先日、いじめの経験者(被害者、加害者とも)が、小中学校で70〜80%あるという報告が報道されました。
加害者被害者が入れ替わることが問題にされていますが、私が問題にしたいのは後2〜3割の子ども達の意識です。

自分は被害者にも加害者にもなっていないと思っているのか、あるとは思えないいじめ0の学校時代をすごしてきたのか、ということです。

はっきり言いますが「傍観は加害者側です」。
その意識を持っているかどうかが問われるべきであると私は思います。

はっきり言えば、あのアンケートは100%「学校にはいじめがあった」ということをいっていると考えたほうが正しいと私は思います。

いじめにかんしての私の考えはこちらをご覧下さい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yuispace/column/ijime.html

いじめにかんして、
以前から私が指摘してきている言葉の誤用についても改めてここにも書かせていただきます。

幼児用教材、学校の宿題その他でよく使われている言葉に、
「仲間はずれを探しましょう」などという言葉があります。

いまどきの子どもたちは2才くらいからこの言葉の元に学習してきているといっていい状況です。
「仲間はずれ」とはいったいなんでしょう?
「疎外」ですよね。

これが使われるのは、特徴、用途、などが違うものを識別することを目的とした課題であるわけですが、それは単に「違うグループに入るもの」を「より分ける」ことが目的であると思われます。
「分類」の課題ですよね。大切な学習であると私も思います。

しかし、実際はこの言葉を使っていることで、違うものを「疎外しなさい」と言っている訳で・・・。

詳しく言えば、課題の目的は、何かをある一つのグループから「疎外」することが目的ではなく「違うグループに所属していること」を認知させることが大切であって、そこまでの認知を持たせられるかどうかが大切だと思われるのですが違うのでしょうか。

たとえば、
犬、ねこ、ねずみ、魚、とあった場合、動物という点では同じグループに入っているが、魚は水中で生きる動物、つまり、生きる場所が違うということを認知、識別して、「例」「外」とする、ということでしょう。

「違う」ということは「悪」ではありません。
「違うものは疎外しろ」は「悪」です。

「それぞれ」の「違いを知る」ことの大切さがこの一言で台無しにされるばかりか、悪く洗脳しているとさえ私は思っています。

みなさんはどう感じておられるでしょうか。