僕は13才から23才までの10年間、引きこもり生活を送りました。
一言に10年間といっても、とてつもなく長く、しかも毎日が先のめどが全く立たない、何も見えない日々の連続でした。
本当にしんどくて、つらくて、いつも怒っている感じでした。

少し苛立っただけで、一番弱い立場である母さんに当たり散らしていました。
母さんは耐えていました。いえ、耐えるしかありませんでした。
僕という子どもが学校に戻るということは諦めてくれていたのに。
僕に気を使ってくれて、その話題は出さないでいてくれていたのに。
僕はひたすら母さんに暴力を振るっていました。

いかに僕が暴力・癇癪息子であっても、母さんにとってはおなかを痛めて産んだ大切な子どもです。
僕にどんなにひどい言葉を吐き捨てられようと、どんなに蹴られようと、泣かされようと、本当に泣きながら耐えてくれていました。

そして癇癪がおさまり、自室に戻った僕も涙を流していました。
ひとつの感情には収めることの出来ない、思いにならない涙でした。

声を出さずに、声をころして、息だけ出して泣いていました。
顔中が熱くなり、特に目が熱く、涙が留めもなく出てきました。

「僕は泣きながら、母さんを蹴り泣かしていた」という表現です。

僕はやはり母さんが大好きなのでした。
幼少の頃の僕は体が弱く、どこかに遠出をすると、すぐに熱を出していました。
夜遅くに起きだして、頓服の薬を飲ませてくれました。
よく甘えました。母さんは一人の女性としてきれいで優しかったのです。だから大好きでした。

10代も後半になってくると、僕もいろいろと考えるようになりました。
母さんだけではなく、父さんも、兄さんも、学校に行けなどとは少しも言わずにいてくれて、2階の自室と、同じく2階の兄さんの部屋を僕に使わせてくれる形を取ってくれました。
兄さんは2階には一切来ないでくれたのです。
外に出れない分、家ではなるべく自由に居させてあげようと、家族が皆でこんな僕に気を使ってくれていたのです。

少しずつ感じていた愛情を、僕はヒシヒシと感じるようになりました。
いつしか母さんに暴力を振るうのは止めるようになっていました。

母さんは最近、こんなことを僕に言ってくれました。
「あの頃はとにかく、懸命だった。せめて家の外にでも出てくれたらと思っていた。でも、一緒に食事を取るだけでも幸せだった。今は外にでも一緒に食べに行ける。本当に幸せだと思う」 と。

母さんは現在68歳です。今の僕との関係は本当に仲良しで、年の離れたきょうだいといった感じすらあります。
昨年の12月に誕生日を迎えたのですが、ブラウスと手帳を買ってあげました。とても喜んでくれました。

まだ先の話になりますが、将来母さん、父さんに何かあったとしたら、居宅で介護をしたいと思っています。
いろいろな社会制度や資源を使いながら、家でゆったりと過ごしてもらいたいです。
僕もそうさせて頂きましたから。今度は僕がさせてもらう番です。

かつての可憐さが残る母さんがいつまでも幸せを感じれるように。
愛情をたっぷり受けて過ごさせてもらったバカな息子の、せめてもの罪滅ぼしです。

松尾