平成21年6月2日(火) に今回も、兵庫県芸術文化協会の
主催する、ふるさとの歴史講座に参加してきました。
講師は前回と同じ茨木一成氏です。
講師も、過去浅井長政の講座の経験は無く、今回が初めてとの事でした。
その原因は、戦国大名で有りながら、いくら探しても武勇伝 のような活動暦が少なく、弱腰で地味な存在が災いしていますとの事でした。
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ織田信長に浅井側が有利になるよう条約を結んだ。
しかし、家臣達の反対を押さえきれず、また、信長からの協力要請に対しても、信長に協力できなかった。 信長は「信長公記」で、長政を小心者と馬鹿にし評価は低かた。 最大の問題は盟友である越前朝倉義景と信長との歴史的な不仲だった。
そして、家臣は義景派と独立派に分断してしまった。 元亀元年信長が「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して、越前朝倉の城を攻めた。
また、信長との同盟に反対していた家臣達は信長の朝倉攻めに対しては、一報を入れなかった。 そして、大苦戦の戦いとなり、姉川の戦いで敗れる。
組織というものは家臣の不満、いらだちがあれば危いものです。