「畠山義就と応仁の乱」

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・日時:8月28日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学文学部准教授)
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「応仁の乱」の背景
日本の歴史上で、有名な内乱の一つである「応仁の乱」は、室町時代の京都で11年に及んだが、どう始まったのか、何故長引いたのか、勝者は誰なのか?。
①有力守護の争い…細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の二大勢力の争い。
②将軍家の後継者争い…八代将軍義政は、男子に恵まれなかったので、1464年、弟・義視(よしみ)を後継者。ところが翌年正妻・日野富子との間に、男子が出産(義尚(よしひさ))。義尚を将軍後継者としようとする日野富子が山名を頼る。義視を支持する細川との対立。
③永享の乱(1438〜39年)【籤引き将軍義教が鎌倉公方足利持氏を追討】、嘉吉の変(1441年)【播磨の守護赤松満佑が将軍義教を自邸によんで殺した事件】。…守護家の家督争いが原因。幕府と守護の対立。

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畠山義就(よしひろ)の戦い
「応仁の乱」を理解するには、畠山義就を主人公として見ていくと、難解な内乱がいかなる原因で勃発し、どう終結したか、なぜ長期化したか、が理解できる。
室町幕府の仕組み
・将軍(足利家)、管領(三管領−細川・斯波・畠山)、四職(山名 他)、守護・地頭
・幕府の中でも、三菅領(さんかんれい)と四職(ししき)は大きな権力を持っていた。
◇義就−我こそ畠山の主(あるじ)なり。
・1448年父・持国。弟の持富から子の義就(12歳)へ次の統領とする。
・畠山家は、管領になれる家で、守護は河内・紀伊・越中・(山城)、分家は能登。
嶽山城の戦い
*畠山家の家督争い…1460年、細川は、家督と守護職を弟の政長に変更し、義就は将軍の御敵に。
・勝元は大軍で攻める。義就は、嶽山に籠城。細川・山名・北畠・六角・京極らが包囲。→1463年義就は吉野へ没落。
・(注)「嶽山城」(だけやまじょう)…1392年楠木正成が築城した南河内の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。
文政の政変(1466年、応仁の乱/半年前)
*山名宗全が義就に同盟を呼びかける。…山名と勝元は、ともに幕府を支えてきたが、山名はこのままではトップになれない。義就という最強を味方につければ、細川政権を転覆させることができる。→義就は5000の兵を率いて上洛。《義就は、ずっと反逆者として幕府から討伐を受ける身であった。地方の武士たちに支持されていたが、京都にいる.大名たちに仲間は一人もいない。初めて、京都の仲間ができた。

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応仁・文明の乱
・1467年(応仁元)5月26日、応仁の乱始まる。細川勝元が室町邸を占拠、将軍義政らを確保。山名方は一条大宮(西陣)に布陣。…応仁の乱が本格化。…それまで中立であった将軍義政が細川方につく。(山名方は反逆者となる)。…京都での激戦で、多くの建物が焼け、死傷者も多数。
・1467年10月3日。劣勢であった山名方は、大内正弘(22歳の若武者、4ヵ国の守護)が宗全の誘いにそって大軍で上洛し、義就の最強の相棒となり、二人の活躍で、戦は振出しに戻る。
・このころから、両方とも陣地を固める。乱は果てしなく続くことになる。(細川方16万、山名方11万)。
・応仁の乱/始まってから5年。…都は荒れはてていた。しかし、終わる気配はなかった。→山名は降参することを考えていた。細川は和睦を前向きに考えていた。(乱が終わると思われた。)
*義就と大内は、和睦に反対。義就は当主の座、大内は幕府内の地位が保証されなければ、5年も戦った甲斐がない!。
・1473年、細川、山名ともに死亡。
・1474年、細川正元と山名政豊が単独講和、形式的には東軍勝利。
・1477年11月、大内政弘は、地位、瀬戸内海の利権を認められ、都を離れる。応仁の乱は終了。
河内王国…義就は何も手に入れられなかった。2000のの兵と再び河内へ。
・畠山義就は、そもそも幕府の命令に従うという発想がない。大乱が始まる前から、幕府の大軍を向こうに回して河内で孤軍奮闘していたのである。彼の本質は、幕府の権威に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢である。→河内国は幕府・将軍に頼らない独立国になり、これは、新たな時代(戦国時代)の先駆けであった。
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**参考文献**
・呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)
・NHK−歴史ヒストリア『応仁の乱』大悪人「畠山儀就」(2017年12月)