松永久秀の下剋上

・日時:3月13日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
松永久秀-戦国時代の下剋上の風潮をもっとも体現した武将(*右の資料を参照)
◆『太閤さまの軍記の内』(「信長公記」太田牛一1610年頃)
(要約)「松本弾正久秀は、低い身分だが、三好長慶がとりたて、いろいろ任されていた…以下省略」。
◆『常山紀談』(江戸中期、岡山藩の儒者・湯浅常山(じょうざん)が記した逸話集)
・(要約)「徳川家康が織田信長に対面したとき、信長は傍らにいた松永久秀について、将軍の足利義輝(よしてる)を殺し、主君の三好長慶の嫡子義興(よしおき)を殺害し、東大寺大仏殿を焼いたと紹介したという」…久秀は、三好長慶と織田信長という二人の畿内の支配者に仕え、戦国時代の下剋上の風潮を代表する人物であり、”梟雄”のイメージが形成。
・(注)「梟雄」(きょうゆう」…残忍でたけだけしい人。久秀は戦国の下剋上の梟雄と評された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.松永久秀の活躍
三好長慶に仕官
・三好長慶は、将軍足利義輝を追放し、戦国時代で初めて足利一族を擁立することなく首都京都を支配する。
・松永久秀は、長慶への取次、外交交渉に才能を発揮。→久秀は、低い身分から出発し、一代にして主家の三好家や足利将軍家と同等に近い待遇を受けた。
足利義昭、織田信長の同盟者
・永禄8年(1565)、将軍足利義輝は、三好義継、松永久通(久秀の嫡男)らに殺害。
・永禄11年(1568)、織田信長上洛。久秀は畿内における義昭や信長の同盟者。信長は、久秀に敵対する筒井順慶らの服属を拒否し、追討軍を大和へ派遣。
・久秀は、足利義昭や織田信長と同盟し、その上洛を2年も支援。それにもかかわらず、義昭は久秀の敵である筒井順慶を許容し、久秀を排除した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.信貴山城の戦い
・天正5年(1577)10月、信長の総攻撃を受けた久秀は切腹し、信貴山城を自ら焼いて果てた。
=========================================================
**あとがき**
○松永久秀の逸話として有名な「三悪」…久秀は、三好義興も足利義輝を殺しておらず、大仏焼失も敵陣の攻撃以上の意味を持たない。
○久秀は“梟雄”か。…実像と伝説がかなり違っていた。『常山紀談』の逸話は、江戸時代の創作であって事実ではない。久秀の悪人説は、すべて冤罪(えんざい)で、久秀は有能な政治家。→家格秩序を無視した異例の出世をした松永久秀は、社会が安定すると、主君と同格の逸話は問題。(”梟雄”、”謀反人”の評の背景)
○久秀にとって下剋上とは、江戸時代に創作されたような、傲慢な振舞いをしたり、上位者を殺害したりする単純な話ではない。それまでの社会秩序や世界観をしたたかに変えていこうとする運動であったと言えよう。

*(注)参考資料
『松永久秀』−歪められた戦国の“梟雄”の実像:天野忠幸(編集)(宮帯出版社、2017年7月)