皆さまこんにちは。ころころ通信委員のムニュです。

秋も深まって、静かに今年の命が眠りに向かっています。
太陽が再び明るくなるまで、しばしの休息の時となります。

さて、聖書の一節に、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉があります。
これは、イエスが磔の刑の後、復活なされたのち弟子たちの前に現れた時の言葉ですが、生前の復活するという予言を信じ切れなかった弟子に対しての言葉です。

これは、そのまま受け取れば信じられないことですが、聖書が発信するメッセージ、「見えないもの」を信じられるかという意味にもなります。

ムニュは特に10代から20代後半にかけて、まったく先が見えないという苦悩に悩まされました。
病気になり、障害者になり、社会とのかかわりを模索するというお腹が凍り付くようなストレスでした。

ですがその中で、ともかくなにかエネルギーのようなものは、ムニュを何らかの行動に掻き立てました。
ですが、元をたどればそのエネルギーこそが自分の心身を壊した病気でもありました。
その「病気のエネルギー」のようなものが、何に向かって、何を「見ようとして」動いていたのか。
おぼろげにみえてくるのは自分の暗い行き先のような気もして、とても信じられるものではありませんでした。
それでもなお未だに「見えないもの」、やがて見えてくるであろう希望の光を、意識としては信じられなくても、きっと自分の奥深いところでは求めているのだと思います。

それが病気と言われても、病気そのものが次なる希望の根源だと信じたいです。
 ムニュ