ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
シニア文化塾だより
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:526件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
2017/03/20のBlog
---
・日時:3月14日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦国期(中世)の女城主
・中世に広く認められた女性の家督権…「夫は息子がいても、妻に器量の判定を委ねる。家督の決定は妻の裁量に(女性が一時的に家督を掌握)」。
・戦国時代、家を存続させるいく上で、後家にそれなりの権限を持たせていた。家督の決定権を握る場合もあったし、跡取りが決定するまでの家父長権を握ることもあった。
・夫に代わって甲冑に身を固め出陣した妻もいれば、まだ幼い子に代わって城を死守した母親もいた。
・夫の死後、出家し、尼さんになるのがふつうであった。
・戦国時代の女性は、家督も財産も継承。→江戸時代の大名家の取りつぶしの原則は「無嗣断絶」(子供がいなかったらお家断絶)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おんな城主 井伊直虎」
2017年、NHK大河ドラマの主人公に取り上げられる。
**井伊直虎**
・天文4年(1535)?~天正10年(1582)
・戦国時代の井伊家は、遠江(とおとうみ)(今の静岡県西部)の井伊谷(いいのや)という地域を治める地頭職で、国人衆とよばれる小さな勢力に過ぎなかった。
・国人領主・井伊直盛の家に、「直虎」は一人娘として生まれる。→井伊家の男子がことごとく死亡(暗殺・討死)という事態がおきる。→次郎法師を当主にして、直政(2歳)の後見人として、井伊家を託される。
・井伊直政は、徳川四天王の一家、彦根藩井伊家の藩祖。
◇次郎法師(直虎)の史料(*右上の史料を参照)
・「井伊家伝記」と「花押」…伝記には、次郎法師が女であること、直政の代わりに当主をつとめた」ことなどが書かれている。また、男の名前を名乗り、成年男子しかつかえない「直虎」の花押も用いている。
*(注)次郎法師に関する史料はわずかしか残されていない。直虎は男性?など諸説ある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○「武田信玄が恐れた寿桂尼
寿桂尼(じゅけいに)、今川義元の母。40年余り今川家を見守る。
・京都の公家の娘であった寿桂尼は、永正5年(1505)、駿河・遠江の二か国の戦国大名だった今川氏親に嫁いできた。
・氏親は、1526年に死去。後継者の氏輝は14歳で病弱。この時、氏輝の補佐役になったのが寿桂尼。→実際に寿桂尼の名で発給された公文書が残っている。1532年まで政務を執る。→1536年「花蔵の乱」家督争い。自らの子である五男(義元)が家督を継承。→永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで義元は信長に討たれる。
・1568年3月、寿桂尼の死。…武田信玄は、寿桂尼が死ぬまでは動かず。同年10月信玄は駿府を占領。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆「将軍・菅領が頼みにした赤松洞松院尼
洞松院尼(とうしょういんに)は、菅領細川勝元(応仁の乱の東軍の総大将)の娘で、赤松政則に嫁ぎ、夫の死後、子義村に代わって印判状を出している。…(省略)
◆「西のおんな城主・立花誾千代
立花道雪は、大友宗麟の家臣で、軍師として知られた武将。男の子がいなくて、一人娘・誾千代(ぎんちよ)に家督を譲る。筑前の立花山城を相続した、勇ましい女性。…(省略)。
2017/03/16のBlog
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・日時:3月9日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**国宝『源氏物語絵巻』の概要 **
国宝「源氏物語絵巻」は、絵19面、詞書37面が現存して、徳川美術館と五島美術館に所蔵されている。源氏物語絵巻は、紫式部が『源氏物語』を綴ってから約100年後の平安時代後期(12世紀前半)に創作された現存する最古の絵巻である。源氏物語の華やかな舞台を描いたこの絵巻は、現在では色が褪せ、剥落が進み、当時の面影はない。
1999年に「柏木(三)」の復元を行ったのが始まりで、「源氏物語絵巻の復元プロジェクト」は、2005年までにすべての絵巻の復元が完成した。

◇前回まで(柏木巻~鈴虫巻)のあらすじ
・【柏木巻】…密通が露見し、柏木は重く患い、女三宮は薫を出産後、出家する。そのことを知った柏木は絶望し、友人であり光源氏の息子である夕霧に、妻(女二宮)の行く末を託して、死去する。
・【横笛巻】…夕霧は、柏木の妻を慰問するために、一条邸を通うようになり、次第に女二宮に心惹かれるようになる。そんなおり、女二宮の母一条御息所から柏木遺愛の横笛を譲り受ける夕霧。
・【鈴虫巻】…蓮の花が盛りの頃、出家した女三宮の持仏の開眼供養が盛大に営まれ、光源氏が仏具一式を調える。光源氏は相変わらず女三宮への未練を訴えるが、女三宮は光源氏をうとましく思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
講義の内容
第三十九帖「夕霧巻」(抜粋)
この巻は、「まめ人(堅物)」と評判の夕霧が、亡き柏木の未亡人(女二宮/落葉宮)に恋慕を深め、ついに契る物語。また、夕霧の妻・雲居雁は嫉妬して、幼い子供たちを連れて実家に帰る。
*右は、現存する『源氏物語絵巻』夕霧巻で、衣服の色などは褪せたり、剥落している。

夕霧、落葉宮に胸中を訴えるが、宮は心を閉ざす。
落葉宮の母・一条御息所の病気の加持祈祷のため、小野(京都市左京区上高野)の山荘に一緒に移っていた。…八月半ばの一日、夕霧は、秋景色の美しい小野を訪ね、宮への恋情を訴える。夕暮れになり、霧が立ちこめる風情に帰る気をなくした夕霧は、一夜を明かす。夕霧は、夜通し思いを訴えるが、宮は拒み通した。…翌朝、夕霧は帰って行った。
夕霧の文が届く。御息所が返事を書く。
御息所は、祈祷の僧から、夕霧が落葉の宮のもとで一夜を明かしたことを聞き、心を痛める。…夕霧から宮に手紙が届けられた。その返事は、宮に代わって、真意を確かめようと、御息所が夕霧に文を送った。
夕霧、御息所の文を雲居雁に奪われる。御息所が他界する。
御息所が送った手紙を、読もうとしたところを、宮との仲を嫉妬する夕霧の妻・雲居雁に取り上げられ、隠されてしまう。…夕霧は、探したが見つからない。返事を書くこともできない。…翌日の夕方に見つけて、急ぎ言い訳を送るが、すでに時遅し、宮は捨てられたと思った御息所は、落胆のあまり、病勢が急変し、他界する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○国宝『源氏物語絵巻』~夕霧巻~(復元模写)
右の絵巻は、「夕霧」を復元模写したものです。
・画面は、吹抜屋台の構図(屋根・天井をはぶき、やや上方より見下ろすように室内描写)
・場所は、夕霧の居間。-画面は、雲居雁が手紙を奪おうと背後から迫るところを描く。緊張感あふれ、一触即発の場面。
・外からは、女房が聞き耳を立てている。
・雲居雁の装いは、下着の姿で、肌が透けている。
・夕霧の前に硯箱が大きく描かれている。(異様に大きいのは、大事な物であること、一刻も早く返事を書きたい、ことを表現している。)
2017/03/11のBlog
---
京阪地方では、「春はお水取りから」といわれ、広く親しまれている。
期間は、2月20日~3月14日で、2月中は別火といって支度期間で、3月から本行となり、「お松明(たいまつ)」は、本行中、毎日あげられる。
---
◇参観日程
・日時:3月10日(金)午後2時~8時
・コース:近鉄奈良駅(行基像前)(14時集合)-興福寺-奈良県庁屋上-戒壇院・別火坊-大仏殿入堂-二月堂・上堂-舞台下へ移動待機ーお松明(19:00~19:30)-南大門-近鉄奈良駅(20時頃解散)
・参加者:25名(男13名、女12名)
・天候:曇り時々晴れ
・ガイド:佐藤興治先生(NPO法人なら・観光ボランティアガイドの会)
---
戒壇院・別火坊
・東大寺戒壇院は、日本初の正式な授戒(僧侶として守るべきことを履行する旨仏前に誓う最も厳粛な儀式)の場です。
・修二会は2月20日から28日までの前行と3月1日から14日までの本行に分かれる。前行は別火(べっか)とよばれ、戒壇院内に臨時に設けられた別火坊に参籠する。
・別火坊での準備作業…花ごしらえ(椿の造花)、差懸(さしかけ)(はきものを作る)、紙衣(厳しい寒さに耐えるために紙衣を着る)。声明の稽古など。
・別火の終わる2月28日の午後、練行衆は戒壇から二月堂下の参籠宿所に移動する。
*(右上の写真は別火坊):今日は3月10日なので、前行が終わって、練行衆は二月堂内に移動している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大仏殿入堂
奈良時代の中頃に、聖武天皇の発願によって創建された。盧舎那大仏が本尊。大仏殿は、1180年と1567年に、兵火によって焼失し、現在の建物は、1709年(宝永6年)に建て直されもので、木造建築物としては世界一の規模を誇っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二月堂・上堂
修二会が二月に執り行われるので二月堂という。十一面観音を本尊とする仏堂。
*右の写真は、午後4時頃、二月堂の舞台から見た、舞台下の待機場所(4~5つの段差がある)の風景です。
・シニア文化塾25名の場所取りは、左側の2段目の場所で、良い場所でした。
・午後5時過ぎになると、人が混みはじめ、6時前にはこの待機場所は締め切り。…お松明は、午後7時から始まるので、3時間近く待機。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お松明
午後7時になると、つぎつぎと点火されたお松明が、登廊を経て二月堂の舞台の欄干上で火の粉を散らす。われわれの居た場所は、燃え上がる炎の音も聞こえ、飛び散る火の粉が帽子や服などに降りかかり、煙のニオイも漂ってくるという、臨場感あふれる場所。10本のお松明は、それぞれ個性のある燃え上がりと消滅をし、約20分で終了した。…これぞ「お水取り」であった。
2017/02/21のBlog
受講生の皆様へ
余寒の候、ご清栄のことと存じます。

*シニア文化塾は、2010年(平成22年)1月に設立し、8年目を迎えます。

*右の写真は、昨年11月15日(火)の講義『2016年の米大統領選挙-今後のアメリカの動向』《講師:簑原俊洋先生(神戸大学教授)》(会場:すばるホール)です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3月から「前期講座」(歴史コース)(3月~7月:全15回講義)が始まります。
○第1回講義:3月7日(火)
時間:午前10時~12時
会場:すばるホール(富田林市))
演題:「聖徳太子はいなかった」は本当か(2)
講師:平林章仁先生(龍谷大学教授)

*平成29年「前期講座」(歴史コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3月から「前期講座」(文学・文芸コース)(3月~7月:全14講義)が始まります。
○第1回講義:3月9日(木)
時間:午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
演題:「国宝源氏物語絵巻を読み解く-夕霧巻を中心として」
講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)

*平成29年「前期講座」(文学・文芸コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました。

=================================================================
☆受講生は…富田林市、河内長野市、大阪狭山市、河南町、太子町、千早赤阪村、羽曳野市、松原市、柏原市、八尾市、堺市(美原区、北区、東区、西区、南区、堺区、中区)、和泉市、岸和田市、大阪市(住吉区、阿倍野区、中央区、淀川区)、守口市、東大阪市、奈良県(橿原市、香芝市)、兵庫県(西宮市)から参加です。
2017/02/10のBlog
今日(2月10日)の朝日新聞(朝刊)にタイムリーな簑原先生の記事が掲載されています。
*簑原俊洋先生(プロフィール)
1971年生まれ。米カリフォルニア大学卒。現在、神戸大学教授。シニア文化塾の歴史コースの講師。
2017/02/04のBlog
三輪明神「大神神社」 (おおみわじんじゃ)(奈良県桜井市三輪)
三輪明神は、古来より本殿を設けず、背後の三輪山を御神体として、大物主神を祀る我が国で最も古い神社といわれています。私が現役の頃、三輪明神の近くに関係会社があり、お客さんをつれてよく参詣していたことから、自然に私のパワースポットとなり、ここ20数年、欠かさずお参りしています。
・右の写真は参道の入口。(撮影日時:2月3日(金)午前10時頃)
「大神神社」節分祭
午前11時頃から、節分にあたり、開運招福・除災厄除を祈る祭典が約30分間行われ、11時半ころから、裃(かみしも)姿の年男・年女が拝殿から福豆・福餅など撒きが行われた。豆まきが行われはじめると、静かに祭典を見ていた多くの参拝者は、前に移動を始め、あとは、われがちに取ったり、拾ったりの興奮の時間。子どもの泣き声があちらこちらで聞こえる。…私にとっては初めての節分祭であったが、なんとか8個の餅を獲得。
大美和の杜(展望台)
三輪明神の境内内に、奈良盆地が眺望できる《大美和の杜》展望台があり、三輪明神にお参りした時は、ここに寄っています。…大和三山(天香具山、畝傍山、耳成山)、葛城山、金剛山、多武峰、生駒山まで望め、古代の風景を味わえる場所です。
○”にゅうめん”と”みむろもなか
三輪明神に来たときは、昼食に「にゅうめん」を食べ、そして、「みむろもなか」を買って帰るのが楽しみとなっています。
2017/01/28のBlog
・月日:1月24日(火)am10~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学助教)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清河八郎とは
・天保元年(1830)~文久三年(1863)。幕末の志士。庄内藩領出羽国清川村の郷士・斎藤豪寿の長男。母は亀代。(地名をとって清河八郎と称する。)
・弘化四年(1847)、18歳で江戸に出て、東条一堂らに儒学を学び、剣を北辰一刀流の千葉周作に入門し、文武を修めた。一方で九州から蝦夷地にわたる旅をして見聞を広め、安政元年(1854)、江戸神田に文武指南所、「清河塾」を開設。
・安政二年(1855)、3月から9月にかけて、母・亀代を連れて西遊へ。
・万延元年(1860)、清河は「桜田門外の変」に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。これを契機に清河塾に憂国の志士が集まる。同年、「虎尾(こび)の会」を結成。発起人は山岡鉄舟ら15名。
・文久二年(1862)、九州の志士と交わり、島津久光の上洛を利用した挙兵を画策するが、寺田屋事件(久光、藩内の尊攘派を弾圧)で同志を失い、清河は江戸に帰る。
・松平春嶽に呈した「急務三策」(1.攘夷の断行 2.大赦の発令 3.天下の英才の教育)を評価された清河は浪士組の結成を建言、幕府に採用され、上洛を控えた将軍・家茂警護のため浪士募集(清河は浪士組の創立者)。→文久三年(1863)2月、浪士組(234名)は将軍を護衛して上洛する。しかし、清河は、幕府に反して尊攘を主張し、近藤勇・土方歳三らと対立。東帰を命ぜられた。…江戸に帰ってから、同年4月13日、江戸麻布一の橋で、清河八郎は暗殺された。享年34歳。
・清河の死後、浪士組は再編され、新選組と命名。→幕末の二つの浪士組。会津藩預かりの新選組と庄内藩預かりの新徴組(江戸市中の警固役。清河八郎が庄内の郷士であったことから庄内藩預かりとなる。)。
*郷里の山形県東田川郡庄内町には、「清河神社」があり、文武両道の神として、清河八郎を祀り、創建は1933年。そして隣接して「清河八郎記念館」がある。
*著書:「西遊草」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「西遊草」(さいゆうそう)
安政二年(1855)3月から9月にかけて、母・亀代を連れて、清川村を出発。-善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、.大坂、.宮島、.岩国、.天橋立、鎌倉、江戸、日光-をめぐる旅行。170日に及ぶ旅の記録「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえで貴重な資料となっている。
安政二年(1855)という年は
・嘉永六年(1853)6月ペリー浦賀に来航。。安政元年(1854)再びペリー来航、3月日米和親条約締結。下田・箱館を開港。→あらたな外国(英・露・仏)との問題。
・安政元年4月、京都御所大火。→火災からの復興、安政二年10月、安政の大地地震(江戸で4千人以上の死者がでる)。
この時、清河八郎25歳、母・亀代40歳。
・清河の斎藤家は、醸造を生業とする大庄屋格。…この旅行は贅沢。資産家でないとできない。
・毎日欠かさず日記をつけていた。細かい事(渡し船の船賃や食べ物の値段など)も書き留めている。
・このルートで、旅するのは大変。江戸時代に徒歩で半年間かけて、しかも母親と一緒の旅とは驚き。
---
◆「西遊草」-清河八郎の京都見聞記ー(抜粋)
・安政2年6月5日(日本橋より三十国船に乗る)
「淀川の船は天下に名高い。船頭は左右に三人ずつ棹を使いながら船縁を渡る。まるで猿が木の枝を渡るように軽敏で修練の至りである。…上りの船賃は下りの倍である。両岸の堤の上は道路になっているので、たいがいは網をかけて曳いて上る。」…(以下、省略)。
・6月7日(祇園祭礼。本能寺・瑞泉寺・知恩院への関心、左甚五郎の忘れ傘)
「晴天。祇園祭の初日である。…昼過ぎから清水寺に行こうとして三条大橋を渡る。この橋は、豊臣秀吉の命令で石柱を用いて造った。…(中略)。寺町に本能寺がある。明智光秀が主君を殺すという大罪をおかした本能寺の跡は六角辺にある。信長は中興の盟主であったが、人を疑い妬む癖があってついに大業の半ばで滅亡した。…(中略)。東山の大谷知恩院にいたる。洛東第一の寺で、品よく立派な構えは筆舌に尽くしがたい。…置き忘れた傘。本堂は技巧の妙を極め、完璧にできている。しかし、満つれば欠けるのは世の習いであるので、置き忘れたという風にして傘を軒にはさんであるのは有名である。」…(以下、省略)
・6月8日(四条河原夕涼)
「暮れから四条涼み店に行く。酷暑の時期は、格別の賑わいである。…(中略)。四条涼み店は、夏の暑さを忘れることができる。京師第一の奇観、第一の佳勝とすべきであろう。」…(以下、省略)
・6月9日(西本願寺)
「西本願寺にいたる。一向宗の本山で、もと大坂にあったのを、江戸幕府の始まる前にここに移した。本堂・弥陀堂などいろいろの建物があり、東本願寺より遥かに優れて上品である。…(中略)。飛雲閣に来て、太閤のすばらしさを感じている。〈太閤は百姓の賤しい身分から身を起こし、天下統一してその手に収めた。治国平天下を志す者は、思いをここにいたすとき、どうして奮起しないでいられようか〉」…(以下、省略)
*******************************************************************************
平成28年後期講座(歴史コース)(9月~1月:全14回講義)は、1月24日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
*******************************************************************************
2017/01/20のBlog
・月日:1月12日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:下西 忠先生(高野山大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西行の生涯(概観)
・元永元年(1118)~建久元年(1190)。俗名:佐藤義清(のりきよ)。法名:円位、西行、大宝房と号した。歌聖として後世に大きな影響、芭蕉も影響を受けた一人。
・23歳の時、院の北面の武士の身分を捨て、妻子も捨てて出家。
・[高野山時代:約30年間](33歳~63歳頃)高野に生活の本拠を置き、吉野・熊野などで活動。入山の直接要因は、落雷による高野の大火(1149年)。高野復興の目的で入山。
・[西行の旅]…吉野、伊勢に止住し、「紀州・奥州の行脚」(29歳の頃)。「四国の行脚」(50歳頃)、「再度、奥州の行脚」-鎌倉の頼朝を訪ね、平泉の藤原氏を訪ねる」(69歳の頃)
・[西行にまつわる物語]…西行物語、謡曲の「西行物」、上田秋成の『雨月物語』など。
・[歌集]…勅撰集(新古今集に94首など入集)、『山家集』、『西行上人集』、『聞書集』
・河内の弘川寺で、文治六年(1190)二月二十六日入滅。享年73歳。
---
西行歌
(1)教科書に載せられている西行歌
★「こころなき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ」(新古今集 秋・362)
(歌意)(世捨人である私が感じとったこの感動。鴫(しぎ)の群れが飛び立った羽音のとどろく沢辺に、秋の夕暮れが寂しく訪れる。)(高校の教科書)
★「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ」(新古今集 夏・262)
(歌意)(道のほとりに清水の流れている柳の木陰よ。しばらく休もうと思って立ち止まったのであったが、あまり涼しいので、つい時を過ごしてしまったことだ。)(中学校の教科書)…後世、栃木県芦野にある通称「遊行柳」。芭蕉も「奥の細道」で詠んでいる。
(2)西行の自讃歌
★「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな」(新古今集 春・77)
(歌意)(風に吹かれてなびく富士の噴煙は空に消えて、どうなっていくかもわからない。そのように、私の思いもこれからどこへたどり着くのかわからない。)…慈円は、西行がこの作を第一の自讃歌(代表作)と告げた、として伝えている。「思ひ」の「ひ」に「火」をかけて、「煙」の縁語。(注)西行の時代、富士山は時折、煙を上げていた。
(3)多くの人に知られている歌
★「願はくは花のもとにて春死なむその如月のもち月のころ」(山家集 春・77)
(歌意)(わたしの望みは咲きほこる桜の下で春に死ぬこと。あの釈迦が入滅された二月の望月のころに。)…西行は、桜の歌は多く詠んでいる。この歌の作は、死のずっと以前であるが、2月16日の没時と一致したことに、にわかに有名になった一首。
---
(4)西行歌の鑑賞
(*右の写真は、岡山県玉野市渋川海岸の西行法師像。西行は二度、岡山を訪ねている。)
★「鈴鹿山うき世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらん」(山家集 雑・728)
(歌意)(なりふりかまわず浮き世を振り捨ててきたが、さてこれから我が身はどうなるのだろう。)…出家をして間もない頃に詠んだ歌。鈴鹿山で行く末を自問してみると心細い。この人間的真実が哀感を広がらせる。「振り」、「なり(「鳴り)を掛ける」は「鈴」の縁語。
★「なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかる吉野の山」(山家集 雑・1062)
(歌意)(春がたったと聞いた日から、何となく吉野の山の桜のことが気にかかるよ。)…花(さくら)の歌から抜粋。
★「ながむればいなや心の苦しきにいたくなすみそ秋の夜の月」(山家集 秋・367)
(歌意)(ながめていると、何とも言えず心が苦しくなることだ。だから秋の夜の月よ。あまり明るく澄みきらないでくれ。)…月の歌から抜粋。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・西行は、生涯2千首を越える歌を残している。生涯にわたって、「花」と「月」を愛し、歌い続けた。西行の歌は、宮廷歌壇から離れていた素人歌人。専門的な型に、はまった物の見方をしていない。公的なものは少なく、私的な感懐が多い。
・俗語的発想が少なくない。自己流の表現、詠みっぱなしの作品が多い。しかし、自分を詠み、心を詠んでいる。
******************************************************************************
平成28年後期講座(文学・文芸コース)(9月~1月:全13回講義)は、1月12日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
******************************************************************************