3月21日(土)神戸で本田健さんをお迎えして教育講演会を開きます。
興味のある方はぜひ講演会の詳細をご覧ください。
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2月15日(日)に第3回デモクラティックスクール講座「子どもに完全な自由を与えてよいか? 〜学校と家庭での子どもとのかかわり〜」を宙(そら)で開催しました。お子さんを連れた親御さんたちが来て下さいました。
15日のテーマは、要するに「親は子どもにどこまで干渉すべきか?」という問題でした。
1 親子が対等な関係になることの難しさ
そこでまず私がお話したのは、親子が対等な関係になることの難しさです。
親という存在は子どもに衣・食・住を与えなければなりませんし、子どもは小さいうちは親に依存して生きていかなくてはなりません。つまり、親は子どもを親に依存させつつ、自立できるようにしなければならないし、子どもは親に依存しながら自立することを学ばなければならないのです。このパラドックスがあるゆえに、親子関係では必然的にに衝突・葛藤が生じます。
親としては子どもをちゃんとした大人にするために、生活習慣などいろいろなことを躾けようとします。しかしそうした干渉をすればするほど、子どもは自分の自由を奪われることに反発するのです。
これは親子関係というものに本来孕まれている困難です。
この“どこまで親は干渉すべきか”という問題は多くのお母さんを悩ませています。たとえば、後でずっとゲームをしているわが子を見ると、それだけしかしない子どもを見て、親としてはもっといろいろなものに目を向けてほしいと思います。
あるいは、何かに熱中していて生活習慣が乱れているように見えると、親としては子どもに注意したくなります。
15日の集まりでは、そういった不安について参加してくださった親御さんたちが普段思っていることをシェアしてくださいました。
たとえば子どもがゲームをする時間は区切られている親御さんもいらっしゃいますし、まだ子どもがゲームをしていなくても、将来するようになることが不安になる方もいらっしゃいます。
ただその一方で、ゲームに夢中なお子さんが攻略のために自分でいろいろな調べ物をしたりしている姿を見て、少しゲームに対する考えが変わることもあるようです。
あるいは、わたしが「学者が寝食忘れて研究している姿を見たらどう思いますか?」と問いかけると、それはカッコいいとも思うし、でも生活をちゃんとした方がいいとも思うと答える親御さんもいます。
私自身は、学者が自分の研究に夢中になるのも、子どもが(子どもに限らないですが)ゲームに夢中になって自分でネットで攻略法を調べるのも、同じことだと思っています。
つまり、人に教えられることを覚えるのではなく、自分から解答を調べるというのは、すごいことだし、そのときその人の思考力は、あるいは(今流行の言葉で言えば)“脳”はものすごく働いているのだと思います。また“学び”とはそういう行動をこそ指すのだと思います。
2 デモクラティックスクールの役割
しかし、いずれにせよ、親が子どもの行動を見て、どこまで干渉すべきかを考えることは当然だと思います。デモクラティックスクールは、そのように家庭では親が子どもに干渉せざるを得ないがゆえに、子どもが自分ひとりで自由に判断できる機会を提供している場だといえます。そこでは大人と子どもは対等な関係にあり、子どもは自分のすることを自由に選択でき、その責任を背負います。そうした経験をすることで、子どもはスムーズに大人へと成長していく、デモクラティックスクールはそう考えます。
3 <小さな干渉>を最小化する
デモクラティックスクールとしては、大人が子どもに干渉することは最大限少なくしていいということを主張しています。第三者として、あるいは社会からの立場として、4歳以上の子どもには大人と同じ判断力が備わっており、彼ら自身の判断・選択を信頼してもいいのだというメッセージを発しています。
その場合、また同じ問題に戻るのですが、ではどこまでなら大人は干渉してよいかという問いが生じます。
サドベリー・バレー・スクールのダニエル・グリーンバーグさんは、この問題を考える際に、「大きな干渉」と「小さな干渉」とを分けます。
「大きな干渉」とは、要するには家族ぐるみの引越しなど、子どもを食べさせるために子どもの生活を左右せざるを得ない大きな決断です。これは、子どもを一緒に移住させざるを得ない場合が多くあります。
それに対して、「服装」「食べ物」「趣味」などについて親が子どもに意見を述べることは<小さな干渉>であり、これは最小化することが大切だと彼は言います。
たとえば「服装」について、
「子どもたちがその時、快適だと思うものを身につけているかぎり、彼・彼女たち自身、寒さや不快を感じないかぎり、わたしたちはそれでよしとしなければなりません。・・・
服装に関することで自分の本能に従い自分で決めている子どもの方が、そうでない子どもより病気にならないのです」
あるいは「食べ物」について。私たちは「正しい」食べ物を食べさせないと子どもたちは生きていけないと考えているのですが、来る日も来る日も、その年も、次の年も、ケロッグばかり食べている子どもがサドベリーにいたそうです。しかし・・・
「この子のことでいちばん面白かったのは、ある冬の出来事です。ほかの子が風に片っ端からやられている中、この子だけは一度も風邪を引きませんでした。これがどういうことなのか、わたしにもよく分かりません。
たぶん言えることは、・・・大抵の場合、子どもが何を、何時、食べているかは、それほど干渉すべきことではない、ということです」(『自由な学びが見えてきた』緑風出版 p.89-91)。
服装にせよ食べ物にせよ、わたしたちはそれを子どもの命にかかわると考えがちです。
悪い食べ物は健康を害し、乱れた服装は人生の破滅の兆候ととらえます。しかし、わたしたちが“神経質”になることのほとんどは、この「小さな決断」にかかわることであり、実はそれほどたいしたことではないとわたしも思います。
4 ゲームは他の遊びと違うのか
そして、ゲームです。
わたしたちがゲームをする子どもに不安を感じるのは、あたかも子どもがコンピュータにコントロールされているようになり、子ども自身の自律性・思考力が鈍るように感じるからでしょう。
ゲームは、コンピュータによってプレイする条件がすべて設定されており、プレイヤーはその条件・ルールの外に出ることはありません。
しかし、このルール・条件・制約があるということは、すべての遊びに共通することです。遊びとは、かくれんぼからサッカーやつりに至るまで、すべてルールや制約があるのです。
たとえば、わたしたちは子どもには自然の中で、野原を駆け回ってほしいと思います。しかし、そこで<遊ぶ>ときには、子どもたちはつねにルールを決めるのです。おにごっこですら、ルールがあるのです。
ルールや制約があるがゆえに、人は頭を働かせます。頭を働かせることで、制約の中で最高の結果を生み出そうとするのです。これって人生そのものだと思いませんか?!?!
ビデオ・ゲームは、コンピュータがすべてルールを決定します。プレイヤーが操作できる範囲は限られています。にもかかわらず、だからこそ、プレイヤーは、その限界の中で最高の結果を生み出すことに熱中します。コンピュータが課してくる課題に挑戦するのです。
それでもわたしたちは大人は、ゲームに熱中する子どもに不安を感じます。そのことを否定する必要はありません。
重要なのは、—これもダニエル・グリーンバーグさんが言っていることですが—「自問自答」を続けることです。これは「大きな干渉」なのか、それとも実は取るに足りない「小さな干渉」なのではないか?と。
「わたしたち親は、次のような問題設定をして自ら問うべきです。
それは子どもの独立への道を均す、干渉に価する「大きな決断」なのか、それとも「これは独立するために必要なことなんだ。黙って見ていよう」と言える「小さな決断」なのか?
考えればきりのない問題ですが、こういうことにいちいち、わたしたちは判断を迫られているのです。
でも、親としての役割において、フェアな態度をとろうとするなら、わたしたちは絶えず、自問しなければなりません。「この干渉は、本当に本質的なものなのだろうか?」と。
干渉とはその一つひとつが、独立からの後退の一歩であるからです」(同p.91)
ゲームに関しては、多くの親御さんは、完璧な解答を見出しているわけではないでしょう。ゲームに詳しくないわたしたちは、子どもたちと同じ「精神世界」にいないのですから。わたしたちの親の世代がマンガやロックのすばらしさを理解できなかったのと同じことです。
しかし、というよりだからこそ必要なのは、ダニエルさんが言うように、たえず「自問自答」することではないかと思います。
>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
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日本におけるデモクラティックスクールの「これまで」と「いま」を紹介した『自分を生きる学校』(デモクラティック・スクールを考える会編 せせらぎ出版)好評発売中{/ee_1/} 宙(そら)のメンバー・保護者・スタッフも書いてます。{/ee_3/}