芭蕉『奥の細道』の旅空間(十二)…(終章)


・日時:12月14日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:辻村尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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**「おくのほそ道」***
芭蕉が門人の曾良を伴って、みちのくの旅に出たのは、元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)のこと。その時、芭蕉46歳、曾良41歳。現在の東京、深川から出発し、東北・北陸を巡り、8月20日(10月3日)前後に、終着地である大垣に着く。その間、約150日、全行程約600里(約2400km)。

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○第十二回…山中温泉から「「全昌寺」、「汐越の松」、「天龍寺・永平寺」、「福井」、「敦賀」、「色の浜」、「大垣」。
(一)「全昌寺」、「汐越の松」、「天龍寺・永平寺」、「福井」
(概説)全昌寺(加賀市大聖寺)に泊まる。曾良も前の晩井に泊まって、一句を残していた。…加賀と越前の境にある吉崎の入江を舟で渡り、汐越の松を見に行った。その昔、西行は「よもすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」と歌を詠んでいる。…松岡(福井県)の天龍寺に、古いゆかりのある住職を訪ねた。ここで、金沢からついてきていた北枝(ほくし)と別れて、永平寺に参詣。…福井は永平寺から三里ばかりなので、夕飯をすまして出かけたところ、夕暮れ時の道なので、はかどらない。この福井には等裁(とうさい)という隠者がおり、いつの年だか江戸に来て、私を訪ねたことがある。
(二)「敦賀」、「色の浜」
等裁とともに敦賀についたのが8月14日夕暮れで、その夜、気比明神に参詣した。月の美しい夜だった。…16日、晴れたので、西行が詠んだ「ますほの貝」を拾おうと、色の浜へと舟を出した。
◆「名月や北国日和定めなき」(芭蕉)(季語:名月(秋八月))
(意訳)(今晩こそ、中秋の名月であると楽しみにしていたのに、昨夜とうって変わって雨降りである。なるほど、.北国の天気というものは、変わりやすいものだな)

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(三)「大垣」…終章
(概説)「おくのほそ道」全編のおわりを飾る一章である。馬に乗って大垣の町に入ると、曾良も伊勢からやって来て、越人(越智氏)も馬を飛ばして駆けつけ、如行(じょこう)の家にみんな集まった。前川子や荊口父子を始め、親しい人々が昼も夜も訪ねて来て、まるでよみがえった死人に会うように、私の無事を喜んだり、旅の疲れをねぎらってくれる。…長旅の疲れがまだとれないうちに、9月6日になったので、伊勢神宮を参拝しようと思い立ち、ふたたび舟に乗って新しい旅に出るのであった。
◆「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」(芭蕉)
(意訳)(私は今、親しい人々に別れを告げて、伊勢の二見が浦へと出発することになった。蛤の蓋と身が別れるように、つらい別れである。折から季節は、晩秋で別れの寂しさが、ひとしお感じられることだ。)
*(注)末尾に書かれた「蛤の…行秋ぞ」の句は、「旅立ち」の章の「行春や鳥啼き魚の目に涙」という句に呼応している。「行く春」から「行く秋」へと受け継がれていく永遠の旅。
*「おくのほそ道」の旅は、大垣で終わらなかった。芭蕉にとって、旅の終わりは、また、新たな旅の始まりであった。

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**あとがき**
◇『おくのほそ道』
・芭蕉は、元禄4年に江戸に帰着して、その後の2年余りを、『おくのほそ道』に執筆にあてたと考えられる。すでに旅中に成立している句文に、新しく句文を加え、.推敲に推敲を重ね、完成したのは、元禄六年秋頃(諸説あり)。
・旅の目的は、平安時代の歌人西行や能因の歌枕や名所旧跡を辿ることであった。
・同行は曾良(そら)。芭蕉と曾良は、陸奥国・出羽国を巡り、北陸地方に向かうが、山中温泉で曾良は病気になる。ここから越前国松岡までは、金沢の北枝(ほくし)が同行。後は、芭蕉一人旅。
・芭蕉は、感動の高まった場面では、漢文調の強い文体を用いた。
・芭蕉は、句を改作したり、後で入れたりしている。また、日程なども変更していることもある。単なる紀行文ではなく、文学的な作品になっている。
◆「おくのほそ道」の講座
・平成25年(2013)6月に始まり、H29年12月に終了。講師は辻村先生。半年に1回の講義で、5年の歳月を費やしての「おくのほそ道」を詠んだ12回の講座でした。、