講義日誌「歴史」④・・・ヤマトタケルの白鳥伝説が語るもの

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・日時:4月9日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長)
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ヤマトタケルと白鳥
・『日本書紀』の景行天皇条によると、ヤマトタケルは伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなったが、白鳥に化して大和の琴弾原(ことひきがはら)に留まり、さらに河内の奮市邑(ふるいちむら)にとどまった。人々はその三ヵ所にそれぞれの陵を作り、白鳥陵と言ったという。そして最後にヤマトタケルは、天をめざして飛び去ったという。
*ヤマトタケルノミコト…日本武尊(日本書紀)、倭建命(古事記)

◆『延喜式』(延長五年(927))の陵墓歴名にヤマトタケルが登載。
・伊勢の能褒野墓が、日本の古代国家が国家的祭祀の対象としていた天皇や皇族の一覧表である『延喜式』の陵墓歴名に登載され、しかも墓歴名の筆頭に位置づけられている。
*景行の皇子ヤマトタケルは、崇神・垂仁・景行など初期のヤマトの大王たちと応神・仁徳にはじまる大王たちをつなぐきわめて重要なところに位置づけられている。この点からも、ヤマトタケルの墓が墓歴名の筆頭に位置づけられていることは決して不自然ではない。

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倭国王墓
・古墳時代には、日本列島各地の首長たちが、畿内と呼ばれる近畿中央部の大首長を中心に首長連合を形成したと考えられている。この首長連合に加わっていた各地の首長たちは、その連合内での身分秩序に応じて大小さまざまな前方後円墳を造営していた。…このことから、それぞれの時期で他の古墳と隔絶した規模を持つ巨大古墳こそが首長連合の盟主である倭国王の墓であろうと考えられている。
・古墳の形と規模は、各豪族のヤマト政権内における政治的地位があらわれていると考えられる。古墳は単なる墳墓ではなく、すぐれて政治的な構造物であった。

【近畿中央部における大型古墳の編年】
*出現期(3世紀後半)〜(4世紀中頃)*
「箸墓」→「西殿塚」→「外山茶臼山」→「メスリ山」→「行燈山」→.「渋谷向山」
*(4世紀末葉)〜(5世紀)
「宝来山」→「五社神」→(古市)「仲ツ山」⇒(百舌鳥)「上石津ミサンザイ」⇒(古市)「誉田御廟山」⇒(百舌鳥)「大仙陵」
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**あとがき**
・白鳥伝説の語るもの…白鳥となったヤマトタケルあるいはその霊魂が、その生涯を閉じた伊勢の能褒野でもなく、大和の琴弾原でもなく、最終的には河内の古市の地に飛んできたことである。さらに白鳥は天に飛び去るのであるがこれはこの物語の神話的表現であり、最終的にその墓は古市に営まれたというのである。このことは、この伝説の原型が形成されたと考えられる6・7世紀段階では、大王やその一族の墓が営まれるべきところは、河内の古市にほかならないと考えられていたことを何よりも明確に物語っている。(白石太一郎先生)。