「明日香村牽午子塚古墳は斉明陵か」

・日時:5月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館 名誉館長)
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史料(*右の資料を参照)
『日本書紀』天智即位前紀 斉明七年(661)七月条
天智天皇は、父は舒明天皇、母は皇極天皇。皇極天皇四年に、天皇は位を孝徳天皇に譲られた。そのとき(後の天智)を立てて皇太子とされた。孝徳天皇は白雉5年10月に崩御。翌年に皇祖母(皇極)が重祚して斉明天皇になられた。七年7月24日に斉明天皇が崩御
『日本書紀』天智四年(665)二月条
四年2月25日、間人大后(斉明天皇の娘、天智天皇の妹、孝徳天皇妃)が亡くなる。
『日本書紀』天智六年(667)二月条
六年2月25日、斉明天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合葬した。この日に、大田皇女(天智皇女)を陵の前の墓に葬った。
『続日本紀』文武三年十月(699)条
文武3年(699)に越智山陵すなわち斉明陵と、山科陵すなわち天智陵が「修造」されている。しかも単なる修理ではなく、位置を変えて大規模な修築事業であった。

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牽午子塚古墳の発掘調査
2009〜2010年にかけて、明日香村教育委員会の発掘調査がおこなわれ、重要な成果を挙げた。
・墳丘は版築で築かれた対辺約22mの八角形墳が確認。
・凝灰岩の巨石を刳り抜いて内部に2室を設けた横口式石槨。
・この八角形の墳丘の南東側に、鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨をもつ陪塚的な小古墳(越塚御門古墳)が検出された。⇒報道各紙はこれを報じた。『日本書紀』天智六年(667)条の内容が、符号するともみられることから、多くの新聞が真の斉明陵が確定したように報じた。
考古学からみた斉明陵−白石先生説
・牽午子塚古墳の横口式石槨の型式を7世紀末ないし8世紀初頭の頃と想定。天智六年(667)、7世紀の第3四半期にまで遡るとは考えられない。
・岩屋山古墳(牽午子塚古墳の東方約500mの所に位置する)を、最初の斉明陵と考える。
・『続日本紀』文武三年(699)、牽午子塚古墳は、この文武三年に新たに修造された斉明陵である。

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牽午子塚古墳の造営年代
(1)石棺系横口式石槨の編年(右の資料を参照)
・第Ⅰ類:大きく石槨の前に前室・羨道あるいは長い羨道を持つ。7世紀前半〜中葉。
・第Ⅱ類:石槨部の前に石槨部とほぼ同じ長さの短い羨道を付設した。7世紀中葉〜後半の中頃。
・第Ⅲ類:石造りの羨道部を持たなくなった。7世紀末〜8世紀初め

◇「白石先生の想定
・牽午子塚古墳の横口式石槨は、第三類の石槨であり、7世紀末ないし8世紀初頭前後のものである。⇒牽午子塚古墳は天智朝の斉明陵ではない。
・越塚御門古墳も、鬼の雪隠・俎古墳系列と同じタイプの石槨形態から、第Ⅲ類であり、牽午子塚古墳とほぼ同時期の造営。
・牽午子塚古墳・越塚御門古墳の石槨の内法は唐尺を用いている。(7世紀中葉から第3四半期と想定される岩屋山式の横穴式石室が高麗尺を用いていることから、牽午子塚古墳が7世紀中葉や第3四半期まで遡らないことは確実と考えられる。)
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**あとがき**
・古墳の年代想定は、考古学的にその古墳の石室の型式と副葬須恵器の型式、それにもとづく年代観に矛盾がない事を確認する。そのうえで、補強する材料として文献史料から伺える被葬者の想定もまた意味があると考える。(白石先生)