西郷隆盛−流転の生涯と人物像−


・日時:3月20日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学教授)
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「西郷隆盛とは」 (略歴)
**右の写真は、西郷隆盛の肖像画(Wikipediaより)。
2018(平成30)年、NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公に取り上げられる。
・1827(文政10)年生まれ。〜1877(明治10)年没。享年49歳。
・薩摩藩の貧しい下級士族の家に生まれる。通称:吉之助、南洲を号した。
・1854(安政元)年、27歳で藩主島津斉彬に登用され、江戸で側近として活躍。
・1858(安政5)年、「安政の大獄」に連座して、京都清水寺の僧月照と心中を図るが、西郷だけが奇跡的に助かり、奄美大島に配流となる。
・1862(文久2)年に許されるも、島津久光の怒りを買い、徳之島・沖永良部島に再配流。
・1864(元治元)年、許され、京都に出て、政局・軍事面で活躍する。
・1867(慶応3)年、武力倒幕を志向して、岩倉具視らと謀略をめぐらし、12月「王政復古クーデター」を成功させる。戊辰戦争では、江戸無血開城に尽力。
・1871(明治4)年、新政府に出仕して参議となり、廃藩置県断行に関与。岩倉使節団の外遊中の留守政府の筆頭参議となる。
・1873(明治6)年の征韓論争で下野後、鹿児島で私学校を設立。
・1877(明治10)年、西南戦争で蜂起、自決する。西南戦争が終結。

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幕末動乱の西郷と軍事
(1)1854(安政元)年、藩主島津斉彬による抜擢人事
斉彬(なりあきら)に抜擢され、江戸で側近として政局に関わり活躍。将軍継嗣問題では一橋派を推す。水戸藩の藤田東湖らと交流。
・1858年、通商条約調印、紀州の慶福(家茂)が将軍職を継ぎ、井伊直弼の大弾圧「安政の大獄」があり、かつ斉彬が病死した。
(2)2度の配流(省略)
(3)中央政局への復帰と政治観の転換
島に流された時、薩英戦争(1863年)が勃発。情況に一喜一憂する西郷。許され薩摩に帰る(1864年)。⇒その後は、大久保利通とともに薩摩藩のリーダーとして倒幕に向いて活躍する。
◆1864(元治元)年、3月京都にでて、薩摩藩「軍賦役」となり、禁門の変・第一次長州征伐には幕府側の有力な謀将(はかりごとにすぐれた武将)として活躍。
・西郷の政治家としての成長(勝海舟との出会い)…元治元年9月、西郷は勝海舟と会談。勝海舟は、新しい政治の形(共和政治)を語る。→西郷の頑迷な攘夷主義からの脱却。
◆江戸城の無血開城
・政局は、薩長同盟→大政奉還→王政復古のクーデター→鳥羽・伏見に始まる倒幕内乱。西郷は、東征軍の大総督参謀となって東下、戊辰戦争では、江戸城の無血開城に尽力。
◆1868(慶応4/明治元)年…260年余り続いた徳川幕府の時代が終わりをつげ、1868年明治新政府がスタートする。倒幕の中心となった薩摩や長州の青年藩士たちが新政府の中心となった。彼らは西洋にならって天皇を中心にすえた中央集権の近代国家の建設をめざす。

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明治新政府の指導者西郷
(1)藩政改革と廃藩クーデター
・急激な改革…新政府は、藩主の版籍奉還(1869年)を推進し、廃藩置県(1871年)を断行することによって封建制を廃絶した。そして四民平等を宣言した。
・薩摩藩…藩政と家政の分離、一門・重臣の特権解除、常備隊の設置
・西郷に正三位の位階が授けられる。(西郷が藩主忠義よりも上位となってしまう。)⇒位階返上
(2)征韓論政変
・1873(明治6)年、新政府では当時の李氏朝鮮に対して武力を持って開国させようという「征韓論」が巻き起こっていた。西郷は、朝鮮を開国させる使者として、朝鮮行きが決まりかけたところ、岩倉使節団として欧米から帰国した大久保利通らが反対し、使者派遣が中止。西郷は、すべての役職を辞し、下野する。
(3)士族の反乱
・1876(明治9)年、萩の乱、熊本の乱など。(廃刀令や秩禄処分によって特権を奪われた士族たちの不平不満が噴出)
(4)西南戦争
・1877(明治10)年、西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に反対して兵をあげる。約8か月にわたって、九州各地で激しい戦闘が展開された。結局、政府軍の勝利に終わった。(この結果、不平士族の反乱は終わりを告げる。)
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**あとがき**
・西郷は、遠島に送られようとも藩士達の精神的支柱として、崩れることはなかった。
・西郷は、郡方書役助(こおりかた かきやく たすけ)という一介の小役人に過ぎなかった。鳥羽伏見の戦いに勝利し、江戸開城まで持ち込んだのは西郷の舞台。
・西郷隆盛の肖像画は、お雇い外国人のキヨソネが描いた肖像画を参考にしている。しかし、キヨソネも生前の西郷とは面識がなく、西郷の弟・西郷従道(つぐみち)と従兄弟の大山巌の顔を下敷きにして創作したという。
・上野に建立された西郷の銅像…西南戦争の「国賊」が復権し、1898(明治31)年に西郷の銅像が上野恩賜公園に建てられた。銅像の作者は高村光雲。
・西郷の人気は圧倒的(鹿児島)…大久保は「西郷ドン」の敵。地元にようやく大久保利通の銅像が建てられたのは、西南の役から100年を経た1978(昭和54)年のこと。
◇「敬天愛人」西郷隆盛(*右上の西郷直筆の書)
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」