一級の金銅製馬具のセットなど出土、石室内部と石棺はベンガラで赤色に塗られていた。銅鏡4面、刀剣類、金製耳飾りなど出土した副葬品は国宝に指定。
・男性2体の被葬者が確認されたが、人物は特定されていない。
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「法隆寺」
*右の写真は、飛鳥時代の姿を伝える金堂と五重塔です。
・2班に分かれて、ボランティアガイドによる案内で、中門・金堂・五重塔・大講堂・大宝蔵院・夢殿を見学。
・修学旅行シーズンで、小学生・中学生の団体が多く、見学は長蛇の列でした。


2013/10/20のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月17日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:ハンサムに生きる…新島襄と八重…
・講師: 本井 康博先生(同志社大学元教授・「八重の桜」時代考証担当)
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1.大河ドラマ「八重の桜」の経緯と背景
*右の写真は、「八重の桜 完結編」(NHK大河ドラマストーリー)より。
・NHK大河ドラマは、「八重の桜」で、『3.11東北大震災・福島原発事故』に対して、東北・福島に元気と勇気を与えることを主眼にした番組を目指した。
・なぜ無名の八重か。→福島県県人(会津人)を主役で、八重の魅力と持ち味(逞しさ、不撓不屈、信念、男優り、元気、勇気、先駆者)を活用した。
2.八重の生涯 [1845年~1932年]
(1)第1ステージ:会津時代(1845~1871年)
会津のジャンヌ・ダルク
・戊辰戦争の時は、断髪・男装(亡き弟・山本三郎として男装)して、会津若松城籠城戦で、最新銃・スペンサー銃を手に奮戦。
・当時、山本八重を「会津のジャンヌ・ダルク」と呼んだことを示す文献がない(近代になってメディアがつけたキャッチフレーズ)。
(2)第2ステージ:京都時代①(1871~1890年)
◆兄・山本覚馬を頼って家族で米沢から京都に
・山本覚馬は、薩摩藩邸に幽閉されていたが、幽閉中に口述筆記で「管見」(近代国家のあり方を示した意見書)を書き上げ、新政府に提出し岩倉具視らに認められた。
・山本覚馬は京都府顧問に就任(1870年)。→京都府の大参事・槇村正直(木戸孝允の懐刀)と京都改革
◆新島夫人(1876~1890年)14年間:ハンサム・ウーマン 
・新島襄と婚約・結婚(1876年)。八重は「京都初のクリスチャン」
(3)第3ステージ:京都時代②(1890~1932年)
◆新島襄死後の42年間:日本のナイチンゲール
・日清・日露戦争で国内の救護活動を指揮し、看護婦の地位向上に貢献。
・享年86歳。
3.新島襄の生涯[1843~1890年]
(1)第1ステージ(1843~1864年)(江戸)
・漢学、蘭学、英学を通して海外事情をつかむ→自由を求めて家出(函館から脱国)
(2)第2ステージ(1864~1874年)(海外・ヨーロッパ、アメリカ体験)
・鎖国日本(函館)から密出国してアメリカ。8年間のアメリカ留学(3つの学校で学ぶ)。→個人の資格で帰国したのではなく、宣教師に任命されて日本に派遣された(赴任地は大阪)。
・京都は、キリスト教の学校や伝道にとって、どの都市よりも宣教師を排除する土地柄であった。
(3)第3ステージ(1875~1890年)(京都)
・京都府顧問・山本覚馬と京都で奇しき出会い(襄の人生の中でも最大の幸運に一つ)⇒覚馬から「誘致」されるような形で、思いがけなくも京都に同志社が立地できることになる。
・八重との出逢い、結婚(1876年)
・キリスト教学校開校(男子校1875年11月、女学校1876年10月)
・同志社大学設立募金運動のさなかに病死(大磯・1890年)

4.ハンサム・カップル(ハンサムに生きた襄・八重)
Handsome is as handsome does
☆「ハンサム」の由来…〝見た目よりも心”、〝外面よりも中身”という意味の諺
・夫の襄は、八重について「彼女の生き方がハンサムなのです。」
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** あとがき**
○時代考証秘話(本井先生は、大河ドラマ「八重の桜」の時代考証を担当されています。)
・時代考証の仕事は、①「脚本」のチェックが大半(脚本は、その話ごとに3回作りなおすとのこと)②ディレクターからの電話での問合せ ③NHKの各部所から問合せ④ストーリーの大枠の提案など
・「本当はこうですよ」、「歴史家として許せない」・・・と思った場面も、最終的にはNHKスタッフが決める。→(時代考証担当を途中で辞退した人もいるらしい)
・大河ドラマは、いろんな人からクレームが寄せられる→細かいことにも配慮しないといけない。
○八重の生涯は、山本覚馬が左右した(襄との出会い、同志社を京都に誘致)。
○「八重の桜」は、東北・福島(会津)を元気づけるために、「春は必ず来る」のメッセージを発信(全50話のうち会津時代31話、京都時代①16話、京都時代②(晩年)3話の構成)
2013/10/16のBlog
後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月15日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:考古学からみた初期ヤマト王権
・講師:白石 太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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【復習】◆邪馬台国連合から初期ヤマト政権
①先進文物(朝鮮半島の鉄資源や中国鏡など)の入手ルートをめぐる争い
・畿内・瀬戸内連合軍 ⇔ 玄界灘沿岸地域・・・邪馬台国を中心とする邪馬台国連合の成立
②狗奴国(東国)との関係
・3世紀中葉頃に、『魏志』倭人伝にみられるように、一時、争ったらしい。(争いがどうなったかについては記載がない。)→その後の古墳の展開過程などから考えると、邪馬台国側の勝利、ないしはその下に和平。
③初期ヤマト政権の成立
・邪馬台国連合を母体に、東方のクニグニの参加による版図の拡大と、卑弥呼の死を契機に革新された広域の政治連合を初期ヤマト政権という。このヤマト政権には、やまとの勢力を中心とする近畿中央部の勢力をはじめ、日本列島各地の政治勢力が参加していた。
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○初期ヤマト王権
《奈良盆地東南部・・・巨大な六基の前方後円墳》
(*右の図をご覧ください。)
・3世紀中葉すぎから4世紀中ごろにかけて、墳丘の長さが200mを超える大型前方後円墳が六基も、奈良盆地東南部(やまとの地域)に営まれた。
箸墓古墳(280m)[現大市墓]-西殿塚(にしとのづか)古墳(240m)[現手白香皇女陵]-.外山茶臼山(.とびちゃうすやま)古墳(200m)-メスリ山古墳(約250m)-行燈山(あんどんやま)古墳(242m)[現崇神天皇陵]-渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310m)[現景行天皇陵]
★おそらく、この順序に構築されたと思われる。この巨大な六基は、この時期の列島の古墳の中では隔絶した規模をもつもので、初期ヤマト政権と呼ばれる政治連合の盟主の墓である。
★この初期の盟主の墓のあり方で興味深いことは、それらがいずれも奈良盆地東南部のヤマトの地に営まれながらも、それらがすべて同一の古墳群に代々営まれているわけではなく、この地の四つの古墳群(箸中古墳群、大和〈おおやまと〉古墳群、鳥見山古墳群、柳本古墳群)に分かれて、一、二基ずつ営まれている。→初期の王は、いくつかの有力な政治集団から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていたと考えられる。
★弥生時代後期の西日本各地には、相当の規模の墳丘を持つ首長墓が出現(地域ごとに、首長たちが共通の葬送祭祀を執り行っていた)。⇒3世紀中葉すぎ、大規模で画一的な内容(墳丘の形態、埋葬の仕方、副葬品の組合せなど)をもった墳丘墓が西日本各地に現れる。…広域の政治的連合関係が.成立したことの表れである。
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○卑弥呼
・右の『魏志』倭人伝の末尾に近い部分に、「正始八年に、張政らを倭国に遣わして、斉王の詔書と黄色の旗を難升米(卑弥呼の代理)に授け、狗奴国と戦っている卑弥呼に檄文をもって告諭した。・・・卑弥呼が死す。大きな冢を作ること径百余歩・・・。」→狗奴国と戦っていること。卑弥呼が正始八年(247年)頃亡くなり、大きな墓が作られたことが記してある。
箸墓古墳と卑弥呼
箸墓古墳は、初期ヤマト政権の盟主墓のなかでも最初のもの。さらに、その年代が3世紀中葉までさかのぼるとすると、その被葬者の候補として、卑弥呼が浮かび上がる。卑弥呼の没年は、3世紀中葉であるが、巨大古墳の造営が十数年の年月を要したことが想定され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が大きい。→広域の政治連合の最初の盟主である卑弥呼の死を契機に、政治連合のシステムの再編成の一環として古墳の造営が始められたと考えられる。
2013/10/10のBlog
後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月8日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:磯長谷(しながたに)の蘇我氏墳墓創出の背景
・講師:上野勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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講義の内容
1.磯長谷と蘇我氏
・磯長谷とよばれる地域は、飛鳥時代の「王陵の谷」として有名です。現在の大阪府太子町にあたり、流れる飛鳥川の谷で、科長(しなが)とも記す。磯長に埋葬伝承を持つ人物は、「敏達天皇」、「用明天皇」、「推古天皇」、「聖徳太子」、「蘇我馬子」、「蘇我蝦夷」、「蘇我倉山田石川麿」など、蘇我氏系人物が多い。
・蘇我氏は、大化前の一世紀あまり、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって大臣(おおおみ)として権勢を誇った。しかし、乙巳の変(645年)で蘇我氏本宗家が滅ぶ。(中大兄皇子が入鹿を宮中で暗殺。翌日、屋敷を包囲された蝦夷は、宅邸に火をかけ自害。)
・蘇我馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説があるが果たしてどうなのか…今日の講義のテーマは、 「磯長谷の蘇我氏墳墓はこうして創られた」
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2.蘇我馬子磯長墓の創出と変遷
(1)奈良~鎌倉時代史料にみえる馬子墓記事
A.日本書紀
○『日本書紀』推古天皇34年(626)5月…「馬子は626年に亡くなり、桃原墓に葬る」とある
○『日本書紀』舒明天皇即位前期(628)9月…「蘇我氏諸族が、嶋大臣(馬子)のために墓を造ろうと集まった」とある。
★馬子の墓は、桃原にあると考えられる。また、推古天皇が遺言で、〝国民が苦しんでいるので、新しく墓を造るのではなく、竹田皇子の墓に葬ってほしい”と言っているのに、蘇我氏は集まって、馬子の墓を造る…→『日本書紀』は、蘇我馬子や入鹿を悪臣とする編者らの歴史観が色濃く反映している。
B.聖徳太子の伝説と絵伝
○『聖徳太子伝暦』(平安前期〈917年頃〉に編纂された太子伝説の集大成)…蘇我馬子が太子の墓の前で跪いていると記す。→聖徳太子の権威づけ。
○『聖徳太子絵伝』…伝暦をもとに、右上の絵は、蘇我馬子が跪いている。
○『聖徳太子伝私記』(1238年法隆寺僧顕真)では、桃原の場所を「河内国科長東条石川也」と指定している。→右上の磯長谷の蘇我馬子墓は、伝記にもとづいて造られた墓である。
★、「聖徳太子信仰」は、奈良時代から鎌倉時代にかけて盛んで、伝暦をもとに絵伝が描かれた。
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(2)江戸時代の史料にみえる馬子磯長墓と石舞台
○『慶長五年旧紀』(慶長5年(1600)叡福寺蔵)、『大和名所記』(林宗甫・延宝9年(1681))…桃原墓は、河内飛鳥にあると記している。
○『菅笠日記』(本居宣長・明和9年(1772))…「案内人が、(岩屋=石舞台)を推古天皇の御陵といっている」と記している。
★近世(江戸時代、幕末)、馬子の墓は河内飛鳥で、石舞台古墳は、推古天皇の御陵、天武天皇の殯に付した場所とする伝承があった。
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(3)明治以降の史料にみえる馬子磯長墓と石舞台
喜田貞吉(歴史学者) 「島の荘の石舞台の研究」 (明治45年(1912))…石舞台を馬子の桃原墓なるべしと仮定して甚だしく不可なきを信ず。→初めて、石舞台が馬子の墓であると論説した。
岸俊男(歴史学者) 「飛鳥の世紀」 (明日香村史・昭和49年(1974))…蘇我馬子墓は所在未詳。馬子の墓であるか否かは伴出土器の年代が重要な点になろうが、なお結論は出されていない。

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3.蘇我蝦夷磯長墓の創出と変遷
○『日本書紀』(皇極天皇4年(645))…蝦夷及び入鹿は、墓に葬られた。→どこの場所かは、記してない。
○『河内名所図会』(享和元年(1801))…海老塚、葉室村(磯長谷)にあり。
○『大阪府史跡名勝天然記念物1』(大阪府学務部・昭和2年(1927))…海老塚、葉室のあり、善女龍王を祀る。俗伝によれば蘇我蝦夷の墓なりと称すれども、根拠のない説にすぎない。
○大正~昭和初期にかけて、国策で名所旧跡、古墳墓等を保存することが勧奨された。→それで、大正になって、海老塚が蘇我蝦夷塚となって、石碑を作る。(近つ飛鳥博物館の近く一須賀古墳の中にある)
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**あとがき**
・馬子の桃原墓は、石舞台古墳であるというのは、今では定説化しています。・・・しかし、本当に《石舞台古墳は、馬子の墓なのでしょうか》・・・「桃原」の地名はどこなのか。「桃原」と「嶋」(島庄)の地名は、どうつながるか。
・馬子の墓が石舞台と言われ始めてから、まだ100年しか経過していない。(上野先生)
2013/10/04のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第4回講義の報告です。
・月日:10月3日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:石川啄木-女たちをめぐる短歌ー
・講師:木股 知史(きまた さとし)先生(甲南大学文学部教授)
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講義の内容
今日の講義では、石川啄木をめぐる三人の女性を取り上げます。三人の女性は、妻節子、橘智恵子、小奴で、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』の中に登場し、それぞれの愛の形をたどります。
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Ⅰ.「妻を詠む」妻 節子

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
 -『一握の砂』の「我を愛する歌」より
【友はみな、それぞれところを得て安定して暮らしているように見える。世の中から脱落してしまったように感じて落ち込んだとき、花を買って帰り、妻と会話を楽しむ。…社会性よりも妻との私的空間を大切にしようという気持ちが表れている】

放たれし女のごとく、
わが妻の、振舞ふ日なり。
ダリヤを見入る。
 -『悲しき玩具』より
【「放たれし女」とは、イプセンの戯曲『人形の家』のヒロイン、ノラのように、家や夫の拘束から解き放たれた女性という意味。ノラのように、妻は、「私だって家を出たいと思うことがある」といったのかも知れない。夫は、妻から視線をそらせて、庭のダリアの花を見る。その深い色は、妻の心に隠された情熱を思わせる。】
○啄木は、妻節子にとってよい夫ではなかった。結婚式には出なかったし、豊かでない暮らしから脱却することができなかった。しかし節子は、夫の表現の価値と意味をよく理解していた。…啄木に破棄を依頼されていた日記や、小説の原稿は、節子によって残され、後世の読者は、啄木の全貌を知ることができる。
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Ⅱ.「純粋な記憶の愛を詠む」橘智恵子(函館・小学校の同僚の女教師)

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
 -『一握の砂』の「忘れがたき人人」より
【言いそびれた「大切な言葉」の内容は、直接的な告白ではなく、その女人の美しさ(たたずまいやしごとぶりなど)を賛嘆する言葉であったかもしれない。「胸にのこれど」という逆説による中止は、余韻を残す。言葉はついに伝えることはなかったが、「かの時」に感じたことは、「今」も大切に保存されている。』

君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
 -『一握の砂』の「忘れがたき人人」より
【あなたがいるはずがない街を歩いていて、ふとあなたに似た人見つけてどきどきしている私をあわれだと思ってください。…実在の人の記憶が非在のイメージに変容してゆくのである。そのまぼろしこそが、恋の確かな記憶をつなぎとめてくれる。】
○啄木と智恵子とはプラトニックな愛。智恵子にも淡い恋心があった。啄木は『一握の砂』で特に一章を設けて(「忘れがたき人人 」)22首の歌を彼女に捧げた。
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Ⅲ.「遊びの恋を詠う」小奴(当時17歳。料亭の出前芸妓)

小奴といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
 -『一握の砂』の「忘れがたき人人」より
【一般の女性の耳にそうたやすくふれるわけにはいかない。酒の席ゆえに、たわむれに小奴という芸妓の耳たぶに触れたことがあるのである。その柔らかい感触が忘れられない、というのだ。耳たぶにふれることを許したのは、仕事の上のことではない好意の現れであろうか。厳寒の中での暖色の記憶が耳たぶの感触に刻印されている。】
○釧路新聞の記者として取材する必要もあって花街に出入りした啄木と小奴は知り合う。文学少女で短歌も作り唄も踊りも群を抜いていたから、花柳界では評判の高い芸妓であった。啄木は小奴を妹のように愛した。小奴を詠んだ歌が十数首収められている。
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**あとがき**
・石川啄木[1886(明治19)年~1912(明治45)年]…渋民村に育ち、幼き頃に神童と称されたが、住職である父の失敗により、追われるように村を去る。以来、北海道漂白と東京流浪の赤貧の日々の果てに、帰郷の夢かなわず、わずか26歳で世を去った啄木。その短い生涯に、歌のほかに詩、小説、評論を残した。
・啄木の歌は、単純でわかりやすそうに見えるが、近代の日本人の心の多面性を的確に表現している。
・『一握の砂』は、一行で発表した短歌を、新しい表現形式の「三行書き」(2首1ページずつ、4首を見開き)で、551首を収める。また、五つの章に歌を配し、物語のように自己の生涯を再構成するという独特の編集の工夫が凝らされています。
2013/10/01のBlog
H25年第5回ウォーキング(主催:文化塾友歩会)の報告です。
・日時:9月27日(金)10時~15時
・集合場所:近鉄御所駅10時
・解散場所:近鉄御所駅15時
・【コース】:近鉄御所駅-鴨山口神社-六地蔵-駒形大重神社-九品寺-高岡宮伝承地-一言主神社-孝昭天皇陵-野口神社-鴨都波神社-近鉄御所駅 (約10km)
・参加者:33名
・スタッフ:佐藤リーダー、置田、塚田、房田
・天候: 快晴
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「葛城古道」
*(右上の写真)…背景の山が葛城山です。のどかな田園風景に彼岸花が咲き競っています。
・奈良県と大阪府をへだてる金剛・葛城山の東山麓を南北に走る山裾の道を「葛城古道」(約13km)という。この一帯は、大和朝廷を支えた古代豪族「葛城氏」やもっと昔には「鴨氏」の本拠地であった。
・山麓の古道からは奈良盆地が広がり、大和三山が展望できる。
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「六地蔵(ろくじぞう)石仏」
・住宅地の真ん中に、道をふさぐように六体の地蔵が刻まれた大きな自然石に出合います。
・室町時代に発生した大土石流で、この地に流れ着いたといわれる。
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「九品寺(くほんじ)の千体石仏」
・約1300年前に行基が開創した古刹。
・石段を登った本堂裏手には千体石仏群(1600~1700体)がある。南北朝の戦いで亡くなった兵の慰霊のために奉納されたといわれている。
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「一言主神社」(ひとことぬしじんじゃ)
・お願いは一件限り…祭神は、一言の願いなら何でも叶えてくれるといわれる「一言主大神」で、地元では「一言(いちごん)さん」の愛称で親しまれている。
・一言主神社に関する伝承は、『古事記』『日本書紀』の雄略天皇(第21代、五世紀後半頃)の条に見ることができる。
・境内には、樹齢約1200年という大イチョウがある。乳房を思わせる気根が沢山ぶら下がっている。(*現在は、内部の腐朽が激しく、枝を切除し再生治療しています。)
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「鴨都波神社」(かもつはじんじゃ)
・古代豪族「鴨氏」の氏神社として、第10代崇神天皇のころ祀られたとされる。
・京都の加茂大社をはじめ、全国に分布する-(鴨〈加茂〉の郡名は、安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国々に見られる)-多数の鴨社の源流は、金剛・葛城の山麓に発する。
・付近の鴨都波遺跡は、弥生時代の大規模な集落跡。