信長は何をめざしたか−将軍か太政大臣か関白か


・日時:3月21日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:山田邦和先生(同志社女子大学教授)
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織田信長**関係年表** (抜粋)
・1534年(天文3):織田信長、尾張勝幡城に生まれる。
・1552年(天文21):父信秀死去。信長、家督相続(19歳)。
・1560年(永禄3):桶狭間の戦い(今川義元を敗死。)
・1567年(永禄10):美濃を攻略(斎藤を追放。岐阜城に本拠をおく。)
・1568年(永禄11):【信長35歳】足利義昭を奉じて上洛。
・1570年(元亀元):姉川の戦い(浅井・朝倉の連合軍を破る。)
・1573年(天正元):【信長40歳】京都の室町幕府の滅亡(将軍義昭を追放)。
・1575年(天正3):長篠合戦(織田・徳川連合軍が武田勝頼を撃破)。(11月)従三位権大納言、右近衛大将に任官。
・1576年(天正4):(11月)正三位内大臣に任官。安土城築城。
・1577年(天正5):(11月)従二位右大臣に任官。
・1578年(天正6):【信長45歳】(4月)右大臣・右近衛大将を辞任(但し、従二位は保持する。)
・1580年(天正8):大坂本願寺を平定。
・1581年(天正9):朝廷は左大臣任官を提示したが、信長は辞退
・1582年(天正10):【信長49歳】(4月〜5月)「三職推任」。(6月2日)(本能寺の変。信長自刃。)

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信長の官職と政権構想
・信長は、尾張時代は上総介、尾張守と称していた(自称)。朝廷より任官を受けることはなかった。
・天正元(1573年)足利義昭を京都から追放。このころから信長は、官位を上げ始める。→天正二(1574年)従三位参議に昇任。天正三(1575年)に従三位権大納言・右近衛大将の任官。天正4年には、正三位内大臣に昇任した。
・逆に、天正六(1578年)4月には、突如として、右大臣・右大将の両官を辞任した。(理由−①まだ、征伐の功いまだ終わらず。敵対勢力が残っているので官職を辞退したい。②全国平定をなしとげた際は、登用の勅命を受けたい。③官位は、嫡男・信忠に譲りたい。) …信長は、正二位にとどまって、朝廷との適度な距離を保ちつつ、後継者の信忠に任官させたと考えられる。
・信長の政権構想は、「官位にとらわれない天下人をめざしていた」、「天皇をも乗り越えようとか」、「中国の明を征服して中華皇帝となろうと考えていた」、「あるいは神となる」など、さまざまな憶測がある。⇒信長は天皇家を無視していない。全国統一は目前であった。その信長にとって関心事は、「天下」を一代で終わらせず、子孫に安定i的に継承していくことである。(当時は、人生50年の時代。すでに信長は49歳。)

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「三職推任」
「天正十年夏記」(権大納言勧修寺晴豊『晴豊記』断簡)
(意訳)「天正10年(1582)4月25日。武家伝奏の勧修寺晴豊は、京都所司代・村井貞勝を訪ね、【信長を太政大臣か関白か将軍のどれかに推任すること】の問題について話し合った。…公家の勧修寺晴豊が勅使として5月4日安土へ。信長は会おうとせず、森蘭丸を通じて用件を尋ねてきた。晴豊は、〈関東討ち果たされ珍重に候間、将軍になさるべきよし〉とし、将軍が嫌なら、関白でも太政大臣でも構わないと申し入れた。〉信長は、返答せずに晴豊を帰らせたため、その意図は永遠の謎となった。」

*三職推任問題−「推任を提案したのは、誰だったのか」
従来は、推任は朝廷の意向だったと考えられてきた。
山田邦和先生説
「太政大臣や将軍ならば、信長が就任するのには何の問題もない。しかし、関白だけは事情が異なっている。関白職は伝統的に藤原氏の摂関家の独占物であり、摂関家以外の者に関白就任を約束するなど軽々しくできない。これは、朝廷側からの提案である可能性は低い。→三職推任を言い出したのは信長側の村井貞勝である。貞勝が信長の意思を確かめて朝廷に提示したものである。三職推任は信長の意思であった。…信長は、朝廷からの提示が関白でなく将軍であったことに失望し、それが明確な受諾の返事をしないという結果につながったと思う。」
ルイス・フロイス
キリスト教の宣教師ルイス・フロイスは、秀吉が関白になった時のことを本国に報告する中で、信長は最高位の官職である関白に就任することを望んでいたが、彼の権勢をもってしてもついにはその地位に手が届かなかった、とフロイスは繰り返し述べている。」