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シニア文化塾だより
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2018/04/16のBlog
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日時:4月12日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・平家滅亡(1185年)から40~50年後の1230年頃に成立。全12巻、平家の栄華と没落を描いた戦記物語。作者不詳。琵琶法師による語りものとして流布。
・四重田先生の講義『平家物語を読む』は、2011年に始まって、今回で16回目の講義。
・平家物語は、平家一門の滅びに焦点を合わせ、敗者の悲運を主題にしている。戦いに敗れて滅んでゆく人々の悲劇的な運命が数多く描き出されている。→しかし、今回の「敦盛最期」の直実の物語では、敗者のあわれではなく、勝者のむなしさ、いわば、勝者のあわれが語られている。
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講義の内容
○『平家物語』巻第九-十六
敦盛最期(あつもりさいご)
「平家が一の谷の合戦に負けたので、源氏の熊谷直実(くまがいなおざね)は、敵の大将と取り組みたい思って、磯の方へ馬を進めていると、美しく立派に着飾った一騎の武者が、沖の船に目をかけて、海に馬を乗り入れ、5~60mほど泳がせていた。それを見て、熊谷は、〈貴殿は立派な将軍と拝見します。敵に後ろを見せるとは卑怯。戻られよ〉と、扇を上げて招くと、武者は引き返してきた。波打ち際で、馬を並べてぐっと組んでどさっと落ち、取り押さえ首を切ろう兜を押し上げてみると、十六、七歳ぐらいの武将で、薄化粧してお歯黒をつけている。わが子の小次郎の年齢ぐらいであった。…熊谷は名乗ったが、若武者は名乗り返さずに《お前にとっては、私は良い敵だ。名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねよ。誰でも私を見知っているだろうよ》。…熊谷は、見逃そうとも思ったが、後方を見ると、味方の土肥・梶原の軍勢が50騎ほどでやってくるのが見える。熊谷は、〈お助けしようと思ったが、味方の武士が大勢こっちへ寄せてきた。他の者の手におかけするよりも、この直実の手でお討ちして、死後のご供養をいたそう〉。というと、《ただ、さっさと首を取れ》と言われた。…泣く泣く、若武者の首を斬ってしまった。やがて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。〈ああ、今日の明け方、敵陣の中で笛を吹いておられたのは、この人々であったのか。味方の東国勢は何万もの兵士がいるが、戦いに笛を持ってくるような人はいない。身分の高い人はやはり優雅なものだ〉と思って、源義経に見せたところ、涙を流さない者はいなかった。…後に聞くと、この若武者は、平経盛(つねもり)の息子で、当年17歳の敦盛であった。」
・「敦盛最期」の物語は、敦盛という名前は伏せられ、最後になってこの若武者が敦盛という名前であることが明かされる筋立てになっている。
・熊谷直実:武蔵国(現・埼玉県熊谷市)熊谷郷の小領主。敦盛の物語は、直実が語りつないだから、後世に残った。また、直実は、若武者の首を斬るという非常な行為の中でわが身の疑念を抱き、人の世の無常へと思いを深め、出家している。

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○『平家物語』巻九-十七
知章最期(ともあきらさいご)
「平知盛は、息子の知章と侍の監物頼方と、たった主従三騎になって、助け舟に乗ろうと波打際の方へ逃げる。そこに、源氏の武士が十騎ほど、大声を上げて追いかけてきた。…その中で大将と思われる者が、知盛と組もうと馬を並べてたが、息子の知章が間に割ってはいって、馬を並べてむんずと組んで、どうっと馬から落ち、取り押さえて首を斬り、立ち上がろうとしたところ、敵の童(少年)が追いかけて来て、知章の首を討つ。監物も、知章の仇は取ったが、左の膝を射られて、討ち死にした。…知盛は、強力な名馬に乗って、海上を約2km、馬を泳がせて、兄・宗盛の船に追いついた。…(中略)。知盛は、《子が親を助けようと敵と勝負しているのを見ながら、子が討たれるのを助けないで、このように逃げ回っているのでしょうか。どんな親だと、他人の事でしたら、どれほど非難したに違いありません。自分のことになると、命は惜しいものだと、思い知らされます。他人に何を思われるか考えるだけでも、恥ずかしい。》
・父知盛の身代わりとなって死んだ知章は16歳。「知章最期」の段は、子を見捨てた父知盛の心情が、主として描かれている。
2018/04/12のBlog
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・日時:4月10日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:平林章仁先生(元龍谷大学教授)
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○「三輪山
奈良県桜井市にある秀麗な円錐形の三輪山(標高467m余)は、古来、大物主神が籠る神体山で、御諸山、三諸山ともいわれ、神体山として有名である。
・この神を祭る大神(おおみわ)神社(三輪明神)には、拝殿はあるが本殿はない。
・三輪山東麓には初期大和王権の王宮跡と伝えられる纏向遺跡が広がり、その一郭には最古の大型前方後円墳である箸墓古墳(全長280m)がある。
○『古事記』『日本書紀』には、三輪山の大物主神と巫女的な女性と交わる、三つの神秘的な神婚神話が伝えられている。これら大物主神に関わる神話・伝承には、ヤマト王権成立の重要な鍵が秘められている。
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「麻糸で結ばれた神と女の物語」
(1) 『古事記』崇神天皇段の苧環型新婚譚 (*右の資料を参照)
(概説)「この崇神天皇の御世に、疫病がはやって、人民が絶えてしまいそうになった。大物主神が夢に現れて《この疫病は私が引き起こしたものです。だから、意富多多泥古命(オホタタネコのミコト)によって、私を祭ってくださるならば、祟りは消え、国も安らかになりましょう》。そこで、早馬を四方に派遣して、オホタタネコという人を探し求めたところ、河内の美努村でその人を見つけることができて、天皇に進上した。オホタタネコを神主として、御諸山に大物主神をお祭りになった。…陶津耳命(スエツミミノみこと)の娘の活玉依姫(イクタマヨリヒメ)は容姿が端麗であった。ヒメのもとには夜な夜な通う男がおり、まもなくヒメは身ごもった。そこで両親は、男の正体をつきとめるために、糸巻に巻いた麻糸を針を通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝、糸は戸の鉤穴(かぎあな)から抜け出ており、糸巻には三巻きだけ残っていた。そこで糸をたよりに訪ねていくと、美和(みわ)山の神の社にたどり着いた。そこで、娘の腹の子(オホタタネコ)は、この社の大物主神の子と知れたというわけである。その麻糸が三巻分だけ遺ったということによって、その地を名付けて三輪(みわ)というのである。」
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(2)『肥前国風土記』松浦郡条(奈良時代初期の官撰の地誌)
(概説)「この風土記にも、神様と女が結ばれる話が記されている。夜毎に女のもとを訪れては暁早々に帰っていく。怪しく思った女は、麻糸を男の衣にかけて、男の行き先を尋ねていくと、峯のほとりの沼の蛇(沼の神)に到った。」
・夜毎に女性のもとを訪れる男の正体が、彼の衣の裾に縫いつけた麻糸を辿ることによって蛇身の神であることが明らかになったという物語の展開は、崇神紀の苧環型三輪山神婚譚と同じである。
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**あとがき**
・古代の神話伝承が歴史的事実を述べたものではないが、机上で創作された全く虚構の物語かといえば、そうでもない。背景に当時の人々の神々への信仰やそれとむすびついた祭祀・儀礼という歴史的現実が存在した。
・蛇神信仰…脱皮(長生)・冬眠(再生)・毒(力)
・麻糸で結ばれる神と巫女…機織(はたおり)集団や機織文化が神話の背景に存在。雄略期に中国南朝から渡来したという機織集団との関係が想定される。
・河内の陶邑…ヤマト王権直属の須恵器生産工房。イクタマヨリヒメが5世紀初頭頃こ、朝鮮半島南部から伝えられた須恵器の最古・最大の生産遺跡が分布する「茅渟県陶邑」(大阪府堺市)の首長を意味する陶津耳命の女と伝えられること。
**参考文献:『三輪山の古代史』平林章仁著(白水社、2000年)
2018/04/06のBlog
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・日時:4月3日(火)am10時~11時50分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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大仏造営の詔-『続日本紀』天平15年(743)10月15日
「聖武天皇は、「華厳経」の教理に基づき、動物・植物までも含む、共栄の世界を具現するため、国家権力と国民の助援により、盧舎那大仏の鋳造を発願し、光明皇后もこれを進めたと伝える。」
・大仏は、当初、近江紫香楽宮に造る予定であった。→行基は弟子を率いて諸国に勧進を進めた。
・天平17年(745)、恭仁京から平城京へ遷都。大仏の造営は、金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り、造東大寺司により工事が進められた。
*「造東大寺司」(ぞうとうだいじし):東大寺の造営のため、国家の組織として誕生するのが「造東大寺司」である。工事が終われば廃止されるべきものが、天平宝字4年(760)の石山寺などの造営も担当。
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実際はどうだったのか。-「大仏を造った人々」、「大仏の原材料の調達」
◆『東大寺要録』造寺材木知識記…東大寺建立にあたり、寄付された材木・金銭などの総数及び財物を寄進した人の名前が記されている。
「材木知識-材木を自発的に協力した人。51,591人。
「役夫」-大仏殿の建立に従事した労働者。1,665,071人
「金知識人」-大仏鋳造に協力した人。372,075人
「役夫」-大仏鋳造に従事した労働者。514,902人

*知識人(同信集団、信仰を同じくする仲間。ボランティア)…信仰により、自発的に奉仕した人が多かったことは、上記の「造寺材木知識」で判明する。
*材木=建築、金=大仏鋳造(銅、金など)…大仏鋳造に用いた銅は、長門国(現在の山口県西部)で生産された。
・この大事業は、朝廷の力だけでなく、全国の金と労働力を集結して造る必要があった。行基の活躍で日本全国から、大量の材木や金・銅など資材や人手が集まり、大仏の造営にかかわった人数は、約260万人。
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写経所
造東大寺司の下部機関として、東大寺写経所が設置された。事業としては、光明皇后発願の「五月一日経」の写経、一切経の写経、個別の目的の写経(間写経(かんしゃきょう))。
◆写経生の生活…正史には現れない下級官人の生(なま)の息づかいの歴史が、注目されている。
・基本は各役所からの出向。給料は書き写した文字数に応じた出来高払いで、「布施」とよばれる給料を支給される。仕事場の環境は悪く、病気になる人も多かったようで、病気のために休暇願いの文書が残されている。
・正倉院文書の東大寺写経所の帳簿類(破棄されないで残っていた)
-「写経生の実態-休暇の請求、写経生の病気など」
-「帳簿の裏文書」
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**あとがき**
大仏の開眼供養(『続日本紀』天平勝宝四年(752)四月九日)
「聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、文武百官に僧一万人参列し、音楽や歌舞があり、《これほど盛大な斎会(さいえ)は仏法東漸以来かつてなかった》と絶賛している。」
◇写経所では、さまざまな種類の帳簿を作成して管理していた。こうした帳簿用に大量の紙が必要になる。といっても「さら」の紙を利用することはあまりなく、不要になった反古紙(ほごし)が、大量に写経所にもたらされる。裏面を利用。現在、正倉院文書に残されている奈良時代の戸籍・計帳・正税帳などは、実はこうして反古にされたこそ現在に伝わったので、残そうとして残されたわけではない。現場の下級官人こそ、律令国家の支配の実態などを伝えてくれたのである。
*参考文献:「日本の歴史04ー平城京」(渡辺晃宏著、講談社)
2018/04/02のBlog
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・日時:3月29日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
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*国宝『源氏物語絵巻』を読み解く講義は、今回で第11回です。
①蓬生巻、②関谷巻、③柏木(一)、④柏木(二)、⑤柏木(三)、⑥横笛巻、⑦鈴虫(一)、⑧鈴虫(二)、⑨夕霧巻、⑩御法巻、⑪竹河(一)
・講義では、「源氏物語」を読み、『源氏物語絵巻』の現存するものと、復元したものを見比べて鑑賞します。
*源氏物語は、三部構成(54帖)
-第一部:桐壺~藤裏葉(33帖)
-第二部:若菜上~幻(8帖)
-第三部:匂宮~夢浮橋(13帖)…竹河は第三部で、第44帖。
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講義の内容
◆第44帖-「竹河」(一)(光源氏はすでにこの世にはなく、運命の子薫は14,5歳)
これは、髭黒の一家の話である
髭黒(ひげくろ)の大臣が亡くなった後、妻の玉鬘(たまかずら)は、三男二女の子を育て上げた。経済的には裕福だったが、娘の結婚問題に悩んでいた。
大君、帝・冷泉院・蔵人少将らに求婚される
長女の大君(おおいきみ)は、その美貌から、帝(みかど)と冷泉院(れいぜいいん)から求婚が寄せられ、とりわけ蔵人の少将(夕霧と雲居雁の息子)は熱心。
薫、玉鬘より源氏の形見として親しまれる
光源氏の晩年の子である薫は14,5歳であったが、玉鬘は、行く末の頼もしいお方と見て、わが家の婿にと望んでいた。
薫、夕刻に玉鬘邸を訪問し、優雅に振舞う
夕方になって、薫は、玉鬘邸を訪ねる。みずみずしく美しい薫の姿に、侍女たちは「大君にはこの方をこそ」など、聞き苦しいことをいう。薫は、御念誦堂においでになって、階段から上がって、戸口の御簾の前に座る。庭の若木の梅に、鶯が鳴き、いかにも色めいた様子に、侍女たちが薫に歌を詠みかける。
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○国宝『源氏物語絵巻』~竹河(一)~
右の絵巻は、「竹河(一)」を復元模写したものです。
・場所は、玉鬘邸の御念誦堂。正月の夕暮れ。梅の若木に鶯のさえずる中庭の情景である。妻戸を前方にいっぱい開いた階に座る薫は、冠直衣姿(かんむりのうし)。御簾を透かして薫をうかがう侍女たち。さらに奥に三人の女房(どれが玉鬘か判然としない)。
・中央に主人公の薫を据え、奥に室内、中間に侍女。そして、梅の木と鶯が描かれている。
・奥の三人の赤い服装と梅の赤い花→鉱物ではなく、植物の有機染料を使ってやわらかい赤色を使っている。
2018/03/31のBlog
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・日時:3月30日(金)10時~14時半
・【コース】:JR桜ノ宮駅(10時集合)-桜宮神社-青湾の碑-都島神社-母恩寺-毛馬桜宮公園-毛馬閘門-与謝蕪村句碑-眼鏡橋-毛馬橋-大川右岸毛馬公園-鶴満寺-国分寺-地下鉄天神橋六丁目駅(14時半解散) (約6km)
・参加者:23名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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○「桜之宮公園」(*右上の写真)
桜之宮は、その名の通り、江戸時代から桜の名所として知られていた。桜之宮公園は、大川(旧淀川)の毛馬洗い堰から下流の都島橋、源八橋、桜宮橋、天満橋に至る河岸公園。
・今日は、さくらの見ごろの絶好な日。大川をまたいで、桜色に染まっていました。
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○「毛馬閘門」(けまこうもん)(大阪市北区長柄)
明治18年の淀川大洪水で上町台地を除く大阪市の大部分が浸水したのを考慮し閘門を設置し、淀川の水を直接海へ流す大放水路(現・新淀川)を開削し市内に入る大川の水量を調節した。昭和46年着工、58年完成し流量調節が可能となった。
*閘門(こうもん)…運河・放水路などにおいて水面を一定にするための水量調節用の堰。
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○「与謝蕪村生誕地碑・句碑」
蕪村は、1716(享保元)年摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)に生まれる。淀川の堤防のかたわらに、立派な句碑があり、次の一句が刻まれている。
 「春風や 堤長うして 家遠し」
・蕪村は20歳で毛馬を出て以来、生涯故郷には帰らなかった。
・《蕪村の代表句》
「菜の花や 月は東に 日は西に」
「春の梅 終日(ひねもす)のたり のたりかな」
「さみだれや 大河を前に 家二軒」
2018/03/24のBlog
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・日時:3月20日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学教授)
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「西郷隆盛とは」 (略歴)
**右の写真は、西郷隆盛の肖像画(Wikipediaより)。
2018(平成30)年、NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公に取り上げられる。
・1827(文政10)年生まれ。~1877(明治10)年没。享年49歳。
・薩摩藩の貧しい下級士族の家に生まれる。通称:吉之助、南洲を号した。
・1854(安政元)年、27歳で藩主島津斉彬に登用され、江戸で側近として活躍。
・1858(安政5)年、「安政の大獄」に連座して、京都清水寺の僧月照と心中を図るが、西郷だけが奇跡的に助かり、奄美大島に配流となる。
・1862(文久2)年に許されるも、島津久光の怒りを買い、徳之島・沖永良部島に再配流。
・1864(元治元)年、許され、京都に出て、政局・軍事面で活躍する。
・1867(慶応3)年、武力倒幕を志向して、岩倉具視らと謀略をめぐらし、12月「王政復古クーデター」を成功させる。戊辰戦争では、江戸無血開城に尽力。
・1871(明治4)年、新政府に出仕して参議となり、廃藩置県断行に関与。岩倉使節団の外遊中の留守政府の筆頭参議となる。
・1873(明治6)年の征韓論争で下野後、鹿児島で私学校を設立。
・1877(明治10)年、西南戦争で蜂起、自決する。西南戦争が終結。
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幕末動乱の西郷と軍事
(1)1854(安政元)年、藩主島津斉彬による抜擢人事
斉彬(なりあきら)に抜擢され、江戸で側近として政局に関わり活躍。将軍継嗣問題では一橋派を推す。水戸藩の藤田東湖らと交流。
・1858年、通商条約調印、紀州の慶福(家茂)が将軍職を継ぎ、井伊直弼の大弾圧「安政の大獄」があり、かつ斉彬が病死した。
(2)2度の配流(省略)
(3)中央政局への復帰と政治観の転換
島に流された時、薩英戦争(1863年)が勃発。情況に一喜一憂する西郷。許され薩摩に帰る(1864年)。⇒その後は、大久保利通とともに薩摩藩のリーダーとして倒幕に向いて活躍する。
◆1864(元治元)年、3月京都にでて、薩摩藩「軍賦役」となり、禁門の変・第一次長州征伐には幕府側の有力な謀将(はかりごとにすぐれた武将)として活躍。
・西郷の政治家としての成長(勝海舟との出会い)…元治元年9月、西郷は勝海舟と会談。勝海舟は、新しい政治の形(共和政治)を語る。→西郷の頑迷な攘夷主義からの脱却。
◆江戸城の無血開城
・政局は、薩長同盟→大政奉還→王政復古のクーデター→鳥羽・伏見に始まる倒幕内乱。西郷は、東征軍の大総督参謀となって東下、戊辰戦争では、江戸城の無血開城に尽力。
◆1868(慶応4/明治元)年…260年余り続いた徳川幕府の時代が終わりをつげ、1868年明治新政府がスタートする。倒幕の中心となった薩摩や長州の青年藩士たちが新政府の中心となった。彼らは西洋にならって天皇を中心にすえた中央集権の近代国家の建設をめざす。
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明治新政府の指導者西郷
(1)藩政改革と廃藩クーデター
・急激な改革…新政府は、藩主の版籍奉還(1869年)を推進し、廃藩置県(1871年)を断行することによって封建制を廃絶した。そして四民平等を宣言した。
・薩摩藩…藩政と家政の分離、一門・重臣の特権解除、常備隊の設置
・西郷に正三位の位階が授けられる。(西郷が藩主忠義よりも上位となってしまう。)⇒位階返上
(2)征韓論政変
・1873(明治6)年、新政府では当時の李氏朝鮮に対して武力を持って開国させようという「征韓論」が巻き起こっていた。西郷は、朝鮮を開国させる使者として、朝鮮行きが決まりかけたところ、岩倉使節団として欧米から帰国した大久保利通らが反対し、使者派遣が中止。西郷は、すべての役職を辞し、下野する。
(3)士族の反乱
・1876(明治9)年、萩の乱、熊本の乱など。(廃刀令や秩禄処分によって特権を奪われた士族たちの不平不満が噴出)
(4)西南戦争
・1877(明治10)年、西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に反対して兵をあげる。約8か月にわたって、九州各地で激しい戦闘が展開された。結局、政府軍の勝利に終わった。(この結果、不平士族の反乱は終わりを告げる。)
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**あとがき**
・西郷は、遠島に送られようとも藩士達の精神的支柱として、崩れることはなかった。
・西郷は、郡方書役助(こおりかた かきやく たすけ)という一介の小役人に過ぎなかった。鳥羽伏見の戦いに勝利し、江戸開城まで持ち込んだのは西郷の舞台。
・西郷隆盛の肖像画は、お雇い外国人のキヨソネが描いた肖像画を参考にしている。しかし、キヨソネも生前の西郷とは面識がなく、西郷の弟・西郷従道(つぐみち)と従兄弟の大山巌の顔を下敷きにして創作したという。
・上野に建立された西郷の銅像…西南戦争の「国賊」が復権し、1898(明治31)年に西郷の銅像が上野恩賜公園に建てられた。銅像の作者は高村光雲。
・西郷の人気は圧倒的(鹿児島)…大久保は「西郷ドン」の敵。地元にようやく大久保利通の銅像が建てられたのは、西南の役から100年を経た1978(昭和54)年のこと。
◇「敬天愛人」西郷隆盛(*右上の西郷直筆の書)
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
2018/03/19のBlog
・日時:3月15日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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○前回(①作品概況・芥河)の復習
◆『伊勢物語』概説…平安時代初期の歌物語。全125段からなり、ある男の元服から死に至るまでを、仮名の文と和歌で作った章段を連ねることによって描く。歌人在原業平の和歌を多く採録しており、主人公には、在原業平の面影がある。各章段は、「むかし、男ありけり」と書き出して、その「男」が歌を読むにいたった経緯を語る小編の歌物語。
◆前回(第六段「芥河」)…「むかし、ある男がいた。天皇の後宮に入内する二条の后に恋して、盗み出すことを計画。結局二人の関係は、男が女を連れ出した夜、女が鬼に食われたことにより終わりとなる。」(有名な鬼一口(おにひとくち)と呼ばれる段である。
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○第二回:第七段~第十四段
第七段「かへる浪」
・むかし、ある男がいた。都に住みづらくなって、東国に下って行ったが、伊勢と尾張の国の間の浜辺を行く時、浪が大そう高くたつのを見て、「いとどしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな」と詠んだ。
(歌訳)(過ぎ去った日のことが恋しくてならないのに、帰っていく浪を見ると、帰ることのできない自分はうらやましくてならないのだ…)
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第九段「東下り」(*右上の資料を参照)
・むかし、ある男がいた。その男は、わが身を無用な人間と思って、東国に居場所をさがそうと、友達一人・二人と旅立った。道を知っている人もなくて、迷い歩き、三河の国(愛知県)の八橋(やつはし)という所に着いた。川の流れが蜘蛛の手のように八つに分かれるるので、橋を八つ渡しているところから八橋という。その沢のほとりに座って乾飯(.かれいい=干した携帯用御飯)を食べた。その沢に杜若(かきつばた)が美しく咲いていた。それを見て、ある人が「か・き・つ・ば・た」を折句にして、旅の心を詠んでくれないかというので、男は詠んだ。「 ら衣つつなれにしましあればるばるきぬるびをしぞ思ふ」と詠んだので、そこにいた人はみな、乾飯の上に涙を落とし、そのために乾飯はふやけてしまった。…以下省略。
(歌訳)(から衣は着ていると慣れる、私にはその、慣れ親しんだ妻が京にいるので、はるばるやってきたこの旅が、身に染みて感じられることだ。)
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第十二段「盗人」(ぬすびと)
・むかし、男ありけり。人の娘を盗んで、武蔵野へ伴って行くと、盗人であるので、.国守に捕らえられてしまった、男は女を草むらに置いて、逃げたのである。跡を追ってきた連中が、「この野に盗人が隠れているそうだ」と言って、燻り出すために火をつけようとする。女は嘆いて、「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり」と歌を詠んだのを聞いて、追っ手の人たちは、女をとりもどして、捕らえた男と共に連れて行った。
(歌訳)(武蔵野は、今日は焼かないでください。私の夫(つま)も草の中に隠れています。私も隠れています。
◇第十段「たのむの雁」、第十四段「くたかけ」は省略。
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**あとがき**
・今回は、都を追われてさすらいつつ、なおも行く先々で野趣ゆたかな恋をさぐる男の物語。
・東下りの「から衣・・・」の歌。「かきつばた」という花の名を、和歌の各句の初めに置いて詠む技巧を「折句」(おりく)といって、平安朝時代に遊戯として流行した形式。
2018/03/16のBlog
・日時:3月13日(火)am10時~12時10分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
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松永久秀-戦国時代の下剋上の風潮をもっとも体現した武将(*右の資料を参照)
◆『太閤さまの軍記の内』(「信長公記」太田牛一1610年頃)
(要約)「松本弾正久秀は、低い身分だが、三好長慶がとりたて、いろいろ任されていた…以下省略」。
◆『常山紀談』(江戸中期、岡山藩の儒者・湯浅常山(じょうざん)が記した逸話集)
・(要約)「徳川家康が織田信長に対面したとき、信長は傍らにいた松永久秀について、将軍の足利義輝(よしてる)を殺し、主君の三好長慶の嫡子義興(よしおき)を殺害し、東大寺大仏殿を焼いたと紹介したという」…久秀は、三好長慶と織田信長という二人の畿内の支配者に仕え、戦国時代の下剋上の風潮を代表する人物であり、”梟雄”のイメージが形成。
・(注)「梟雄」(きょうゆう」…残忍でたけだけしい人。久秀は戦国の下剋上の梟雄と評された。
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1.松永久秀の活躍
三好長慶に仕官
・三好長慶は、将軍足利義輝を追放し、戦国時代で初めて足利一族を擁立することなく首都京都を支配する。
・松永久秀は、長慶への取次、外交交渉に才能を発揮。→久秀は、低い身分から出発し、一代にして主家の三好家や足利将軍家と同等に近い待遇を受けた。
足利義昭、織田信長の同盟者
・永禄8年(1565)、将軍足利義輝は、三好義継、松永久通(久秀の嫡男)らに殺害。
・永禄11年(1568)、織田信長上洛。久秀は畿内における義昭や信長の同盟者。信長は、久秀に敵対する筒井順慶らの服属を拒否し、追討軍を大和へ派遣。
・久秀は、足利義昭や織田信長と同盟し、その上洛を2年も支援。それにもかかわらず、義昭は久秀の敵である筒井順慶を許容し、久秀を排除した。
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2.信貴山城の戦い
・天正5年(1577)10月、信長の総攻撃を受けた久秀は切腹し、信貴山城を自ら焼いて果てた。
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**あとがき**
○松永久秀の逸話として有名な「三悪」…久秀は、三好義興も足利義輝を殺しておらず、大仏焼失も敵陣の攻撃以上の意味を持たない。
○久秀は“梟雄”か。…実像と伝説がかなり違っていた。『常山紀談』の逸話は、江戸時代の創作であって事実ではない。久秀の悪人説は、すべて冤罪(えんざい)で、久秀は有能な政治家。→家格秩序を無視した異例の出世をした松永久秀は、社会が安定すると、主君と同格の逸話は問題。("梟雄"、"謀反人”の評の背景)
○久秀にとって下剋上とは、江戸時代に創作されたような、傲慢な振舞いをしたり、上位者を殺害したりする単純な話ではない。それまでの社会秩序や世界観をしたたかに変えていこうとする運動であったと言えよう。

*(注)参考資料
『松永久秀』-歪められた戦国の“梟雄”の実像:天野忠幸(編集)(宮帯出版社、2017年7月)