☆不登校について— 「不登校再考」の講義より *5*

六十年代位までは進学率も少ない事もあり、その分高卒に“希少価値”があったと言えるでしょう。

 そういった状況の時には、高卒には努力の結果の直接の“報酬”としての価値があります。つまりこの場合近い未来に高卒という“希望”があり、その過程の努力は「やり甲斐のある努力」となります。

 では逆にもし高卒が大半の社会の場合はどうでしょうか。高卒に希少価値がなくなり、高校に行くのが当たり前、逆に行かなければ“おちこぼれ”になる、という理屈になります。理論上は希少性の面から言うと、少数派になった小卒、中卒の方が価値があるのですが、もし学校に長く行っている方が能力が高い、又は皆がそう信じる社会環境があると仮定すると、その中では「高卒でないとおちこぼれ」という観念が一般的になる可能性が高くなります。

 ただそういう社会においては高卒は学校に行くことの直接の“報酬”としての機能は弱く、“希望”とまではいきません。そのかわりに、もし学校に行かなければ“おちこぼれ”になるという“不安”が生じ、その過程で払われる努力は「不安につき動かされた努力」となります。

 一般的に「やり甲斐のある努力」は未来に希望があるので、辛くても耐えられる傾向があり、「不安におびやかされた努力」はおどされてしょうがなくやるので、長続きしない傾向があります。

 つまりまとめると進学率の増加で高校に行くことが当たり前となり、学校に通うという労力の代償としての高卒の効果が相対的に減ったことで、学校に行くということが“希望”につながるという動機づけが、学校に行かないことに対する“不安”が動機づけにとってかわられた。そのことにより勉強などの学校での努力が「やりがいのある努力」から「不安におびやかされる努力」に変化し、努力が長続きせず疲弊していき、それが長欠率の増加の一因となり、現在にもその影響があるのではないか、というのが今回の論点です。

 では次回は個々の心理、特にセルフイメージの観点から見て、この社会状況の変化がどのような意味を持っているのか考えていきたいと思います