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シニア文化塾だより
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2013/11/14のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月7日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:芭蕉『奥の細道』の旅空間(二)
・講師:根来 尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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**前回(6月20日)(第一回)の復習**
・芭蕉が門人の河合曾良をともなって、みちのくの旅に出たのは、元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)のこと。その時、芭蕉46歳、曾良41歳。現在の東京。深川から出発し、東北・北陸を巡り8月20日(10月3日)前後に一応の終着地である岐阜県大垣についています。その間約5ヶ月、全行程約600里(2400km)の旅でした。
・第一回…<江戸・深川から千住―草加(3月27日)>
☆「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という有名な書き出しで始まる『おくのほそ道』
☆「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」 〈矢立の初め(旅たちの一句)〉 
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○第二回… 〈草加(3月27日)から「室の八島」―「日光」(4月1日)
1.室の八島(むろのやしま)
・草加を出発し、春日部、間々田を経て、「室の八島」に参詣し、そして鹿沼、日光へ。
・右の資料を参照(対訳)-「室の八島に詣でた。同行(どうぎょう)の曾良(そら)が言うには、“この神はコノハナサクヤヒメと言って、富士山の浅間(せんげん)神社と同じ神です。この姫は、たった一夜で懐妊して、夫のニニギノミコトに疑われたので、四方が壁の、出入り口のない部屋をつくり、その中に入り、もし生まれた子がミコトの実の子であれば、火で焼け死ぬことはないと、身の潔白を証明するために、部屋に火をかけた。…以下省略」・・・曾良は、古事記・日本書紀のコノハナサクヤヒメ祭神縁起を解説しています。
◇「むろのやしま(室八島)」…下野国の歌枕。古くから知られ、現在の栃木市惣社町に鎮座する大神(おおみわ)神社。下野国の総社として栄えた栃木県最古の神社であり、境内の池から、つねに清水の水が蒸発して煙のように見えるということから「室の八島の煙」という形でよく詠まれた。…しかし、芭蕉が訪れたときには、すでに水はなく煙もないところであった。
☆「糸遊(いとゆう)に 結びつきたる 煙哉」(芭蕉)(曾良の日記によると、旅のなかで、室の八島の歌を詠んでいるが「おくのほそ道」には収録しなかった。)
同行・曾良がはじめて登場…「おくのほそ道」の旅には同行者がいて、門人・河合曾良との二人旅であったことが、文章の上では、室の八島のところではじめて明かされます。曾良は、芭蕉庵の近くに住んでいたこともあって、芭蕉の炊事洗濯などの仕事を助けていた。曾良は、「おくのほそ道」の旅では、コースの下調べ、歌枕などの資料収集、旅費の会計などを担当し、『曾良旅日記』を書き残した。。荷物持ちの役と、秘書としての役もしっかり果たしています。
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2.日光
・右の資料を参照(対訳)-「四月一日、お山に参詣した。その昔この山を二荒山と書いたのを、空海大師が開基されたとき、日光と改められた。千年後の未来を予見されたのか、今このお山の光は一天にかがやいて、その恩沢は八方にあふれ、全ての民が安穏な生活をおくり、おだやかに治まっている。尚、このお山について、なんのかやと書くのは恐れ多いので筆をおいた。」
☆「あらたふと 青葉若葉の 日の光」(芭蕉)
(ああ尊いことよ。この日光山の青葉若葉にかがやく日の光よ。日の光に地名「日光」を詠みこんで、東照宮に対する賛美の句とした。)
◆曾良の日記によると、「あなたふに 木の下暗も 日の光」(芭蕉)と書き留められている。「木の下暗」は初夏四月の季語であるが、暗い感じがともなうのに対し、同じ初夏四月の季語「青葉若葉」は明るい感じがする。初夏の日光山の美しさを目にして改作であろうか。
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***「おくのほそ道」のおもしろさ
○「奥の細道」と「曾良旅日記」を比較すると、芭蕉が決して旅の事実を写したものだけではなくて、文学的なフィクションを多く交えていることがわかります。
(例①)「奥の細道」本文に書かれた日程と「曾良旅日記」の日程の食い違い。
(例②)「奥の細道」に書いてある句と「曾良旅日記」に書いてある「俳諧書留」との違い。…旅中で作られた句と後になって作られた句。後に、改作した句。収録しなかった句。
○根来講師と読む「奥の細道」
・芭蕉のすぐれた作品「奥の細道」は、いろいろな角度から読むことが必要です。また、俳句は世界一短い詩で解釈がなかなか難しい。今回、根来講師の講義は、まだ、二回目ですが、「奥の細道」の見方や読み方を徐々に知ってくると、次回の講義がたのしみです。
2013/11/08のBlog
[ 14:44 ]
後期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月5日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール3階会議室 (富田林市)
・演題:大津皇子
・講師:和田 萃(わだあつむ)先生(京都教育大学名誉教授)
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〇大津皇子謀反事件
・天武天皇の第三皇子として生まれ、人望のあった大津皇子が、謀反の罪により処刑…壬申の乱(672年)に勝利して飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、治世14年目、朱鳥元年(686)9月に崩御。この時の最大の問題は、どの皇子を即位させるかであった。
**『日本書紀』を読む**
・「国史大系」の『日本書紀』(吉川弘文館)は、原文に中世以来の読み書き(左右に読み)を付してある。文章を読めば、意味がわかるのでお勧めしたい。(和田先生)
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1.日本書紀を読む(巻二十九、巻三十)[大津皇子に関する記述の要約]
巻二十九 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 下 天武(てんむ)天皇
天武天皇の即位
・天武二年(673)二月、壇場(たかとの)を設けて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位。正妃(菟野皇女=のちの持統天皇)を皇后にお立てになった。皇后は草壁皇子をお生みになった。天皇はこれより先に、皇后の姉の大田皇女を妃とされた。この妃は大来皇女と大津皇子をお生みになった。…(以下、長皇子、弓削皇子、舎人皇子、新田部皇子、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子らが生まれたことを記す。)
天武天皇の崩御
・朱鳥元年(686)九月の四日に、親王以下諸臣まで川原寺に集い、天皇の病平癒のために請願した。丙午(九日)に、天王は正宮(御在所)で崩御。戊申(十一日)になって始めて発哭(人の死にあたり声を発して悲しみを表す礼)が行われ、殯宮(もがりのみや)が南の庭に建てられた。辛酉(二十四日)、この時、大津皇子が皇太子に謀反を企てた。…(24日は、謀反発覚の日か。)
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巻三十 高天原広野姫天王 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと) 持統天皇
皇后称制
・朱鳥元年(686)九月九日に、天武天皇が崩御。皇后は朝廷にあって称制(即位の儀式をあげずに天皇として政務をとること)された。
大津皇子の変
・十月二日、皇子大津の謀反が発覚し捕縛され、三日に皇子大津は、譯語田(おさだ)(奈良県桜井市)の家で死を賜わった。時に二十四。妃の皇女山邊は、髪をふりみだし、はだしでかけつけて殉死、見る者はみなすすり泣いた。皇子大津は、天武天皇の第三子。容姿はたくましく、ことばは晴れやかで、天智天皇に愛された。成人後は分別よく学才にすぐれ、特に文筆を愛した。二十九日、詔して、従者で皇子大津に連座のもの(三十余人)は、全て赦された。但し、礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に流す。
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2.大津皇子挽歌『万葉集』
・万葉集は、大津皇子の事件に至る経緯を、歌を中心にした物語で伝えている。
☆大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(巻3・416)(大津皇子)
(対訳:磐余の池で鳴く鴨をみるのも今日を限りとして、私はあの世へ旅立っていくのだろうか。「百伝(ももづた)ふ」は「磐余」の枕詞。)
☆大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女(おおくのひめみこ=大来皇女)、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌
神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに」(巻2・163)(大伯皇女)
☆大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む
(対訳:この世に生きている人である私は、明日からは二上山をわが弟とみようかと嘆く)

3.大津皇子の墓は、どこに改葬されたか
・二上山の雄岳頂上付近に大津皇子墓とされる場所がある(宮内庁の比定で「大津皇子二上山墓」とある)。しかし、最近、二上山東麓にある「鳥谷口古墳」(奈良県葛城市新在家)が有力視されている。(和田先生)
2013/11/04のBlog
シニア文化塾のイベント報告です。
○「八重の桜」~ゆかりの京都を歩く
・月日:11月1日(金)
・【コース】:京阪・神宮丸太町駅(9時半集合)-金戒光明寺(黒谷)-会津墓地-哲学の道(一部)-熊野若王子神社-同志社墓地-岡崎公園(昼食)-新島会館(「講演会」)-新島旧邸-同志社女子大学ー同志社大学(今出川キャンパス)(現地解散16時) (約10km)
・参加者:42名(女性23名、男性19名)
・ガイド:本井康博先生(新島旧邸、御苑、同志社女学校、同志社大学の案内)
・スタッフ:佐藤リーダー、置田、栃尾、前田、常本
・天候:秋晴れ
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「金戒光明寺」 (こんかいこうみょうじ)(通称:“黒谷”さん)
*右上の写真は、金戒光明寺の壮大な山門です。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の一つで、承安五年(1175)比叡山西塔の黒谷をでた法然上人が草庵を結んだところ。約四万坪の大きな寺域で、城構えの寺、小高い丘に建てられた天然の要塞で、御所などの要所にも近い。
・幕末に京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保が本陣を置いた(藩兵約1,000人が駐屯)。新撰組発祥の地でもある。
会津墓地》:黒谷の広い敷地の北の端、小高い丘の長い石段を登ると会津墓地がある。八重の弟三郎をはじめ、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士の墓碑が並んでいて、菩提を弔っている。
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「同志社墓地」
*写真は、左側に八重、右側に新島襄の墓。八重の墓碑銘は徳富蘇峰の揮毫によるもの。
・哲学の道の南端にある若王子神社から、山道を徒歩20分~30分(シニアにはキツイ山道)。新島襄をはじめ、妻八重や兄の山本覚馬、父(権八)、母(佐久)、弟(三郎)など八重の家族、ディヴィス、徳富蘇峰(猪一郎)、同志社関係の宣教師などもこの地に眠っています。
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新島会館「講演会」
*講演会場は、新島会館内の集会室(ステンドグラスが美しい部屋、有料)です。
・演題:『八重にまなぶ…ハンサムに生きる…』
・時間:午後1時半~2時半
・講師:本井康博先生(同志社大学元教授)
(本井先生は、大河ドラマ「八重の桜」の時代考証を担当)
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「新島旧邸」
*右は、「新島旧邸」(同志社大学 同志社社史資料センター)のパンフレット(兼入場証)です。
・「新島旧邸」は、同志社発祥の地。竣工は明治11年(1878)。同志社の歴史と明治初期の洋風生活のあり方を伝える歴史的建造物として公開されている。
(見学は、予約申込制です。見学のシーズン(大河ドラマと秋の京都)で、問い合わせがかなり多いようです。)
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「同志社大学」(旧薩摩藩邸)
*写真は、同志社大学今出川キャンパス(レンガ造りの校舎)です。
・山本覚馬が維新後購入していた旧薩摩藩邸の敷地6000坪を学校用地として、新島襄に安価で譲った土地が現在の同志社大学今出川校地。
・新島襄は、同志社大学の前身、同志社英学校を山本覚馬の尽力もあって開校。私学同志社大学設立をめざして奔走していたが、病に倒れ、明治23年(1890)46歳の若さで逝去…明治9年(1876)に八重と結婚してわずか14年の夫婦生活。
・八重は、襄の死後、同志社とはやや距離を置きながら、日清・日露戦争に篤志看護婦として活動(普段は茶道に一生懸命)。昭和7年(1932)逝去、享年88歳。
2013/10/31のBlog
2013年秋季・公開講座の報告です。
・日時:10月29日(火)午後1時30分~3時40分
・場所:大阪府立狭山池博物館2階ホール(大阪狭山市)
・演題:「箸墓古墳内部立入りが明かす謎」~果たして卑弥呼は眠っているか~
・講師: 森岡 秀人(もりおか ひでと)先生(日本考古学協会理事)
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*公開講座の参加者*
・参加者数:114名
・男女比:女性32名、男性82名
・年齢:57~86歳
・地域:明石市・神戸市(兵庫県)、和歌山市、橿原市(奈良県)、豊能町(豊能郡)、枚方市、豊中市、吹田市、大阪市(東淀川区・東住吉区・大正区・住之江区)、寝屋川市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、熊取町(泉南郡)、和泉市、堺市、河南町・千早赤坂村(南河内郡)、河内長野市、大阪狭山市、富田林市からご来場いただき、厚くお礼申し上げます。(関係者一同)
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講義の内容[要約]
*右の写真は「箸墓古墳」です。(ウィキペディアより)
〇箸墓古墳内部立ち入り観察の実現
[箸墓古墳は宮内庁の管理] :陵墓は『古事記』・『日本書紀』などの文献をもとに、江戸時代末期から明治時代に指定され、現在740ヵ所あるが、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
[箸墓古墳]: 正式な名称「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)・大市墓(おおいちのはか)」-第7代孝霊天王の皇女。最近の研究では出土遺物などから年代がずれていることが判明し、卑弥呼の墓という説がでている。規模は、墳丘長 280mの前方後円墳で200mを超える巨大古墳で最も古いとされる。大型なことを除けば、定形的な前方後円墳に比べ多くのイレギュラーな点が認められる。極端に開く撥形の前方部をはじめに、前方部4段、後円部5段とされる段築も最上段や最下段の認定を含め、異論が存在。 
[約130年ぶりに内部立ち入り]:1880年に立ち入りが禁止されてから約130年ぶり、2013年2月20日、奈良県桜井市箸墓古墳と天理市西殿塚古墳の2基の巨大前方後円墳の観察調査が実現。参加者は15学協会の16名の考古学・歴史学の研究者。…実際の観察は、午前10時頃から約1時間半、墳丘の下段を歩いて観察するだけの立ち入り調査で、撮影は自由ですが、発掘はダメ、測量もダメ、遺物の採取もダメという条件が付けられている。
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〇観察のようす(抜粋)
◆宮内庁職員の案内のもと、16人の研究者は、箸墓古墳前方部北西の隅角からその第一歩を踏み入り、テラスの狭い墳丘裾部分を最下段とする宮内庁の判断に基づき、後円部方向に右回りでゆっくりと歩きながら、自由に観察を開始。
◆しばらく歩くと、くびれ部に向かう前方部側辺の美しいカーブと大池沿いの葺石が数多く見えてくる。この部分の葺石は流失し動いたものである。(*右上の写真をご覧ください)
◆墳丘側では前方部側面の段築の有無について目を凝らして確かめたが、後円部との接続は不分明であり、完周するようなテラス面は視認できない。
◆古墳を横切るよう付けられた里道…奈良県立橿原考古学研究所が最近発表した赤色立体図からは、この農道が墳丘を鋭く断ち割るようすが見て取れ、所見は合致する。墳丘裾部から小さな谷地形が横断するように入り込んでおり、日常的な道であることを想像させる。(*右下の写真をご覧下さい。)
◆後円部では大小の葺石が確認された。大きい石材は基底石が動いたものとみられ、これらは近在の巻向川流域や初瀬川流域の河原石が運ばれてきたようである。
◆注目すべき石材として、大阪府柏原市の芝山玄武岩の板石も数個確認。竪穴式石槨やその裏込め以外の場で用いられたことを推測。しかし、かなり低位置にも存在が確認できることから、多様な使用法が考えられる。
◆南側くびれ部付近では、土器の散布が認められた。中世・近世・近代の土器・陶磁器に混じって、箸墓古墳築造前の高坏の脚部など弥生土器片や古式土師器片が存在していた。
◆特殊器台や特殊壺、特殊器台形埴輪や壺型埴輪、二重口縁壺の破片などは未確認。
◆前方部先端における段築は下位の斜面にも段差を認め、全部で4段になると観察した。…(以下、省略)
〇箸墓古墳出土品(土器・埴輪)(宮内庁書陵部調査資料)…(省略)

《森岡先生の感想》
「中学校の部活以来の宿題の一つが無事に終わったと同時に、学問的関心が新たに加わった箸墓立ち入りの貴重な時間であった。」
「前方部と後円部の接続状態や平坦部の長さなど、箸墓古墳の規格を実感できた。葺石は年代研究に役立つ史料。築造時期に極めて近い弥生最末期の土器もあり、箸墓古墳に邪馬台国が係わる情報が得られた。」
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◇学芸員による狭山池博物館の見学
・当日、午前11時から1時間半、村上学芸員による博物館の展示などの解説。約15名が参加。…右の写真は、1400年間の歴史が積み重なる、高さ15.4m、幅62mの狭山池の堤です。
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*アンケートより(感想)(抜粋)
・最先端の現地調査をした先生の話で、資料とスライドの講座で話も比較的よくわかり満足しました。(男性 70代)
・ワクワクしながら、楽しく勉強させていただきました。(女性 70代)
・おもしろい話ですが、難しいですね。(女性 60代)
・貴重な話を聞くことができて良かった。ただ、後半は少し専門的になり、理解不足になりました。(男性 60代)
・おもしろかったが、話が速いので解らなくなるところが出てくる。何回かわけてゆっくり又聞きたいです。(女性 70代)
・配布資料と説明がスムーズにかみ合っていないので、わかりにくかった。スライド編ととりまとめ編を分けてほしかった。また、短時間では、土器の話は分かりにくい。(男性 60代)
2013/10/26のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月24日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:世阿弥の『頼政』を読む
・講師:天野 文雄先生(大阪大学名誉教授)
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1.素材-平家物語・巻四
世阿弥の『頼政』はの素材(出典)は、『平家物語』巻四-「橋合戦」「宮の御最後』 に拠りつつ、平家討伐を企て高倉の宮(以仁王)を擁して挙兵するも敗れ、二子を失い、宇治で自害した頼政の奮戦ぶりを描く。合戦の描写に重点が置かれ、敵方(平家)の忠綱(若武者・足利又太郎忠綱)の活躍ぶりが生き生きと描かれている。
★源頼政[長治元年(1104)~治承四年(1180)]・・・保元の乱では源義朝らとともに戦ったが、平治の乱では平清盛に味方して家を守った。歌人としても著名で「千載集」「新古今集」などの勅撰集の60余首入集。…『平家物語』では、「源三位(げんさんみ)頼政』として登場(頼政が従三位に叙せられたのは治承二年(1178)で、清盛の奏請によりものであった。)…治承四年の以仁王の反平家運動で、頼政が謀反を勧める役を担う。平家から追討される以仁王・頼政は、奈良興福寺を目指して落ちる途中、宇治平等院に寄り追撃する平家軍と闘い、七十七歳の老将頼政は、自害して果てた。長男・次男をはじめ、一族も討死。平等院を脱出した宮(以仁王)は、奈良に向かう途中、矢の雨を浴びて、あえなく戦死(三十歳)。⇒頼政の挙兵は10日間で終わったが、以仁王の令旨は頼朝や義仲らに挙兵の名分を与え、治承・寿永の内乱の火ぶたを切ることになる。
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2.能楽-世阿弥の『頼政』を読む
○能楽『頼政』
【分類】二番目物。修羅能(老武者物)
【作者】世阿弥 【素材】平家物語・橋合戦ほか 【場所】京都・宇治 【季節】初夏
【登場人物】前ジテ(老人) 後ジテ(源頼政の霊) ワキ(旅の僧) アイ(里の男)
あらすじ
旅の僧(ワキ)が宇治の里を通りがかると、そこに里の老人(前ジテ)が現れて、数々の宇治の名所を教え、さらに平等院へ案内する。僧が平等院の庭に扇型に刈り込まれた芝を見つけ、その由来をたずねる。老人は、頼政が自害した「扇の芝」を教えたあと、自分が頼政の霊であると名乗って消えてしまう(中入)。…里人(アイ)が頼政の挙兵から討死までの経緯、高倉の宮の落馬、頼政の最期を語り、弔いを進めて退く。…夜になり読経する僧の前に、老体で甲冑姿の頼政の亡霊(後ジテ)が現われ、敗戦の様子を語り始める。高倉宮を奉じて挙兵、三井寺から南都に向かう途中、この宇治で平家を迎え討ったこと、味方の筒井の浄妙の奮戦、平家方の若武者田原の又太郎忠綱が馬を川に乗り入れ、兵をみごとに指揮して対岸に乗り上げた。これにより味方は敗退、頼政はもはやこれまでと芝の上に扇を敷いて辞世の歌「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果ては あはれなるけり」を詠んで自害したことを語り、自分の供養を僧に頼み姿を消すのだった。

★世阿弥の「頼政」と『平家物語』の頼政
『平家物語』巻四の「橋合戦など」では、頼政の最期は、不遇であった自身の生涯を慨嘆する辞世とともに描かれているが、そのような頼政個人の感慨を、この世を前世から来世への中間とみる世界観(仮世界)へと展開したのが、世阿弥の「頼政」である。そのテーマを端的に表しているのが、「中宿」(なかやど)という語である。前場(まえば)で登場した老人(頼政の化身)が自分のことを「前世から来世への旅人」と言っているのは、「この世は中宿」という世界観の表れである。そのようなテーマを表現するためには、京と奈良の「中宿」である宇治は恰好の場であり、そこで展開された合戦が、まさにはかない現世における「蝸牛角上の争い(取るに足りない小さな争い)」だというのである。
*著名な「扇の芝」のことは『平家物語』諸本には見えない。応永三十年(1423)頃にそのような伝説があったのか、或は謡曲作者の創案したものであろう。
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3.能楽のあれこれ
・能とは、主人公が「能面」をつけて演舞する日本独特の演劇で、650年の伝統を持ち、ユネスコも無形文化遺産に指定されています。長い歴史で、存亡の危機もありましたが、今日まで脈々と受け継がれています。
・正直なところ、能は、初心者には、わかりにくいところが多い。今日の講義の参加者は、初心者と経験者が半々で、講義の反応は、良かったいう反応とわかにくいという反応に大きく分かれています。
2013/10/23のBlog
H25年第6回ウォーキング(主催:文化塾友歩会)の報告です。
・日時:10月18日(金)10時~16時
・集合場所:JR王寺駅10時
・解散場所:法隆寺16時
・【コース】:JR王寺駅-三室山・竜田公園-吉田寺-龍田神社-斑鳩文化財センタ--藤ノ木古墳-法隆寺-中宮寺 (約7km)
・参加者:42名
・スタッフ:佐藤リーダー、置田、塚田、房田
・天候:曇り(少し肌寒い日でした)
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「三室山・竜田公園」 (斑鳩町)
*右上の写真は、三室山を降りて、竜田公園に向かうところです。
・上代から有名な神の山、御室(みむろ=三室)山(標高82mの小さな山)は、周辺に竜田川が流れ、紅葉の名所として有名で、多くの和歌に詠まれています。
☆「千はやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅(くれない)に 水くくるとは」(古今集・在原業平)
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「吉田寺」(きちでんじ)
・平安時代末期(987年頃)、恵心僧都源信が開基したと伝えられ、“ぽっくり寺”として親しまれ、中高年の参詣が多い。
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「龍田神社」
・万葉集にも詠まれた紅葉の名所・竜田川の東に鎮座し、法隆寺の守護神・鬼門除神として祀られ1400年。
・境内には御神木の楠の大樹、天然記念物の蘇鉄の巨木があり、また、能楽「金剛流」発祥の地です。
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「藤ノ木古墳」
・6世紀後半の築造の円墳(直径50m以上、高さ約9m)。
・内部は未盗掘で、超一級の金銅製馬具のセットなど出土、石室内部と石棺はベンガラで赤色に塗られていた。銅鏡4面、刀剣類、金製耳飾りなど出土した副葬品は国宝に指定。
・男性2体の被葬者が確認されたが、人物は特定されていない。
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「法隆寺」
*右の写真は、飛鳥時代の姿を伝える金堂と五重塔です。
・2班に分かれて、ボランティアガイドによる案内で、中門・金堂・五重塔・大講堂・大宝蔵院・夢殿を見学。
・修学旅行シーズンで、小学生・中学生の団体が多く、見学は長蛇の列でした。


2013/10/20のBlog
後期講座(文学・文芸コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月17日(木)午後1時半~3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:ハンサムに生きる…新島襄と八重…
・講師: 本井 康博先生(同志社大学元教授・「八重の桜」時代考証担当)
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1.大河ドラマ「八重の桜」の経緯と背景
*右の写真は、「八重の桜 完結編」(NHK大河ドラマストーリー)より。
・NHK大河ドラマは、「八重の桜」で、『3.11東北大震災・福島原発事故』に対して、東北・福島に元気と勇気を与えることを主眼にした番組を目指した。
・なぜ無名の八重か。→福島県県人(会津人)を主役で、八重の魅力と持ち味(逞しさ、不撓不屈、信念、男優り、元気、勇気、先駆者)を活用した。
2.八重の生涯 [1845年~1932年]
(1)第1ステージ:会津時代(1845~1871年)
会津のジャンヌ・ダルク
・戊辰戦争の時は、断髪・男装(亡き弟・山本三郎として男装)して、会津若松城籠城戦で、最新銃・スペンサー銃を手に奮戦。
・当時、山本八重を「会津のジャンヌ・ダルク」と呼んだことを示す文献がない(近代になってメディアがつけたキャッチフレーズ)。
(2)第2ステージ:京都時代①(1871~1890年)
◆兄・山本覚馬を頼って家族で米沢から京都に
・山本覚馬は、薩摩藩邸に幽閉されていたが、幽閉中に口述筆記で「管見」(近代国家のあり方を示した意見書)を書き上げ、新政府に提出し岩倉具視らに認められた。
・山本覚馬は京都府顧問に就任(1870年)。→京都府の大参事・槇村正直(木戸孝允の懐刀)と京都改革
◆新島夫人(1876~1890年)14年間:ハンサム・ウーマン 
・新島襄と婚約・結婚(1876年)。八重は「京都初のクリスチャン」
(3)第3ステージ:京都時代②(1890~1932年)
◆新島襄死後の42年間:日本のナイチンゲール
・日清・日露戦争で国内の救護活動を指揮し、看護婦の地位向上に貢献。
・享年86歳。
3.新島襄の生涯[1843~1890年]
(1)第1ステージ(1843~1864年)(江戸)
・漢学、蘭学、英学を通して海外事情をつかむ→自由を求めて家出(函館から脱国)
(2)第2ステージ(1864~1874年)(海外・ヨーロッパ、アメリカ体験)
・鎖国日本(函館)から密出国してアメリカ。8年間のアメリカ留学(3つの学校で学ぶ)。→個人の資格で帰国したのではなく、宣教師に任命されて日本に派遣された(赴任地は大阪)。
・京都は、キリスト教の学校や伝道にとって、どの都市よりも宣教師を排除する土地柄であった。
(3)第3ステージ(1875~1890年)(京都)
・京都府顧問・山本覚馬と京都で奇しき出会い(襄の人生の中でも最大の幸運に一つ)⇒覚馬から「誘致」されるような形で、思いがけなくも京都に同志社が立地できることになる。
・八重との出逢い、結婚(1876年)
・キリスト教学校開校(男子校1875年11月、女学校1876年10月)
・同志社大学設立募金運動のさなかに病死(大磯・1890年)

4.ハンサム・カップル(ハンサムに生きた襄・八重)
Handsome is as handsome does
☆「ハンサム」の由来…〝見た目よりも心”、〝外面よりも中身”という意味の諺
・夫の襄は、八重について「彼女の生き方がハンサムなのです。」
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** あとがき**
○時代考証秘話(本井先生は、大河ドラマ「八重の桜」の時代考証を担当されています。)
・時代考証の仕事は、①「脚本」のチェックが大半(脚本は、その話ごとに3回作りなおすとのこと)②ディレクターからの電話での問合せ ③NHKの各部所から問合せ④ストーリーの大枠の提案など
・「本当はこうですよ」、「歴史家として許せない」・・・と思った場面も、最終的にはNHKスタッフが決める。→(時代考証担当を途中で辞退した人もいるらしい)
・大河ドラマは、いろんな人からクレームが寄せられる→細かいことにも配慮しないといけない。
○八重の生涯は、山本覚馬が左右した(襄との出会い、同志社を京都に誘致)。
○「八重の桜」は、東北・福島(会津)を元気づけるために、「春は必ず来る」のメッセージを発信(全50話のうち会津時代31話、京都時代①16話、京都時代②(晩年)3話の構成)
2013/10/16のBlog
後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月15日(火)am10時~12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:考古学からみた初期ヤマト王権
・講師:白石 太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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【復習】◆邪馬台国連合から初期ヤマト政権
①先進文物(朝鮮半島の鉄資源や中国鏡など)の入手ルートをめぐる争い
・畿内・瀬戸内連合軍 ⇔ 玄界灘沿岸地域・・・邪馬台国を中心とする邪馬台国連合の成立
②狗奴国(東国)との関係
・3世紀中葉頃に、『魏志』倭人伝にみられるように、一時、争ったらしい。(争いがどうなったかについては記載がない。)→その後の古墳の展開過程などから考えると、邪馬台国側の勝利、ないしはその下に和平。
③初期ヤマト政権の成立
・邪馬台国連合を母体に、東方のクニグニの参加による版図の拡大と、卑弥呼の死を契機に革新された広域の政治連合を初期ヤマト政権という。このヤマト政権には、やまとの勢力を中心とする近畿中央部の勢力をはじめ、日本列島各地の政治勢力が参加していた。
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○初期ヤマト王権
《奈良盆地東南部・・・巨大な六基の前方後円墳》
(*右の図をご覧ください。)
・3世紀中葉すぎから4世紀中ごろにかけて、墳丘の長さが200mを超える大型前方後円墳が六基も、奈良盆地東南部(やまとの地域)に営まれた。
箸墓古墳(280m)[現大市墓]-西殿塚(にしとのづか)古墳(240m)[現手白香皇女陵]-.外山茶臼山(.とびちゃうすやま)古墳(200m)-メスリ山古墳(約250m)-行燈山(あんどんやま)古墳(242m)[現崇神天皇陵]-渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310m)[現景行天皇陵]
★おそらく、この順序に構築されたと思われる。この巨大な六基は、この時期の列島の古墳の中では隔絶した規模をもつもので、初期ヤマト政権と呼ばれる政治連合の盟主の墓である。
★この初期の盟主の墓のあり方で興味深いことは、それらがいずれも奈良盆地東南部のヤマトの地に営まれながらも、それらがすべて同一の古墳群に代々営まれているわけではなく、この地の四つの古墳群(箸中古墳群、大和〈おおやまと〉古墳群、鳥見山古墳群、柳本古墳群)に分かれて、一、二基ずつ営まれている。→初期の王は、いくつかの有力な政治集団から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていたと考えられる。
★弥生時代後期の西日本各地には、相当の規模の墳丘を持つ首長墓が出現(地域ごとに、首長たちが共通の葬送祭祀を執り行っていた)。⇒3世紀中葉すぎ、大規模で画一的な内容(墳丘の形態、埋葬の仕方、副葬品の組合せなど)をもった墳丘墓が西日本各地に現れる。…広域の政治的連合関係が.成立したことの表れである。
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○卑弥呼
・右の『魏志』倭人伝の末尾に近い部分に、「正始八年に、張政らを倭国に遣わして、斉王の詔書と黄色の旗を難升米(卑弥呼の代理)に授け、狗奴国と戦っている卑弥呼に檄文をもって告諭した。・・・卑弥呼が死す。大きな冢を作ること径百余歩・・・。」→狗奴国と戦っていること。卑弥呼が正始八年(247年)頃亡くなり、大きな墓が作られたことが記してある。
箸墓古墳と卑弥呼
箸墓古墳は、初期ヤマト政権の盟主墓のなかでも最初のもの。さらに、その年代が3世紀中葉までさかのぼるとすると、その被葬者の候補として、卑弥呼が浮かび上がる。卑弥呼の没年は、3世紀中葉であるが、巨大古墳の造営が十数年の年月を要したことが想定され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が大きい。→広域の政治連合の最初の盟主である卑弥呼の死を契機に、政治連合のシステムの再編成の一環として古墳の造営が始められたと考えられる。