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居場所 「心家(こころや)」~かわにし~
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2018/12/20のBlog
[ 08:45 ] [ ころころちょこっと通信 ]
皆さまこんにちは。ころころ通信委員のムニュです。

陽の光が底を打ちました。
新しい年の新しい日々に、どれだけの希望が詰まっているのでしょうか。
最も暗い時期に、明日を夢見るようです。

さて、ムニュは、病気になった当初は、急性期ということで、ともかく治療に専念しなければなりませんでした。
といっても、専念することは、自分の命を守ること、そして、周りを極力害さないということでした。

感情として、悲しみや絶望も大きかったのですが、ともかく溢れてくる激情に、「命」を守ることが何より大事なことでした。

言い換えれば、ムニュが守るものはそれだけで、ほかの人生の課題は遠くに追いやっていました。

ですが、やがて急性期を終えリハビリをし、社会の中で生きてゆくにあたって、社会の中で「守るもの」、法律やルール、マナーなど、少しムニュの頭にはややこしいと思われることが増えてきました。

そして、確かにそれらを学び教わり守ることは、一定の安堵がありました。
しかし、時折それらにまつわるストレスやしがらみが増えてくると、ムニュは思い出すように、最も大事なこと「命」を守るという本質に帰りたくなります。

ただ、一日生きられたこと、明日は分からずとも、また陽が昇ることを願って眠ること、そのことに帰ることで、何が生きるにあたって本当に大事なことか、急に生命力が戻る気がします。
そして、たくさんの社会のルールも、最初はただ生きるということを守るために生まれたのかもしれないと思います。
最も根本的な、そしてシンプルな「守るもの」が、時折獣のように暴れます
 ムニュ
2018/12/03のBlog
[ 05:59 ] [ ころころちょこっと通信 ]
皆さまこんにちは。ころころ通信委員のムニュです。

ようやく穏やかな気候が来ています。
秋から冬への入口、道端の端々にどこか懐かしいにおいが漂っています。

さて、ムニュはかなり昔にピアノを習っていた時期があったのですが、先生から、「姿勢」のご指導を受けた際、たとえ話として、先生ご自身のお話、「昔はわたしも、ピアノに向かって前かがみで、歯を食いしばりすぎて奥歯がすり減ってしまったのよ」とおっしゃっていました。
その時、ムニュはあまりピンとこなかったのですが、そういえば、病気になったこと自体、なにか心身にものすごく極端な「負荷」をかけていたのかな?と思いました。
それが、ピアノの先生の場合は奥歯、人それぞれだと思いますが、極端に肩に力が入ったり、何かに固執したり、なんとかして自分の状態の変化にバランスをとろうとすることはあり得ると思います。
そして、ピアノの先生のご指導では、バランスを取れた状態では、どこにも力が入っていないのよ、とのことでした。

ムニュも、「どこにも力が入っていない」状態を掴もうとしましたが、その状態はどうも不安定でおぼつかなく、むしろ不自然に感じました。

ですが、あまりにもどこかに負荷をかけ続けると、いつかまた大きく不調をきたしてしまうとも思います。

そこで、その負荷をかけているところを、ほんの少しだけ「ずらす」という工夫も要るのかな?と思います。
自転車の補助輪を外すような、不安定で不安なことかもしれませんが、新たなバランスを探しだすのに小さな一歩を踏む。
その重苦しい倦怠感が、成長の証し
なのかもしれません。
 ムニュ
2018/11/11のBlog
昨日9日金曜日は心家子ども食堂でした。

夕方仕事が終わって心家への路地を入って行くと

玄関前に自転車やベビーカー、玄関にも小さな靴が並んでいました。
いつも参加してくれる子どもたちはもちろん!!
市や自治会の掲示板に貼ったチラシを見て初めてのお母さんと子どもたちが来てくれました。

心家の子ども食堂を例えて言うなら・・・

近所の顔見知りのおばさん家の前を通りかかったら
「今日カレーたくさん作ったから子ども一緒に食べていかへん?」
「いいんですか?」
「かまへんよ~、みんなで食べたら美味しいやん!!」
・・・という感じでしょうか。(うまく伝わりましたでしょうか?)
おばさんがカレーを作って待っています(*^_^*)
みんなで来て下さいね。

2018/10/30のBlog
[ 17:31 ] [ スタッフ日記 ]
明るい日差しがいっぱい中、今日も心家は笑いで包まれました。

先ずは、五月家 緑さんの「転失気」で、

負けず嫌いの住職が下腹が張って医者から「てんしきはありますか?」
と聞かれ、わからないとは言えないので「はい」と答えて、小僧に花屋とかに確認しに行かせ、結局それはオナラだと分かると言う噺で、それを表情豊かに、それぞれの役柄に合わせた口調で面白く話されました。
次は池田家 先手さんの「金明竹」

店番をさせられた丁稚が雨宿りに軒先を借りにきた男とか鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人とか主人に目利きを頼んできた客とか商売相手にバラバラの話をし、
ハチャメチャになるという噺を、宮城県出身と言う事で、東北訛りを交え話され、思わず笑いを誘われました。

終了後は演者さんを囲んでのティータイム。

手作りケーキと柿が付いて、時間を過ぎても、どなたもお話が盛り上がり、またまた楽しい時間でした。
2018/10/18のBlog
[ 09:37 ] [ ころころちょこっと通信 ]
皆さまこんにちは。ころころ通信委員のムニュです。

秋も深まって、静かに今年の命が眠りに向かっています。
太陽が再び明るくなるまで、しばしの休息の時となります。


さて、聖書の一節に、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉があります。
これは、イエスが磔の刑の後、復活なされたのち弟子たちの前に現れた時の言葉ですが、生前の復活するという予言を信じ切れなかった弟子に対しての言葉です。

これは、そのまま受け取れば信じられないことですが、聖書が発信するメッセージ、「見えないもの」を信じられるかという意味にもなります。

ムニュは特に10代から20代後半にかけて、まったく先が見えないという苦悩に悩まされました。
病気になり、障害者になり、社会とのかかわりを模索するというお腹が凍り付くようなストレスでした。

ですがその中で、ともかくなにかエネルギーのようなものは、ムニュを何らかの行動に掻き立てました。
ですが、元をたどればそのエネルギーこそが自分の心身を壊した病気でもありました。
その「病気のエネルギー」のようなものが、何に向かって、何を「見ようとして」動いていたのか。
おぼろげにみえてくるのは自分の暗い行き先のような気もして、とても信じられるものではありませんでした。
それでもなお未だに「見えないもの」、やがて見えてくるであろう希望の光を、意識としては信じられなくても、きっと自分の奥深いところでは求めているのだと思います。

それが病気と言われても、病気そのものが次なる希望の根源だと信じたいです。
 ムニュ