デモクラティックスクールを運営するというのは、その団体を民主的な関係からなる団体にするということです。
では、民主的な関係とはどういうことでしょうか?
その団体に関わる人同士が対等な関係にあるということでしょう。
でも、その「対等」というのが簡単ではありません。
制度上で対等にするというのは簡単なのです。
ミーティングで1人が一票をもち、誰にでも発言できるということにすれば、対等が実現します。民主主義という制度は成立します。
でも、それだけでは民主的な関係は実現しないでしょう。
対等な関係というのは、自分の言いたいことを言え、そして相手が言いたいことを言っても、自分が感情的に安全を感じることだといってよいでしょう。
この<感情的な安全>とは<感情的な対等さ>とも言い換えられます。
この<感情的な安全>は、単なる制度構築によっては実現しません。
<感情>というのは、その人の人間としてのあり方と密接に結びついてきます。
自分のまわりの世界や他人に対してつねに脅威と恐怖を感じている人は、他人に対して怒りと脅しを向けます。そういう人がいれば、たとえ民主的な制度が成立していても、周りの人が自由にものを言える空気にはなりません。
民主的な制度の団体では、ルールは参加者の合意によって成立します。
ルールとは人の行動を束縛するものです。その束縛するものが束縛とは感じられないためには、そのルールが自分自身が納得して受け入れたものだと感じていることが必要です。
しかし、それらのルールが関係者たちの恐怖の感情から生じていると、そのルールは民主的に成立しているにもかかわらず、人の行動を束縛するものと感じられるようになります。
ヒトラーの独裁を許したドイツの民主主義だけではなく、民主的に成立した恐怖政治は歴史の中で多く見られます。
個人的には、処罰感情から生じるルールは、恐怖の感情から生じたルールだと私は考えています。拷問や死刑に関する制度はそういうものです。
デモクラティックスクールはすばらしい。しかし、デモクラティックスクールという制度を採用すれば無条件にすばらしいものになるということはありえないでしょう。
デモクラティックスクール=サドベリースクールがすばらしいものになるためには、その団体の参加者が感情的な安全さと対等さを実感し、そこからルールを作らなければなりません。それは、その団体に関わる人たちの努力によって成功するものです。
その団体にそうした感情的な安全さがあれば、そこにいる人はその場にいることに居心地のよさを感じるでしょう。
居心地のよさだけがサドベリースクールの特徴ではありません。
でも、それが重要な要素であるとわたしは感じています。
そうした場の安全さが、まずスクールの充実であるということだと思います。
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