秀吉が兵糧攻めで落とした鳥取城の攻防について、平成21年
9月14日(月)に、兵庫県民会館において講座がありました。
講師は、日本歴史学会の茨木一成氏でした。
信長から中国攻略を命ぜられた秀吉は、別所氏の三木城に続
いて、因幡の鳥取城に目を向け、前年の秋に刈り取られたその
地方の米を相場の数倍で買占め、兵糧攻めの準備をした由。
お金は、いち早く生野銀山を押さえていたため、資金力が豊富
で、また、この作戦が気づかれないように、買占め役はわざわざ
若狭商人を使うという徹底ぶりだったとのこと。
一方 鳥取城の兵糧輸送ルートが、賀露港→丸山城→雁金城→鳥取城であることを事前に把握しており、戦端が開かれると賀露港に細川藤孝を差し向けて押さえ、自らは雁金城と鳥取城の中間に本陣を置いてこれを遮断して、完璧な兵糧攻めを行った。(結局 3ヶ月で落城)
戦国時代は、ややもすれば武勇ばかりがクローズアップされがちだが、財力や兵糧という地味な部分も大切で、現代の企業間競争においても参考になる事柄だと感じました。
なお、この時点で秀吉は、播磨(50万石)、但馬(13万石)、因幡(14万石)、淡路(6万石)そして長浜(20万石)を領有し、100万石の大々名になっていたとは驚きでした。
この財力が、後に”本能寺の変”に端を発した明智光秀との「山崎の合戦」以下においても、おおいに役立ったことは云うまでもありません。