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シニア文化塾だより
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2018/04/30のBlog
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・日時:4月26日(木)、集合時間:10時(近鉄奈良駅行基像前)
・【コース】:近鉄奈良駅-猿沢池-興福寺-国立博物館-鷗外の門-(昼食)-春日大社神苑(萬葉植物園)-春日大社-水谷神社-若草山麓-手向山八幡宮-二月堂-東大寺大仏殿-奈良県庁屋上-奈良駅(解散:15時半)
・ガイド:浅田隆先生(奈良大学名誉教授)
・参加者:35名
・天候:晴れ
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猿沢池(*右上の写真を参照)
興福寺を望む池。周囲には柳が植えられている。奈良時代に帝の寵愛を失って、池に身を投げたという采女(うねめ)を祀る采女神社がある。
・[会津八一の歌碑]-猿沢池にて-
わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐりぬ かささしながら
(歌意:采女が身を投げるとき衣を掛けた柳を見たいと思って、折からの雨に傘をさしながら、猿沢池をめぐり歩いた。)
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興福寺(奈良市登大路町)(*右の写真を参照)
藤原氏の氏寺として栄華を極めた古刹。高さ約50mの五重塔は古都奈良のシンボル。数々の火災や明治期の廃仏毀釈で規模が縮小するが、それでも歴史的遺産は多い。
*奈良公園…興福寺、東大寺、春日大社から、若草山、御蓋山、春日奥山の一帯、東西4km、南北2kmの範囲は奈良公園として管理されている。

奈良国立博物館(奈良市登大路町)
・明治28年(1895)に建築。明治中期の代表的な欧風建築として国の重要文化財に指定)。日本随一の仏教美術専門の博物館。
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鷗外の門
森鷗外は、帝室博物館総長に1917年(大正6)に就任。正倉院の開封に立ち会うために奈良に来た。鷗外が滞在した官舎の門がある。母屋は門だけ残っていて、「鷗外の門」と呼ばれ、門の前には大きな石碑がある。
*「奈良五十首」…鷗外の奈良来訪は公務出張。正倉院の開かない雨の日だけ、傘をさしながら奈良めぐりを楽しんでいる。奈良における和歌の連作「奈良五十首」が生まれた。
・「猿の来し 官舎の裏の 大杉は 折れて迹(あと)なし 常なき世なり
(歌意:われわれは、有限の世界に生きている。)
・「勅封の 筝(たけのこ)の皮 切りほどく 剃刀の音の 寒きあかつき
(歌意:今まさに天皇の署名入りの封が切られ、正倉院の扉が開けられる情景。)

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春日大社神苑(奈良市春日野町)(*右の写真は神苑の藤の花)
藤原氏の氏神。千古の森に包まれた境内は広大で、朱塗りの社殿が美しい。今日の神苑(萬葉植物園)は、「藤の花」が咲き、華やかさを添えている。
・「会津八一歌碑」-春日野にて-(歌碑が神苑にある)
かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも
(歌意:月の澄みわたった光が春日野をあまねく照らしていることを「ほがらかに」という語で表現している。)
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**あとがき**
◇奈良の風景と文学
・会津八一(あいづやいち):1881年(明治14)~1956年(昭和31)。新潟県生まれの歌人、美術史家。早稲田大学教授。奈良を愛し、奈良の古跡・古美術を詠んだ歌人。奈良県内には、八一の自筆歌碑が21基ある。歌集『鹿鳴集』他。
・森鷗外:「奈良五十首」
・和辻哲郎:『古寺巡礼』
・井上靖:『天平の甍』
・堀辰雄:『大和路 信濃路』
・(俳人):正岡子規、高浜虚子、橋本多佳子、細見綾子
2018/04/23のBlog
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・日時:4月17日(火)am10時~11時50分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:宮田由紀夫先生(関西学院大学教授)
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アメリカの政治経済システムの特徴
三権分立
・民主主義国家では、立法(議会)、行政(大統領)、司法(最高裁判所)が独立して互いに牽制し権力の集中を防ぐ、三権分立と呼ばれるシステムができている。アメリカの場合、これが堅固である。
・アメリカの場合、上院与党、下院与党、大統領の政党の三つが一致しない限り「ねじれ」が生じる。
・最高裁判所の裁判官は、大統領が任命して上院が承認する。就任したら、任期はなく、死亡するか自ら引退するまで勤め続ける。(以前の大統領に任命された人が引き続き職にとどまるので、政権は大きく変わっていることがある。)
州権主義(大統領選の不思議)
・アメリカでは、州政府が独自の憲法を持っていて、独自に州を治めている。州の自治権の範囲は大きい。
・州権主義の表れが大統領選挙の仕組み。人口に比例した選挙人が各州に割ら当てられるが、勝った候補がその州の選挙人を総取りする。→[2016年米大統領選挙](選挙人)トランプ:306人、クリントン:232人。(得票数)クリントンが約290万票上回る。
・米国議会は、各州2議席=合計100名によって構成される上院と、人口に基づいて州ごとに議席数が決められる下院(定数435名)からなる。
◇アメリカ大統領の権限
・憲法第2条:行政権はアメリカ合衆国大統領に与える。大統領は米国軍の最高司令官である。
・議会で通った法案は、大統領が署名して初めて法律となる。(拒否権を行使することができる。)
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異端のトランプ政権
・保守的…環境(地球温暖化)での規制緩和、医療保険制度廃止(医療保険加入を義務付けたオバマケアの廃止)、金融の規制緩和。
・非保守的…保護貿易、製造業をターゲットにして産業政策。米国内では自由を重んずる一方、海外に対しては、保護貿易、移民排斥といった保護主義を掲げる。(自国の経済が悪化すると、保護主義が台頭)
・トランプが「アメリカ第一主義」を唱える背景にあるのが、アメリカの貿易赤字。→スローガン「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国にしよう)。
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アメリカの経済政策
・「産業政策論争」…1980年代初めと90年代初めに、アメリカ産業の対日競争力低下⇒日本の通産省(当時)の産業政策が過大評価される⇒アメリカでも産業政策の是非が議論されるが、結果的には実現はされなかった。それゆえに?アメリカ経済は90年代に好調。
・「特許政策」…(1935~1970年代末):アンチパテント(特許を重視しない)。(1980年代~2010年):プロパテント(特許を重視する)。日本に模倣させない(特許侵害訴訟を起こす)。現在は、プロパテント維持派(医薬品、大学、基本特許を持つエレクトロニクス企業)。アンチパテント転向派(電子・機械、ソフトウエア)。
・「反トラスト政策(独占禁止法)」…共和党:自由放任主義。民主党:(大.企業)に厳しい反トラスト政策。(政権によって振れている)。
・共和党の政策…市場メカニズムへの信頼。自由放任主義(企業の好きにさせれば経済は繁栄する)。自助努力の重視(福祉切り捨て)。イノベーションも政府の役割は基礎研究に支援のみ。クリントン政権のハイテク産業振興政策は、予算削減。
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**あとがき**
・日米貿易摩擦を思い出す。…1980年代、日米貿易摩擦に伴うジャパンバッシング(日本車や日本製の家電がハンマ-でたたき壊される)。(1980年代、米国貿易赤字の約50%が日本。現在は、中国50%、日本は約10%。)
◇日米首脳会談(2018年4月17日・18日)…米フロリダ州で安倍首相とトランプ大統領の会談。「北朝鮮問題」、「貿易・通商問題」など。
・貿易・通商問題…米側は「米国は多額の対日貿易赤字を抱えている。それを取り除き、均等にしたい。二国間の自由貿易協定(FTA)が望ましい」。日本側は「TPP(環太平洋経済連携協定)が両国にとって最善と考える」。⇒日米間で厳しい交渉が予想される。


2018/04/16のBlog
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日時:4月12日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・平家滅亡(1185年)から40~50年後の1230年頃に成立。全12巻、平家の栄華と没落を描いた戦記物語。作者不詳。琵琶法師による語りものとして流布。
・四重田先生の講義『平家物語を読む』は、2011年に始まって、今回で16回目の講義。
・平家物語は、平家一門の滅びに焦点を合わせ、敗者の悲運を主題にしている。戦いに敗れて滅んでゆく人々の悲劇的な運命が数多く描き出されている。→しかし、今回の「敦盛最期」の直実の物語では、敗者のあわれではなく、勝者のむなしさ、いわば、勝者のあわれが語られている。
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講義の内容
○『平家物語』巻第九-十六
敦盛最期(あつもりさいご)
「平家が一の谷の合戦に負けたので、源氏の熊谷直実(くまがいなおざね)は、敵の大将と取り組みたい思って、磯の方へ馬を進めていると、美しく立派に着飾った一騎の武者が、沖の船に目をかけて、海に馬を乗り入れ、5~60mほど泳がせていた。それを見て、熊谷は、〈貴殿は立派な将軍と拝見します。敵に後ろを見せるとは卑怯。戻られよ〉と、扇を上げて招くと、武者は引き返してきた。波打ち際で、馬を並べてぐっと組んでどさっと落ち、取り押さえ首を切ろう兜を押し上げてみると、十六、七歳ぐらいの武将で、薄化粧してお歯黒をつけている。わが子の小次郎の年齢ぐらいであった。…熊谷は名乗ったが、若武者は名乗り返さずに《お前にとっては、私は良い敵だ。名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねよ。誰でも私を見知っているだろうよ》。…熊谷は、見逃そうとも思ったが、後方を見ると、味方の土肥・梶原の軍勢が50騎ほどでやってくるのが見える。熊谷は、〈お助けしようと思ったが、味方の武士が大勢こっちへ寄せてきた。他の者の手におかけするよりも、この直実の手でお討ちして、死後のご供養をいたそう〉。というと、《ただ、さっさと首を取れ》と言われた。…泣く泣く、若武者の首を斬ってしまった。やがて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。〈ああ、今日の明け方、敵陣の中で笛を吹いておられたのは、この人々であったのか。味方の東国勢は何万もの兵士がいるが、戦いに笛を持ってくるような人はいない。身分の高い人はやはり優雅なものだ〉と思って、源義経に見せたところ、涙を流さない者はいなかった。…後に聞くと、この若武者は、平経盛(つねもり)の息子で、当年17歳の敦盛であった。」
・「敦盛最期」の物語は、敦盛という名前は伏せられ、最後になってこの若武者が敦盛という名前であることが明かされる筋立てになっている。
・熊谷直実:武蔵国(現・埼玉県熊谷市)熊谷郷の小領主。敦盛の物語は、直実が語りつないだから、後世に残った。また、直実は、若武者の首を斬るという非常な行為の中でわが身の疑念を抱き、人の世の無常へと思いを深め、出家している。

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○『平家物語』巻九-十七
知章最期(ともあきらさいご)
「平知盛は、息子の知章と侍の監物頼方と、たった主従三騎になって、助け舟に乗ろうと波打際の方へ逃げる。そこに、源氏の武士が十騎ほど、大声を上げて追いかけてきた。…その中で大将と思われる者が、知盛と組もうと馬を並べてたが、息子の知章が間に割ってはいって、馬を並べてむんずと組んで、どうっと馬から落ち、取り押さえて首を斬り、立ち上がろうとしたところ、敵の童(少年)が追いかけて来て、知章の首を討つ。監物も、知章の仇は取ったが、左の膝を射られて、討ち死にした。…知盛は、強力な名馬に乗って、海上を約2km、馬を泳がせて、兄・宗盛の船に追いついた。…(中略)。知盛は、《子が親を助けようと敵と勝負しているのを見ながら、子が討たれるのを助けないで、このように逃げ回っているのでしょうか。どんな親だと、他人の事でしたら、どれほど非難したに違いありません。自分のことになると、命は惜しいものだと、思い知らされます。他人に何を思われるか考えるだけでも、恥ずかしい。》
・父知盛の身代わりとなって死んだ知章は16歳。「知章最期」の段は、子を見捨てた父知盛の心情が、主として描かれている。
2018/04/12のBlog
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・日時:4月10日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:平林章仁先生(元龍谷大学教授)
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○「三輪山
奈良県桜井市にある秀麗な円錐形の三輪山(標高467m余)は、古来、大物主神が籠る神体山で、御諸山、三諸山ともいわれ、神体山として有名である。
・この神を祭る大神(おおみわ)神社(三輪明神)には、拝殿はあるが本殿はない。
・三輪山東麓には初期大和王権の王宮跡と伝えられる纏向遺跡が広がり、その一郭には最古の大型前方後円墳である箸墓古墳(全長280m)がある。
○『古事記』『日本書紀』には、三輪山の大物主神と巫女的な女性と交わる、三つの神秘的な神婚神話が伝えられている。これら大物主神に関わる神話・伝承には、ヤマト王権成立の重要な鍵が秘められている。
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「麻糸で結ばれた神と女の物語」
(1) 『古事記』崇神天皇段の苧環型新婚譚 (*右の資料を参照)
(概説)「この崇神天皇の御世に、疫病がはやって、人民が絶えてしまいそうになった。大物主神が夢に現れて《この疫病は私が引き起こしたものです。だから、意富多多泥古命(オホタタネコのミコト)によって、私を祭ってくださるならば、祟りは消え、国も安らかになりましょう》。そこで、早馬を四方に派遣して、オホタタネコという人を探し求めたところ、河内の美努村でその人を見つけることができて、天皇に進上した。オホタタネコを神主として、御諸山に大物主神をお祭りになった。…陶津耳命(スエツミミノみこと)の娘の活玉依姫(イクタマヨリヒメ)は容姿が端麗であった。ヒメのもとには夜な夜な通う男がおり、まもなくヒメは身ごもった。そこで両親は、男の正体をつきとめるために、糸巻に巻いた麻糸を針を通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝、糸は戸の鉤穴(かぎあな)から抜け出ており、糸巻には三巻きだけ残っていた。そこで糸をたよりに訪ねていくと、美和(みわ)山の神の社にたどり着いた。そこで、娘の腹の子(オホタタネコ)は、この社の大物主神の子と知れたというわけである。その麻糸が三巻分だけ遺ったということによって、その地を名付けて三輪(みわ)というのである。」
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(2)『肥前国風土記』松浦郡条(奈良時代初期の官撰の地誌)
(概説)「この風土記にも、神様と女が結ばれる話が記されている。夜毎に女のもとを訪れては暁早々に帰っていく。怪しく思った女は、麻糸を男の衣にかけて、男の行き先を尋ねていくと、峯のほとりの沼の蛇(沼の神)に到った。」
・夜毎に女性のもとを訪れる男の正体が、彼の衣の裾に縫いつけた麻糸を辿ることによって蛇身の神であることが明らかになったという物語の展開は、崇神紀の苧環型三輪山神婚譚と同じである。
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**あとがき**
・古代の神話伝承が歴史的事実を述べたものではないが、机上で創作された全く虚構の物語かといえば、そうでもない。背景に当時の人々の神々への信仰やそれとむすびついた祭祀・儀礼という歴史的現実が存在した。
・蛇神信仰…脱皮(長生)・冬眠(再生)・毒(力)
・麻糸で結ばれる神と巫女…機織(はたおり)集団や機織文化が神話の背景に存在。雄略期に中国南朝から渡来したという機織集団との関係が想定される。
・河内の陶邑…ヤマト王権直属の須恵器生産工房。イクタマヨリヒメが5世紀初頭頃こ、朝鮮半島南部から伝えられた須恵器の最古・最大の生産遺跡が分布する「茅渟県陶邑」(大阪府堺市)の首長を意味する陶津耳命の女と伝えられること。
**参考文献:『三輪山の古代史』平林章仁著(白水社、2000年)
2018/04/06のBlog
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・日時:4月3日(火)am10時~11時50分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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大仏造営の詔-『続日本紀』天平15年(743)10月15日
「聖武天皇は、「華厳経」の教理に基づき、動物・植物までも含む、共栄の世界を具現するため、国家権力と国民の助援により、盧舎那大仏の鋳造を発願し、光明皇后もこれを進めたと伝える。」
・大仏は、当初、近江紫香楽宮に造る予定であった。→行基は弟子を率いて諸国に勧進を進めた。
・天平17年(745)、恭仁京から平城京へ遷都。大仏の造営は、金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り、造東大寺司により工事が進められた。
*「造東大寺司」(ぞうとうだいじし):東大寺の造営のため、国家の組織として誕生するのが「造東大寺司」である。工事が終われば廃止されるべきものが、天平宝字4年(760)の石山寺などの造営も担当。
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実際はどうだったのか。-「大仏を造った人々」、「大仏の原材料の調達」
◆『東大寺要録』造寺材木知識記…東大寺建立にあたり、寄付された材木・金銭などの総数及び財物を寄進した人の名前が記されている。
「材木知識-材木を自発的に協力した人。51,591人。
「役夫」-大仏殿の建立に従事した労働者。1,665,071人
「金知識人」-大仏鋳造に協力した人。372,075人
「役夫」-大仏鋳造に従事した労働者。514,902人

*知識人(同信集団、信仰を同じくする仲間。ボランティア)…信仰により、自発的に奉仕した人が多かったことは、上記の「造寺材木知識」で判明する。
*材木=建築、金=大仏鋳造(銅、金など)…大仏鋳造に用いた銅は、長門国(現在の山口県西部)で生産された。
・この大事業は、朝廷の力だけでなく、全国の金と労働力を集結して造る必要があった。行基の活躍で日本全国から、大量の材木や金・銅など資材や人手が集まり、大仏の造営にかかわった人数は、約260万人。
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写経所
造東大寺司の下部機関として、東大寺写経所が設置された。事業としては、光明皇后発願の「五月一日経」の写経、一切経の写経、個別の目的の写経(間写経(かんしゃきょう))。
◆写経生の生活…正史には現れない下級官人の生(なま)の息づかいの歴史が、注目されている。
・基本は各役所からの出向。給料は書き写した文字数に応じた出来高払いで、「布施」とよばれる給料を支給される。仕事場の環境は悪く、病気になる人も多かったようで、病気のために休暇願いの文書が残されている。
・正倉院文書の東大寺写経所の帳簿類(破棄されないで残っていた)
-「写経生の実態-休暇の請求、写経生の病気など」
-「帳簿の裏文書」
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**あとがき**
大仏の開眼供養(『続日本紀』天平勝宝四年(752)四月九日)
「聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、文武百官に僧一万人参列し、音楽や歌舞があり、《これほど盛大な斎会(さいえ)は仏法東漸以来かつてなかった》と絶賛している。」
◇写経所では、さまざまな種類の帳簿を作成して管理していた。こうした帳簿用に大量の紙が必要になる。といっても「さら」の紙を利用することはあまりなく、不要になった反古紙(ほごし)が、大量に写経所にもたらされる。裏面を利用。現在、正倉院文書に残されている奈良時代の戸籍・計帳・正税帳などは、実はこうして反古にされたこそ現在に伝わったので、残そうとして残されたわけではない。現場の下級官人こそ、律令国家の支配の実態などを伝えてくれたのである。
*参考文献:「日本の歴史04ー平城京」(渡辺晃宏著、講談社)
2018/04/02のBlog
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・日時:3月29日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
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*国宝『源氏物語絵巻』を読み解く講義は、今回で第11回です。
①蓬生巻、②関谷巻、③柏木(一)、④柏木(二)、⑤柏木(三)、⑥横笛巻、⑦鈴虫(一)、⑧鈴虫(二)、⑨夕霧巻、⑩御法巻、⑪竹河(一)
・講義では、「源氏物語」を読み、『源氏物語絵巻』の現存するものと、復元したものを見比べて鑑賞します。
*源氏物語は、三部構成(54帖)
-第一部:桐壺~藤裏葉(33帖)
-第二部:若菜上~幻(8帖)
-第三部:匂宮~夢浮橋(13帖)…竹河は第三部で、第44帖。
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講義の内容
◆第44帖-「竹河」(一)(光源氏はすでにこの世にはなく、運命の子薫は14,5歳)
これは、髭黒の一家の話である
髭黒(ひげくろ)の大臣が亡くなった後、妻の玉鬘(たまかずら)は、三男二女の子を育て上げた。経済的には裕福だったが、娘の結婚問題に悩んでいた。
大君、帝・冷泉院・蔵人少将らに求婚される
長女の大君(おおいきみ)は、その美貌から、帝(みかど)と冷泉院(れいぜいいん)から求婚が寄せられ、とりわけ蔵人の少将(夕霧と雲居雁の息子)は熱心。
薫、玉鬘より源氏の形見として親しまれる
光源氏の晩年の子である薫は14,5歳であったが、玉鬘は、行く末の頼もしいお方と見て、わが家の婿にと望んでいた。
薫、夕刻に玉鬘邸を訪問し、優雅に振舞う
夕方になって、薫は、玉鬘邸を訪ねる。みずみずしく美しい薫の姿に、侍女たちは「大君にはこの方をこそ」など、聞き苦しいことをいう。薫は、御念誦堂においでになって、階段から上がって、戸口の御簾の前に座る。庭の若木の梅に、鶯が鳴き、いかにも色めいた様子に、侍女たちが薫に歌を詠みかける。
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○国宝『源氏物語絵巻』~竹河(一)~
右の絵巻は、「竹河(一)」を復元模写したものです。
・場所は、玉鬘邸の御念誦堂。正月の夕暮れ。梅の若木に鶯のさえずる中庭の情景である。妻戸を前方にいっぱい開いた階に座る薫は、冠直衣姿(かんむりのうし)。御簾を透かして薫をうかがう侍女たち。さらに奥に三人の女房(どれが玉鬘か判然としない)。
・中央に主人公の薫を据え、奥に室内、中間に侍女。そして、梅の木と鶯が描かれている。
・奥の三人の赤い服装と梅の赤い花→鉱物ではなく、植物の有機染料を使ってやわらかい赤色を使っている。
2018/03/31のBlog
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・日時:3月30日(金)10時~14時半
・【コース】:JR桜ノ宮駅(10時集合)-桜宮神社-青湾の碑-都島神社-母恩寺-毛馬桜宮公園-毛馬閘門-与謝蕪村句碑-眼鏡橋-毛馬橋-大川右岸毛馬公園-鶴満寺-国分寺-地下鉄天神橋六丁目駅(14時半解散) (約6km)
・参加者:23名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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○「桜之宮公園」(*右上の写真)
桜之宮は、その名の通り、江戸時代から桜の名所として知られていた。桜之宮公園は、大川(旧淀川)の毛馬洗い堰から下流の都島橋、源八橋、桜宮橋、天満橋に至る河岸公園。
・今日は、さくらの見ごろの絶好な日。大川をまたいで、桜色に染まっていました。
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○「毛馬閘門」(けまこうもん)(大阪市北区長柄)
明治18年の淀川大洪水で上町台地を除く大阪市の大部分が浸水したのを考慮し閘門を設置し、淀川の水を直接海へ流す大放水路(現・新淀川)を開削し市内に入る大川の水量を調節した。昭和46年着工、58年完成し流量調節が可能となった。
*閘門(こうもん)…運河・放水路などにおいて水面を一定にするための水量調節用の堰。
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○「与謝蕪村生誕地碑・句碑」
蕪村は、1716(享保元)年摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)に生まれる。淀川の堤防のかたわらに、立派な句碑があり、次の一句が刻まれている。
 「春風や 堤長うして 家遠し」
・蕪村は20歳で毛馬を出て以来、生涯故郷には帰らなかった。
・《蕪村の代表句》
「菜の花や 月は東に 日は西に」
「春の梅 終日(ひねもす)のたり のたりかな」
「さみだれや 大河を前に 家二軒」
2018/03/24のBlog
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・日時:3月20日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学教授)
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「西郷隆盛とは」 (略歴)
**右の写真は、西郷隆盛の肖像画(Wikipediaより)。
2018(平成30)年、NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公に取り上げられる。
・1827(文政10)年生まれ。~1877(明治10)年没。享年49歳。
・薩摩藩の貧しい下級士族の家に生まれる。通称:吉之助、南洲を号した。
・1854(安政元)年、27歳で藩主島津斉彬に登用され、江戸で側近として活躍。
・1858(安政5)年、「安政の大獄」に連座して、京都清水寺の僧月照と心中を図るが、西郷だけが奇跡的に助かり、奄美大島に配流となる。
・1862(文久2)年に許されるも、島津久光の怒りを買い、徳之島・沖永良部島に再配流。
・1864(元治元)年、許され、京都に出て、政局・軍事面で活躍する。
・1867(慶応3)年、武力倒幕を志向して、岩倉具視らと謀略をめぐらし、12月「王政復古クーデター」を成功させる。戊辰戦争では、江戸無血開城に尽力。
・1871(明治4)年、新政府に出仕して参議となり、廃藩置県断行に関与。岩倉使節団の外遊中の留守政府の筆頭参議となる。
・1873(明治6)年の征韓論争で下野後、鹿児島で私学校を設立。
・1877(明治10)年、西南戦争で蜂起、自決する。西南戦争が終結。
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幕末動乱の西郷と軍事
(1)1854(安政元)年、藩主島津斉彬による抜擢人事
斉彬(なりあきら)に抜擢され、江戸で側近として政局に関わり活躍。将軍継嗣問題では一橋派を推す。水戸藩の藤田東湖らと交流。
・1858年、通商条約調印、紀州の慶福(家茂)が将軍職を継ぎ、井伊直弼の大弾圧「安政の大獄」があり、かつ斉彬が病死した。
(2)2度の配流(省略)
(3)中央政局への復帰と政治観の転換
島に流された時、薩英戦争(1863年)が勃発。情況に一喜一憂する西郷。許され薩摩に帰る(1864年)。⇒その後は、大久保利通とともに薩摩藩のリーダーとして倒幕に向いて活躍する。
◆1864(元治元)年、3月京都にでて、薩摩藩「軍賦役」となり、禁門の変・第一次長州征伐には幕府側の有力な謀将(はかりごとにすぐれた武将)として活躍。
・西郷の政治家としての成長(勝海舟との出会い)…元治元年9月、西郷は勝海舟と会談。勝海舟は、新しい政治の形(共和政治)を語る。→西郷の頑迷な攘夷主義からの脱却。
◆江戸城の無血開城
・政局は、薩長同盟→大政奉還→王政復古のクーデター→鳥羽・伏見に始まる倒幕内乱。西郷は、東征軍の大総督参謀となって東下、戊辰戦争では、江戸城の無血開城に尽力。
◆1868(慶応4/明治元)年…260年余り続いた徳川幕府の時代が終わりをつげ、1868年明治新政府がスタートする。倒幕の中心となった薩摩や長州の青年藩士たちが新政府の中心となった。彼らは西洋にならって天皇を中心にすえた中央集権の近代国家の建設をめざす。
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明治新政府の指導者西郷
(1)藩政改革と廃藩クーデター
・急激な改革…新政府は、藩主の版籍奉還(1869年)を推進し、廃藩置県(1871年)を断行することによって封建制を廃絶した。そして四民平等を宣言した。
・薩摩藩…藩政と家政の分離、一門・重臣の特権解除、常備隊の設置
・西郷に正三位の位階が授けられる。(西郷が藩主忠義よりも上位となってしまう。)⇒位階返上
(2)征韓論政変
・1873(明治6)年、新政府では当時の李氏朝鮮に対して武力を持って開国させようという「征韓論」が巻き起こっていた。西郷は、朝鮮を開国させる使者として、朝鮮行きが決まりかけたところ、岩倉使節団として欧米から帰国した大久保利通らが反対し、使者派遣が中止。西郷は、すべての役職を辞し、下野する。
(3)士族の反乱
・1876(明治9)年、萩の乱、熊本の乱など。(廃刀令や秩禄処分によって特権を奪われた士族たちの不平不満が噴出)
(4)西南戦争
・1877(明治10)年、西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に反対して兵をあげる。約8か月にわたって、九州各地で激しい戦闘が展開された。結局、政府軍の勝利に終わった。(この結果、不平士族の反乱は終わりを告げる。)
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**あとがき**
・西郷は、遠島に送られようとも藩士達の精神的支柱として、崩れることはなかった。
・西郷は、郡方書役助(こおりかた かきやく たすけ)という一介の小役人に過ぎなかった。鳥羽伏見の戦いに勝利し、江戸開城まで持ち込んだのは西郷の舞台。
・西郷隆盛の肖像画は、お雇い外国人のキヨソネが描いた肖像画を参考にしている。しかし、キヨソネも生前の西郷とは面識がなく、西郷の弟・西郷従道(つぐみち)と従兄弟の大山巌の顔を下敷きにして創作したという。
・上野に建立された西郷の銅像…西南戦争の「国賊」が復権し、1898(明治31)年に西郷の銅像が上野恩賜公園に建てられた。銅像の作者は高村光雲。
・西郷の人気は圧倒的(鹿児島)…大久保は「西郷ドン」の敵。地元にようやく大久保利通の銅像が建てられたのは、西南の役から100年を経た1978(昭和54)年のこと。
◇「敬天愛人」西郷隆盛(*右上の西郷直筆の書)
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」