1999年から、ネットで、その後、電話ででも子どもの声を聞いてきた。
たった10年の間であるが、その短い間でも変わってきたことがある。
もちろん多くの変わらないこともあるのだが。

気になるのは「自分の価値判断」についてである。
判断基準が「他人の評価」なのである。

他人、一時期同じ場所に居るだけの他人がどう思うか?で自分の価値だけでなく、生死さえも決めているように感じられてならない。

その傾向がますます強まってきていると思う。

私的にははっきり言って「馬鹿げてる!」
「他人が何ぼのもんじゃ!」と尻をまくりたくなる。(恥)

「人がどう思うか」で「自分の価値が決まるわけないじゃん!!」
って耳元で叫び続けたい思いをすることが多くなってきた。

思っているだけじゃ済まない!
「これは何なんだ!?」と考えてみたい。

人とは本来、人間とも言うように、一人では生きづらい生き物であるとしよう。

にしても、人が自分のことをどう思うかで自分の価値を決めてしまうというのはやはり私は違うと言わざるを得ない。

もしかしたら、「人は何に価値を感じるか」は人それぞれなのに、
それが例えば画一化されていると思い込んでいるのではないか?
と仮定してみる。

だとしたら、画一化されたものとは何か?

子どもの場合、一つは「友人の多さが価値基準」であると思う。

多ければ優れている?良い人間?人気者?積極的で明るくて…?
あれ???
どっかで聞いたような???

「いじめスパイラル」というのがある。
例えば、明るく積極的で友人思いの子、学習も頑張っていて、躾も厳しい。
当然、先生の覚えもめでたい。

ところがである。
たとえば、それを誰かに嫉妬される。

ものがなくなる、壊される、一部からのシカトが始まる。
周囲の子が自分可愛さに離れてゆく。

大人に相談しても「犯人がわからない」「証拠がない」「あなたにも悪いところがあるでしょ」「弱いから」。
とか、大人が味方になったらなったで、えこひいきされている、とかのねたみで余計状況は陰湿に。

孤立して、それも仕方なしと一人でいれば「協調性がない」「陰気」「勝手」などといわれ「みんなと一緒に行動しなさい」などと叱られたりする。

それを見て他の子どもも成長していっているのだ。

何が正しい、ではないのである。

人と同じことをし(同じレベル、速さ)、集団でいることが良しとされ、
ひとりはいけないこととされ、
自分の意見を言うことではなく、相手が何を考えているか「だけ」を気にし、そういう子をいい子とする価値観を、私たち大人は持っていないか?

私たち大人は、自らに問わなければならないと私は思う。
大人に都合のいい、命令しやすい状況、人間だけを求めすぎてはいないか?

自分の意見を持たない、持てない状況に子どもを置いてしまっていないか?
快、不快さえ言えない、ついには自分をなくし、人の価値評価を自分の評価にせざるを得ない状況に追いつめてはいないか?

社会にとって必要なのは、何も考えられない、命令されないと動かない「ロボット」か、オリジナリティーを持って自分で行動できる「人間」か。

明白であろう。

短期的には人をロボットにして思うままに操り、利益を得られるように思っても、長期的に考えれば国をさえ滅ぼしてしまうような「愚行」であること。

それをしているのは、許しているのは、今を作った、誰あろう私たち自身であることを自覚する必要があると私は断言したい。