講義日誌「歴史」⑤・・・西国巡礼の歴史と信仰

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・日時:4月14日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:北川央先生(大坂城天守閣館長)
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1.西国巡礼の信仰(本文)
・大和長谷寺徳道上人の開創(地獄からの蘇生譚)…養老2年(718)、大和・長谷寺の徳道上人が病んで仮死状態に陥った。すると、夢の中に閻魔大王があらわれ、「悩める人々を救うため、三十三ヵ所の観音霊場をつくるように」と告げたという。息を吹き返えした上人が、これを守り、近畿地方の三十三ヵ所寺に霊場を設けたのが、現在の西国三十三ヵ所の始まりと言われている。
・花山法皇の中興…平安時代中期、花山(かざん)法皇が熊野権現より廃れていた霊場を復興させるようお告げを受け、仏眼上人、性空上人らを伴って巡拝し、以後、西国巡礼が盛んになったという。

2.西国巡礼の歴史(史料)
・行尊・覚忠の巡礼:『寺門高僧記』…11世紀〜12世紀、三井寺の行尊と覚忠が巡礼。三井寺の僧の伝記をまとめた『寺門高僧記』に二人の高僧による三十三ヵ所巡礼記が収められている。巡礼の日数は、行尊は120日、覚忠は75日を要した。現在のような形となった西国巡礼は、応保元年(1161)頃。
・『竹居清事』(ちっきょせいじ)…永享(1429〜1440年)頃、「巡礼の人、道路織るがごとし」と、その盛況を記している。
・『天陰語録』(てんいんごろく)…(1422〜1500年)頃、「巡礼の人、村に溢れ里に盈(み)つ.」。各々、その背中に《三十三所巡礼某国某里」と書いた布をつけていると伝える。そして、その姿の者からは、「関銭」を取らず、船頭は「舟賃」を要求しなかった。
(以下、省略)

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西国という呼称
・西国巡礼の順序は、当初は大和長谷寺から御室戸寺、または那智山より御室戸寺への順路であったが、室町時代には、東国の人々向きに那智山から谷汲という現行の順路が固定したようである。
・この順路は、東国の者が伊勢神宮を経て、札所を打ち始め、終わって信州善光寺へ.詣でるのに好都合である。.
・善光寺は、番外札所的参詣所として、西国巡礼信仰と強い結びつけを持っている。
**(史料)『天陰語録』に「始干南紀那智。終干東濃谷汲。」とある。
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**あtがき**
・1200余年の昔、大和長谷寺の徳道上人によって創設。988年花山法皇の手で中興されたと伝えられる西国三十三ヵ所。2府5県にわたるこの最も古い観音霊場は、今日も多くの巡礼者が詣でる。
・江戸時代、封建的身分制度の.厳しい.時代の時、比較的自由に出かけられるのは、神仏参拝を目的としたものであり、巡礼もその一つである。