プラトンとアリストテレスは基本的に仲は良くないのですが、いわゆる民主主義は最悪のオプションであるという点で意見は一致しています。
アリストテレスは審議と採決に関する公職に参与する資格のある者が「市民」であると述べ、その集合体が国家であるとしていますが、奴隷等は入っていません。当時のギリシャの感覚から言って原則奴隷、外国人、そして女性も「市民」ではありません。つまり政治に関与するのは資格のある本当の「市民」のみにしろ、という理屈になります。
プラトンはさらに「自由」に対して危険を感じており、「自由」が高まれば高まる程「隷属」が高まる、と警鐘を鳴らしています。つまり自由が過ぎるとほんのちょっとした抑圧にも耐えられなくなり、法律さえも守らなくなる。なぜ「自由」が「隷属」につながるのか一見すると分かりにくいかもしれませんが、理性(西razón)無き民衆による政治は衆愚政治で、正に感情や欲望に支配されている身体に、善である魂が閉じ込められている人間と同じになる。理性という翼を無くし、魂は身体という牢屋に閉じ込められている、という状態をイメージすれば、ブラトンと共感しやすいかもしれません。
面白いことにこの愚衆の概念とトクビィルの臣民の概念が瓜二つです。いかにプラトン、アリストテレスが長い間西洋の哲学に与えたか、そして彼らの洞察力と分析力がハンパねーかをあらわしています。
私個人はプラトンを非常に優れた、そして鋭い人だと思っていますし、考え方は全否定せずに、むしろ賢人である彼の説を適用しながら話を進めたほうがより逆にこれからあるべき民主主義の形が見えてくると思います。
はっきり言って現代は権力者も含め我々の様な愚衆が大半を占めており、これはいくらプラトンが嘆いても現実なのでどうしようもありません。ではどうすれば衆愚政治を防げるかというと、我々が努力して“哲人”に近付いていくしかないという結論になります。大多数や権威に惑わされず、おのおのが幅広くものを見、しっかりと考え、行動すれば理性を失う可能性は減るでしょう。後プラトンはideaに近付くためには理性の他に愛(西amor)が不可欠であるといっています。日本風に言うと知性や理性の他に思いやりの気持ちも大事やで、という感じでしょう。孔子も仁義礼智という風に思いやりを一番上においていますし、その感覚は日本人は理解しやすいでしょう。思いやりのある社会というやつです。意味は若干違うでしょうが友愛社会って言っている人もいます。
こうやって考えてみると、理論上はもし皆がちゃんとした理性ある「市民」になればプラトンやアリストテレスの心配したような衆愚政治にはならない、ように見えます。ではそのようになるには、我々はどうしたら良いのか、それはまたつれづれなるままに探求して、述べていきたいと思います。