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シニア文化塾だより
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2019/04/07のBlog
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日時:3月28日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・成立:平家滅亡(1185年)から40~50年後の頃(1230年頃)に成立。作者不詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・四重田(よえだ)先生の講義-『平家物語を読む』は、2011年1月に始まって、今回は18回目の講義です。

*平重衡について *
1157年~1185年。平清盛と平時子の子。.本三位中将。平氏軍制の中核にあり、反乱追討(源氏追討)に活躍。治承四年(1180)12月には南都攻略の総大将となり、大仏殿などを焼き打ちした(奈良炎上)。…一の谷の合戦で捕虜となり、鎌倉へ送られ、のち奈良(南都)に護送されて、木津川辺で処刑された。(享年28歳)。
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〇平重衡(たいらのしげひら)の罪と罰
「奈良炎上」(南都焼き)
治承四年(1180)12月:清盛は、奈良の討手の大軍を奈良に差し向けた。大将軍は平重衡、副将軍平通盛で、四万余騎。…夜の戦いになって、平重衡の下知で在家に火をつけたところ、真冬の風にあおられて、火は奈良の寺院を焼き尽くした。辺りはまるで地獄のよう。大仏の頭部が焼け落ちて地上にある。御身体は溶解して山のようである。…凱旋した重衡を清盛公だけが喜んだが、建礼門院をはじめ心ある人々は、「悪僧を滅ぼすとも、伽藍を破壊し滅ぼしてよいものだろうか」と、嘆いた。

△治承五年(1181)閏2月、平清盛、熱病に冒されて亡くなる。(清盛死去

◆巻第九「重衡生捕」(しげひらいけどり):寿永三年(1184)2月:重衡28歳
平家軍の副将軍・平重衡は、一の谷の合戦で、味方の軍勢は全員逃げ失せたので、乳母子(.めのとご)の.後藤盛長と主従二騎で西へ落ちていった。…途中、敵の武将・梶原景季(かじわらのかげすえ)の追撃を受け、景季に馬を射られて立ち往生すると、盛長は主君の重衡を見捨てて、鎧につけた平家側の赤い印を引きちぎって捨て、必死で逃げた。…残された重衡は、切腹しようと観念したが、馬を射た景季の捕虜(生け捕り)になった。→後日、主君を裏切った、乳母子の後藤盛長は、人々に「ああ、ひどい盛長だな。あれほど重衡に可愛がっていらっしゃたのに、同じ所で死なずに、憎らしい奴よ」と非難されたので、盛長もやはり恥ずかしそうに、扇をかざして顔を隠したと噂になった。
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**あとがき**
・南都は、以仁王の謀反挙兵のとき、三井寺とともに興福寺が以仁王に同調したこともあり、かねてから清盛は、南都の焼き払いを企んでいた。…大将軍・平重衡は、まさにこれが後の身の終わりを招き、清盛もこの暴挙を犯してのち2か月余りで、熱病で命を奪われる。
・平重衡は、馬を射られたとき、最も信頼していた乳母子にも見捨てられて、自害の直前、生け捕りになった。その後、南都焼打ちの張本人として処刑されることになる。…重衡は捕虜となり、伊豆の国にいたが、奈良の僧侶たちは、奈良の寺を焼いた重罪人として重衡を引き渡せをしきりに申し立てた。奈良方に重衡の身柄を渡すことになる。南都の大衆は重衡の身柄を受け取り、木津川の川原で処刑した。
2019/04/01のBlog
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日時:3月26日(火)am10時~12時
会場:すばるホール(富田林市)
講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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斉明天皇とは
・594~661年。皇極天皇、重祚して斉明天皇は、第35代、第37代天皇。在位:皇極(642~645年)、斉明(655~661年)。
・舒明天皇の皇后で、天智天皇(中大兄皇子)、間人皇女、天武天王(大海人皇子)の母。(.孝徳天皇は弟)。
・皇極4年(645)に乙巳の変が起きる。中大兄皇子と中臣鎌足らが謀り、蘇我入鹿を殺害。皇極は退位し、軽皇子が即位(孝徳天皇)。→孝徳天皇は難波に遷都し難波長柄豊崎宮を造営。

◆難波から飛鳥へ
・白雉4年(653)に、中大兄皇子は難波を去って「倭(やまと)の京(みやこ)」に戻ることを奏請したが、孝徳は拒否。→中大兄皇子は、母・皇極、妹で孝徳の皇后、間人(はしひと)皇女を奉じ、大海人皇子や公卿大夫・百官の人らを率いて、大和の飛鳥に帰った。→この事態は孝徳に大きな痛手。翌654年、孝徳は難波で崩御。655年、皇極が飛鳥板葺宮で重祚…斉明天皇である。
◆斉明天皇の時代
(1)飛鳥での大土木工事
『日本書紀』は斉明について、「時に興事を好む」。「溝を掘らせ、香具山の西から石上山にまで及んだ」と大工事を行い、「狂心」(たぶれごころ)の渠(みぞ)の工事に,舟200艘、3万人余りを動員、垣を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗られたとある。他にも、多武峰(とうのみね)に観(たかどの)と両槻宮(ふたつきのみや)を建てたり、苑池などの大土木工事を行なったとある。(来朝した外国人使節に見せるため。)
(2)東北の平定(7世紀後半)
阿倍比羅夫が率いる軍が遠征し、蝦夷(えみし)のほか、粛慎(みしはせ・民族系統不明)を討ったと『日本書紀』に記録されている。
(3)斉明5年の遣唐使の派遣。
(4)朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代
斉明6年(660)、百済滅亡に伴う救援軍を朝鮮半島に派遣。大軍団が朝鮮半島に送られ、斉明女帝も中大兄皇子とともに、九州の前線(筑紫)に赴いて指揮をとったが、遠征中に女帝は病没。⇒663年、白村江の戦いで大敗北。
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**あとがき**
・乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期である。
2019/03/23のBlog
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日時:3月14日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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〇1.ゆく河
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・」
*有名な序章で、「河の水は刻々変化している。流れていないように見える淀みも、無数の水の泡が留まることはなく浮かんでは消えて、休むことなく形を変えている。この世は人間も自然もたえず移り変わり亡び去っていく、無常なものである。」

〇2.安元の大火
無常の体験の最初として、安元三年(1177)の大火を取り上げた。「…風が強くて、すごい晩だった。戌の時(午後八時)ごろ、平安京の東南から火事になって、西北へ焼けていった。しまいには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで火がついて、一夜のうちに灰になってしまった。…全体で、平安京の三分の一に達する家屋が焼失したという。」

〇3.飢渇
養和(1181~82)のころ、二年間もつづく飢饉で、ひどいことがあった。(以下、省略)。

◆『方丈記』概説
鎌倉時代初期の建暦二(1212年)成立の随筆。鴨長明作。冒頭で人と棲家の無常をうたい、それを五つの天災の体験によって裏付ける。そして世俗を捨てた閑居生活の安楽さを語り、さらに仏教者としての自己を顧みて全体を結ぶ構成になっている。
・鴨長明の面白いところは、人生について同じくらいの比重と情熱をもって住居を語る。
・日本三大随筆:枕草子、徒然草、方丈記
2019/03/21のBlog
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・日時:3月12日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学文化学部教授)
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天皇の権威をめぐる.幕末政治
孝明天皇とは
・江戸時代末期の天皇。1831年-67年。121代天皇。在位:1847-67年
・安政元年(1854年)のペリー来航以降、幕政の乱により、幕府の権威が失墜し、天皇の権威が浮揚することになる。
・孝明天皇は、安政5年(1858年)日米修好通商条約勅許を拒否し、攘夷の立場をとる。以後、積極的に政治に関与。
・「攘夷親征と行幸」….天皇みずからトップに立って行う。(宮中に奥深くに安座する天皇からの脱却)。(天皇の御所の外への行幸は、幕府が許さなかった。)
賀茂社行幸
文久3年(1863年)3月2日、攘夷祈願のため、孝明天皇は加茂下・上社へ行幸した。(このことは、幕府による天皇・朝廷統制が崩壊してしまったことである。)…1か月後の4月には、石清水八幡宮を同じく攘夷祈願のための行幸が行われた。
錦絵に描かれる天皇
行幸などの風景が錦絵に描かれ、一般市民に、幕府(将軍)から朝廷(天皇)への権力移行を表していた。

元号
・孝明天皇朝(在位20年弱)は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治と改元されている。改元の理由は、さまざまな天変地異や政局を転換したい時などであったと考えられる。
「明治」の改元で、「一世一元の制」が導入された。
・今年の4月1日には新元号が発表される。元号は中国から日本に伝わり、天皇が大化から平成まで1300年以上にわたり、代替わりや災害などを機に改めてきた。
2019/03/11のBlog
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日時:3月7日(木)午後1時半~3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:瀧本和成先生(立命館大学文学部教授)
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作品の梗概
・冒頭文…「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼びだされて、そこで暇乞いをすることを許された。(以下、省略)」
あらすじ…「寛政の頃、京都町奉行所の同心、羽田庄兵衛は、一人の罪人も護送を命ぜられる。名は喜助。弟殺しの罪人である。一般的に高瀬舟に乗せられる罪人たちは、一晩中涙を流して己の仕業を悔やむのだが、喜助は違っていて、顔は晴れやかで愉しそうに見える。聞けば、これまで骨身を惜しまず働いても現金で物を買って食べることもままならなかったのに、入牢中に働かず二百文も頂き、初めて財産を持ったという実感を味わうと共に、そう思うと愉しいのだと言う。さらに、弟殺しについても病を苦に自殺を図ったが死にきれなかった弟の頼みを聞いた末の行為だったという。それを聞いた庄兵衛は、財産というものの観念(知足=足るを知る)と安楽死(苦しんでいる弟を楽にさせる)について思いを馳せる。」

◆作品構成
・森鷗外は、1881年(明治14)に東大医学部卒業、陸軍軍医となり、明治17年から21年にかけてドイツに留学し、衛生学など学ぶ。明治40年(1907)陸軍軍医総監(軍医の最高位に就く)。『高瀬舟』(1916年初出)。
・作品の素材・題材…「高瀬舟」は、江戸時代の神澤貞幹『翁草』「流人の話」を題材。
・作品が書かれ当時の統制から逃れるために、江戸時代を描く。弟殺しを明記した(長男殺しは死刑。弟殺しは遠島になる物語。)(以下、省略)
2019/03/10のBlog
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・日時:2019年3月5日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
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(要約)
近年、過剰な信長の英雄視に疑問が続出
革新者としての信長像について、近年、その評価の見直しが行なわれている。
・天下布武の実際の意味は、天下統一ではなく、「畿内を平定し幕府を再興する」。
・楽市・楽座は、信長独自の革新的政策とする見方に対して、基本は既得権を保護、六角氏や今川氏が先行していた。
・人材登用は、晩年は尾張出身者を優遇する依怙贔屓人事へ。
・江戸時代、信長の評価は低かった。新井白石らが信長の残虐性を強く非難。
・信長好きは、明治時代とバブル崩壊後(平成時代)。
◆「松永久秀」、「別所長治」、「荒木村重」について、織田信長の対応を研究。

〇家臣から見た信長…過剰な競争、不公平な人事。
〇家臣の気持ちがわからない信長『信長公記』
(以下、省略)
2019/02/23のBlog
〇受講生の皆様へ
向春の候、ご健勝のことと存じます。

◎シニア文化塾は10周年を迎えました。

◇3月5日(火)から「前期講座」(歴史コース)(3月~7月:全12回講義)が始まります。
・曜日・時間:火曜日、am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
*なお、「前期講座」(歴史コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました

◇3月7日(木)から「前期講座」(文学・文芸コース)(3月~7月:全13回講義)が始まります。
・曜日・時間:木曜日、午後1時半から3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
**なお、「前期講座」(文学・文芸コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました。

[シニア文化塾・事務局 常本知之]
(お詫び…ブログ作成方法に変更があり、とりあえず、文章だけの連絡です。)
2019/02/02のBlog
右の情報紙を参照
1月31日発行の「泉北コミュニティ」と「金剛さやまコミュニティ」が、10周年を迎えたシニア文化塾を紹介。

*右の写真は、今年1月17日(木)の「『平家物語を読む』~小宰相の悲劇」(大阪大谷大学教授・四重田陽美先生)の講義終了後の集合写真です。(四重田先生の講義は、平成23年に始まり、9年目を迎えています。)