ある方がある場所で「発達障害を持っている子にはなるべく早く自覚させたほうがいい」「大人の自分にも同じようなところがあるからと話したりして」と。

私はそうは思わない。

いったい誰が、何人の人が、何の根拠で、人を発達障害と名指し出来るのか?
誰も断言できないのが現実と言っていいのだ。

こちらがその子のなんらかの課題に対してどう対応したらよいか考えるのに情報の一つとして仮説を立て、対応がうまくいけばそれでいい場合も多い。

虐待を受けてきた子が落ち着きがなくなる場合もあるからそれを単にADHDとして済ませていいのか?ということもある。
この見分けは専門家でも容易くはない。

ソーシャルワーク的視線、支援が大切だったりするが、いまの日本の子どもに関するネットワークは心細い限りである。

私の経験では、公的場所で、ある障害名をつけられた子が「自分は●●という障害やからできなくても仕方がない」と投げやりになってしまい、その意識を変えるのに大変な思いをしたこともある。

以前、人格障害を持った子に「あんたは人格障害を持っているんだから、周囲が悪いのではなくあなたに問題があるのだ!」と言い切ってから、自分は関係を切り、次に対応することになったこちらが困ることになった例もある。
人格障害の場合、多くは、当然本人は認めないばかりか、その後の指導が入らないことになる・・・。

大人で、なぜ自分はいろいろなことがうまくいかないのか?何かある?と自覚があって苦しんでいる人に、もしかしたら●●の可能性もあるよ!と伝えて、本人が楽になることは多々あることは否定しない。

しかし、子どもの場合、どうせいでも混乱し、自己肯定感が薄くなってしまっている場合に、断言も出来ないのにただ障害名を与えるのには多くの問題があるということを私は実際に対応している人間として断言する。

たとえ何らかの障害を持っていたとして周囲がそれに対しなんらかの希望が持てる対応が出来るのならその限りではないと思う。

そういう子の親にもいろいろな人がいて、障害名を付けられて自分の責任ではないと認められて喜ぶ人もあるし、ショックを受けて子どもへの関心が薄れるような人もあるということを私は経験してきている。

大切なのは障害名をつけることではない。
子どもが持つ何らかの課題に対して周囲がどう最善の対応がとれるかを考えることだと思う。
そのための情報の一つが「障害名」であると私は思う。

本人への告知は多くの選択肢の一つでしかない。

何らかの課題を持った子に対し、なるべく早い手助けの開始は間違いなく必要であるが、早く診断、告知することに意味があるのではないということを私は重ねて断言したいと思う。

昔はなかった発達障害という概念自身、実はいまだに不透明であるということを忘れてはならない。

落ち着きのある3歳の子に「自閉症」と断言した専門家(間違いです)、小学3年の子に、4種類の障害名を同時につけそのどれもに「〜の疑い」と書いた専門機関の専門家もいる。

「●●心理学会」というような場所で「診断に来た子には必ずどれかの名前をつけて、後に〜の疑い、とつける」という報告も現に有った。

また、親、本人も苦しむ、間違いのない社会への不適応状態の子に「なんでもないから」と帰した場所もある。

学齢期においては人の差別のために使われてしまっているような現状があることも付け加えたい。

もちろんそれは「間違っている」し、誰にも何の利益ももたらさないのだ。

何らかの障害があるからと幸せに暮らせないような社会は誰にとっても暮らしやすい社会ではないのだということはもう証明されていると私は思う。

ならば、私たちが「しなければいけないこと」は、何らかの課題を持っていると思われる子に障害名を告知することではなく、どんな課題があろうとも「社会の中で幸せに暮らしていける環境、スキルづくり」だということを再確認したい。

そのためのツールの一つでもあるIEプログラム(認知能力強化プログラム)があることを多くの人に知っていただきたいと切に願う次第である。