一歩も引かない!

「こんだけのことしてるのにあんたは言うこと聞かない!最低!」とメールが来た。
「聞けるか!」と思う。
彼女が憎いわけではない。言う通りにすることが彼女にとって
決して安定への道ではないことが分かっているからである。

「こんだけ」の中身は言えないが間違いなく「犯罪行為」である。
自分の要求を通すためにはなんでもするのだ。
それがBPD。

わずか300円くらいのものだが、それを自分が貰っているお金から出さないために、相手に30万近い損害を与える。

普通では考えられないこと。

こういうことを今まで親に対して繰り返しているのだ。
きゃしゃでかわいい子が、すざまじい暴力を繰り返しふるっていたりする。

自分の命さえかける子もいる。

騒音などで近隣に多大な迷惑を掛け続けている子もいる。

親だけでは決して対応できない。

それに対し、その子の人権を侵すことなく「自己コントロール」をいかにさせてゆくか。
親のサポート、連携、もしながら。
毎日、毎日が決して気を許せない緊張の連続。

「子どもの辛さなのだからなんでも受容しなさい」などという専門家がいる。

「そんなふざけたことをする子どもを甘やかすのではない!」と、子どもであることをいいことに親から半端でない金額で子どもを預かり、何の専門知識も対応スキルもなく、力で抑え込もうとする施設もある。

その間を多くの親と子が今も流れ歩いているのだ。

統一性のない対応は決してプラスにならない。

なぜなら、こういう子は「何も信じることができず、すがりつけるような何物ももたない状態」であって、それをただけじめなく野放しにしたり、本人不在の指導は何の意味を待たないことを私は知っている。

いわば水におぼれている状態と同じ。
生きるために、周囲を見回すこともできず、ただ手足を振り回している。苦しいのも事実なのだ。

ただ「今」「ほんとうにおぼれているわけではない」。
「認知能力」がゆがんでいるためなのだ。

歪ませたものは他にある。
それは何なのか?
それを「自分」に問うことも周囲の大人の仕事であろう。

この子たちの「藁」になれる大人でいかにいるか?
代わりに「明確な線を引いて」
「なぜその線が必要か」
「守らないとどうなるか」を、子ども自身が身をもって経験できる状況づくりが必要である。

公的な連携システムづくりが急務であるのに。
親を責めて済む話ではないのだ。

負いかねる責任、負担を抱えながら、さていつまで…。