戦国・異才の人々より 「前田利家」

平成21年10月6日(火) 兵庫県芸術文化協会が主催する
今回で6回目の(ふるさとの歴史講座)に参加しました。
講師は今回も、茨木一成氏が担当されました。
今回のテーマは「前田利家」です。
 尾張の前田利昌の4男として生まれ、信長の近習となり
1558年頃の青春時代は、赤母衣衆として信長に従軍し、
 また槍の名手のため、「槍の又佐」として怖れられました。
 1558年従妹の”まつ”と結婚し、順風満帆の将来を歩もう
とした矢先、血気盛んが災いし1559年、同盟衆の拾阿弥と争い、拾阿弥を惨殺して出奔する事件を起こしてしまい、2年間はどんな大手柄を立てても、帰参は叶わなかったが、1574年ようやく北陸方面の柴田勝家の与力、及び、北陸方面の一向一揆鎮圧の一員として、各地を転戦するように命じられる。
 また、信長が本能寺の変で光秀に打たれたとき、最初は柴田勝家につくが、秀吉より加賀・越中を与えられた恩に報う為、再び秀吉に付き、秀吉の5大老の一人として活躍しました。
 そして、天下取りを目指す徳川家康との間で、唯一互角に渡り合えた利家は、武断派・文治派の間で仲裁役として働き、また、自分の寿命が残り少ないと悟った折には、家康に加賀藩を攻撃しないよう、わざわざ頭を下げにお願いに行き、沢山の加賀藩の財宝は残りました。
 大樋焼・九谷焼・輪島塗が現在残っているのも、「前田利家」様のお陰といえます。