「古墳からみた蘇我氏−明日香村小山田古墳を中心に−」

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・日時:11月7日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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奈良・飛鳥の小山田古墳
小山田古墳は、2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、橿原考古学研究所が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割が出土。今年3月、新しい発表で、一辺の長さが約70mの方墳で、当時最大級の墓であることがわかった。…これは非常に大きな発見で、蘇我馬子の墓として知られる石舞台古墳よりも大きい石室を持つ巨大な方墳であることがわかった。
小山田古墳の被葬者は?
被葬者像をめぐり、研究者の間では、舒明天皇(641年没)の初葬墓とする説と、乙巳の変(645年)で滅ぼされた大豪族・蘇我蝦夷の墓とする二つの説に分かれて、議論が続いている。

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舒明天皇の墓なのか?
この時期としては最大級の大きさから、舒明天皇の初葬墓であると主張する方もいる。小山田古墳は榛原石とよばれる板石を積み上げて墳丘を化粧していた。この形状は現在舒明天皇陵と考えられている段ノ塚古墳に用いられている板石と似ているので、小山田古墳と同じ被葬者であると考える。
●【舒明天皇の初葬墓とするには、無理がある】
・飛鳥時代に大王や有力な豪族の古墳を造営したのは、土師氏と呼ばれる墳墓の造営集団であった。同じ集団が作った古墳なので、同じ技法や同じ石材を使うことは十分に考えられる。
・舒明天皇陵(段ノ塚古墳)は、日本で最初に作られた八角墳で、小山田古墳と大きな違いがある。
・小山田古墳は、7世紀後半のわずかな期間内に埋められた可能性が強い。(改葬をしたあと時間を置かずに、天皇の墓の石室を壊して濠を埋めるほどの徹底的な破壊を行なうのは、当時の常識からありえない。)

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蘇我蝦夷の墓と考える
『日本書紀』の記述を読む
《あらかじめ双墓を今来に造る。一つをば大陵と日ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と日ふ。入鹿臣の墓とすう。》
・大陵(おおみささぎ)は蘇我蝦夷の墓で、小陵(こみささぎ)は蘇我入鹿の墓で、死んでから周りが困らないように生前のうちに墓を造っていたと「書紀」にある。→白石先生は、小山田古墳が「蘇我蝦夷の墓」と考えられる。入鹿は年若く、蝦夷と違って墓を造る年齢ではなかった。
天皇よりも大きい墓
当時造営された天皇の墓は、最大級でも一辺が60mほどのものがほとんど。豪族の墓は、同時期の天皇の墓よりも大きくならないようにしている。…蝦夷が造らせた小山田古墳ではその配慮がなくなり、自らの本拠地である飛鳥に、天皇の墓よりも一回り大きい墓を造ってしまった。
・それゆえに、蘇我氏の専横は極まれりと、中大兄皇子らによって討たれることになった。だからこそ、完成したばかりの小山田古墳は石室も失われるほど激しい破壊にあったと思われる。破壊痕こそは、現時点では、小山田古墳が蘇我蝦夷の墓であったことのなによりの証拠なのかもしれない。