「井伊直弼と開国」

・日時:9月19日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学助教)
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**関係年表**
-1850年(嘉永3):井伊直弼彦根藩主
-1853年(嘉永6):(6月)ペリー浦賀に来航
-1854年(安政1):(1月)ペリー再来。(3月)日米和親条約調印
-1858年(安政5):(4月)井伊直弼大老就任。(6月)日米修好通商条約調印。(9月)安政の大獄始まる。(10月)14代将軍に徳川家茂。
-1859年(安政6):(10月)吉田松陰ら刑死。
-1860年(万延1):(3月)桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)

1.彦根藩井伊家と徳川譜代
(1)近世大名の諸類型[*新井白石著『藩翰譜』(はんかんふ)(1702年成立)より]
徳川家との親疎により、「親藩」、「譜代」、「外様」に分類。
①親藩…徳川家の血を引く大名。「御三家」・「連枝」・「越前家」、「保科家」など。
②譜代…関ヶ原戦い以前に徳川家に臣従した.大名。「松平郷」、「安祥」、「岡崎」、「井伊」など。
③外様…新しく徳川家に臣従した大名。「島津」、「毛利」、「伊達」.など。
(2)井伊家の由緒
平安時代から井伊谷を本拠とする国人領主の井伊家。→戦国時代。今川家の配下において活動→23代直親が今川氏直への謀反の嫌疑→領地没収、その子直政は逃亡。1575年(天正3)徳川の近習として仕官。⇒直政は、次々と武功をあげ、徳川四天王の道。上野箕輪12万石を与えられる。→.関が原の戦いの戦功→近江佐和山城18万石。…直孝、大坂の陣での活躍。35万石の大大名へ。.

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2.井伊直弼(いいなおすけ)(*右の資料を参照)
・1815年(文化12)〜1860年(万延1)。直中(なおなか)の14男。(序列からいっても当主になることは不可能であった。)
部屋住み時代(17歳〜32歳)
彦根「尾末町屋敷」(おずえちょうやしき)に住む。部屋住みとして、役職もつかず、300俵の扶持(生活費)をもらい暮らしていた。この頃の直弼のあだ名を「チャカポン」という(「茶」と「歌」と「鼓(ポンは擬音)にうつつを.抜かしている.男という意味。)
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」(「埋木舎の記」)
(意訳)(この世を厭うにあらず。一生をうもれ木で朽ち果てることを覚悟したが、失意のなかでも、なすべき業があった)
…儒学、国学、禅、洋学、武術、茶の湯、能、狂言など文武・芸道に出精。
・32歳で、兄直亮(なおあき)の養子となる。…1850年(嘉永3)、直亮が急死し、直弼が15代彦根藩主。
◆直弼の藩主時代[1850年〜1860年]の10年間
・大老は、1858年(安政5)5月に就任。
・参勤交代で江戸にいたので、彦根在城は、約3年間。この短い間に、領内を9回も巡見している。直弼は、民の住むところはあまねく巡見して、領民の声を聞いた。

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3.大老井伊直弼の「米国との通商条約の締結」
直弼が大老に就任した頃の政情は、内政では13代将軍家定の継嗣問題があり、外交では米国からつきつけられた条約に調印すべきか否かで紛糾していた。
・老中阿部正弘の時代(1854年)には、幕府が開国したからには条約調印も「やむをえず」と思っていた。ハリスは調印を早く早くと迫る。一方、朝廷の許可(勅許)を願ったが、得られない。
・老中松平忠固(ただたか)との対立。→直弼に条約調印を迫った。
◆直弼は「天朝へ御伺い済みに相成らざるはうちは、いかほどご迷惑に相成り候とも、仮条約調印は相成り難く」(勅許なしでは調印を避けたい)と主張。(直弼は埋木舎時代から国学を学び、尊王論者)…しかし、多数意見は、調印を迫る。
・結果として、「勅許なしの条約を結んだ」という禍根を残し、大老は責められる。→日米修好通商条約の調印[1858年(安政5)6月]
・側役の宇津木六之丞の記録「公用方秘録」によれば、「大老は、最期まで悩み抜いていた。」⇔明治20年頃(1887年)井伊家から政府に出された「東京大学史料編纂所所蔵の「公用方秘録」では、「大老は、勅許を待たないで調印する罪を責められても、一身で甘受する覚悟で調印決断した」と内容が書き改められていた。

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〇末路としての桜田門外の変(*右の資料を参照)
直弼は、大老に就任するとすぐ勅許を待たず1858年6月に日米修好通商条約に調印、同時に継嗣も慶福(のちの家茂)と定める。これに憤った水戸斉昭らは、強行登城して争ったが、それに対しては処罰した。それにより反対派の運動も活発になり、その弾圧にのり出し、「安政の大獄」を強行した。…末路として、1860年(万延元)、井伊直弼は江戸城へ登城の途中、桜田門の近くで水戸藩士たちに襲撃されて暗殺された(桜田門外の変)。
・『維新史』…(要約)「幕府の勅許なしの調印を非難し、井伊大老は自己の権威を振るうため、数々の罪状をあげて攻撃し、天誅に代わって、これを斬戮した。」
・井伊大老を倒した桜田門外の変は、尊王攘夷派によって画策されたもので。彼らには倒幕の意識はなかったが、こののち時局の切迫とともに、尊王攘夷は尊王倒幕への運動に展開し、王政復古を実現した。