造東大寺司と写経所


・日時:4月3日(火)am10時〜11時50分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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大仏造営の詔−『続日本紀』天平15年(743)10月15日
「聖武天皇は、「華厳経」の教理に基づき、動物・植物までも含む、共栄の世界を具現するため、国家権力と国民の助援により、盧舎那大仏の鋳造を発願し、光明皇后もこれを進めたと伝える。」
・大仏は、当初、近江紫香楽宮に造る予定であった。→行基は弟子を率いて諸国に勧進を進めた。
・天平17年(745)、恭仁京から平城京へ遷都。大仏の造営は、金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り、造東大寺司により工事が進められた。
*「造東大寺司」(ぞうとうだいじし):東大寺の造営のため、国家の組織として誕生するのが「造東大寺司」である。工事が終われば廃止されるべきものが、天平宝字4年(760)の石山寺などの造営も担当。

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実際はどうだったのか。−「大仏を造った人々」、「大仏の原材料の調達」
◆『東大寺要録』造寺材木知識記…東大寺建立にあたり、寄付された材木・金銭などの総数及び財物を寄進した人の名前が記されている。
「材木知識−材木を自発的に協力した人。51,591人。
「役夫」−大仏殿の建立に従事した労働者。1,665,071人
「金知識人」−大仏鋳造に協力した人。372,075人
「役夫」−大仏鋳造に従事した労働者。514,902人

*知識人(同信集団、信仰を同じくする仲間。ボランティア)…信仰により、自発的に奉仕した人が多かったことは、上記の「造寺材木知識」で判明する。
*材木=建築、金=大仏鋳造(銅、金など)…大仏鋳造に用いた銅は、長門国(現在の山口県西部)で生産された。
・この大事業は、朝廷の力だけでなく、全国の金と労働力を集結して造る必要があった。行基の活躍で日本全国から、大量の材木や金・銅など資材や人手が集まり、大仏の造営にかかわった人数は、約260万人。

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写経所
造東大寺司の下部機関として、東大寺写経所が設置された。事業としては、光明皇后発願の「五月一日経」の写経、一切経の写経、個別の目的の写経(間写経(かんしゃきょう))。
◆写経生の生活…正史には現れない下級官人の生(なま)の息づかいの歴史が、注目されている。
・基本は各役所からの出向。給料は書き写した文字数に応じた出来高払いで、「布施」とよばれる給料を支給される。仕事場の環境は悪く、病気になる人も多かったようで、病気のために休暇願いの文書が残されている。
・正倉院文書の東大寺写経所の帳簿類(破棄されないで残っていた)
-「写経生の実態−休暇の請求、写経生の病気など」
-「帳簿の裏文書」
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**あとがき**
大仏の開眼供養(『続日本紀』天平勝宝四年(752)四月九日)
「聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、文武百官に僧一万人参列し、音楽や歌舞があり、《これほど盛大な斎会(さいえ)は仏法東漸以来かつてなかった》と絶賛している。」
◇写経所では、さまざまな種類の帳簿を作成して管理していた。こうした帳簿用に大量の紙が必要になる。といっても「さら」の紙を利用することはあまりなく、不要になった反古紙(ほごし)が、大量に写経所にもたらされる。裏面を利用。現在、正倉院文書に残されている奈良時代の戸籍・計帳・正税帳などは、実はこうして反古にされたこそ現在に伝わったので、残そうとして残されたわけではない。現場の下級官人こそ、律令国家の支配の実態などを伝えてくれたのである。
*参考文献:「日本の歴史04ー平城京」(渡辺晃宏著、講談社)